死とは何か(その2)

人間一人の肉体を構成するのと等しい分量の物質(水、蛋白質、脂肪...etc)を寄せ集めたとします。この寄せ集めの状態を「」と呼ぶことはできるでしょうか? 僕はできないと思います。それはただの物質の寄せ集めです。

一人の人間がいて、ある時その人が死んでしまったとします。その人の肉体は今や「死」の状態にあるように思われますが、物理的には上に述べた「寄せ集め」と変わりありません。では何が違うのかと言えば、そこに死を認める我々の中にその人の記憶があるという点です。誰かの死が死として認められるには、その人を記憶する人間が必要であるということです。

ある人の記憶というのはその人が死んで初めて生じるものではなく、その人が生きている間にも我々の中に存在します。そして記憶の中の他人は我々の感情や行動を左右することもあります。つまり、記憶の中の他人は生きて動いているのであり、我々の中には他人の一部が含まれているのだと言えるでしょう。逆に自分というものの一部も他人の中に散らばって存在しているのだとも言えます。

つまり個人の人格が存在する範囲はその人を知る人々全体に広がっているわけです。一方、個人の身体というのは明確に他の人々からは独立して存在しています。そう考えると、一人の人間の肉体的な死とは、その人の中にあった我々の記憶(つまり我々の人格の一部)が死ぬことであり、かつ、その人の人格の一部は我々の中に記憶として残るという現象であると考えられます。(このように考えると、自殺というものが部分的には他殺であり、他殺もまた部分的に自殺であるということになります。)

したがって肉体的な死は「不完全な死」です。その人を記憶する人全てが死んだ時に死は完全なものとなります。ところがその人を記憶する人全てが死んでしまえば死を認める人もいなくなるわけですから、死は存在しないという逆説が生じます。つまり、完全な死というものはありえないということになります。したがって、人の死というものを物理的に決定しようとすると人格を無視したものとなってしまうわけです。