(妻:代理発信)
1997.4.18
先日は年明け早々わざわざお見舞いに来ていただいてありがとうございました.
私は、1月19日に退院しましたが、4月10日から再度入院しています.その間の経過などは後述しますが、この機会に、大事なことをお伝えしようと思います.
ことのおこりは、昨年9月の半ばから食後にみぞおちに痛みを感じるようになったことです.当然まず胃潰瘍を疑って内視鏡を飲みましたが異常は無しでした.その後検査を続け、結局、腹部エコー(超音波)とCTスキャンで膵臓(膵体部)に約2cmの腫瘍があることがわかりました.主膵管が圧迫されて膵液の流れが悪くなったために生じた慢性膵炎が、腹痛の原因でした.昨年12月の開腹手術の結果、「膵炎が膵臓全体に均ーに広がっていたため、部分的に切除すると残した部分に負荷がかかりすぎるので、病変部の切除は断念した.慢性膵炎は残るが、内科的治療(薬物療法)で対処できる.バイオプシーの結果、腫瘍には悪牲の細胞はなかった.」これらが術後の主治医の説明です.
しかし、これは表向きの説明です。実は腫瘍は悪性のものでした.膵臓ガンです.しかも、すでに肝臓表面に摘出できない複数の転移病巣があったため(表面であったためCTスキャン−断層撮影には写りにくいとのこと)、内臓にはメスを入れずに腹を閉じたというのが真相です.手術前から一抹の不安は持ってはいたのですが、予期されるうちでも最悪の結果でした.信じられない、信じたくない話ですが、奇跡が起こらない限り、私に残された命はせいぜい1年(もっと短いかもしれません)です.5年生存率はわずか1%です. お見舞いに来ていただいたときには、後述のように私はすでに真相を聞かされていましたが、それをお話しできるだけの心の準備・整理が出来ておらず、「表向きの話」をしてしまいました.申し訳ありませんでした.いつかは本当のことをお話ししなければと思っていましたが、今になってしまいました.
さて、この私の病状の真相については、親族、友人、先輩、旧職場関係者、他には一月から順に公表してゆきました.貴方のご存じの私の友人たちにも知らせました.しかし、自分より若い人にまで早い時期から心配をかけるのもどうかと考え、「時期を見て」と思い、今日まで伏せておきました.そして、私自身が再入院して病状の進行も改めて自覚できました.ここらが「時期」だろうと感じました.
今まで真相をお話しせず、大変心苦しく思っておりました.自責の念を込めて、この間の経過と、私自身が経験し、考えてきたことをここでお話しします.
****(次の***までの文章は主として1月に入力しました)****
家族には、手術の終わった直後告知されました.主治医は私には表向きの話をしたうえで、家族に口止めしたそうです.しかし、妻とその両親、私の両親が相談し、私にも元気なうちにやりたいこともあるだろうしと配慮し、また、ー刻も早く延命のための治療を受けさせたいために、本当のことを話すことにしたそうです.家族にとっても、私に真相を伏せておくことはとても辛く、耐え難いことでした.結局、正月を自宅で過ごすため外泊扱いで帰宅した12月28日に、私は妻の口から真相を聞かされました.
「なにっ!俺、ガンやったんか」「俺、死ぬんか」.これが、その瞬間思わず口から出た言葉でした.「まさか」「そんなバカな」「どうしてこんな目に遭わなければならないのか」「なぜ俺が」『まだ、結婚して11年しか経っていないのに」「子供の成長した姿は見られない」「70才を過ぎた両親より先に・・・・」「21世紀が見られない」. こんな思いが次々にあふれ出てきました.
そして、胸が裂けるような悲しみ、恐怖、不安、後悔、悔しさ、無念さ....受けた衝撃、焦燥は、どんな言葉を連ねても言い表わせません. その日は全くー睡も出来ませんでした.次の日も殆どー睡も出来ませんでした.3日日には、わけの分からない不安感・恐怖惑に襲われて動悸がおさまらず、父の膝にすがりついて震えているようなありさまでした.家族とても同様で、医師から告知を受けた日は、妻も、両親もー晩中泣き明かしたということでした.
その後、徐々に心は平静になりました.単に、今すぐ死ぬわけではないと思えるようになっただけかもしれませんが、今のところ冷静です.残された時間を、精いっぱい、悔いの無いよう生きようという気持ちになっています.文書を書く気力も残っています.もちろん、これは、夏休みが始まったばかりの子供がまだ2学期は先だと思っているようなものかもしれません.夏休みの終わりが近づけばやはり平静ではいられないことでしょう.しっかりしなければと思いながらも、やはり涙を流さぬ日はありません.入力しながらも、ときどき涙が止まりませんでした.運命の非条理を呪わずにおれません.
現在は(注:1月半ばのことです)、ー応、平静を保って生活しています。しかし、やはり死は恐ろしく、死を見つめながら生きて行くことは、つらく、悲しいことです.ともすれば、今後内臓がどんなふうにダメになって、どんな症状が出てくるか、どんな苦痛が襲ってくるか、などと考え、言いようのない不安に駆られます.今からこんなに弱気ではいけないのですが・・・・
もし開腹した時点で転移が無かったとしたらどんな手術になっていたか、主治医に可能性を聞いてみたところ、膵尾部を残して膵体部・膵頭部・十二指腸切除術になりていただろうということです.大変大がかりな手術です.術後の回復にはもっと長い時間がかかるとのことで、予想していた以上の大きなダメージを受けただろうと思います.へたをすれば、手術死の可能性もありました.さらに、膵ガンは転移しやすく予後が悪いものです(これは私自身が入院前に会社の図書室にあった専門書から持た知識です)から、転移予防のために抗ガン剤を使うかどうかで悩み、転移再発に怯えながらどう生きればいいか、さらには仕事へ復帰すべきか否か、いろいろと悩み苦しまなければならなかったと思います.ですから、すでに転移していて(私の年齢、原発巣の進行程度からみれば稀なケースだそうです)内臓にメスを入れられなかったことは、迷わず、残りの時間を有意義に使え、という天の声だったのかもしれないと考えたりしています.
考えてみれば、私は、血圧も血中コレステロールも低く、通勤のためにー日一万歩は歩き、タバコは吸わず(会社で副流煙はいっぱい吸ったと思いますが)、20才台の頃のようには大酒も飲まず、さすがに腹こそ出たものの肥満計数は90%、人並みのストレスこそ受けているとはいえ、まずは健康的な生活を送っていたと思っています.しかし、今から思えばー昨年ごろ58kgあった体重が昨年は54ー56kgに落ちていました.年齢のせいか以前に比べれば食事の量も少な目になっていたので、体重が減り気味なのも当たり前かと思っていましたが、これら(体重・節食量の減少)はすでに体に異常が起こっていたためかもしれません.
ともかく、今は残された時間を無駄にせず、何をすべきか考えています.身辺整理を含め、まず、すぐに実行したいことをいくつか決めました.(注:これは、1月ごろの考えであり、現時点ではもう困難になりてしまったこともあります)
(1)残される家族、特に子供のために、姿とメッセージを残すこと:次女はまだ5才.父の直接の記憶は将来殆ど残らないと思います.9才の長女も人の死がどんなことか、本当に理解してはいません.子供たちと出来るだけ一緒にいる時間を持ち、さらにビデオや写真、文章に父を残してやりたいと思います。そのために、以前から欲しかったデジタルカメラも急いで購入しました.コンピューターの中に永久に色あせない写真を残すことが出来ます(本来はこんな目的のために欲しかった機械ではないのですが‥).
(2)たまった写真を整理し、2人の娘のアルバムと私たち夫婦のアルバムを完成すること:今まで撮影してきた写真が、まだ未整理のまま最近の3年分ほどたまっています.きれいにまとめてやろうと凝ったことを工夫している間に、時間ばかりかかって後追いになってしまっていました.急がねば成りません。
(3)妻にMacを教えること:これは、以前からパソコンに興味を持ちながら、日常生活の忙しさのため手を出せなかった妻自身の希望でもあります.単に使えるだけでなく、エキスパートになれるよう、これまで私が独習して得たものを全て引き継ぐことを決意しています.将来、妻がなにか職についた場合にも役立つでしょうし、打ち込めるもののひとつに成りうると考えているからです.そのため、最新機種(Power
Mac7600/132)も、買いました.しかし、時間は足りそうもありません。
(4)元気なうちに、お世話になった方々、友人のみなさんに合う機会を作ること.そして、妻に友人を引き継ぐこと.
今後の延命治療をどうするかも急いで決めなければならないことでした.膵ガンには抗ガン剤は殆ど無効であることは基礎知識として知っていましたが、大急ぎで、関連書籍を買い込んで目を通し、主治医や、放射線科の医師と相談しました。 膵臓の原発巣には放射線照射を薦められました.1カ月あまりの間、毎日照射しなければなりませんが、ー定の効果は間違いなく得られるし、幸い腫瘍の場所が良い(こんなもの良いも悪いもない、実に皮肉な表現ですが)ので、胃以外の周辺臓器に障害をあまり与えずに照射できるとのことでした。ですから、毎日の通院に耐えられるまで体調が回復した段階で実施してもらうことにしました。
(注:その後の経過は後述しますが、スカでした.)
肝臓の転移巣には、動脈内注入で直接肝臓に高濃度の抗ガン剤を浴びせる方法を薦められ、迷いました.効果が不確実にも拘わらず、ある程度の副作用(脱毛、嘔吐、下痢、骨髄抑制など?)には必ず見舞われるに違いないからです.そのために残された命を削られるか、少なくとも体力を消耗して時間を有効に使えなくなるのを恐れました.とはいえ、何もしないのがいいのか、やはり迷いました.確実に肝臓はむしばまれて行くのですから.以上のような葛藤はありましたが、持局、当面はなにもせず、そのまま退院しました.その後の外来での診察の際(2月3日)に、「抗ガン剤の服用をどうしますか」と問われました.その時は、まず膵臓の放射線治療を受けると意志表示し、抗ガン剤は延期しました.
当面は、外来通院(2週間毎)で病状の把握と体調の管理および痛みを除く治療(モルヒネ等)を受けるつもりです。その他、これを飲んで食道癌が治療した人がいるという健康食品(妻の叔父の推薦)や、7年生存している人がいるという漢方の秘薬(ある恩師の推薦)を、奇跡を願って祈りながら服用しています. 体調の維持とともに、精神が押しつぶされないようにすることが今後最も大切なのだろうと思います.夫婦、家族で支えあって努力します.足りない分の心の支えを友人、先輩の皆さんにおねだりしたいと思っています.ー方的で申し訳ありませんが、よろしくお観いします.
********* (以下は4月に入力)*********
2月4日から週5日×5週、計25回の予定で放射線(電子線)照射を開始し、3月14日に終了しました.この間、運動を兼ねて週末を除く毎日、大学病院まで通院しました.4月1日にCTスキャンを撮りましたが、腫瘍はやや大きくなっていました.縮小または現状維持を「有効」と考えるならば、「効いていない」と考えるべきだと思います.また、当初期待した、「痛みを取る効果」も不十分ないし無劫です.がっかりです。また、肝臓のカゲはより鮮明になっていました.
ー方、副作用ですが、最初は特に異常も無く、たかをくくっていましたが、10回目あたりから、胸やけ、吐き気、腹痛が出てきました.胃に放射線が当たるのは避けようもありません.特に最後の1週間は非常に辛い状態でした.胸やけ、腹痛のため不快で、食欲も落ち、痩せました.
また、背中の痛みもかなり強くなってきて、強めの鎮痛薬でも効かなくなってきました.そのときは「病巣周辺の正常組織が放射線の影響で炎症を起こすからだろう」との説明でしたが、今から思えば要するに病状の進行以外の何ものでもありません.結局、照射期間の最後の1週間はモルヒネの経口徐放製剤(10mgを1日3回)を服用しました.
照射の終了後も胸やけ、吐き気がおさまらず、だんだん食べられなくなってきました.4月1日のCTスキャンが終わった頃から、食べた固形物(といっても柔らかいもの)が胃から下へ行かず、嘔吐するようになってしまいました.そこで、近所の内科医で毎日点滴を受け、液体の栄養剤を飲んで栄養と水分補給に努めました.また、錠剤も吐いてしまって痛みのコントロールが出来ないので、モルヒネの坐剤を使用し始めました.しかし、4月8日にはとうとう液体の栄養剤も嘔吐するようになり、ー挙に脱水状態に陥ってフラフラになりました.体重は急速に落ち、ついに45kgになりました.
まだ、心の準備は出来ていなかったのですが、やむを得ず再入院することにしました.
-中略−
放射線治療は効かず、病状は進行しています.また、十二指腸に通過障害が生じている(?)のがここしばらくの消化器症状の原因の全てならば、(物が食べられないので)自宅療養へ戻ることは困難です.しかし、まだやりたかったことのごくー部しか出来ていません.肉体の苦しみは軽減されましたが、あれやこれやで、入院当初は大変悲しく、寂しく、辛い思いをしました. しかし、希望も見えました.第1は吐き気、嘔吐の原因の少なくともー部分が、モルヒネの副作用による強い便秘によるらしいと判ったことです.モルヒネが便秘を起こすことは百も承知でしたが、ろくに食べていなかったので、まさかそんなにひどい症状になっているとは思いもよりませんでした.下痢をかけて排便したところ、吐き気が減弱して嘔吐は止まり、口から少し飲み物がとれるようになりました.今後、少しは食べられるようになるだろうと期待をかけています.
第2に痛みがコントロールできていることです.経口剤およぴ坐剤のモルヒネは、経口摂取が困難で、かつ便秘があるので中止しました.入院以来、持続皮下注射を行なっています.これは、胸の皮下に刺して固定した注射針とモルヒネの生理食塩水溶液を詰めた注射器とを細長いカテーテルでつなぎ、電池駆動の小型のシリンジポンプ(持ち歩けます)で微量ずつー定のスピードで24時間持続注射するものです.痛みに合わせて投与量の微調整ができるのが利点です.おかげで今は痛みは殆ど感じません.しかし、まだ反応が安定せず、効きすぎ気味で眠気とふらつきが出て困ります.へたをするとー日中ポーッとしています.でも、あの辛い痛みが無いんだから贅沢は言っていられません.今のうちに、気力を絞って、死後に残すための文章をたたき込んでおきたい気持ちでいっぱいです.まだ、死にたくありません.
今は、少しは平静です.ただ、ひどく打ちのめされたことがあります.病室でパジャマを着て鏡を見ている限りはそれほど気にならなかったのですが、散歩のために外出したとき、エレベーターの鏡に映る服を着替えた自分の姿を見て、顔やのど、首の肉があまりにもげっそり落ちているのを見て愕然としました.見る影もない骨と皮ばかりの死にかけの顔です.せめてあと5kg、手術直後程度まで戻りたいというのが現在の切実な願いです.いずれは、お見舞いに来ていただいたときに貴方がおっしゃていた「体中が管だらけの状態」になるかもしれませんね.悲しいです.でも終末医療の進歩にも期待はかけています.
さて、ここまで、仕事のことは何も書かず仕舞いでした.上述の「当面やりたいこと」は、仕事はすべて放り出し、ひたすら家族とともに過ごすことを前提にしています.情けない、卑怯な考えかもしれません.後を濁したとのそしりを受けるかもしれません.仕事に対するなんらかのケジメが必要かもしれません.世の中には、私のようなケースで、残った時間を仕事に打ち込む人(特に芸術家や、作家、研究者など)もいると思います.恩師からも、「何とか、頭を使って仕事を残せないか」との愛の鞭を受けました.
にもかかわらず、こんな状況になってしまい、何もかも中途半端になりそうです.人生も、研究生活も、未完成のままです.助走期間ばかりでジャンプできなかったジャンパーです.残念です.無念です.できることなら、何かーつでも積み上げたいとの思いでいっぱいです.しかし、現時点の現状と残された時間を考えれば、やはり家族と自分を優先せざるを得ません.情けないことです.
連絡した友人たちは、誰しも「何かできることがあれば・・・」と言ってくれますが、現実には殆どどうしようもありません.でも、会いに来てくれるだけでもずいぶん励みになりました.逆に、あなたに今お話しして、重荷や気がかりの種になってしまったとしたらごめんなさい.貴方ご自身が大学時代に母上を亡くされ、同じ苦しみをされたことはよく承知しています.いや、自分が同じ状況に置かれた今でこそ、ようやく当時の貴方の苦しみの一端をやっと理解できたと言わせてもらえるでしょう.
−中略−
なお、私たち夫婦の結婚式に参集してくれた友人、先輩達が、5月3日の午後3時に、結婚式の時と同じホテルで「励ます会」を催してくれるそうです.哀れな体を人前にさらすのは辛いですが、ありがたくお受けするつもりです.
−中略−
連絡先は自宅か以下の通りです.e-mail(インターネットのみ)は、妻が自宅で送・受信してくれますが、あまりなれていないので高度なことは困難です.妻はまだNiftyには触れたことがありません.
−中略−
部屋はまた変更があるかもしれません.いずれホスピス病棟に移ると思います.モルヒネの最適量が定まり、経口あるいは高カロリー・輸送液で栄養状態が改善できれば、週来は外出或いは、外泊で自宅へ帰ることも可能になるかもしれません.
−了−