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発症から一ヶ月文章が書けた!

                 (2002.6.30.撮影)

闘病日記

発症:平成3年6月14日 プールの中で脳出血を発症

転院:平成3年6月25日 東京慈恵医科大学付属第三病院に転院 

闘病その1:自分の名前を知った日!(平成37月3日)

 

それから毎日、なにかしら書いていました。

その当時のノートによると・・

7月3日 住所家族全員の名前 やっと一週間!

今思うに主人の代表取締役の就任からやっと一週間!と書いたのだと思います。

私には重大でやっと一週間!が過ぎた。しかし不安でいっぱいです。

7月4日 あいうえお あいうえお あいうえお あいうえお あいうえお

     かきくけこ かきくけこ かきくけこ かきくけこ かきくけこ

(7月4日の娘のノートより)

ジェミニ(当時乗っていた車)だったので3時頃着きリハビリ室をのぞいていたら、

入らせて貰い ました。車椅子の乗り方も教えて貰いました。

夕食の時、左手でお箸を使って見せてくれました。まあまあ上手です。

早く右手が回復して欲しいものです。

7月5日 パン、キャラメル、マーガリン、ママレモン、サラダ、牛乳、

やき魚、すのもの、くだもの、生姜焼き、付合せ含煮

献立表を写しました。漢字は大きな字になっています。

7月6日 会社の名をたくさん書いていました。

7月8日 きのうは大資のたんじょう日でした。

自分で思った事をそのまま書くことはまだ出来ませんでした。

7月9日 貴花田が七夕の殊勲!史上最年少三役・・新聞の見出しです。

 

自分の立場を知った私は「書く事を選び」娘に国語辞書、漢和辞書、小六法等

持って来てくれるよう頼み「即実行」に移しました。新聞はごみ置き場にありま

した。会社の株の動向が気になりトイレ・はみがき・洗顔・整髪等に行った時

「読売新聞」を見つけ持ち帰りました。新聞は折りたたんであったので一番上に

載っていた記事を写しました。まだ広げて読む事はできませんでした。

 

7月10日 

ご入院中の皆様へ サマーコンサートの開催について!

ご入院中の皆様におかれましては、日々療養にご専念のことと存じます。

さて、今般本学の学生で入院中の方々に心を癒していただく目的で、

サマーコンサートを下記の内容で企画致しました。つきましては、

コンサートの鑑賞におこし下さいますようにご案内申し上げます。

1 日時 7月13日(土)午後4時〜5

2 本館1階 整形外科外来前

3 演奏者  慈恵医大音楽部

訓練から帰ると「ご案内」が、テーブルに置いてありました。

早速書いて見ました。13日誰と行こうか!?

 

7月11日

右から思い切って当たった貴花田の立ち合いはよかったと思います。

スポーツ紙には書いてありました。

「右の体の動作」を車椅子の上でやって見ました。

どうしても「右側」はうまく動きません。物に「当たる事」など出来ません。

 

7月12日

巨人ファンの声が小さい!私の声も小さい。

元気がないのだ!どうしたら元気が来てくれるのか誰か教えて・・!

 

7月13日

本日の総ての訓練はおわりました。疲れた!

土曜日なのでアメフトの部活前に寄った息子に、コンサートに連れて行って欲し

いと頼みました。ナースステーションに話したら「夕食までに帰えればいいか

ら!」と言われ、コンサート前にアメフトのグランドに車椅子を押して連れて行っ

て貰いました。防具をつけた人達がたくさんで、顔見知りの先輩もいました。

4時になるので整形外科外来前には皆集まっていました。「車椅子は前の方に!」

と言われ、演奏者の前に行きました。入学式の時も聞かせて貰いましたが、患者と

して聞くとは思っても見ませんでした。

“埴生の宿・ふるさと”の演奏に皆さん口ずさんでいました。私も歌いました。

“埴生の宿”は母校黒磯高校の第2校歌でした。よく覚えていました。

演奏は「心を癒して」くれました。

 

はにゅう(埴生)の宿 

はにゅう(埴生)のやど(宿)も わがやど(宿)

玉のよそい うらやまじ

のどかなりや 春のそら 花はあるじ 鳥は友

おお わが宿よ たの(楽)しとも たのもしや

 

ふみよむ窓も わがまども 

るり(瑠璃)のゆか(床)も うらやまじ

きよらなりや 秋のよわ(夜半) 月はあるじ むしは友

おお わが窓よ 楽しとも たのもしや

  

ふるさと(故郷)

兎おいし かの山 こぶな釣りし かの川

夢は今も めぐりて 忘れがたき ふるさと

 

いかにいます ちちはは つつがなしや 友がき

雨に風に つけても 思いいずる ふるさと

 

志を はたして いつの日にか 帰らん

山は青き ふるさと 水は清き ふるさと 

 

二曲とも後日、本を見て完成しました。七分は正しかったです。

 

7月14日 

発症から1ヶ月が過ぎました。左手は、えんぴつをしっかりと持っています。

右手は、あと2ヶ月経っても、前のようにはなりません。

左手に、包丁を持ったりするようになります。

右足は、まだ色々あって一人だけでは立って歩けません。

 

7月21日 

新聞を何となく見ていたらこんな事が掲載されていました。

それは、サラリーマンにとって、わが身を病むよりもつらい事態ともいえよう。

40歳にして妻が脳出血で倒れ、右半身不随のまま、いわゆる寝たっきりの生活

を送るようになった。その時、印刷会社に勤務する夫(明治40年生まれ)は、

44歳の働きざかりであった。自宅に1男2女がいた。以後25年間、病身の妻

と暮らすことになる。奥さんは逝った。享年65歳。夫は70歳であった。

「女房は病身でしたが、年齢からすると、私の方が先に逝くんじゃないかと

思っていたんですよ。あえて申しますと、重荷と言うのでしょうか、それは、

なくなったものの、私には何をすればいいのか考えこんでしまいましたよ」・・

夢中でかき写しました。私は「そうは、させないぞ!」と、心に誓いました。

 

朝8時30分、リハビリに行く用意をして、看護婦さんを待っていました。

「パジャマでなく普段着のままだねっ。サアッァ・・行こうッかっァ〜!」

私の名前を教えてくれた看護婦Sさんでした。颯爽と元気に出かけました。

 

手作業(OT

片麻痺体操(なかなか覚えきれない)他人がやっているのを見ていた時

より難しい。お箸を使い、豆の移動。

 

言語訓練(ST

絵の説明。お昼に帰って来たが、また午後午前中の録音を聞く。

 

機能訓練(PT

歩き方、どうしても歩けない。いろんな事をやろうとしても体がついてこない。

よその人は、やっているのに!

訓練のきびしさに「やる気」はありながら涙がこぼれました。

三時に帰って、少し昼寝をしました。

 

7月22日(月)STさんの時間制限で「朝の様子」を書きました。

朝早く目が覚めていた。体の準備はいいか。手をあげる練習を始める。

左手はうまく右手をあげてくれた!

 

7月26日(金)「やりたいこと」を書きました。

私のやりたいこと!2000年までに「室内履き」を1000足編むことです。

もうこれは編むことはできなくなった。右の手ではできないだろうと思うが、

467足は終わっているし、練習を充分してやりとげたい!

この文には自分もSTさんも驚いた。「室内履き」はその後母と娘に教え500

(合計1000枚)を完了しました。現在も手元には467足目が残っています。

今では、母と娘は「室内履き編み」を特技としています。

 

7月30日(火)「部屋の様子」を書きました。

私の部屋は7名の患者がいる。(痴呆の)おばあさん。渡辺さんは血に異常があ

4ヶ月もいる。もう一人の人は背が曲がってもうコルセットをはめている。

あとの二人は年取っていて片足がない。糖尿病で足を切断恐ろしい病気だ!

若い人もいますがあの人のことはわからない。お隣は空いている。

 

82日(金)「昨日の訓練後の様子」を書きました。

おばあさんが夕方になると眠って大変です。夜起きていて騒ぐのです。

夕食の前に孫さんと一緒に出かけて行きました。私達も車椅子を置いて出かけ

ました。歩いてばかりで疲れました。休けいすることにしました。

一時間ばかり練習してもどって来ました。

 

Tさんと時間を計って書いた日記はこれで終わりでした。

退院(10月1日)まで、朝食前(5時ごろから7時ごろ)に日記を書き、訓練

の時OT室に提出し添削してもらう事にしました。

(平成1493日記)
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