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発症から自分の名前を知るまで!

  

                           (2002.4.18.撮影)

闘病日記

発症:平成3年6月14日 プールの中で脳出血を発症

入院:平成3年6月14日〜6月25日 公立小平昭和病院に救急入院

転院:平成3年6月25日 東京慈恵医科大学付属第三病院に転院 

自分の名前を知った日:平成3年7月3日

 

平成2年9月26日、我が家は火災に遭いました。

1ヶ月の休職の後復職しました。火災で失ったものが大きく終に平成3年2月27日依願

退職致しました。法律を学んで30年でした。前職に係わらず新天地を求めていました。

 

家の新築披露、娘の結納、主人の社長就任内定が発表され慌しさでストレスが体にも現

われました。専業主婦になって3ヶ月プールに行き始めたある日、夕食が終わり後片付け

をしようと思っても頭が痛く気が遠くなるのを感じ、持っていた物をたたきつけたい衝動

にかられました。そんな時ちょっと横になり眠りゃ〜治ると思い実行もしました。

 

平成3年6月14日、私にとって運命の日が来ました。

朝食の時、みんなに「今日プール休む」と、言ったら「休み癖が着くよ!」

「僕たちには休ませなかったよ!」「行ったら?」しぶしぶ出かけました。

途中で帰ろうかと思って、自転車を降りたりもしましたがプールまでどうにかたどり着き

ました。血圧の異常がなかったので水着に着替えシャワーをした時頭が痛い〜!と、感じ

ました。最後の一本なので挨拶をしてから・・「さようなら。ハイ・・船越さんから!」

「私できないわぁ〜?」「大丈夫 ハ〜イ 頑張って!」とうとうプールの端に来ました。

端につかまりましたがいつもと違い上がれません、体が言うことを聞かないのです。

「助けて〜ぃ!」声はわなわな〜〜・・でない、手は・・ズルズル、体は・・ブクブク、

私の体はどうなったんだろうか?

 

「担架・・救急車」コーチ達は叫んでいます。

偉いことになった!家に連絡!?水着!ロッカーの鍵!銀行の鍵!

「家に連絡がつきました。昭和病院で先生も待機しています。」

 

救急車の窓から外を見た。家の近くだった。どのくらい時間が経っただろう?

病院の先生、看護婦さんが見えた・・昭和病院だ!前に来た事がある!

「家族がこちらに向かっています」と、女の人が言っていまし・・・たァ〜〜

 

気が付いたら、何日か経っていました。目を開けて見ました。

「お母ちゃん!お姉ちゃん!」お母ちゃんはニコニコしていました。

「お父ちゃんも、私と同じ48歳で倒れたんだよね?55歳で死んだんだよね〜?

私も55歳で死ぬのかなぁ!・・・」2人とも返事をしてくれません。

「あじ、アジ、ああじあじ、アジ、あじ」としか、聞き取れなかったらしいのです。

 

また何日か経ち、偉そうにした人(当時は分かりませんでしたが主人でした)と健ちゃん

(弟)と、太った人が来ました。一生懸命話している私の言葉に、彼らも当惑したような

顔をしました。誰も私の話している言葉を分かってくれない。どうして?どうして!

どうしてなの〜ぅ?

 

(当時の母のおぼえ書き帳より)

6月21日

  狭山から悦子の病院にいってトキ子宅へ一泊して、4時頃帰宅した。

朝は8時49分の新幹線で義兄と一緒でした。義兄は倒れた妹の面会に川崎に行くのだそうです。栄子と待合わせで4時30分頃面会出来た。

思ったよりあまりの重体でおどろいた。生きる事は出来ないと思った。

6月23日

 健一と嫁が9時の電車で行った。田無の家に寄って大資と一緒に行った。

 

母は当事75歳で父の死から20年でした。父は48歳で一回目の脳出血を発症しました。

私の結婚式には欠席でしたが、娘が生まれた頃には車を運転し普通の生活をするまでに回

復しておりました。再び53歳で脳出血を発症し8ヶ月入院しました。その後自宅で看まし

た。私は主人の出張が多かったので娘が幼稚園に入園するまで月に34回行き来しました。

私の家族ことは、私と娘しらないまま55歳で亡くなりました。母は四方や娘が夫と同じ年

令で同じ病気を病むとは思ってもいなかったようです。

 

また、何日か経ち銀行の人が来ました。

「銀行の貸し金庫の事らしい?大丈夫!」・・でも自宅は大変な事になっていたそうです。

 

また、何日か経ち「お風呂に入りなさい。(おふろ?)明日は病院を変わります。準備して

下さい。」(誰とどうやって入るの?おしえて!)看護婦さんがとげとげしく言いました。

私は何も悪くないのに!若い人(娘)と私より少し若い人が、泣き叫ぶ私を全身ぬれなが

ら体を洗っていました。

 現在では付き添いの人達が、お風呂に入れる事は行われていないでしょう。

 素人の二人が入れたのですから、3人とも怖くて怖くて私は泣くばかりでした。

次の朝退院でした(6月25日公立昭和病院退院)。

                  

6月25日

寝台車に若い女の人(娘)と乗りどのくらい走ったろうか?

車をたくさんの人が待っていた。松葉つえの人(今思うと息子)と若い女の人(その時は名前が分からなかったが娘)が、診察室に一緒に入り白衣の人(その後の生活に大変な影響力を与えてくれた教授)と、話をしていました。慈恵医大の第三病院に入院したのです。

 

病室に行くと変な人がたくさんいました。年よりばかりだと思いました。

ここで何をするのか?どうして、ここに来たのか?ぼんやりと辺りを見回しました。

こんな人の多い処で便座でするなんて?いやだ!出来ない!態度でわかったのか・・

「トイレに行きましょう。車椅子で行きましょうね?」用を済ませて落ち着きました。

「看護婦の宇都宮です。何でも言って下さいね。用事の時はこのベルを押したら看護婦が

来ます。ベットには、柵がしてあり危険はありませんから、ゆっくり休んで下さい。」彼女の態度が私の心を癒いてくれました。今でも広い病院で偶然合います。いつも新しい事に挑戦している時で、彼女に合うと勇気が出るのは「最悪の日」を知っているからでしょう!

 

6月26日

一日の始まりです。「体温を測るまでは、ベットにいるのだ」と、隣の人が教えてくれました。ベットの柵を外してもらわなければ!私の話している事が、看護婦さんに分かって貰えるのか・・言葉では分からなくても態度で・・何とかなる!まさに「一人芝居だ!」それが悲しい!でも「役者だもん・・名役者だぁっ・・もん!」涙が顔を洗ってくれていました。看護婦さんがノートを持ってやって来ました。「体温、血圧、大便、お小水、トイレに行く?」「うん」さあ〜大変だ!何とかベットの中央に来た、車椅子に乗り移るのだ。

どうして出来たんだろう?サッサとトイレに連れて行く、また、便座に乗り移るのだ・・

出来たぁ・!「もう、1人で出来るね!」「うん」朝食(何とか左手で!)、くすり、歯み

がき(良く磨けない)、洗顔をしました。その日の他の事ことは覚えていない。

 

6月27日

朝から落ち着かない。待ちに待った株主総会の日だ!頑張るんだ!自分に言っているのか、

誰に言っているのかわかりませんでした。10時まだ?10時まだ!?と誰彼構わず聞い

たが答えてくれた人はいませんでした。そうだ、時計のある所に行けばいいのだ!

「船越さん。船越さ〜ん!どこにいくの〜?」私を呼んでる見たいでした

(その当時、私が船越さんだとは知らなかったのです)

「あじアジ、アジ・・あじ」私の言っていることは、相手に分かる筈はなかったのです。

「時計ならここよ・・」と、上を指さして教えてくれた人がいました。嬉しそうにして

ニッコリしてペコンと頭を下げました。長い時間ただ時計をばかり見ていました。

夜、面会の時間になりました。「無事すんだよ!僕も頑張るからお母さんも頑張るんだよ!」

「うん!うん!」お互いに泣きました。でも私は、今日の出来事が重大なのだとは知って

いましたが、相手が自分とどういう関係で誰がどうなったかなど知らないのでした。

自分の名前すら知らないのです!それをどうやってこの人にわかって貰おうか?言うのは可哀想すぎる!

 

主人は平成3年6月27日代表取締役に就任しました。入社以来30年が過ぎていました。

大変な時期に重職を引け請けたものでしたが、11年もの長い間一家全員で乗り切りました。

平成14年6月27日代表取締役を退任しました。

平成14年7月より、相談役兼最高顧問で御礼奉公に出社しています。

 

毎日、毎日時間が過ぎ、新しいこと、言葉など覚えました。でも・・自分の名前すら知らないのは同じでした。この病院に来て何日になったろう?初めての看護婦さんがニコニコして近づいて来ました。「名前ワッ!何処に住んでいたの?」しらない・・というように首を振りました。「じゃあ、教えてあげるね!」ふなこしえつこメモを食い入る様にして見ました。田無に家族がいるんだ!「書いて見たら・・思い出すと思うよ?」

左手でしっかり書きました。

私も看護婦さんも泣いていました!とてもとても嬉しかった!です。

平成3年7月3日の事でした。

                           (平成14年7月3日記)

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