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NSC-68について

 アメリカの大量報復戦略の基本となったNSC-68(国家安全保障会議政策文書)について、その成立の背景についてすこし長いですが、下記の本から引用します。この時代の最高機密文書は多くは機密扱いを解かれているようですが、ほとんど日本には紹介されていません。下記の文章にも、ポーランドのワルシャワ蜂起(1944年)の残党を戦後CIAが援助していたというような私にとって始めて聞く話がでています。このことは私より上の世代では映画「灰とダイヤモンド」のことを思いだすのではないでしょうか。

1945年以後(上)

タッド・シュルツ 著

吉田利子 訳

文芸春秋社 1991年発行

P244

ボール・ニッツのNSC68

 核兵器についてのトルーマンの決定は、変わりつつあったアメリカの戦略のなかての純粋に軍時的な側面を示すにすぎなかった。アメリカ政府がソ連と中国がもたらしていると思われる政治的脅威に対抗するためには、根本から政治姿勢を変えなければならない時期にきていた。事実、ワシントンはロシア人と中国人が共産主義の一枚岩を形成してアメリカに敵対しているという結論に達し、クレムリンが命令を出して子分が無条件てそれを実行しているのだと信じていた。これは、中ソ関係の真の性格やニュアンスについてアメリカが根本的に無知だったことを示しているともいえるが、アメリカの為政者は一九四九年十二月に毛沢東がモスクワにスターリンを訪問したこと、その後の交渉の結果一九五○年二月十四日に中ソ友好条約を締結したことに強い印象を受けていた。共産主義中国がチベット自治区に進軍してチベット人に流血の弾庄を加えたことは、毛沢東の政策に関する懸念をさらに増大させた。

 アメリカの新しい戦略は、一九五○年はじめの数ヵ月に大統領に提出された政府秘密研究(これは大統領の命令によっておこなわれた)の結果報告や政策勧告、あるいは公の席での大統領スピーチや宣言、声明などを通じて次第に明確になっていった。政府の表向きの姿勢には、水爆製造などの手段によってアメリカ人の安全が保障されていると国民に納得させると同時に、台湾(当時はまだフォアモサと呼ばれていた)を共産主義中国に奪われるかもしれないどいった海外ての情勢変化に備えさせるという二つの目的があったが、このころの政府高官の不用意な発言のなかには大きな混乱と矛盾がみられた。

 そのうえ、政府がほんとうに戦略ブロジェクトを遂行する手段をもっているのかどうかも明らかでなかった。たとえば対東欧政策は、一九四九年十二月にNSC58/2という国家安全保障会議の最高機密政策文書で明らかにされた。(当時の国家安全保障会議の研究や決定党え書、文書などは作成された当時はすべて機密扱いだった。多くはその後機密扱いを解かれた。)このNSC58/2では、状況は「熟して」おり、「東欧の衛星国家におけるソ連の庄倒的な影響を排除するか、少なくとも低下させるために、さらになしうることがないかを検討すべきである」ど提案していた。

 東欧地域のソ連勢力の圧倒的な強さを考えれば、当時でさえそんなことが可能であったか疑わしいし、共産主義政権打倒の武装蜂起をうながすことを目的としてCIAがアルパニアとポーランドで実行した現地秘密作戦は、西側情報局に入りこんでいた二重スパイによって暴露される前から失敗を運命づけられていた。

 アルバニアの場含は、ロシア人に破壊分子の侵入を警告したのはイギリスのMI6の上層部にいた二重スパイ、キム・フィルビーで、フィルビー自身が秘密作戦の要員を組織し、事実上彼らを死に送りこんだ。

 ポーランドでは、一九四四年にワルシャワでナチスにたいする蜂起に加わったが、その後死滅しかかっていた反共国内軍(AKとして知られていた)のケディフ(別働隊)をCIAが挺子入れしようとした。ケディフはゲリラ部隊として残り、新しい共産主義政権を悩ませていた。だが隊長のアウグスト・エミール・フィールドルフ将軍は一九四八年に投降し一九五三年に処刑)、残った部隊も一九五一年までに一掃された。

 ワシソトンは理解していなかったが、衛星国がソ連から離れるとしたら、それは共産主義政権目身の路線変更か−−一九四八年のユーゴスラヴィアのチトー政権の場含のような―−あるいは国民の自然発生的な蜂起によるしかなく、国民の蜂起が起こったのはそれから長い歳月を経たのちだった。外からゲリラを組織しようとする努力は、必然的に人の生命を犠牲にしながら何の成果ももたらさない犯罪的かつ無意味な行為だった。

 極東政策もまったく混沌としており、アメリカ世論や議会ばかりでなく、ソ連と中国をも危険なほど混乱させたようだ。一九五○年一月五日、トルーマンはアメリカが「フォアモサについて略奪的意図などまったくもっていないし・・・現在の情勢に介入するために武力を行使する意図もまったくない」という声明を発表した。さらに大統領は「アメリカ政府は中国の国内紛争に介入イる事態を招く路線を追求する意思はない」し、「フォアモサの中国軍に軍事援助も助言も提供するつもりはない」と述べた。

 トルーマンの宣言は主として、中国国民党の砦、台湾が陥ちるかもしれないとアメリカ人に覚悟させるためのものだったが、北京のほうではどうぞ侵攻してくださいと言っているのだと解釈こともできた。トッブレペルの政策文書を起草する人たちが、文書の内容を敵や味方にどう解釈されるかを考えないことが多いのには驚くほかない。

 混乱は一週問後にアチソン国務長官が中国問題について演説したときにさらに深まった。アチソンのつもりでは、中国の内戦で前年に共産党が勝利したのはなぜかを理性的に説明しようとしたのだろうが、一月十二日のワシントンのナショナル・プレス・クラブにおけるアチソン演説は不注意な失策として記憶されている。アチソンは太平洋における軍事的安全保障を論じて、アメリカの「防衛線」は「アリューシャンから日本まで」を走っており、「日本の支配下にある琉球列島とフィリピンを含む」と述べたのである。とくに朝鮮を「防衛線」に含めなかったために共産主義者の韓国侵略を招いたと、アチソンはのちに非難された。

 一月十七日、ソ連の国連代表ヤコフ・マリクは、国民党が中国代表として出席していることに抗議して安全保障理事会から退場し−−彼は共産主義中国が席を占めるまでは議場に戻らないと宣言した―−これでアメリカはモスクワと北京が手を結んでいるとますます確信を深めたようだ。だが共産主義者がまもなく気づくように、歴史の流れはそう単純なものではなかった。

 冷戦時のアメリカの虎の巻になったのは、国家安全保障会議が集中的な検討ののちに一九五○年四月十四日に出したNSC68という文書だった。起草の中心となったのは当時国務省の政策企画担当部長だったポール・ニッツで、NSC68は、一九四七年のギリシャおよびトルコ援助に関するトルーマン・ドクトリンて明らかにされた封じ込め政策の概念をさらに拡大したもので、それから四十年にわたってアメリカ外交政策の知的、戦略的指針となった。一九八○年代の終わりにミハイルゴルバチョフが和解的な政策を打ち出したとき、アメリカて冷戦はついに終わったのかという議論が沸き起こり、それとともにNSC68の原則を廃棄すベきかも議論になった。八十歳代に達していたポール・ニッツはアメリカ代表団の団長としてヨーロッパの中距離核兵器の相互撤廃条約について交渉を重ねたが、これは冷戦がついに終焉に向かっていることを示す最も具体的なしるしだった。

 NSC68は、ソ連の脅威は全世界的だが、最もさしせまった危険はクレムリンの衛星国による「個別的な」攻撃であり、アメリカは核兵器と通常兵器の両方で防衛費支出を大幅に増大させるぺきであると結論づけていた。(トルーマンはすでに水爆製造を許可していた。)アチソンはこのときの研究について、「共産主義ドクトリンのイデオロギーとロシア国家の力」の組み含わせが与える脅威と「自由な社会が存在し繁栄しうる環境」という「アメリカの目的」とを対比して分析したものだと書いている。だが、アチソンはさらにつけ加えて、「NSC68の目的は、『政府のトップ』官僚たちに喝を入れて、大統領は決断をくだせるばかりでなく、その決断は実行されるのだと思い知らせることだった」という。とはいえ、アチソンに言わせれば、「ロシアが愚かにも韓国に侵入して『僧むべきアメリカ』キャンペーンを開始したりしなかったら、つぎの数年に起こったようなことが可能だったかどうか疑わしい」という。NSC68はポール・ニッツが誇らしげに語るように、「ソ連のシステムそのものに変化が起こらないかぎり」東西関係には「永続的な緊張緩和などありえない」だろうと予想した点で将来を予言していた。このときの研究では同時に、アメリカは時間を稼いで、ソ連内部の矛盾が激化し、共産主義システムに固有の緊張が充分に高まって西側を利するようになるまで待つベきだと主張していた。〜

参考サイト

NSC 68: United States Objectives and Programs for National Security

The Documentary History of the Truman Presidency

Volume 7, The Ideological Foundation of the Cold War--the "Long Telegram," the Foreign Affairs "X" Article, the Clifford Report, and NSC 68

つづく