1999年の旅順要塞


今回ある旅行社で、旅順から瀋陽まで、日露戦争の戦跡を訪ねるツアーを企画しました。その中で、旅順要塞については旅順のホテルに泊まり、従来見せていなかったスポットまで、十分な時間を使って見るようになっていましたので、参加することにしました。
ホテルは新港区という、半島の先端部の地域にありました。ここは開発中の工業団地のようなところで、ホテルのまわりはまだ閑散としています。ボーイさんはみな制服を着た軍人のようでした。軍の副業でやっているホテルかも知れません。
さてこのホテルを朝の9時に出発して午後5時まで、たっぷりと旅順要塞をめぐりましたが、その中で従来ご紹介していなかった新たな場所と、これまでの場所のその後の変化について、以下にご紹介したいと思います。

二百三高地

203高地は売店が3軒に増えて、ますます観光化しています。それぞれ立派な店を構えて、成り立つのかどうか心配なほどです。記念碑の形に似せて12.7mm機関砲の弾で作ったボールペンを、203元で買いましたが、これは帰りの飛行機の手荷物検査で見事に引っかかりました(取り出してボールペンであることを見せたらOKでした)。


鞍部からの登り口の右側に立っている説明の看板が新しくなりました。最後の部分を訳しますと:「日露戦争によって旅順の人民は災難を蒙った。戦後、日本の軍国主義者乃木希典は、二零三の諧音を用いて山名を“爾霊山”と改め、併せて碑を立てて、日本軍の死者の霊を“慰惜”し、日本人民を騙して侵略戦争を美化した。」とあります。
以前の文面:「戦後、日本軍の司令官、乃木希典は、“二零三”の諧音に基づいて山名を改めて“爾霊山”とし、侵略軍の死者の霊を祀った。今となっては帝国主義が中国の領土を侵略した歴史の見証となっている。」と較べると、ますます激しい口調になっています。


山頂の西側の売店の前から北側へ、乃木保典戦死の場所へ下っていく階段に沿って、石積みの偽塹壕ができています。偽物であることを他の人に説明していると、日本語のできる売店の売り子さんが出てきて「本物よ」と力説しました。


偽塹壕は約10メートル下の本物の塹壕跡に直角にぶつかり、本物塹壕の一部も石積みになって、互いに溶け込んでいます。ここまでやると、戦争カンのない日本の新聞雑誌の記者さん達はころっと騙されるでしょう。


上と同じ場所を、1997年に撮った写真です。この時も偽塹壕はありましたが、上の方だけで、まだ“完成”していなかったのです。


さらに20メートルほど下ると、もう一つ本物の塹壕跡があります。


大案子山堡塁

大案子山堡塁は203高地の南東にあり、その北に位置する椅子山堡塁とともに旅順港の西側の防衛線を形成しています。陣地争奪戦がここまで及ぶ前に降伏に至ったために、 案子山堡塁はほとんど無傷で残りました。戦後、最近までは中国軍の弾薬庫として使われていたので、内部はよく整備されています。大案子山堡塁は、当時のロシア軍堡塁の構造を知るのにまことに好都合な遺跡です。このような所をもっと観光に利用すべきだと思いますが、現在の所、大案子山堡塁への道路は整備されていません。自動車道路から、約1キロの山道を歩いて登らなくてはなりません。


堡塁の入り口に当たる東側の壁です。前側が広場のように広がっていますが、その両翼は狭まって外壕になっています。このように広場状になっているのは、当時の写真を見てもその通りです。


内部はトンネル状の窖室になっています。兵舎を兼ねたものでしょう。写真を撮り損ねましたが、この窖室には貯水所があって、いまでも水を湛えています。


上の写真の窖室から中庭へ上がっていく交通トンネルです。この堡塁はこのようなトンネルが発達していて、中庭にその出口がいくつか顔を出しています。


西側の外壕です。外壕の外側が垂直の石積みの壁になっていますが、その裏側(つまり外側)の下部には銃眼付きの窖室があります。壕に落ち込んだ敵を背後から撃つ仕掛けになっているわけです。


中庭の小高い場所から、北方の椅子山の堡塁が見えます。写真の下の方に、西側外壕と、それを横切る交通トンネルの背中が写っています。上に述べた外壕の外側の窖室に連絡しているものです。二竜山堡塁では交通トンネルは外壕の底をくぐっているのですが、ここではそこまでの手間をかけなかったわけです。


南側の外壕はこのように荒々しく掘り込まれたままになっています。


中庭の東側に、砲台が10基以上、ずらりと並んでいます。それぞれに待避所が付いています。


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