1997年の旅順要塞(2)


1997年5月末に、良いチャンスに恵まれながら、準備不足のために二竜山堡塁を十分に探検することができず、心が残ってしまいました。そこで、1997年10月に、またまた旅順要塞を見学しましたので、ご報告します。

ニ龍山堡塁の地下道

5月に来たとき、懐中電灯がなくて入れなかった、北側正面の地下道に、今回は入りました。真っ暗な中を懐中電灯をたよりに、写真のようなスロープや、


階段をどんどん下りながら斜め右(北東)方向へ進みます。地下道はいったん北側の外壕の底をくぐるために深くなっているのです。


途中で右手にこのような銃座があります。これは東側外壕の底を北から南に向かって縦射するためのものです。この場所はすでに北側外壕の外側にあるわけです。(2001年11月撮影)


さらに進むと突然明るくなって写真の場所へ出ます。立て看板の案内図に「暗道出口」とあり、なんで出口があるのかわかりませんでしたが、これでわかりました。行き止まりであるべき地下道に、日本軍のしかけた爆破によって「出口」が生じたのです。(階段や崩れ止めの石垣は後からつくったものです)。


「出口」に連続してこのようなコンクリートの壁があります。これは東側外壕の北端部をなしています。さきほどの地下道の銃座はこの壁の裏側にあります。


地下道が通じていた銃座の一部が幽霊のようになって残っています。「出口」とこれとの間がすべて吹っ飛んだわけです。爆破がいかに大きかったかがわかります。この銃座は上の写真の壁と直角の位置にあり、北側外壕を東から西に向かって縦射するためのものです。北側外壕は東側外壕より浅く作られていたので、それに合わせてこの銃座は、地下道の銃座よりも高い位置にあったのです。 背景に自然の谷のように見えるのは東側外壕です。(2001年11月撮影)


爆破されて埋まった北側外壕の外側に、このような浅い壕が点々とあります。機関銃用(?)の2、3人入れるものや個人壕など、全部で20個くらいあるでしょうか。立て看板には「露軍散兵線」とあります。しかし爆破のデブリの上に築いてあるのですから、爆破から突入までの間にロシヤ軍が作ったことになりますが、それはあり得ないでしょう。後でガイドさんに聞いたところでは、二竜山堡塁は1990年頃一度観光地として整備されたそうです。そのころにこしらえられたものと思われます。


二百三高地周辺

二百三高地の中腹にある、乃木保典戦死の場所の碑が整備されていました。写真の台座は碑と不釣り合いに見えますが、戦前の写真を見ると当時からこの姿です。乃木保典戦死の碑へ行く道は、頂上の広場に道案内の立て札がたっており、そこから急な道を北側へ(つまり登り口とは反対側へ)下って行けます。この場所から登り口の鞍部へは、山腹を水平に巻く広い道を通ってもどれます。


碑のそばに立っている説明の看板です。英文の中の名前が「YASUNORI」と、誤って書いてあります。途中の道案内の立て札はペンキを塗り直して「YASUSUKE」と直してありましたが、ここまでは手が回らなかったようです。中国語の説明には「山頂へ突撃中に露軍に射たれて死んだ」と勇ましくなっていますが、実際は彼は旅団司令部付きでしたから突撃はあり得ません。彼は電話線が砲撃で切れたために前線へ命令を伝えにいき、その帰りに射たれたのです。



二百三高地とならんで、それより少し低い老虎溝山(赤坂山)がそびえています。鞍部から、二百三高地とは反対側へ登る道がついています。今回はその山頂へ登ってみました。山頂には写真の碑があります。碑の裏側には銘文があり、攻撃に当たった部隊の功績を讃えています。老虎溝山は二百三高地を援護する位置にあることから、常に補助攻撃が向けられていましたが、12月に入ってからの最後の攻撃では二百三高地に一本化されました。その後露軍が自主的に撤退しました。


老虎溝山山頂からの旅順港の眺めです。二百三高地に劣らず良く見えます。老虎溝山攻撃の目的は必ずしも助攻のみではなく、二百三高地の滑りどめの意味もあったのでしょう。


ひとこと

旅順要塞は、だれでも、かなり自由に見られることがわかりました。しかし全く自由というわけではありません。今回、松樹山堡塁も見たくて、あらかじめそのことを伝えてあったのですが、旅順ガイドさんは昼食の後行く、と言っていながら土壇場になって「軍の施設が近くにあるから許可が下りなかった」と言って断られました。 また、盤竜山東、西堡塁や一戸堡塁など、見学ルートのすぐそばにある場所も、やぶを漕いで歩いていく、というわけには行きません。何時の日かこれらの場所も見られるように、開放が進んでくれるとよいと思います。

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