Khan - Mongolian Empire

Rule of Khan in Rossia

Kypchak Khan

ロシア人の言うところの『タタールのくびき』はロシア農民にとって大変ひどい搾取でした。 キプチャク汗のロシア農民支配(タタールのくびき)は、チンギス汗の征服と暴力的な支配に由来しています。司馬遼太郎の記述を引用してみます。

「12世紀末、中国の北方に広がるモンゴル高原に黒い雲のような勢いが発生し,四方の遊牧民族を斬り従え、あるいは傘下に入れ、いかなる農業国家もこれに抗し難くなったのが,チンギス汗の名で代表される事態でした。」
「戦えば、地に一物も残さない、というやり方で、ともかくも自ら武を誇るのみで、生き方を異にする農民やまた他民族に対し、人間としての同情をほとんど持たなかったのです。その武の行くところ、暴風、洪水、地震のような自然現象に似たすさまじさがありました。」
(司馬遼太郎、「ロシアについて - 北方の原形」、 p.19、 文芸春秋文庫, 1989年)

司馬遼太郎は、ロシア皇帝の専制政治はキプチャク汗国(1243 - 1502)の暴力的農民支配から性格を引き継いでいる印象を持つと書いています。

スターリンは、クリミア半島のタタール人 をナチス協力者としてシベリアへ強制移住させました。1994年の現在からみるとこれは、少数民族差別を目的としたスターリンのタタール人に対する圧政ともいえます。しかし、ロシア人にとってタタール人は、二百五十九年にわたる搾取と圧政を受けた恨みかさなる人種でした。スターリンがしたことは、モンゴル人に対するスラブ人の意趣返しとも言えます。

Chingis Khan

チンギス汗は英雄だったのでしょうか。
チンギス汗が世界史に名を残しているのは、彼が短期間に驚くべき広範囲の地域と民族を征服し未曽有の大帝国をうち建てたからです。モンゴル側にしてみれば民族の大英雄ということになります。
しかし、征服された側にしてみれば、ある日、前ぶれもなくやって来て、平和な村を破壊し、食料と富を強奪し、抵抗する男たちをみなごろしにし、美しい女たちを強姦し連れ去っていった猛悪のアジア人の記憶だったのです。幸福な時代よりも戦争と災厄の時が人々の記憶に残り、語り継がれます。チンギス汗とその子どもたちの名がヨーロッパの歴史に刻み込まれたのは、かれらがまさにヨーロッパ人の大災厄だったからにほかなりません。

話がすこし飛びますが、Starwarsなどの映画で、宇宙の支配をたくらむ邪悪で狂暴な敵に「なんとかカーン」と言う名前がつけられていることがあります。西欧人から見たモンゴル帝国の記憶がここにも現れているのです。
アジア人として複雑な気持ちがします。

もうひとつ、Khanに関する思い出。
10年ほど前にアメリカに住んでいたときに、毎週土曜日の午後に放送されるテレビのプロレス番組を観たことあります。かならず善玉の白人レスラーが登場します。そして、世界各国からきたという触れこみの悪役レスラーがつぎつぎに登場します。この悪役の性格付けに、アメリカ白人から見た各国のイメージが端的に現れます。たとえば、ロシアから来たレスラーは狂暴な熊のような「なんとかスキー」という男です。モンゴルのレスラーは冷酷残虐な攻撃をする「キラー・カーン」でした。ちなみに、日本人レスラーは、ニタニタと意味不明な笑いを浮かべながらこずるい反則攻撃を連発する「ミスター・フジ」だったのです。

Links:
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Last update : 01/10/98(Sat)
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