ハイエク「隷属への道」 西山千明訳,春秋社

”隷属への道”の中で印象に残った記述をいくつか載せています。

自由
「自由はより高い政治目的のための手段ではない。自由はそれ自体、至高の政治目的である。自由が必要とされるのは、よい行政を実現するためではなく、市民社会、そして個人的生活が、至高の目標を追求していくことを保証するためである。」
ハイエク「隷属への道」 西山千明訳,春秋社(p.87)

「民主主義は、本質的に手段であり、国内の平和と個人の自由を保証するための功利的な制度でしかない。民主主義は決してそれ自体、完全無欠でも確実なものでもない。」同(p.88)

「個人主義とは『人間としての個人』への尊敬を意味しており、それは、ひとりひとりの考え方や嗜好を、たとえそれが狭い範囲のものであるにせよ、その個人の領域においては至高のものと認める立場である。」同(p.10)

法の支配
「自由な国家では『法の支配』 (Rule of Law)として知られているあの偉大な原則が守られている」同(p.92)
「『法の支配』のもとでは、政府が個人の活動を場当たり的な行動によって圧殺することは防止される。」同(p.92)

なぜ最悪のものが指導者となるのか
ハイエクは、全体主義と個人主義について語る。彼の立場は一貫して英国流の立場、個人主義を支持し擁護する立場である。
「集産主義社会は、個人主義社会よりはるかに大きく個人の生活習慣に干渉してくる。」(p.191、「個人主義的美徳と軍隊的気風」)
「ドイツ人は概して勤勉でよく訓練されており、冷酷とさえいえるほど徹底的・精力的であり、どんな任務に対しても良心的・献身的であり、また秩序とか義務とか権威への絶対服従ということを尊重し、しばしば自己犠牲や肉体的危険をものともしない」
(これに対して)
「典型的ドイツ人 に欠けていると多くの人が認めるものは、他者の個人的存在と意見への寛容・尊敬そして精神的独立や不屈の性格や上位の者に対しても自身の信念を守ろうとする決意、また弱者や病人への配慮さらには権力に対する健全な軽蔑や嫌悪(これは永年にわたる個人的自由の伝統のみが生み出すものである)といった、つまりは個人主義の美徳である。」

全体主義批判

ハイエクは、個人主義価値観から見れば最悪の行為を行う人間が、全体主義体制では評価され、登用されることを指摘する。
「全体主義体制の権力者の地位(中略)そこで満足させられるのは、権力それ自体の快感、人々を自分に従属させるという快楽、そしてすべてのことが道を譲る高性能で強力な機械的組織の一部になるという快楽でしかない。」(同p.196)

「全体主義社会で、残虐行為や脅迫や意図的な裏切りやスパイ行為が必要とされる役職が驚くほど多くある。ナチス・ドイツにおけるゲシュタポ、強制収容所の管理者、宣伝省、突撃隊、親衛隊と言った役職は、人道主義的な感情を発揮するにふさわしい場所ではない。だが、まさにこれらの地位から全体主義政府の首脳に至る道ははじまっているのである。」(同p.196)
「人質を銃殺するとか、老人や病人を殺すといった、われわれの感性では耐えられない行為も、目的達成のための方便とみなされてしまう。また、何十万という人々が強制的に居住地から追い立てられ、移住させられたりすることが、当事者以外のほとんどが同意した政策のための単なる手段として実行に移されたり、『子供を生ませる目的のために女性を徴発する 』といったような提案が真剣に計画されたり、などといった実に多くのことが避けがたく起きてくる。」 (p.194)

ハイエクは、全体主義国家で宣伝活動がもつ重要な役割について述べている。

「全体主義政府が人々に自らの意向通り考えさせることに高度な成功を収めている(中略)(その成功は)さまざまな形の宣伝活動によって初めて生み出されたものである。」(p.200)
「全体主義諸国の宣伝活動は(中略)人々の心に対し比類ない力を振るっている」(p.201) 「全体主義宣伝活動は、(中略)『真実』というものに対する感覚や尊敬の念を、その根底から侵食していくことによって、ついにはあらゆる道徳を破壊してしまう」(p.202)

ハイエクは、全体主義社会ではイデオロギーが真実を歪曲したり、イデオロギーがその教義に合っているかで学問の価値を判断したりすることを指摘する。

「(全体主義社会では、計画担当者の本能的な嫌悪感や欲望や偏見から各種の教義をつくることになるので)かくして、ゲルマン人優性論のような偽似科学的な理論が、全体主義体制下におけるすべての人々の行為を多かれ少なかれ管理し統制する公の教義の一部となっていく」(p.205)
ハイエクは、ナチスドイツもソビエト連邦型の共産国家も全体主義国家として同じ問題を持つことを述べている。

ハイエクHayekは競争社会の信奉者である。
「今から二十五年以前なら、『競争的な自由放任秩序を廃止して、これにとって代わるべき体制として提案された計画化社会が、そのような自由放任的秩序よりはるかに自由な社会である』、といった素朴な信念を人々が抱いても、まだ仕方がないと許される面があったかもしれない。だが、それから二十五年の経験を経て、(中略、まだ)そのようなものが信奉されているのを見ることは、言いようのないほどの悲劇である。』」(p.273-274)

ハイエクは貧困や失業について語る。彼の基本的な思考は、競争原理の肯定である。
「貧困の問題を経済成長によってではなく、『所得の再分配』という近視眼的な方法によって解決しようとして、さまざまな階級の手取り所得を広汎に減少させてしまい、その結果として、それらの人々を既存の政治秩序に対する、断固たる敵にしてしまうようなことがあってはならない(中略)。欧州大陸において全体主義が台頭することになった一つの決定的な要因は、それに先立つ数年の間に財産や地位を奪われてしまった巨大な中産階級の存在であった。---英国では、まだそのような事は起こっていない---、ということを決して忘れてはならない。」(p.287)
「特権的な安全を求めるあらゆる要求は、消滅させられなければならない(中略)特定のグループが、自分たちだけが持っているとりわけ高い経済的水準を維持するために、新規参入者たちが繁栄の分け前にあずかるのを排除することを許すような、あらゆる口実を消失させなければならない。」(p.286)


ハイエクは言う。自由のなかに、職業選択の自由と、移動の自由がある。
職業選択の自由 が当然の事とされたのは、たかだか最近200年くらいのことだ。

自由主義社会は競争社会である
自由主義は競争と結び付いている。自由主義社会は競争社会である。競争社会の対極は統制社会である。社会主義は競争を排除しようとする統制社会である。 自分が自由を享受しようとすれば、他の人の自由も認めなければならない。自分の利益を追求する権利を主張するならば、他の人が同じように利益を追求する権利もまた認めなければならない。必然的に競争が起こる。このように、自由は競争と表裏一体の関係にあることを認め合わなければならない。 競争をなくすか、少なくしようとする考え方もある。それが社会主義だ。競争をなくすためには、"当局"というような存在を仮定し、それが調整機能を果たさなければならない。ところがハイエクの言うように、それは無理なのだ。調整するために必要な知識を政府なり当局が十分に持つことは事実上できない。また、調整することは対立する利害のどちらかに政府が加担することを意味する。それは、他方の側の自由を抑圧することになる。結局、競争を抑えることは自由を侵害することになる。

議会

憲法
ヒトラーは合法的に独裁を実現した。すべての権力を総統に委ねる法律を作った。議会が自分自身の存在意義を放棄する法律をつくる場合があることを、ヒトラーは実例で示した。

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