• 8月5日、日本からイスタンブールへの直行便は満席だったので、パリ経由の便を利用した。パリは雨が降っていて空港は肌寒いくらいだった。パリからは雲の上を飛び続けた後、イスタンブールに近付いてようやく雲が途切れて地表が見えてきた。イスタンブールのアタテュルク空港からは地下鉄と路面電車(トラム)を乗りついで旧市街にある Ersu Hotel にチェックインした。同行の岡田氏は深夜に着くので、先に市内観光をしておく事にした。ブルーモスクを見学した後、ボスポラス海峡を渡ってみることにした。フェリー乗り場では自動券販売機で切符代わりのメダル(ジェトンJeton)を買う方式だった。ジェトンとお釣りのコインの区別がつかず、3回買い直して、ようやくどれがジェトンか分かった。対岸のカドキョイで魚料理の夕食を食べた後、夕暮れ間近の海峡を再びフェリーで渡ってホテルへ戻った。深夜、岡田氏と無事合流した。翌8月6日は一緒にアヤソフィア聖堂やトプカプ宮殿を見学した。
  • 8月7日、飛行機でワン(Van)まで移動した。ワンの空港にはガイドのSaffet氏と運転手が迎えに来ていた。トルコ最大の湖、ワン湖を左に見ながら高速道路のように立派な道を走った。木も草もない砂漠のようなところだった。Agri(アール)方面への分岐を過ぎると道が悪くなり、ところどころ工事中で未舗装になった。ほぼ中間地点にあるムラディエの滝で小休止した。少し茶色くにごった水が轟音とともに落下していた。再び車に乗り、あえぎながら登るトラックを追い越しながら峠を越えると、行く手に山頂部を雲に隠したArarat山が見えた。峠を越えたあたりから少し緑が増え、ところどころで放牧中の山羊の群れとすれ違った。
  • 少しほこりっぽい感じのするドウバヤズットに着き、Hotel Isfahan にチェックインした。翌日の簡単な打合せをし、もう一人がガイド、ブルハン氏を紹介された。ラマダン(トルコ語ではラマザン)でレストランの営業は日没後の19時半からとの事だった。19時頃に町を散歩したら、すでにレストランのテーブルにはサラダが並べられ、呼び込みも行われていた。ホテルに戻ってロビーで休んでいると、宿泊者がテーブルの上に食料を並べ始めていた。モスクのスピーカーから祈りの音楽が流れ始めるや否や、もぐもぐと食べ始めていた。「お前も食え」と誘われたが遠慮した。外に繰り出し、レストランで夕食を食べた。アルコールを注文しようとしたが、「ラマザンで無い」と言われた。食後、町を少し歩いた。ラマザンだと商店は日没で終わりかと思っていたら、食事が終わるとまた店を開けるらしく、にぎやかさを取り戻していた。アルコールを求めて徘徊したが、結局あきらめてホテルに戻った。
  • 8月8日、8時にホテルに迎えの車が来た。ツアー参加者はロシア人3人、チェコ人学生3人、日本人2人の合計8人だった。市内のスーパーでガイドらが食料を購入した後、郊外の標高2250m地点にある登山口まで行った。車から荷物を降ろしている間に、地元の人が馬を3~4頭連れてやってきた。自分で荷物を運ぶと言うチェコ人学生を除き、各人の荷物と買出しした食料を馬に積み込み始めた。荷物は馬に任せ、靴も運動靴にして身軽になって馬より先に出発した。木の全く生えていない乾燥した土地だった。膝丈より低い草が多く生えていた。ロシア人のうちの一人の小太りの人は短パンにTシャツという出で立ちだった。私のニッカボッカを見て感心した様子で、「日本製か」と質問された。自分の腰に巻きつけた座布団代わりの発泡スチロールを示しながら「これはロシア製だ」と言っていた。一汗かいた頃、地元民のテントに着いた。看板には「Ararat Cafe」と記載されていた。アララット山は雲の中で見えなかった。絨毯の敷かれたテントの下で休みながら、すっぱいミルクをご馳走になった。
  • 再出発後、羊飼いのテントを数箇所通り過ぎて行った。アザミのような草が多く生え、葉っぱのとげが痛かった。標高2900mに地元の人のテントが何張りか有り一休みした。ここはガイドブルハンの家との事だった。ここにデポしてあったテントや寝袋を馬に積み込んだ。紅茶(トルコ語でチャイ)をご馳走になった。標高3200mのテント場を見送った後、一登りして目的の Base Camp (標高3350m)に着いた。広々したところだった。ツアー会社ごとに4箇所に分かれてテント村ができていた。我々は小規模ツアー会社のため、テントはこの日運んできた4張りだけだった。 Base Camp には湧き水からホースで水が引かれていた。ダンボール製のテーブルの回りに置いた石の椅子に座って車座になり、日本ではすっかり見なくなった角砂糖を紅茶(チャイ)に入れてビスケットを食べながらティータイムを取った。夕方になると晴れてきて雪をかぶった山頂が見えた。夕食は19時頃からで絞めたばかりの羊肉の煮込みと米だった。米は炊きあがった後、オリーブオイルを加えていた。ガイドたちはラマダンを守って我々が食べた後、19時半頃から夕食を食べていた。日が暮れると、ふもとのドウバヤズットやイラン国境の町の明かりが見えてきた。
  • 8月9日の朝は晴れだった。下から荷揚げの仕事のために次々と馬を連れた人たちが登ってきた。パンと紅茶の朝食を食べた後、行動食のパン、お菓子、ジュースをもらって High Camp までの高所順応のための往復に向かった。歩き出した頃はすっかりガスになっていた。すぐ上の別のツアー会社のテント村を通過すると、勾配が少しきつくなり尾根伝いの道になった。少し息苦しかった。標高3770m地点には季節によっては使用される小さめのキャンプ地が有った。更に少し登った左手には水流が有った。High Camp が近付くとガスが晴れてきて山頂が見えてきた。High Camp は前後に長く、標高の高いところと低いところでは100mほどの標高差が有った。小太りのロシア人はGPSを示しながら「まだ標高4150mだ」と質問したところ、ガイドのSaffet氏は「インターネットでは標高を丸めて4200mと紹介してある」との返事だった。High Camp は登頂を終えた人や、これから荷物を積んで下山する馬で混雑していた。一休みした後、ゆっくり下山した。途中の水流で顔を洗って汗を流した。Base Camp まで戻り、おやつを食べながらゆっくりした。「コーヒーが良いかティーが良いか」聞かれたので「チャイ」が良いと答えると、トルコ語の返事に喜んだSaffet氏に背中をポンポンとたたかれた。夕食は17時半頃からで、鳥のもも肉の煮込みでおいしかった。ガイドたちも、この日はラマダンはやめた様子で一緒に食事した。テントに戻って休んでいたら、炊事場のテントから女性の声が聞こえてきたのでのぞいてみた。一つ上の別のツアー会社のテント場からマケドニアから来たと言う20台の女性二人が遊びに来ていた。夜中、テントをがさがさ揺さぶられたので、びっくりして外を見ると、馬が3頭ほどテントの周りをうろついていた。
  • 8月10日、この日も朝は快晴だった。目の良いSaffet氏は「山頂付近に人が見える」と言っていたが、私にはさっぱり分からなかった。「今日は300人くらい登っていると思う」と言っていた。テントをたたみ、荷物を馬に積み込んで出発した。小太りのロシア人は少し調子が悪いとの事だった。ゆっくり登るうちに我々の荷物を積んだ馬に抜かれた。High Camp の下寄り標高4080m地点にテントを張った。同行の岡田氏はもう少し歩いてみるとの事で往復1時間半ほど登りに行った。私の方は調子が今一歩だったので、そのままテントで休んだ。夕食は4時半頃から牛肉の煮込みだった。あまり食欲が無かった。暗くなる前に横になった。深呼吸をしていないと頭が痛くなり熟睡できなかった。
  • 8月11日。0時起床。朝食はパンと紅茶だった。食欲は無かった。冬山用のジャケットとオーバーパンツを着込み、行動食のお菓子、ジュースをもらって1時過ぎに出発した。呼吸が苦しかった。ワンピッチ目で、このスピードではとても最後まで登りきれないと思った。小太りのロシア人は更に調子が悪そうだった。自分より調子の悪そうな人がいる事を良い事に、ペースを落として歩いた。30分に一回ほど休みながら登り続けた。休むたびにガイドに励まされながら登った。風が強くウールの手袋だけでは手が冷たかった。見かねたガイドがスペアの手袋を貸してくれたので助かった。他のグループより1時間近く早く出発したはずなのに次々と3パーティーほどに抜かれた。元気の良い女性の多いグループには「男だけのグループなのね」と言われながら抜かれた。日が山の反対側に登り、周囲が明るくなると、影アララット山が見えた。ザックを置いて写真を撮ろうとしたがピントが合わずうまくいかなかった。そうこうしているうちに、痺れを切らしたSaffet氏が私のザックを担いで登り始めてしまった。あわててSaffet氏の後にくっついて登って行き、次の休みでザックを取り返した。
  • すっかり明るくなってから、雪の斜面の一番下、残りの標高差200mの所に着いた。Saffet氏の指示でクランポンを付けた。付け終わって見ると、Saffet氏は小太りのロシア人がクランポンを取り付けるのを手伝っていた。「先に行くように」言われたので先に出発した。硬い雪面にクランポンの歯を利かせて登った。深呼吸のリズムが出てきたせいかようやく調子が出てきた。山頂手前で、すでに登頂を終えた元気の良いチェコ人学生たちとすれ違った。
  • 山頂は快晴だった。20人程の登頂者でにぎわっていた。足の早いSaffet氏もほぼ同時に山頂に着いた。強い風の避けられるイラン寄りに座って休んだ。町と反対側のせいか携帯は通じなかった。20分ほどして遅れていた小太りのロシア人も到着した。全員で記念撮影をした。一休み後、名残惜しい山頂を後にした。この日の登頂者は100人位いた。
  • 雪面の下りは硬かったのでゆっくり下った。少し頭が痛くなり出し調子が悪くなって来た。クランポンを外した後も頭が痛く、ゆっくり下った。4650m付近で、前を行くフランス人グループに引き込まれ間違ったルートを下ってしまった。100mほど横を下って行くSaffet氏に正しいルートを教えてもらって元に戻った。High Camp近くで高所順応で登ってきた人に「何か問題が有ったのか」聞かれたので「No problem」と答えたものの気分はすぐれなかった。「ストックはもう少し長い方が良い」などと余計なお世話を言われた。「短い方が軽くてよいんだ」と抗弁する気力もなく、そのまま歩き続けた。ようやく High Camp に着いた。紅茶とビスケットを出されたが、気分が悪く、食べる気力もあまり無かった。
  • High Campで休んでいるうちに体調は少し回復して来た。馬に荷物を積み込んで下山を開始した。ゆっくり下ったので、すぐに馬に抜かれた。Base Camp は、我々のテントを張ったところより上にある別のツアー会社のテント場で休んだ。お茶をご馳走になった。ガイドブルハンの家でもお茶をご馳走になった。この日は4日間で一番良い天気で、雲ひとつ無いアララット山が良く見えた。更に Ararat Cafe で休憩してお茶をご馳走になった。登山口にはすっかり暗くなってから着いた。
  • ドウバヤズットのホテルに着いたときは21時を過ぎていた。ラマダンの日没後でにぎわっている町に繰り出した。この日は大衆食堂で夕食を食べることにした。店の中に入るなり、いらっしゃいの挨拶が握手で始まったのでびっくりした。カウンターで好きな料理を選ぶ方式だった。飲み物も薦められた。並んでいるのはコカコーラやオレンジジュースなどのソフトドリンクだけだった。仕方なくトルコ語で「ス」と言って水を頼むと、トルコ語の返事にウエイターは大いに喜んでくれた。ミネラルウォーターで祝杯を上げた。
  • 8月12日。Saffet氏の手配した車に乗り込んだ。ロシア人達もちょうど車で出発するところだった。Saffet氏に見送られながら出発した。車は時速120kmのスピードで飛ばしていた。運悪く空港のあるAgri(アール)手前で交通違反でつかまってしまい、15分ほどロスした。空港で運転手とトルコ式挨拶、頬をくっつけ会う挨拶をした。頬をくっつけるときチュッとキスの音をさせるのが正しいやり方のようだった。
  • 翌日以降はカッパドキアとイスタンブールで観光をしてから帰国した。