共産主義(Kommunismus, communism)


                拓殖大学政経学部教授  大石高久


【テキスト】

A 「現実的生活がもはや私的所有の止揚つまり共産主義によって媒介されない、積極的な人間の現実性であるように、社会主義としての社会主義はもはや宗教の止揚によって媒介されない、現実的な人間の自己意識である。共産主義は否定の否定としての肯定であり、それ故に人間的解放と回復との、次の歴史的発展にとって必然的な、現実的契機である。共産主義はもっとも近い将来の必然的形態であり、エネルギッシュな原理である。しかしそのようなものとして共産主義は、人間的発展の到達目標、人間的な社会の姿態ではない。」(40-467)

B 「彼らおよびあらゆる社会構成員の生存諸条件を自らのコントロールに服させる革命的プロレタリアたちの共同社会の場合は、……諸個人はその共同社会に諸個人として参加する。これこそ、まさに諸個人の自由な発展と運動の諸条件を、自分たちのコントロールのもとにおく諸個人の結合(Vereinigung)に他ならない。」(広132-3)

C 「資本家的生産・領有様式、従ってまた資本家的私的所有は、自己労働に基づく個体的私的所有の第一の否定である。資本家的生産は一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生み出す。それは否定の否定である。この否定は、個体的所有を再建するが、資本家的時代の成果、つまり自由な労働者達の協働及び土地と労働そのものによって生産される生産諸手段に対する彼等の共同所有の上に、個体的所有を再建する。」(23b-995)

D 「もし連合した協働組合的諸組織が一つの計画に基づいて全国の生産を調整し、こうしてそれを自己のコントロールの下に置き、資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣[恐慌]とを終わらせることができるとすれば、−−諸君、それこそ共産主義、<可能な>共産主義でなくてなんであろうか!」(17-319,320)


【社会主義と共産主義】
 『ゴータ綱領批判』でマルクスは、資本家的社会と「それ自身の足で立った」共産主義社会の間に「私的所有を止揚した直後の、まだ母斑をともなった」過渡期があることを指摘した。レーニン以後、この過渡期は「社会主義」と呼ばれるようになる。しかし、この命名は必ずしもマルクスの真意を掴んでいない。『経済学・哲学草稿』によれば、「私的所有の否定」としての「共産主義」が私的所有の否定という媒介項を必要とするのに対して、もはやそうした媒介を必要としないものは「社会主義としての社会主義」と呼ばれているからである(テキストA参照)。

【マルクスの歴史的課題】
 マルクスと「フランスの社会主義及び共産主義」との出会いは、彼が『ライン新聞』の編集者であった1842年に遡る。この時の態度は、二面的であった。即ち、一方では「今日の姿における共産主義思想に対しては、理論的な現実性さえ認めておらず、従って、その実現はなおさら願っておらず、あるいはこれを可能とさえ考えることができない」としながらも、「特にプルードンの明敏な労作のような著作は、その時々の皮相的な思いつきによってではなく、長期にわたる、深遠な研究のあとで初めて批判できる」(1-108, 109)としていた。
 その後マルクスは、「物質的利害関係」に直面したことを契機に書斎に退く。その「物質的利害関係」とは、祖国ドイツで封建的所有との間で衝突を生み出しながら漸く成立し始めている資本家的私的所有が、先進国の英仏では「社会主義及び共産主義」の台頭という形で、その止揚を問われ始めていたことである。マルクスはそれを−−人類史が嘗て私的所有を必要とし、今やその止揚を必要としているという−−「私的所有の二つの証明」問題として受けとめたが故に、むしろ喜んで書斎に退いたのである。英仏が到達するであろう次の社会の原理(「人間的解放」)の水準にドイツは如何にして到達できるか、これこそマルクスが取り組んだ時代的課題であった。

【「唯一の人間科学」としての「経済学批判」体系】
 近代市民社会は富と貧困を生み出し、その各々は古典派経済学と社会主義によって代弁される。従って、書斎に退いたマルクスにとって、これら両者の一面性を超克し近代市民社会の両側面を概念的に把握することが彼の理論的課題となる。事実、それ以後の諸著作は全て、古典派経済学とフランス社会主義の両面批判となっている。
 この問題解決のための最初の取り組みが、ヘーゲルの近代市民社会止揚論である『法哲学』の批判であり、それはドイツ哲学一般の思弁性批判とヘーゲル市民社会止揚論の思弁性批判の二面から成る。前者は、人間を感性的存在としてしかも感性的活動として、つまり歴史的な社会的生産に即して把握すべきことを明らかにする。後者は、身分制議会をもって近代市民社会の止揚とするヘーゲル哲学の思弁性批判である。その内実は「経済学批判」体系である。以上から、マルクスの経済学批判は「人間的人間」の歴史的成立を概念的に把握する「唯一の人間科学」(40-465)としての性格を持つことになる。

【経済学的諸範疇の批判と弁証法的方法のための唯物論的基礎】
 『経済学批判』「序言」における「一般的結論」を、マルクスは「私の[弁証法的]方法のための唯物論的基礎を論じた箇所」と呼ぶ(23a-20)。その理由は、「一般的結論」は「土台ー上部構造」論の他に、生産諸力と生産諸関係との弁証法的関係が記されており、その基礎上に彼の「経済学批判(範疇批判)」体系が成立しているからである。
 つまり、こうである。資本家的生産・交通諸関係は生産諸力の一定の発展段階に対応した諸関係であり(歴史性ないし過渡性)、相互に支え合いながら一つの全体を形成している(統一性ないし有機性)。そうした資本家的生産・交通諸関係は総体として資本家的私的所有と呼ばれるものを形成するが、それらの理論的反映が経済学的諸範疇である。従って、経済学的諸範疇の歴史性と統一性(範疇相互の内的連関)の両面的把握(批判的叙述)を通して、資本家的生産・交通諸関係の歴史性と統一性が概念的に把握される、と。
 
【「社会的所有」概念】
 1 生産・交通諸関係の総体としての所有=領有
 『ドイツ・イデオロギー』は、所有形態は領有主体、領有対象、領有方法によって規定されると記している。これらの規定要因に即して言えば、マルクスの「社会的所有」は、「抽象的諸個人」が、「普遍的に発展した生産諸力」を、彼ら自身の「普遍的結合」を通して領有することである。以下この点について、簡単に説明しよう。
 「抽象的諸個人」とは一切の生産諸手段を剥奪され、自己の労働力を販売する以外に生活の術を持たない労働者を指している。彼らは個別に資本家と売買契約を結び、生産過程で資本家の指揮命令権能下にあるために、自分たち自身の社会的力である生産諸力を自分たちの力としてではなく、むしろ自分たちに対立する、資本の力として発揮する他ない。
 「生産諸力」概念は、「生産諸手段」だけでなく、それを使いこなす「労働者の協働(co-operation)」をその不可欠の契機として含む。生産諸力は「諸個人の交通と相互連関のうちにおいてしか現実的な力にならない」(広146-147)からである。
 「普遍的に発展した」生産諸力とは、資本家的生産様式の下で発展させられた世界市場規模の生産諸力である。それは人間の社会的諸力(自然及び他の人間と関係する能力)の普遍的発展である。その意味で、生産諸力と生産諸関係は社会的人間の二側面である。
 領有方法としての「普遍的結合」は、労働者たちの普遍的な相互連関としての普遍的な生産諸力を、「諸個人の結合、諸個人の自由な発展と運動の諸条件を彼らのコントロールの下に置くような結合」(広132-3)を意味する。1844年以降マルクスは、将来社会(人間的生産・交通諸関係)はこうした「Association」として描かれている。
 2 「人間的=社会的」と「共同的」
 「社会的」には、複数の人間による行為を意味する日常的な意味以外に、人間が名実共に人間の本質−−「類的本質存在」−−を備えた活動様式としての意味がある。この意味での「社会的」は、「人間的」に等置される。その一典型は、次の一節である。
「積極的に止揚された私的所有という前提のもとでは、……社会そのものが人間を人間として生みだすのと同様に、社会は人間によって生みだされている。活動と享受は、その内容からみても現存の仕方からみても社会的であり、社会的活動及び社会的享受である。自然の人間的本質は、社会的人間にとってはじめて現存する。」(40-458)
 確かに、分業と交換は活動と生産物の相互補完活動であり、人間に特有の活動、人間の本質の現われでもある。しかし、資本家的な分業と交換は、真に人間的な統合行為とはなっていない。この相互補完活動が、欲求、活動、生産物及び他人との関係の四次元において真に人間的な統合行為になった時、それは真に「社会的」活動と呼ばれるのである。
 3 個体的にして類的な生産・交通諸関係としての「社会的所有」
 以上の意味での「社会的(gesellschaftlich)」活動は、「共同的(gemeinschaft lich)」活動から明確に区別されている。「共同的」活動とは、同一時点、同一場所での、他人との直接的協働を意味する。しかし、「社会的」活動は、そうした共同的活動を含むとしても、それに限定されるものではない。例えば、次のような場合である。
「社会的活動や社会的享受は、けっして直接的に共同的な活動や直接的に共同的な享受といった形態でだけ実存しているものではない。……私が科学的等々の活動をする……場合でも、私は人間として活動しているがゆえに、社会的である。私の活動の素材が私に……社会的産物として与えられているばかりでなく、私自身の現存が社会的活動なのである。だから、私が自分から何かを作るにしても、それを私は社会のために自分から作るのであり、しかも社会的存在としての私の意識をもって作るのである。」(40-459)
 このように、個性の発揮としての個体的生活と、類的存在としての生活とが一致した状態が「社会的」活動なのである。従って、「社会的所有」は、生産の一定の在り方、労働者が自分達の社会的諸力を正に自分達自身の社会的諸力として発現するような、そうした生産・交通諸関係に他ならない。そこでは、土地その他の生産諸手段が当の諸個人に属することは当然だとしても、それが全てではない。否、それは前提でしかない。普遍的に発達した生産諸力を抽象的諸個人が普遍的に領有する「社会的所有」とは、活動及び生産物を媒介とした生産者たち自身の社会的交通の制御であり、それ以外ではありえない。
 この社会的所有は、人類史において次のような意義を持つ。即ち、人間が「社会的」に生産し、その生産物を「社会的」に享受しうるためには、生産と消費の運動が結果としてだけではなく、その出発点においても、欲求、活動、生産物、他人との関係の四次元で、「社会的」でなければならない。そうした人間的で普遍的な生産は、労働の社会性が徹底的に開発され、利用される資本家的生産様式を通して始めて、ただし転倒した形で、成立する。その意味で、資本は労働の社会性の歴史的発展の決定的通過点であり、「社会的」生活はその成立のために資本を必要としたが、今やその実現のために資本の止揚を必要としているのである。こうして資本家的生産・交通諸関係が人類史の中に位置づけられると同時に、「私的所有の二つの証明」問題も人間の社会的諸能力の発展史の中に位置づけられる。マルクスの近代市民社会止揚論は、経済学的諸範疇の批判(古典派経済学批判)であるが故に、ヘーゲル及びプルードンの市民社会止揚論の批判となるのである。

【マルクスとエンゲルスとの同一性と差違性】
 残念なことに、エンゲルスはマルクスの上記の知的歩みを共有しておらず、マルクスの哲学批判と人間学を十分理解することはなかった。その結果エンゲルスは、弁証法的方法のための「唯物論的基礎」を「唯物史観」に狭歪化することでそれと範疇批判との内的連関を裁ち切り、人間の全面的発達の問題を単なる生産諸手段の帰属問題に、文明の搾取の問題を経済的搾取の問題に還元することになった。勿論、「真のマルクス」像を再構築することで全てが解決する訳ではないにしても、マルクスの共産主義をマルクス自身の言葉で再構築する必要があることは疑いえない。

【関連項目】
社会主義、所有(=領有)、生産諸関係、生産諸力、アソシエーション

【参考文献】
有井行夫『マルクスの社会システム理論』有斐閣、1987年。
大石高久「マルクスとエンゲルスの社会主義論」『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』(マルクス・エンゲルス研究者の会)17号、1993年。
大谷禎之介「社会主義とはどのような社会か」『経済志林』63ー3、1995年。
尾崎芳治『経済学と歴史変革』青木書店、1990年。
田畑 稔『マルクスとアソシエーション』新泉社、1994年。