1999年度 大石ゼミ卒業論文

『原子力発電に関する一考察 
        ――崩れる安全性と経済性―― 』


                     拓殖大学政経学部経済学科
                        64024 阿部大輔

【目次】

はじめに

第1章 原子力行政を覗く

 第1節 世界の原子力行政
  第1項 原爆から原発へ
  第2項 世界における原発事故
  (1)スリーマイル島原発事故
  (2)チェルノブイリ原発事故
  第3項 世界の原子力開発の行方

 第2節 日本の原子力行政


第2章 原発偏重路線が招く危険性
 
 第1節 東海村核燃料施設臨界事故
  第1項 防護壁なき原子炉
  第2項 原子力行政への警鐘
 
 第2節 核燃料サイクルとプルトニウム
  第1項 高速増殖炉もんじゅ
  (1) もんじゅの事故
  (2) 国家プロジェクトの崩壊 
  第2項 核燃料の再処理
  第3項 プルサーマル計画


第3章 原子力政策の財源

 第1節 原発の予算

 第2節 電源三法

 第3節 交付金は街を潤すか

 第4節 原発の経済性


第4章 原発と環境問題
 
 第1節 温暖化と原発増設

 第2節 原発代替エネルギーは
  第1項 原発代替エネルギーのポイント
  第2項 コジェネレーションの利用
  第3項 太陽光発電の利用


第5章 脱原発に必要なもの

おわりに

<参考文献>

【本論】

はじめに

 今、日本のエネルギー政策、そして原子力行政について、そのあり方が問われている。日本の全ての国民が急いで問い直さなければならない。
 1999年9月30日午前10時35分、茨城県東海村にある核燃料加工会社「JCO」の施設で臨界事故が発生し、日本中を震撼させた。JCOの関係社員や近くのゴルフ場で作業をしていた人、消防職員等多くの被爆者を出し、東海村臨界事故は国内原子力関連施設では史上最悪の事故となってしまった。被爆者の数は更に増える可能性が高いことも指摘されている。1995年に起きた福井県にある高速増殖炉「もんじゅ」の冷却用ナトリウム漏れ事故。1997年に発生した旧動燃の再処理施設の火災・爆発事故。1999年7月に起きた敦賀原発の冷却水漏れ事故など他にも挙げればきりがないが、最近の日本における原子力施設での事故やトラブルは急増し、年々、その事故による被害の大きさが拡大していることが特徴にも思える。
 間違いなく、国民が日本の原子力行政について今一度考え直す時期が来ているのではないだろうか。チェルノブイリの事故はヨーロッパの国の人々にとって今も深い悲しみとともに「二度と繰り返してはならない」という教訓になっている。世界の中で日本だけが固執し、開発への一途を辿っている原子力行政の一体どこにメリットが存在するのか。
 21世紀を目の前に、前代未聞の臨界事故を起こしてしまった日本。
 電力会社が言う通り原発が安全なのか、それとも危険なものなのか。長い間問われ続けてきた原子力の安全性への答えは、東海村の事故が日本中、そして世界に知らしめるという結果になった。
 原発に「安全神話」など存在しなかった。
 では何故、国や電力会社はこれほどまでに原子力開発に拘るのだろう。日本政府、電力会社にとって、戦後、ひたすら求め続けた原発には一体どのような意味があったのか。
 本論文では、原発の危険性や問題点を明らかにすることで、日本の原子力政策について考察し、論じてみる。

第1章 原子力行政を覗く

 第1節 世界の原子力行政

  第1項 原爆から原発へ

 人類の歴史上、最大規模の戦争となった第2次世界大戦は広島、そして長崎における原爆投下によってその終止符が打たれた。1945年8月6日午前8時15分、テアニンを飛び立ったB29「エノラ・ゲイ」はウラン型原子爆弾「リトル・ボーイ」を広島上空に投下し、原爆は市の中心部の上空約580メートルで爆発した。爆発の瞬間、温度数百万度、圧力数十万気圧の火球が作られ、この火球は急速に膨張して、1秒後には最大半径230メートルに達し、2秒後まで特に強烈な熱線を放出しながら約10秒間輝きつづけた。1945年12月までの急性障害による死亡者数は、被爆人口約35万人のうち約14万人に達した。「リトル・ボーイ」はウラン235約600グラムが核分裂連鎖反応を起こしただけで、TNT(高性能火薬約)1万5000トンの爆発に相当するエネルギーを発生した。続く1945年8月9日午前11時2分、B29「ボックス・カー」が、わずか6キログラムのプルトニウムで製造されたTNT2万2000トンに相当するプルトニウム型原爆「ファット・マン」を長崎に投下。同じく12月までの死亡者数は被爆人口約27万人のうち約7万人に達した。わずかの物質(ウランやプルトニウム)を消費するだけで大量のエネルギーを得ることができる原子力は、原爆投下によって実質的に世界大戦を終結させた。しかし、同時にこの原子力の登場は世界を「核の時代」に突入させることになる。
 20世紀は石油の世紀と言われている。しかし20世紀における経済発展の原動力の役割を担ってきた石油は、無論枯渇性の資源である。その埋蔵量には限りがあり、今現在、可採年数は40数年と言われている。発展途上国における今後の自動車の普及は、ガソリンや軽油の需要を急増させ、原油の年間採掘量を押し上げ、可採年数を短くするのは確実と見てよい。他方、新しい油田の発見は確認可採埋蔵量を膨らませ、可採年数を長くする。可採年数の分母も分子も、その将来動向はいたって見極めがつきにくい。とは言え遠い将来、石油が枯渇すること自体は紛れもない事実と認められてきた。こうした現状認識を前提にして、石油に替わるエネルギーの開発に多くの技術者が取り組んできた。これが「原子力の平和利用」を前提とする原子力発電である。
 第2次大戦後、世界は東西冷戦によって、アメリカと旧ソ連を中心に競うように核開発に取り組んできた。核兵器を大量に作り、保持することでアメリカを中心とする西側諸国と旧ソ連を中心とする東側諸国で威圧し合っていたのである。
 その核・原子力開発において、原子炉で核分裂により発生する熱を利用して発電をしたのは1951年12月、アメリカのEBR1炉で、100キロワットの発電実験に成功した。原子力発電の登場である。続いて、1954年6月、旧ソ連のオブニンクス原子力発電所で5000キロワットの商業用原子力発電が始まった。そして1953年の国連総会においてアイゼンハワー米大統領の演説「アトムズ・フォー・ピース」によって、「原子力の平和利用」の名の元に、いよいよ世界各国における原発開発がスタートする。特に1950年代のアメリカではアイゼンハワー政権の原子力委員長だったルイス・ストラウスの「Too Cheap To Meter(原発の発電単価はあまりに安いので、メーターで料金を計る必要もない)」という言葉から判る通り、埋蔵量が有限である石油による火力発電よりも安くて将来性があるとされ、アメリカにおいては電力会社による原発建設のラッシュとなった。
 そして日本にもアメリカを通し、1957年茨城県東海村に国内初の原子炉が完成し、「原子の火」を灯すことになる。しかし、なぜアメリカは日本における原子力開発を認めたのだろうか。戦後10数年が経過していたとしても、アメリカは日本が核開発に乗り出し、ウラン燃料を扱い、プルトニウムを手にすることに再軍事化のきっかけをつくらせる不安はなかったのだろうか。当時の日本においてもすでに、エネルギー資源に乏しい日本では発電コストの安い原発をつくるべきだとする賛成派と、世界で唯一の原爆による被爆国である日本だから危険な発電技術は導入すべきでないとする反対派とに分かれていたという。やはり当初はアメリカ側も日本が原子力開発を行うことは再軍事化・核武装化に繋がるのではないかと懸念を抱いていた。
 1954年、中曽根康弘議員により「原子力予算案」が提出され、1ヶ月後には成立。翌1955年、日米原子力協定が結ばれた。この協定では日本で原発を作った場合、プルトニウムを取り出すことのできる使用済み核燃料はアメリカに返す予定になっていた。翌年日本に原子力委員会が発足するわけであるが、その時にはすでにプルトニウムを利用した核燃料サイクルの構想を長期計画で立てていたのである。そしてアメリカの協力の元、1957年東海村に日本初の原子炉が完成する。
 アメリカが日本の原子力開発を認めた理由の一つは当時の時代背景がある。東西冷戦が緊迫し、当時のアメリカはすでに旧ソ連よりも核兵器の製造量が劣っていた。旧ソ連に対抗しなければならないアメリカは日本を含む西側諸国の経済を潤す特効薬として、アイゼンハワー大統領の「原子力の平和利用」のもとに原発を西側諸国に普及させることを認め、世界での主導権を強化させることが目的だったのである。つまり、西側諸国の経済を活性化させ、旧ソ連を中心とする東側諸国に対抗するための手段として日本での原子力開発を認めることになった。
 日本で扱うプルトニウムは純度の低いものであり、原爆の製造、そして軍事化に結びつかないように当時のアメリカは取り計らっている。しかし1974年インドが核実験を行い世界を震撼させた。商業発電用の原発から取り出すプルトニウムでは原発は作れないはずという世間の考えをひっくり返したのである。つまりインドの核実験は原発から原爆を作り出せるということを世界に証明してしまったのである。原発は原爆になり得ることを世界が知る出来事だった。
 そして、「Too Cheap To Meter」な原発がたとえ「原子力の平和利用」の枠の中で進んでも人類の脅威となることを示した事故が起きる。1979年のスリーマイル島原発事故、そして人類史上最悪の事故となるチェルノブイリ原発事故である。原発の危険性がカタチになって現れたのである。

  第2項 世界における原発事故

  (1)スリーマイル島原発事故

 アメリカが「安全」で、「安く」て、「クリーン」な発電とされてきた原発建設ブームに湧きかえっている最中、1979年3月28日午前4時、スリーマイル島原発事故が起きる。スリーマイル島の原子炉は、給水ポンプの故障が引き金となって次から次へと異常事態が発生、やがて原子炉の内部がカラ炊き状態となった。原子炉のある建物とは別の建物の、2次冷却水といわれるところで、水を送り込むポンプが止まってしまったのだ。内部は一気に2815度の灼熱状態となって、ウランの燃料棒が溶け始め、同時に水素ガスが発生し始めた。一度は小爆発が起こり、あとわずか2パーセントの水素が存在すれば格納容器ごと吹き飛ばす致命的なガス爆発、という破壊的な状況を迎えながら、寸前で水素のコントロールに成功した。しかしその時すでに、原子炉の一部は分厚い鋼鉄製容器に穴があくという最悪の事態に突入していた(その穴は50センチにも達する大きなものであったことが、1987年2月に明らかとなった)。最もおそれられていた「メルトダウン」すなわち、ドロドロに溶け落ちた超高温の燃料がどこまでも地底に穴を掘り、地下水爆発を起こす事故になろうとしていたのである。燃料の70パーセントが溶けて、20トンもの燃料が原子炉の底に崩れ落ちたのである。事故発生の翌日から、内部にあった大量の放射性ガスが制御不能となって放出された。また原子炉そのものは今日まで必死のコントロールをしながら、内部は手つかずの状態が続いている。
 スリーマイル島の事故はひとつひとつを見れば小さな故障やトラブルが重なって、大事故に至ってしまった。スリーマイル島原発事故に関して、アメリカ大統領が任命した調査委員会は、1979年10月に報告をまとめ、事故の原因のひとつに原子力産業や規制当局の『「原子力は安全」という思い込み』がある、とした。むしろ原発が危険なものであるということを全世界に知らしめる結果となった衝撃的な事故である。「原発事故は10万年に一回しか起こらないだろう」つまり原発に事故はあり得ないとする専門家たちの考えに反してこの事故が起きたことは、原子力の危険性が明らかになる第一歩であったことは間違いない。しかし、スリーマイル島原発事故と比べものにならない規模の原発事故が起きる。旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故である。

  (2)チェルノブイリ原発事故

 1986年4月26日に旧ソ連のウクライナ共和国にあるチェルノブイリ原発4号炉でちょっとしたテストが行われた。旧ソ連に特有のRBMK(黒鉛減速軽水冷却沸騰水型)とよばれる原子炉である。原発の定期検査に入るために原子炉の運転を止めるときを利用してテストを開始した。本来であれば、別にテスト用の装置を作って行うべきテストである。しかし、運転中の原発を使ってテストをする方がコストがかからなくてよい、と考えたのだろう。これまでにも2回くらい行われていて、危険な実験だとは誰も思っていなかったのである。そのテストは、本当は原子炉の最大出力の20〜30パーセントのところで行われるはずだった。しかし、それがうまく目標の出力にすることができず、約6パーセントという低出力で実験を強行した。出力が低ければ原子炉の危険性は小さいかというと、そうではないのである。原子炉の状態が不安定になり、むしろ危険なのだ。とくにRBMKの設計では、余計に危なくなるのである。
 4月26日午前1時23分04秒にテストは開始された。原子炉の中を流れる冷却水の量が減り、水温が上がって蒸気の泡が出る。この蒸気の泡は、RBMKの原子炉では、出力を上昇させる働きをする。しかし、予想に反してどんどん出力が上がり始めたので運転員は慌てて緊急停止用のボタンを押した。これが、午前1時23分40秒。テストを開始してから36秒後である。核分裂を止める制御棒が原子炉の中に差し込まれて、核分裂は止まるはずだった。しかし、制御棒が効力を発揮して炉心の核分裂を止める前に、出力は更に急上昇したのである。制御棒が機能しなくなったのだ。原子炉の暴走である。午前1時23分44秒には、それまでの1600倍もの出力になった。わずか数秒の間に2度以上の大爆発が起こり、原子炉は壊れ、大量の放射能が2000メートルも上空に吹き上げられた。
 吹き上げられた大量の放射能は高く吹き上げられ雲となったため、爆発による直接の被害者は原発の運転員と発電所内の消防隊の隊員31名にとどまった。しかし、それだけ広い範囲に放射能を降らせることになった。マスコミはこぞって「地球被爆」という表現を使ったが、まさに地球全体に放射能の雨が降ったのである。気流に乗って、およそ8000キロメートルも離れた日本にも放射能の雨が降っている。原発周辺は30キロメートルにわたって人が住めなくなり、14万人が避難した。現在、事故を起こした4号炉はコンクリートで固められ、「石棺」と名付けられている。今でもその周辺では、異常な放射能を測ることができるのである。
 そして、チェルノブイリ原発事故から10数年を経ようとする中でなかで、だんだんと被害の大きさが目に見えるようになってきたのである。事故直後は消防士など31人が死亡したのだが、放射能の被害はそれだけでは終わらなかった。大量の放射能を浴びた人たちが数時間から数ヶ月のうちに亡くなった後、数年あるいは数十年も経ってから、ガンや白血病など様々な病気にかかる人が増えてくるのである。それが、放射能災害の最も恐ろしい点なのだ。ウクライナのチェルノブイリ原発で起きた事故による放射能の雲は、何回か風向きが変わるたびに、いろいろな方向に流れた。もっとも沢山の放射能を含んだ雲は、すぐ隣のベルラーシの方に流れ、さらにロシアに向かった。途中、雨が降ったところに、雨と一緒に放射能が落ちてきて、酷く汚染された地域(ホット・スポット)ができた。この事故で放射能に汚染されていないヨーロッパの土地はないと言われている。原発事故に国境が存在しないことを人類が知らされた。特に放射能に汚染された地域は、ベルラーシでは国土の30パーセント、ウクライナで7パーセント、ロシアで1.7パーセントに達し、汚染地域の面積を合わせると約16万平方メートル。日本の総面積の4割を越える面積が放射能で汚染された。
 被害者として国に登録された人の数は、ベルラーシで200万人以上、ウクライナでは約400万人、ロシアで約100万人で、合わせて約700万人ほどになる。国連の報告では、何らかの被害を受けた人の数は約900万人としている。ウクライナの保健省は1995年4月、被害者のうち12万5000人以上が、1988年から94年までの7年間に死亡したことを明らかにした。ベルラーシでも少なくとも同じくらいの人が死亡したと言われている。もちろん現在この数字は更に増加していることは間違いない。被害はこれから生まれてくる子どもにまで及び、胎児の染色体異常などで今現在も医師の勧告で中絶せざるを得ない状況が毎年400件にものぼっているという。
 身体に直接放射能を浴びる外部被爆とはことなり、自然界に放出された放射性物質が土壌や河川、田畑、そしてそこに住む動植物たちに食物連鎖によって蓄積され、最終的に人間の体内に運ばれる内部被爆も深刻である。ヨーロッパでは「30年ごとに放射能が半分ずつ減る」という極めて長い寿命の発癌性物質であるセシウムが、雨によって河川に流れ込み、ダムまで流れ着き、堆積した汚泥となり肥料として再び畑に散布されるという恐ろしい光景がヨーロッパ全土で展開しているという。
 人類が起こしてしまった史上最悪の事故がチェルノブイリ原発事故である。果たしてこれほどの事故がおきても原発関係者は「安全」と言い切ることができるのだろうか。

  第3項 世界の原子力開発の行方

 それでは、チェルノブイリ原発事故以後の世界の原子力情勢はどうなっているのだろう。チェルノブイリの事故は原発の危険性、その恐ろしさを世界に見せつけたことは言うまでもない。そしてこの事故は多くの人々の生命、健康、生活を奪ったばかりでなく、結果的に旧ソ連経済、そして国家を崩壊させるに至った。広瀬隆著『地球のゆくえ』ではこのように書かれている
「チェルノブイリの原発事故とアフガン侵攻がソ連の経済を崩壊させたことは、その直前に、ゴルバチョフの側近で、ソ連首相だったルイシコフが自ら明言したことであるから、間違いないところである。チェルノブイリ事故当時、筆者が『ソ連は崩壊する』と発言したとき、『あの人は頭がおかしい』といわれたが、本当に崩壊してしまった。これは、必然にすぎなかったのである。ソ連の場合は、経済が崩壊しただけでなく、チェルノブイリの事故によって、社会の膿が吹き出したという深い意味があった。当時の現地の人びと、特に農民を中心としたロシア人やウクライナ人の言葉に耳を傾けると、『嘘をつくクレムリン』という表現が、激しい怒りをもって、数え切れないほど語られていた。」(出典)。
つまりチェルノブイリの事故までは、ロシア国民はある程度クレムリンに対して、信頼を持っていた。それがあの時、事故が隠され、公式情報の嘘が暴露されただけでなく、肉体と食べ物に被害が出始めた怒りによって、精神的な崩壊が始まったことがソ連崩壊に結びついたというのである。原発が国家を崩壊させたとでも言うべきだろうか。広瀬氏は更に原子力産業と軍需産業、そしてウランなどの鉱山事業の結びつきについて指摘し、核兵器製造が原発事故によって土台を壊され、ソ連経済の崩壊に繋がったことも解説している。原子力発電の危険性、放射能による環境汚染、さらには大国ソ連の崩壊を招いたチェルノブイリ原発事故を世界の国々はどのような気持ちで見ていたのだろうか。
 チェルノブイリの事故の後、特にヨーロッパ諸国には国境を越えて放射能の被害に遭ったために「原発見直し」の意識が高まった。自然をこよなく愛する風習のあるスウェーデンではチェルノブイリ原発事故後、2010年までに国内にある12基の原発を廃棄することを決めた。電力のほとんどを原子力と水力が供給しているスウェーデンだが、風力発電などを開発しながら、時間はかかってもエネルギーを多消費する社会からの脱却を目指している。世界に先駆けて原発全廃政策を決めた最初の国である。そして、1998年10月、ついに1基目の原発廃止が議会において決議された。
 イタリアでも1990年6月の国会で全原発の廃止が議決されている。ほかにもデンマークやスペインなども計画中・建設中の原発を放棄したり、見送りしたりする動きが見られる。
 1998年10月には、スイス政府が稼動中の原発5基全部を一定基間後廃棄することを決めた。スイスの電力需要は原子力が40パーセントであり、比率で言えば30パーセント弱という日本よりも高い。それでも脱原発政策に取り組もうとする背景にはチェルノブイリ原発事故以来、スイス国民の反原発の機運が高まったことが挙げられる。
 そして同じく1998年、秋に行われたドイツ総選挙では、緑の党との連立によって社民党が勝利を治めた。社民党のシュレーダー首相は「20年から25年をかけて脱原発を目指す」と発言している。これに対し緑の党は「ただちに脱原発に着手。8年で国内原発をゼロに」と言っている。どちらにせよ世界の工業国であるドイツが、将来に向けて原発から手を引こうとしている姿勢を見ることができる。
 このように現在、世界の国々が脱原発政策へと動いていることは間違いない。世界最大の原発大国であるアメリカでさえ、スリーマイル島原発事故以来、新しい原発の受注は1基もないのである(第3章にて詳しく解説)。更にはアメリカ国内の原発の17パーセントにあたる21基の原子炉が閉鎖となっている。中には建設費にかかった負債を消却するために原発を売りに出すという話も出ている。その中にはスリーマイル島の原発も含まれている。しかし、仮に売れたとしても、売値は建設費の10分の1にも満たないという。
 では、日本ではどうだろう。チェルノブイリ原発事故後、日本で運転が開始された新しい原発は18基。この数は世界で群を抜いている。原子力発電の規模はアメリカ、フランスに次ぐ世界第3位となり、まさに「極東の核大国」となっている。この日本だけが固執する原子力開発の様子は欧米の人々の目にどのように映っているのだろうか。


 第2節 日本の原子力行政

 では、日本の原子力行政は一体どのようなものだろうか。結論から言ってしまえば、世界で唯一と言っても過言ではない原子力開発先進国となっている。世界の原発・原発開発の事情から考えると、世界中で脱原発の動きが表れている中で、それに逆らうかのように日本は原発・原子力開発推進の道を突き進んでいる。
 1953年にアイゼンハワー大統領が宣言した「原子力の平和利用」のもと、エネルギー資源に恵まれていない環境の日本にとって、「TOO CHEAP TO METER」と言われた原子力発電は絶好のエネルギー供給源になると期待されていた。更に日本における原発推進の姿勢に拍車をかけたのが言うまでもなく1973年、1979年の中東戦争によるオイルショックだった。1966年に東海原発が運転されてから、実に現在まで52基の原発が建設され実用化に至っている。世界唯一の被爆国である日本が原子力開発の勢いでは世界で3番目の原子炉の数を扱っているのである。だからといって、日本の原子力発電技術、そして原子力行政が完璧なものかというと、そのようなことは全くなく、むしろ沢山の問題点を抱えたまま原発推進の道を歩んでいる。更に近年では、原発動力炉の開発研究機関である旧動力炉・核燃料開発事業団(以下動燃、現核燃料サイクル機構)の高速増殖炉もんじゅの冷却用ナトリウム漏れ事故によるその後の情報隠し、虚偽報告などによる、原発を動かす側の人間の問題点。1996年に行われた新潟県巻町の原発建設の賛否を問う住民投票によって原発反対の人たちが6割りを超えていたという国民の原発に対する意識や1999年の東海村の臨界事故による国民の原子力開発への強い不信など、原子力発電、原子力行政への信頼性はむしろ低くなっている。更に大量のプルトニウムを保持することになる日本は海外からは批難の声が続いている。ここでは日本の原子力行政の問題点をいくつか覗いてみる。
 まず、原発推進の機関での中立性の問題がある。日本では原発の安全性については、電力会社やメーカー任せではなく、国が厳重に規制をしていると言われている。原発を建設するには通産大臣の許可が必要となる。許可の前の安全審査を行うのは通産相である(高速増殖炉のような、まだ実用化されていない原子炉の場合は、内閣総理大臣の許可が必要となり、科学技術庁が安全審査を行う)。安全性を確保するための対策が十分にとられているかどうかを審査するのである。そして、その結果をさらに、内閣総理大臣が委員を任命する原子力安全委員会がチェックした上で許可になる。二重に安全審査を行うことで、万全を期しているというわけだ。しかし、通産相にしても科学技術庁にしても、「原子力開発の積極的な推進」を掲げている機関である。つまり原子力開発を推進する側と規制する側が別々にはなっていないのだ。通産相でも科学技術庁でも、開発を推進する課と規制をする課は分けてあるから問題はないと言っている。推進と規制が別になったのは1976年1月のことで、それは1974年の原子力船むつの放射能漏れ事故による原子力行政への批判が高まったのがきっかけである。1956年に発足した原子力委員会が原子力委員会と原子力安全委員会に分けられたのは1978年である。しかし、原子力安全委員会の職員は、旧動燃や電力会社の研究者を含む科学技術庁の職員が事務を行ってきた。積極的な原子力開発推進を行う省庁が推進も規制も一手に引き受けているのである。つまり答案を書いた当の本人が採点に加わっているようなものであり、いずれにせよ、規制は、推進をスマートに行うための手段、との感を逸れない。アメリカでは原子力規制委員会があり、独自の職員がいて安全審査などを厳しく行える独立機関になっている。しかし本来であれば、原発の地元住民こそがチェックの主体であるべきではないだろうか。
 もう一つ、原発について地元住民の意見がまったく反映されず、住民の同意を得られていないということが日本の原子力行政の特徴ではないだろうか。新潟県巻町で1996年8月4日に東北電力が建設を計画している巻原発に、賛成か反対かを問う住民投票が行われている。88.3パーセントという高い投票率の中、有効投票数の61.2パーセントにあたる1万2478票が建設に反対。賛成は33.8パーセントの7904票だった。しかし、この結果について、国や電力会社は「これまでどおり推進の活動を続けることを止める法的な力はない」としている。現在でも計画は遅れているものの、巻原発は建設予定になっている。確かに住民投票に法的な力はないが、地元住民の意識がはっきりと示されているのは結果を見れば一目瞭然だろう。しかし、住民のほとんどが反対しても、国や県が賛成すれば原発は建設の道を進む。原子力開発は国家プロジェクトであることは間違いない。しかし、何よりも地元住民の意志、そして理解がもっとも尊重されるべきである。日本の原発偏重路線は国民の意志をほとんど聴くこともなく、理解も得られぬままにひたすら突き進んでいる。

第2章 原発偏重路線が招く危険性

 第1節 東海村核燃料施設臨界事故

  第1項 防護壁なき原子炉

 1999年9月30日午前10時30分、日本中を震撼させる原子力発電事故が起こる。「日本の原子力開発のメッカ」東海村の「原子の火」が人間、そして環境を襲った。茨城県東海村にある民間の濃縮ウラン燃料加工会社「ジェー・シーオー(以下JCO)」東海事業所内で国内原子力施設史上初の臨界事故が起きたのだ。臨界事故とはいったい何か。簡単な説明をさせてもらえば、ウランやプルトニウムなどの核燃料で起きた核分裂反応が周囲の核燃料に飛び火し、反応が続く状態を臨界と呼ぶ。原子力発電所では制御棒などを使って反応にブレーキをかけているが、人為的に制御できなくなって暴走するのが臨界事故である。
 原子力技術の開発初期には研究用の原子炉や濃縮度の高い核燃料を扱う軍事用施設で臨界事故が起き、作業員が被爆したこともあるという。普通の原発(軽水炉)で燃やす低濃縮燃料を加工する民間施設では起こりにくいとされ、80年以降は欧米でも民間の臨界事故は報告されていない。アメリカの核燃料加工の専門家は「技術開発の途上だった1950、60年代には米国でもしばしば起きていた。が、その事故がいま日本で起きたと聞いて驚いた」と語ったそうだ。
 これらのことから判ることは「原子力の平和利用」のもとで臨界が起こりうる場所は一つ、それは何重にも厚い壁で防護された原子炉の中である。しかし、事故を起こしたJCOは民間の核燃料加工会社であり、原子炉を運転しているわけではない。その作業棟で臨界事故が起きた。つまり、東海村の住宅地に突然、「防護壁の無い原子炉」が現れたのである。
 1999年11月上旬現在、JCOの作業員3名を含む69人が被爆者になってしまった。3名の作業員のうち2人は現在も強い被爆により重症となっている。今後、被爆者の人数は更に増える可能性が高い。
 臨界事故が発生した9月30日午後10時30分に、JCO東海事業所から半径10キロメートル圏内の住民に屋内退避要請が出され、東海村を含む9市町村、約31万人が屋内退避を余儀なくされた。政府が屋内退避解除の見解を出したのが10月1日午後3時。そして、臨界状態が終息し、県が屋内退避を解除したのが午後4時40分。更に事業所から半径350メートル内の住民に避難解除が出されたのが2日午後6時であり、実に51時間半も放射のに怯えながら屋内退避をせざるを得なかった。この間、東海村、その周辺市町村は厳戒態勢となり、何もかもが止まった。現場近くは防護服で身を固めた警察官、防衛庁の科学防護隊まで出動している。日本中の原子力関係者、関係機関、政府、マスコミ、そのすべてがパニック状態に陥った。最も不安だったのは詳しい事情を聞かされることのなかった周辺住民だっただろう。
 臨界を抑えるために専門家チームが下した決断は高い放射線量を示す転換試験塔にJCO従業員が入れ替わり近づき、ウランの入った沈殿槽の冷却水を抜くという原始的な方法だった。ウランが核分裂を繰り返している沈殿槽の周りを流れる冷却水がなくなると、中性子が沈殿槽の外に飛び出すため、核分裂を繰り返す臨界は止まる。それが作業のもくろみだった。臨界は終息に至ったが、もちろん水抜きを行った作業員は被爆している。事故後、10月18日の毎日新聞での論説委員の横山氏と原子力安全委員長である佐藤一男氏の対談において、横山氏の「沈殿槽の冷却水を抜くことによって臨界が終息するという確かな見通しはありましたか。」という質問に対し、佐藤氏は「水を抜くと臨界終息の可能性があることを研究者が計算で示したが、確信がなくてもやらざるを得なかった。それでも臨界が継続したら、決死隊が飛び込んでホウ酸をぶち込むとかの手段を講じる必要があると考えた。未臨界になれと祈るような気持ちだったので臨界を脱した時は『よかった』の一言でした。」と答えている。専門家にとっても初めての臨界事故であり、事故の対処方法に確信がなかったことが判る。
 日本原子力研究所による事故後の分析の結果、この臨界事故で核分裂を起こしたウラン235原子核の数が1兆個の250万倍ということが明らかになった。この数字は世界で過去20件発生している核燃料施設での臨界事故と比べても最大の部類に入る。臨界状態が20時間も続いたというのも史上3番目に長い臨界事故になるという。
 一体、この事故の原因はなんだったのか。時間とともにその実態が明らかになってきた。作業員の人為ミス。そして、その作業員を管理する側にあたる会社、そして原子力委員会等原子力開発推進機関の安全管理体制の欠陥である。
 では、まず作業員の人為ミスとはどんなことか。端的に言えばウランの加工過程における違反作業である。事故後2日経た10月2日の朝日新聞朝刊の記事から抜粋してみる。「JOC東海事業所は1日夕の記者会見で、『最終工程近くにあるステンレス容器内のウラン溶液を、何段階か前の工程の沈殿槽に戻し再注入するという手順違反を犯した。しかも、その際に注入量を調整するポンプを通さず手作業で一気に大量に入れたため、臨界状態になった』と発表し、これまでの説明を事実上、是正した。事故時のこの作業はふだんより濃縮度の高いウランを扱う高速実験炉『常陽』用の燃料材料の製造だったことも、臨界を招く条件となったとみられる。1日朝の記者会見では『原料のウラン酸化物から硝酸ウラニルにしてウランを精製する作業で、機械操作で投入量を調整する工程を経ずに、作業員がステンレス製の容器を使って手作業で大量のウラン溶液を入れたため、沈殿槽内のウラン濃度が高まり、臨界状態が起きた』と説明していた。同社は、この際に『ステンレス製の容器を使ったことは許認可違反だった』などともしていたが、ステンレス容器は通常使うもので、この説明自体が間違っていたという」(以上抜粋)。
何と、核燃料を加工する工程において、知っていながら違反作業をしていたのである。更にこの記事の中で出てくるステンレス容器というものが普段使っているステンレス製の「バケツ」だったという恐ろしい作業内容も発覚する。この作業の過程臨界事故に直接繋がったのは、ウランの注入量の上限が2.4キロとされている沈殿槽に、手作業で約16キロものウラン溶液を流し込んだことに始まる。上限のおよそ8倍である。素人の発想でもその危険性は察知できるが、作業員はその専門技術者である。核の恐ろしさを誰よりも知るはずの作業員が、知っていながら行った違反行為。しかも、被爆した3人の作業員のうち、比較的症状が軽かったリーダー格の副長は、茨城県警の事情調査で「早く仕事を終えたかったので、工程をはぶくように2人に指示した」と供述。住民31万人に死の恐怖を味わせてしまった臨界事故の発端の理由が「早く仕事を終えたかった」である。この供述を東海村、周辺地域の住民の人たちにどのように聞こえるのか。JOCによると、ウランの加工作業に沈殿槽を使うと、正規工程では3時間かかる作業が、約30分に短縮できると言う。これは人為的ミスというよりも、むしろ手抜き作業と言った方が良いかもしれない。原子力に携わる技術者が手抜き作業をしていたということは、住民の、人間の命の管理を手抜きにしていると言っても過言ではない。一体、どういうつもりで、どのような教育をしながら会社は運営されてきたのか。
 更に驚くべきことに、JCOではこの「バケツを使った作業」は文書化されて「裏マニュアル」となっていた。マニュアル自体が不法なものだったのである。少なくとも1996年11月に改訂された社内マニュアルには明記されている。現場の責任者であった核燃料取り扱主任者は、それが国に届けた正規の手順から逸脱していることを知っていたらしい。主任者は、見直しの必要があるのに「忙しさ」から放置したことを認めた。ウラン燃料の製造では、ウラン粉末を溶解に溶かす作業が必要だ。高さ2.2メートル、直径15センチの溶解塔というタンクを使うが、配管の底に液が残ってしまい、量がわずかに減ってしまうことがあった。JCOの作業員らは、ウランがスプーンでかき混ぜただけで、溶けることをしっていた。ゴム手袋にマスクをつければ、「そんなに危険ではない」と感じた。「手元だと作業がやりやすいし、濃度も正確に調整できた」と社員の1人はいう。容量約18リットルのステンレス製バケツは職場に欠かせない小道具となっていた。「バケツに入れて、スプーンでかき混ぜれば、簡単にできる」。作業員が現場で「工夫」を思いついたのは10年前だった。そこには全く安全性への配慮も何もない。自分たちが扱うものの危険性、重大性に気付いていなかったのだろうか。しかし、これがJCOでのマニュアルとなっていた。もちろん公然とした場では違反作業である。しかも核燃料取扱主任者はそれを放置。JCOの首脳たちも黙認していたのである。扱う燃料も恐ろしいが、それを扱う人間の発想も恐ろしい。事故が起きた時では遅いのである。被害は一般住民が被るのである。1995年のもんじゅのナトリウム漏れ事故、1997年の東海村核燃料再処理施設での火災・爆発事故。ともに事故そのものの危険性の問題と、更に旧動燃の情報隠し、虚偽報告が問題になった。今回もまた、原子力に携わる人間のモラルの問題が関わってきたのである。2度あることが3度あったのである。もはや国民は3度目で終わるとは思っていないだろう。
 「バケツ」の習慣化がなければ事故は起きていなかった可能性が高い。溶解塔は構造上、溶液は配管から自動的に貯塔に流れ込む。臨界事故を起こした沈殿槽には手作業でも流し込めない。しかし、3人の作業員は「裏マニュアル」まで無視して、沈殿槽のこぶし大の監視窓から大量の溶液を注ぎ込んだことが分かった。臨界を起こす量に達した瞬間、「青い光」が走った。JCOの小川弘行・製造部計画グループ長は「バケツの習慣化がなければ、事故は防げたか」と問われて、こう応えた。「ちょっとした変更が、間接的に大きな事故につながった。その通りかもしれません」。「ちょっとした変更」が、日本最大の原子力事故の惨事を招いた。違反作業は違反のマニュアルの上に成り立っていた。
 JCOは住友金属鉱山の100パーセント出資子会社である。住友鉱山は1973年からウラン化合物の精製や核燃料製造を始め、1979年に「日本核燃料コンバージョン」として分離、独立させ、1998年8月に社名をJCOに変更した。
 人的にも親会社との関係が深く、歴代社長は住友鉱山出身者で、管理部門の幹部には同社出身者がズラリと並ぶ。木谷社長は今年6月に同社の常務から就任し、越島健三東海事業所長も1980年にJCOに移った。高木俊毅前社長は通産相立地公害局長から住友鉱山常務へと「天下り」した後、1995年6月にJCO社長(当時核燃料コンバージョン)に就任していた。無許可のステンレスバケツを使った違法マニュアルは、高木氏が社長だった1996年に作成されていた。高木氏はJCO社長の辞任後に就任していた通産相所管の特殊法人「金属鉱業事業団」の理事長を10月8日に引責辞任している。事故の責任を感じての辞任ということだろう。しかし、事故をおこした原因の違法マニュアルを黙認していた前社長という立場なら、辞任というかたちで逃げずに徹底的に事故の解明に協力し、被害を受けた住民への謝罪、補償の為に全力を尽くすべきだ。逃げたところで、それは解決になりえないはずである。JCOは、国内で加工している原発用ウラン燃料の約4分の1にあたる年間200トンを処理する一方、事故が起きた転換試験塔では、高速増殖炉で使用する高濃度ウラン燃料を生産していた。事故は高速増殖炉『常陽』で使うウラン燃料の加工過程で起きている。しかし。受注は不定期の上、電力会社からのコストの削減圧力、海外メーカーとの競争もあった。
 社員は1991年の162人から昨年は110人に減少。売上高は1993年の32億7600万円から昨年は17億2300万円にダウンし、衆院では木谷社長は「海外との競争で厳しかった」と答弁している。しかし、JCOが扱い、製造しているものは核燃料である加工ウランである。普通の企業と同じ考えをもって、コストと時間の削減による手抜き作業は絶対に許されない。原子力開発に携わる技術者としてのモラルが問われて当然だろう。
 では、この東海村臨界事故による問題点は何だったのか。事故による被害に視点を向けて、事情を考察する。

  第2項 原子力行政への警鐘

 日本原子力開発上最悪の事故となった東海村臨界事故。この事故によって明らかになった問題は何だろうか。ドイツでは東海村臨界事故をチェルノブイリの次の深刻な事態と受けとめ、各新聞に「謝るより、まず対策を」の見出しが並んでいる。「原発は危険である」という事実はもちろんはっきりしていることである。「事故が起きてからでは遅い」という感覚をすべての人が持たなければいけない。しかし、原発事故においては常に「起こしてしまってから対策を立てる」ことになってしまう。今回の事故もそうである。ここでは具体的にこの事故により明確となった問題点をひとつひとつ考えてみたい。
 まず一つに事故後の避難対策がまったくと言って良いほど機能していないことが挙げられる。あまりにも安全・防災対策が疎かではなかっただろうか。JCOで臨界事故が発生したのが9月30日午前10時35分頃である。しかし、東海村が現場周辺350メートル圏内の住民に避難を要請したのは、事故発生から4時間半近くたった午後3時。避難が本格化したのは午後4時頃だ。更に現場から半径10キロメートル圏内の住民(10万7000世帯、約31万人)への屋内退避要請が出されたのが午後10時30分。臨界が起きてからおよそ12時間後のことである。この間、住民は普段と同じように生活している。特に臨界事故現場350メートル圏内に居た住民は大量の放射線を放出している工場を目の前に4・5時間もの間、何も成す術がなかったのである。あまりにもお粗末な結果になった。
 「総合体館 3793平方メートル、1839人」、「東海南中学 7116平方メートル、2014人」。東海村が原子力事故に備えて1985年にリストアップしたコンクリートでできた避難所の広さと収容人数の一覧である。村民約3万4000人に対し合計収容人数は計2万870人。当時(85年)でも全村民を収容しきれない。この計画では住民が村外に避難する場合、村のバス5台と原子力関連施設のバスを輸送手段としていた。村の防災担当者は「バス会社と契約しても原発事故の場合、誰が運転するのか。今回も期待できなかった」と話し、輸送計画欄は空白のままだったという。
 言うまでもなく東海村は「原発の街」である。日常的にも防災対策はとられているはずである。しかし、この事故の前に防災対策は何も役に立つことがなかった。政府・電力会社は原発・原子力施設について口をそろえて「安全」と言い切っていたはずである。しかし、現実はこのとおりである。現場付近の住民に対する配慮は2の次となってしまった。原発はもはや安全でもなければクリーンでもない。危険であるということを認識して、徹底的な防災対策、防災訓練が求められるし、政府、電力会社、関連企業、そして自治体も「安全性」ばかり主張せず、「危険なもの」との認識を普段から持ち、事故が起きたときの避難・対応までを住民と一緒に全力で尽くすべきだ。
 もう一つ問題となったのは被爆者への処置である。原発問題特有の情報公開が上手くできない習慣が今回の事故でも出てきてしまった。正しい情報が最も必要とされる住民に伝わらず、いつまでもクリアにならないのである。この論文を書いている1999年11月現在、臨界事故による被爆者は69名とされている。このうち、JCOと関わりのない一般住民は7名。JCOの施設の隣にある工場で働いていた人たちである。しかし、更に被爆した住民の数が増える危険性が出てきた。この被爆したとされる69名は事故直後に核燃料サイクル・開発機構でホールボディカウンターという特殊な測定装置で身体に浴びた放射線量を測っている。しかし、ほとんどの一般住民は事故後5時間以上経過してから東海村のコミュニティセンターで放射能測定をしているのだが、ここでは人の身体の表面に放射性物質が付着しているかどうかを調べることができるのみで、核分裂が起きた時に放出される目に見えない中性子線やガンマ線といった放射線をどれだけ浴びたのか測定していなかった。ここが被爆したとされる69名との測定過程の違いである。コミュニティーセンターで「大丈夫です」と係りの人に言われたとしても、それは身体に放射性物質が付着していないことだけであり、中性子線を浴びてしまったのかどうかは計測できていなかったのである。住民の不安は日ごと募っている。
 事故後1ヶ月以上経った11月4日、科学技術庁は臨界で放出された放射線の推定量を原子力安全委員会に報告した。東海村が半径350メートルの住民に避難要請した1時間半後の9月30日午後4時までの積算の被爆線量は、現場から半径80メートルで110ミリシーベルト、350メートル離れても1.4ミリシーベルトと推定され、一般人の年間許容線量(1ミリシーベルト)を上回っていた。この時点で臨界事故の発生を知る前に被爆した一般住民が今後増えることは間違いないだろう。原子力安全委員会、科学技術庁は被爆したと判明されている69人以外にも被爆者がいないかどうか、放射線の健康被害に詳しい専門家10人で構成する健康管理検討委員で、長期的な健康調査に取り組むことにするらしい。事故後1ヶ月が過ぎての報告である。あまりにも遅過ぎるのではないだろうか。69名のうちの一般住民である7名はこの時初めて自分たちの被爆線量を知らされた。「大丈夫」、「すぐに健康に影響がでるような数値ではない」と言われていたにもかかわらず、放射線の年間被爆量をはるかに超えてしまう数値に驚きを隠せない様子である。事故が起きて、世間の大半が注目したのは事故の原因、そしてJCO、その親会社住友金属鉱山、科学技術庁など原子力行政側への責任追及だった。しかし、最も迅速に対処するべき問題は被爆者の手当てではなかっただろうか。ホールボディカウンターで被爆放射線量を知らされたのは住民のごくわずかの人たちである。それ以外の住民は1ヶ月も後になってやっとその被爆線量の数値が明らかになりつつあるというのは、住民を後回しにしているように思えてならない。ドイツの報道機関が警鐘していたように「謝るよりまず対策」である。事故が起きてからでは遅いという認識を持たなければ、被害は常に原発地元住民に及ぶことになる。
 そして「災害弱者」になる障害者への対策はどうだったのだろう。屋内退避要請の出た10キロ圏内には知的障害者・重症心身障害児の福祉施設や共同作業所、精神病院など計27施設に約1500人が入所・入院している。茨城県障害福祉課は30日午後4時すぎに施設への安否確認の連絡を始めたが、厚生省障害保健福祉部から「情報入手が困難な障害者に対する情報提供に万全を期すように」という指示が届いたのは約7時間後の午後11時30分。県が東海村の周辺9市町村や社会福祉協議会に連絡するまでに半日以上かかった。県障害者福祉課の山本一典課長補佐は「庁内も情報が錯綜した。対処遅れへの批判は真しに受け止めないといけない」と話している。災害弱者が情報から孤立しないための対策も課題として残ったのである。事故時の迅速で正確な情報の伝達が求められるというのは住民の命に関わることなのである。
 十数年前、村議だった元原研職員の坂本正誠さんが当時の村長に「原発事故で全村民が避難することを想定するべきだ」と迫ったところ、村長は声を荒げて反論した。「そんあことをしたらパニックになって2次災害が起きる」、「防災計画を突き詰めたら、何も実行できないことが分かる。でも、それを声に出しては言えないのが東海村なんだ」と。事故から1ヶ月が過ぎ、村上村長は「今後は全村民の避難という事態も想定しなければいけない」と、防災計画を見直す方針だ。
 多くの一般住民を巻き込んでしまった臨界事故を東海村の人たちはどのように感じているのだろうか。以下毎日新聞「事故から1ヶ月で思うこと」からいくつかの抜粋である。

●不動産会社社長の渡辺勇一さん(55)
 安全、安全と念仏のように言い続けるのではなく、危険だという認識で対策を考えるべきだ。
● 農業、伊藤稔さん(70)
 干しイモが売れなければ数百万円もの被害がでる。農機具のローンが払えなくなる。
●会社員、尾又徹さん(45)
 どのぐらい放射線を浴びたのか。将来に影響があるのか。子供たちが心配だ。安全というが、何を信用していいのかわからない。今は恥ずかしくて東海村の住民とは言えなくなった。
●サービス業、男性(60)
 「安全」と言う言葉に村ごとだまされていた。日増しに怖さが分かってきた。息子に嫁が来なかったら、どう補償してくれるんだ。土地を買い上げてもらいたい。こんな所には居られない。

住民は普段の生活を取り戻しながらも、不安は心から消えない。「原子の火に生きる」と村民憲章にうたい、原子力を誇りにもし、寛容でもあった村人は不安の中で、怒り、落胆し、あきらめて、苦く複雑な思いを交錯させている。
 そして更にもう一つ浮かび上がった問題点は事故を起こしたJCO、その親会社である住友金属鉱山、そして原子力開発を管理する科学技術庁をはじめとする行政側の組織の問題である。まずJCOに100パーセント出資している住友金属鉱山の親会社としての責任に経済界の関心が集まっている。JCOは住友金属鉱山本体の一部門が全身であり、管理職もほとんどが親会社からの出向者や現職幹部で占められているからだ。事故直後は全面的な協力を約束していた住友金属鉱山が、次第に「JCOは孤立した法人。親会社は法的には賠償責任がない」と姿勢を後退させ始めた。住友金属鉱山は事故翌日の10月1日の記者会見で、青柳守城社長が「全面的にバックアップする。できる限りのことをしたい」と表明していた。ところが、5日の記者会見では、須藤晃一専務が「道義的社会的な責任はある」としながらも、「法的には賠償責任はない。すべてを法的なものを根拠に支払わないという訳ではないが…」と話し、態度が揺れ始めた。更に7日には、住友金属鉱山は核燃料事業から撤退する方針を固めた。原子炉等規正法に基づき科学技術庁がJCOの事業許可を取り消す方向が固まり、将来の再認可も困難とみられることから事業再開は難しいものと判断したという。しかし、そこにはどうしても責任逃れの感が否めない。果たして事故の責任はどこにあるのか。江頭憲治郎・東大法学部教授は「会社制度としては、子会社の責任。それで済まない場合は、保険で担保するというのが制度の趣旨なのだろう」と指摘する。ところが、その原子力損害賠償責任保険では、JCOのような加工施設について、保険額が低めに抑えられているのが実情だ。保険で賠償される限度額は、大規模な原子力発電所の場合は300億円だが、JCOなどの加工施設の場合には10億円になっている。一方で、実際の被害額については「風評被害なども含めると1000億円を超えてもおかしくない」(茨城県庁関係者)との見方もある。10億円を超える部分については、国の援助を受けられることもあるが、基本的にはJCOが負担しなくてはならない。しかし、JCOの総資産額は44億円にとどまり、巨額の賠償には耐えられそうもない。経済界では、住友金属鉱山の親会社としての責任について、突き放した見方が多い。今井敬経団連会長は4日の会見で「産業人として考えられない事故だ」と最大級の表現で管理責任の問題を示唆した。また別の経団連首脳も「JCOに対する発注は、住友金属鉱山という親会社の名前があったからこそ、信頼していたはずだ」と指摘、親会社の賠償責任を当然視している。
 そして次に科学技術庁、原子力安全委員会など行政側には問題はなかったのだろうか。原子力開発が国家プロジェクトである以上、たとえ民間の核燃料工場であったとしてもJCOの安全管理に不備があったことは行政側の監視の甘さにも責任があると考える。確かに原子力産業界の中では、燃料製造の工程はマイナーな分野である。「コストをかけて、立派な防護施設や安全システムを作り上げるような分野ではない」という意識が、原子力産業界にはあったのではないか。多数の被爆者を出してしまった以上「死角だった」は言い訳にならない。ウランは原爆の材料プルトニウムの原料である。もちろんウランから直接原爆を製造することも可能である。つまり誰でも扱える物質ではない。行政は徹底的に安全管理をしなければならないのではないだろうか。科学技術庁、原子力安全委員会が見落としていたJCOの問題点は余りにも多い。違法作業、裏マニュアル、安全管理に関わるモラル的な教育、そして事故当時の防災対策、住民の避難対策の甘さなど、細かい点が事故の規模をここまで大きくしたのである。原子力開発の推進と規制を科学技術庁が一手に引き受けている現在の原子力行政は危険としか思えない。上述した村民の声にもあるように「安全」という言葉だけではもはや住民は納得も理解もできないだろう。危機管理の世界には『ネバー・セイ・ネバー(決してないと決して言うな)』が原則である。この原則は現在の日本の原子力政策には全く反映されていない。
 「原子力の村」の誇りは、怒りと不安に変わった。


 第2節 核燃料サイクルとプルトニウム

  第1項 高速増殖炉もんじゅ

  (1)もんじゅの事故

 日本の原子力開発の目指しているものは核燃料サイクルの確立である。ウランを使って原発で発電。更に使用済み核燃料を再処理工場で再処理する事でプルトニウムを取り出し、高速増殖炉でプルトニウムを利用し、更に使った以上のプルトニウムを生産、再び燃料として利用するプルトニウムのリサイクルである(図−1)。資源弱小国の日本にとって、準国産エネルギー源となり得るプルトニウムの利用、核燃料サイクルは日本の原子力開発当初から重要視され、特にプルトニウムを増やす高速増殖炉は、燃やした量よりも多くの燃料を作りだ出すことから「夢の原子炉」とされ、国家プロジェクトとしてその開発に力が注がれた。しかし、この高速増殖炉の開発は技術的に容易なものではない。開発には4段階あり、実験炉→原型炉→実証炉→実用炉という工程を経てやっと営業運転を開始できる。
 そして何と言っても、通常の原子炉と異なるのはウランではなくプルトニウムをその燃料として扱うこと、そして炉心の冷却にナトリウムを使うことである。普通の原発では、水を使って炉心を冷やすのであるが、高速増殖炉では、プルトニウムを効率良く増やすために水が使えないのである。増殖を成り立たせるためには、燃料が燃えるときに飛び出す中性子の量を多くし、燃えないウラン(ウラン238)に吸収される中性子の割合を多くする必要がある。普通原発では、核分裂を起こしやすくするために、中性子のスピードを落として燃えるウラン(ウラン235)の原子核にぶつけるだが、高速増殖炉では、増殖という目的を重視して、高速のまま使うのである。高速増殖炉の「高速」というのは、増殖のスピードが高速と言うのではなく、高速の中性子を使うことを指している。そして、水を使うと、中性子のスピードを落としてしまう。そこで高速増殖炉では、水のかわりに金属のナトリウムを高温で液体にして使うのである。しかし、このナトリウムには、水や酸素と爆発的に反応して燃える性質があり(実験映像を見る限り、素人目には「反応」というより「爆発」に見えてしまうが)、高速増殖炉の危険性は以前から指摘されていた。しかし、平成10年度分をだけでも日本は核燃料サイクル関連予算として約1500億円という莫大な費用を使っている。国策である高速増殖炉の開発には膨大なコストとリスクを伴っているのである。
 日本では1977年に実験炉である高速増殖炉「常陽」が臨界し核燃料サイクルの開発はスタートする。そして1994年、「常陽は一度も事故を起こさなかった」という看板を引っさげて、原型炉である高速増殖炉「もんじゅ」が臨界。しかし結果は記憶に新しい臨界後間もない1995年12月、もんじゅのナトリウム漏れ事故を起こしてしまう。1トンものナトリウムが配管から漏れ、火事になった。漏れたナトリウムは空気中の水分や酸素と激しく反応して燃え、空調用のダクトの亜鉛鉄板が焼け落ち、鉄製の作業用足場に人間の頭くらいの大きさの穴が開いた。ナトリウム化合物が周辺に雪のように積もったほか、煙となって上下5つのフロアの約4000平方メートルに充満するという事態を起こしたのだ。結果として、もんじゅの事故は、大量の放射能が放出されずに済んだことが不幸中の幸いだった。原発反対派の人たちの中には、あらかじめ高速増殖炉もんじゅの事故を予測し、重大事故を引き起こすこ危険性を警告している人がたくさんいる。高速増殖炉は危険を承知の上での開発だったのではないだろうか。もんじゅの事故により日本の高速増殖炉の計画は今現在でもメドが立っていない。日本の核燃料サイクル開発において、もんじゅの事故は致命的だった。この事故で国民の原子力開発に対する不安や不信はピークに達した。しかし、政府の核燃料サイクル並びに高速増殖炉の開発への姿勢は一向に変わる様子が無い。
 では、世界において、核燃料サイクルや高速増殖炉の開発はどうなっているのだろう。まず、日本が手本にしていたのが、世界で2番目の原発大国であるフランスの高速増殖炉「スーパーフェニックス」だった。しかし、度重なるトラブルからその危険性を察知し、更に経済性が無いことなどから、フランス政府は1997年までにスーパーフェニックスの運転を停止し、高速増殖炉の開発から手を引いている。世界最大の原発大国アメリカも原子力開発の早いうちに、経済性の問題から高速増殖炉かた撤退。イギリスも同様に実験炉の段階で閉鎖を決定。ドイツも経済性の無さ、そしてその危険性からの国民の反発により、高速増殖炉から撤退している。スイスにおいてもやはり高速増殖炉開発から撤退する方針を固めているのである。
 もはや世界中を見渡しても、高速増殖炉の開発に意気込んでいるのは日本のみである。しかも、世界各国が高速増殖炉から手を引く理由となっている経済性の無さ、危険性、といったことは日本においても同様なのである。もんじゅのナトリウム漏れ事故で示された危険性。そして1967年に、見積もりで350億円の建設費とされていたもんじゅは、現在までに6000億円を超える費用を国から出資させている。通常の原発を建設するおよそ6倍の費用だ。しかも実用化のメドは遥か遠く、様々なトラブルなどから営業運転が可能になるのは非現実的に思える。まさにムダな出費という感が否めない。原発推進である電力会社ですら日本の高速増殖炉の開発には消極的だという。高速増殖炉のプルトニウムの増殖率はたったの1.1パーセントとされ、2倍になるための倍増時間は90年というデータも出ている。しかも原子炉自体の寿命は30年とされている。
 核燃料サイクル自体に見切りをつけているドイツの国民は、もはや「夢の原子炉」という言葉を使っておらず、むしろ高速増殖炉から撤退を決定したことを誇りにしている。日本の原子力行政はヤケになってはいないだろうか。巨大なリスクのために膨大なコストをかける高速増殖炉の開発に利益を見出すことが出来ない。

  (2)国家プロジェクトの崩壊

 1994年に出版された、現文部大臣である物理学者有馬朗人氏の書いている『手にとるようにエネルギー問題がわかる本』にはこのようなことが書かれている。
「1979年、アメリカのスリーマイル島原発で、1986年には旧ソ連のチェルノブイリ原発で大事故が起きました。では、日本でも同じような事故が起こる危険性はあるのでしょうか。
 この2つの事故の原因は究明されています。日本で運転中の原発は、このいずれとも構造が違うこともわかりました。
 運転する人たちの質が違うことも指摘されています。若干失われたとはいえ、日本人の勤勉さは定評があります。それに訓練制度です。」(出典)。
この文章によれば、日本の原発を動かす人たちの質がアメリカ人やロシア人よりも優れているから、日本の原発は安全であるという意味が伺えるが、果たして日本の原発を運転する人たちはどのような「質の違い」を持っているのだろう。
 もんじゅを運転していたのは動力炉・核燃料開発事業団(現核燃料サイクル開発機構)である。動燃は1967年に動力炉の開発研究機関として、特殊法人として設立された。科学専門のエリート技術者の集まるナショナルプロジェクトである。もんじゅの事故の責任ももちろん動燃にある。しかし、もんじゅの事故は、事故そのものの深刻な問題に加え、事故後の社会的対応に致命的な欠陥が多かったため、歴史的第不祥事となった。動燃の情報隠しである。現場を撮影したビデオテープを隠したり、カットして公表したりした。動燃を監督する立場にある科学技術庁にまで虚偽報告がされていたのである。国民の原発そのものへの不安に加え、原発を運転・管理する側の人間への不信が高まったのは言うまでも無い。更に1997年3月に茨城県東海村で起きた、当時日本原子力開発史上最悪の事故だった動燃東海事業所再処理施設での爆発・火災事故においても、再び情報隠しと虚偽報告が発覚した。この2回の不祥事により、動燃には安全管理能力がないことが世間に知られることになり、国民の動燃への不信が頂点に達した。徹底的に事故隠し・情報操作に走ってしまった動燃の失態に「またかっ」の溜息さえ聞かれる。科学技術庁も虚偽報告を見ぬけなかった責任は重大である。
 チェルノブイリの事故の後、「日本の原発は管理が行き届いているので、あのような事故はあり得ない」と自ら「安全神話」を主張してきた日本政府であったが、この2回の不祥事により「絶対に大丈夫」と主張され続けた日本の原子力開発から「絶対」という言葉が消えた。「安全神話」は内部から崩れ、1998年10月に動燃は解体。現在新法人「核燃料サイクル開発機構」が業務を引き継いでいる。本社を東京から東海村へ移した核燃料サイクル開発機構だが、まずは自律性を高めるなどの組織改革から実施していくらしい。しかし、新法人は動燃の職員を再雇用して発足した。一体何が変わると言うのだろうか。「ただの看板の架け替えに過ぎない」と未だに批判の声も多い。
 動燃の解散はエネルギー政策における、国家プロジェクトの崩壊を意味している。原子力開発でひたすら欧米の後を追い続けた時代の終わりを象徴しているという意見もある。科学や技術だけでエネルギーの将来を探してきた日本の原子力政策はもう古いのではないだろうか。

  第2項 核燃料の再処理

 もんじゅの事故により、計画が中途半端なままになっている核燃料サイクルであるが、前項でも説明した通り、政府はその方針姿勢を変えようとはしていない。プルトニウムを増殖させる高速増殖炉は核燃料サイクルにおいて最終段階の「夢の原子炉」とされていることを説明した。もう一つ重要なことは、その燃料となるプルトニウムはどのように手に入れるのかということである。
 通常、原子炉でウラン燃料を使用すると使用済み核燃料が残る。この使用済み核燃料には、ウラン96パーセント、プルトニウム1パーセント、そして「死の灰」と呼ばれる放射性廃棄物が3パーセントずつ残っていて、ここから再処理をすることによってウランとプルトニウムを取り出すのである。
 日本では現在、茨城県東海村にある核燃料再処理工場が唯一稼動している。しかし、トラブルが続いてばかりで思うように運転できていないのが現状である。安全性を考慮するとどうしても稼働率は低くなる。そこにとどめを刺すかのように1997年に火災・爆発事故が起きた。つまり日本は核燃料の再処理技術開発は発展途上なのである。しかし、原発を使えば使うほど大量の「死の灰」を含む使用済み核燃料が出てきてしまう。そこで日本は今まで、国内の原発から出る使用済み核燃料の再処理をフランスのラ・アーグ再処理工場、そしてイギリスのセラフィールド再処理工場に依託してきた。
 そして1984年、日本は世界最大の核燃料再処理工場、放射性廃棄物貯蔵施設を、青森県六ヶ所村に建設するというプランを打ち出す。今まで、そのほとんどを海外に任せていた核燃料の再処理と放射性廃棄物の貯蔵に本格的に取り組み始めたのである。日本は国内でプルトニウムを作り出すことになったのである。
 しかし、日本が手本としているラ・アーグ再処理工場は1980年4月に停電という小さなトラブルから放射性廃棄物の冷却装置が動かなくなり、あわや大惨事を招きかねなかった危険な事故を起こしている。
 日本がもう一つ再処理を委託していたイギリスのセラフィールド再処理工場は、もともと原爆の材料となるプルトニウムを製造するための核兵器工場が前身であり、1980年代前半には工場からの排水による放射能汚染が深刻な問題として取り上げられた。工場の排水口から潮の流れの行きつく先の地域において10歳以下の小児が白血病にかかる率がイギリス全体平均の10倍に達してしまったのである。
 このように核燃料の再処理はまだまだ技術開発は世界的に確立されていない。むしろ工場が抱える膨大な放射能廃棄物の量は地球の脅威である。実際、アメリカ、ドイツは核燃料の再処理から撤退している。スイス、ベルギーも撤退を予定している。アメリカも元々は再処理事業を行っていた。ウエストバレー再処理工場はアメリカで唯一の再処理工場として1966年にスタートしているが、1970年代になると莫大な費用に今後の見きりをつけ、1972年に核燃料の再処理を断念。アメリカ政府も再処理の推進をしなくなった。危険性に加え、経済的にも厳しくなる一方だったのである。フランスのラ・アーグ、イギリスのセラフィールドの2つの工場に大量の「死の灰」を船で輸送していた日本が、今度は六ヶ所村に世界最大の再処理施設を建設する。
 六ヶ所村の再処理工場は完成すればチェルノブイリの数百万規模の「死の灰」をかかえる再処理工場となる。首都圏の生活を潤す電気が残す放射能は本州最北端に積まれるわけである。もちろん東京に原発や再処理工場を作ろうとは誰も思わないだろう。何故なら危険だからである。では、六ヶ所村に再処理工場建設の白羽の矢がたった経緯を少し見てみたい。
 1969年に発表された新全国総合開発計画(新全総)の一環として、青森県下北半島の「むつ小川原開発」が計画された。巨大な石油コンビナートを建設する構想である。ところが2回の石油ショックによって夢の計画は挫折することになる。六ヶ所村の買い占められた土地に企業はまったく進出せず、荒廃した土地だけが残された。1984年、石油がダメならと、そこに登場したのが原子力産業である。しかも全国のどこでも受け入れられなかった、膨大な危険を抱える核燃料サイクル基地、再処理工場、放射性廃棄物の貯蔵施設である。期待に満ち溢れていた「むつ小川原開発」が挫折して15年。六ヶ所村や青森県はようやく訪れた春を逃すわけにもいかず、反対派住民を押し切って1985年に9つの電力会社で構成される電気事業連合会の申し入れを受けたのである。元々は青森県の住民の誰も原発施設を快く歓迎するはずがないのである。国策失敗のツケが核燃料再処理工場として、その恐怖を青森の住民は背負わされる。1985年、再処理施設の建設を推進していたはずの当時の北村知事でさえ、「核燃料サイクルなど必ずしも県民が歓迎しないものは押しつけておいて、新幹線に代表されるように欲しいものは、いかにも期待を持たせておきながら、くれない」と本音をこぼしている。
 現在の日本の計画では、茨城県東海村にある再処理工場と青森県六ヶ所村に建設中の再処理工場で、1994年から2010年までの間に、合計40〜50トンほどのプルトニウムが取り出されることになっている。また、イギリスとフランスの工場に委託して取り出してもらっているプルトニウムが約30トン。それを合計すると70〜80トンのプルトニウムの量になるのである。更に海外に委託していた使用済み核燃料は、プルトニウムだけでなく、高レベルの放射性廃棄物(「死の灰」)も一緒に日本に帰ってくる。
 六ヶ所村の放射性廃棄物貯蔵施設は現在、「一時貯蔵」ということになっている。さすがに青森県の住民にとってもチェルノブイリの数百倍と言われている「死の灰」の最終処分地になることは許せないだろう。今のところ最終処分地は北海道の幌延の酪農地帯に埋める計画であるが、幌延の住民も黙ってはいられない。地底の構造もまだ解明されていない分野であり、放射性廃棄物を閉じ込めたガラス個化体のステンレス容器の穴あきを防ぐ手段もまた解明されていない。北海道大学の熊田助教授はガラス個化体を地下に埋めることについて、「地下水が入ってきても、腐って穴があくには早くて1年半、通常だと5〜10年かかる」としている。つまり放射性廃棄物には永久処分の手段がないのである。チェルノブイリを遥かにしのぐ放射能が地底に流れ出したら、と考えると恐ろしいだけでは済まない。「死の灰」のゴミ箱など地球上に存在しないのだ。再処理において、1年間に出る放射性廃棄物の量は、使用済み核燃料の体積を1とすると、高レベル廃棄物であるガラス個化体が0.4、金属片が1.5、低レベル廃液が1.8、固体廃棄物が2.5、と結果的に核廃棄物の量の方が6倍にも膨れ上がることがわかっている。プルトニウムを取り出し続ければ、それ以上の「死の灰」を増やし続ける結果となる。
 1985年に計画された当時の六ヶ所村核燃料再処理施設の総事業費は1兆3000億円と見積もられていた。それが現在では2兆1400億円である。完成予定は2005年であるが、現在もんじゅの事故により、高速増殖炉の再開発はメドが立っていない。利用先が見えない原爆材料のプルトニウムを何故このような莫大な費用をかけて製造しようというのか。世界各国が原発開発から手を引いている現在、ウランの値段は下がっている。わざわざ使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出しつづけようとする価値が見出せない。平成10年度の核燃料サイクル関連予算は約1500億円という莫大な予算が組まれていた。核燃料サイクルがどれだけ危険なものであるか、どれだけ経済性が無いものなのか、一番承知しているのは政府や電力会社の人たちなのではないだろうか。プルトニウムへの日本の固執は異常である。

  第3項 プルサーマル計画

 一度決めた計画をなかなか変えようとしないのが日本の行政の特徴である。もんじゅの事故により核燃料サイクルの現実が遠のいても、あくまで六ヶ所村再処理工場の建設をすすめ、プルトニウムを計画通りに取り出そうとしている。しかし、プルトニウムには現在使い道が無い。となると、大変な量のプルトニウムが余ることになってしまうのである。過剰にプルトニウムを国が所持することは国際的に認められていない。政府の方針としてもプルトニウムを余らせておくわけにはいかないことはわかっている。そこに出てきたのが「プルサーマル」である。使用済み核燃料を再処理して取り出したプルトニウムをウラン燃料と混ぜ合わせ(「MOX燃料」と言う)、ウランを燃料としている普通の原発で燃やすという計画である。
 しかし、ウラン燃料を燃やすのとMOX燃料を燃やすのとでは、当然、安全性にも違いが出てくる。MOX燃料は、核反応がより不安定になり、制御棒(原子炉の安全装置)の効きが悪くなる、また、燃料も壊れやすくなり、日常的に放出される放射能の量も増えてしまう、などといった特徴を持ち、いざという時に原子炉が止められない危険性が大きくなるのである。「プルサーマル」の計画については以前からその危険性が指摘されていた。
 もちろん、「プルサーマル」の危険性についての対策は立てられているのだが、日本では経験のないことであり、まったくの未知数の話である。その対策費やプルトニウムを扱うということで、厳しい管理が要求され、頻繁に検査をしなければいけないことなどから、燃料費は普通の原発に比べて高くなるのである。OECD(経済協力開発機構)原子力機関の試算によると、プルトニウム燃料はウラン燃料よりも4倍高くなるとされ、日本で作ると更に高額になると言われている。決して安い発電方法ではないはずなのだが、かと言ってプルトニウムを余らせておくことも危険である。原子力安全委員会は、安全性について検討した報告書を平成7年に取りまとめ、MOX燃料の安全評価方法については妥当性が確認されたとしているが、推進派で固められた安全委員会の意見だけを鵜呑みにしてしまうには不安が残ってしまう。
 しかし、国は2010年までには、全国で16基から18基の原発で「プルサーマル」を実施する計画を立てている。現在、福島・福井・新潟の3県が「プルサーマル」の事前了解願いを了承しているが、東海村の臨界事故の後、新潟県柏崎市にある東京電力柏崎刈羽原子力発電所の2000年実施予定のプルサーマル導入を、西川柏崎市長が1年延期することを表明した。しかし、柏崎刈羽原発はすでにプルサーマルの受け入れるという方針をとっているのは変らないため、1年先送りというのは、東海村の臨界事故による世間の原発不信へのほとぼりが冷めるのを待つための手段に過ぎない意味合いにも取れる。
 政府はプルサーマルについて、ウラン資源の有効利用を図ると言っているが、実際にはもんじゅをはじめ高速増殖炉開発が再び開始されるまでのプルトニウム利用のその場凌ぎに過ぎないものではないだろうか。再処理によるプルトニウムの製造を止めない限り、核燃料サイクルの実施のために膨大なコストとリスクは増える一方である。
 「プルトニウム大国日本」は、その巨大化への進路をひたすら走り続けている。

第3章 原子力政策の財源

 第1節 原発の予算

 世界の各国が原発から撤退する情勢の中、日本は世界で唯一と言っても良い原子力開発先進国となっていること、更には原発の危険な事故が次々と起こりながらもエネルギー政策としての原子力開発は推進に進む一方であることも既に記述してきた通り明らかな事実である。では、日本のエネルギー政策において、エネルギー対策の予算、原発に注ぎ込まれる金銭的な側面はどのようになっているのだろうか。
 国内エネルギー資源に乏しい日本では、エネルギーの海外輸入依存度が8割となっており、世界の先進国の中でも最も高い比率になっている。更に一次エネルギーの約5割強をを占める石油に関しては、ほぼ全量を輸入に依存している。平成10年の予算から、一般会計のエネルギー対策費(図−2)を見ても当然、石炭並びに石油及びエネルギー需給構造高度化対策特別会計(石特会計)に使われる経費が最も多く、5000億円となっている。
 そして次に多額の経費が注ぎ込まれているのが原子力開発である。平成10年の原子力平和利用研究促進費は1610億9400万円以上が組まれている。そして太陽エネルギー、水素エネルギー、燃料電池発電技術、超電動電力応用技術等の新しいエネルギー技術及び省エネルギー技術を開発し、将来のエネルギーの安定的確保、地球環境問題の解決への研究開発費となるエネルギー技術研究開発費はわずか4億円しか割り当てられていないのである。更に詳細を見てみると、太陽エネルギーに918万円、地熱エネルギーに2181万円、石炭エネルギー開発に2905万円、水素エネルギーに1630万円等々、原子力研究に割り当てられている予算とは程遠い大きな差である。日本は原発以外の新しいエネルギー開発にほとんど予算をまわさないのである。原発推進派の人々は、将来のエネルギーは原発しかないようなことを口にするが、将来の新しいエネルギー開発に全く力を注ごうとせず、無理に選択肢を原発だけにせざるを得ない環境を予算の時点で作り出している。余りにも偏ったエネルギー対策の予算であるが、現在の日本では、この原発偏重路線を変えようとする動きは期待できない。原子力開発は膨大な予算に守られた巨大国家プロジェクトなのである。
 そして、国際原子力機関分担金等という経費が55億7100万円計上されている。この経費は、原子力平和利用の促進等を目的とする国際原子力機関に対し支払う分担金及び拠出金である。原発を運転する以上、国際原子力機関にこのような莫大な費用を支払わなければいけないのである。この経費でさえ新エネルギー開発に割り当てられている予算よりも桁違いな数字となっている。
 では、1610億9400万円という原子力平和利用研究促進費について簡単にその内訳をみてみたい。平成10年度原子力平和利用研究促進費の経費の内訳としては
●核燃料サイクル開発機構(旧動燃) 455億9300万円
●日本原子力研究所 1139億9500万円
●理化学研究所 1億9400万円
●放射性廃棄物処理処分対策経費 5063万円
●原子力利用の安全対策等 13億683万円
となっている。
 核燃料サイクル開発機構では、動力炉開発に222億100万円、再処理開発に142万3300万円、そして核燃料開発に91億5900万円を計上している。もんじゅの事故以来今後の開発にメドの立っていない核燃料サイクルにこれだけの予算が注ぎ込まれているのである。これだけの予算を使って再びもんじゅを動かし、核燃料サイクルを完成させようとすることに果たしてメリットはあるのだろうか。この経費の他に核燃料サイクル開発機構には4億4940万円の国庫債務負担行為が計上されている。
 日本原子力研究所には1139億9500万円の予算が組まれ、a原発の安全性の研究、b高温工学試験研究、c核融合の研究、炉心プラズマ物理の研究等、d放射線利用の研究、ラジオアイトソープの製造利用等、e光量子・放射光科学の研究、f中性子科学の研究、gラジオアイトソープの製造分布等アイトソープ事業、h原子力研究者、技術者の養成並びに資料の収集、i原子力船の研究開発、「むつ」の使用済み核燃料の再処理のための輸送計画の策定、舶用炉の設計研究及び要素技術開発の実験、などに利用されている。また日本原子力研究所には国庫債務負担行為91億4031万円が計上されている。
 そして理化学研究所には原子力利用に関する試験研究に要する事業費に対する出資金として1億9400万円が組まれている。
 放射性廃棄物処理処分対策経費は放射性廃棄物処理処分対策を確立することを目的として民間に試験研究を委託するために必要な経費であり、平成6年6月、原子力委員会が策定した原子力開発利用長期計画の基本方針に沿って、諸研究を推進するという。
 原子力利用の安全対策等には、「核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律」に基づく安全規制及び保障の実施に必要な経費として13億683万円が組まれた。
 このように日本のエネルギー対策において、原子力開発が扱う予算は実に莫大なものとなっている。まさに国を挙げての開発なのである。しかし、原子力開発を進めるには多額の費用がかかるため、エネルギーの研究開発費が原発に集中してしまい、新しいエネルギーの有効利用や新しいエネルギーの研究開発に使う分がなくなってしまうことも問題である。日本は原発だけに向けるその巨額な予算の利用をもっと他のエネルギー開発に利用すべきではないだろうか。原発は電気を作り出すのみであり、用途がたくさんある石油の代替エネルギーにはなり得ないことはもうわかっていることである。更には連続する重大事故から、国民の原発への信頼は低くなる一方なのだ。これ以上原発に多額の予算を組むことは望ましくないと考える。むしろ将来のことを考え、徹底的に原発に代わる新エネルギーの開発研究に取り組むべきだ。原発の最大のメリットは大量の電気を供給できることである。しかし、原発に依存しようとするために他のエネルギー開発へ選択の柔軟さが失われているようにも見える。


 第2節 電源三法

 1974年に「電源三法(電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法)」が制定された。「電源地域の振興、電源立地に対する国民理解及び協力の増進、安全性確保及び環境保全に関する地元理解の増進など、電源立地の円滑化を図るための施策」ということであるが、ではこの電源三法とは一体どのようなものだろうか。まず概要を簡潔に説明してみる。

● 電源開発促進税法
目的 発電施設等の設置促進や、石油に替わるエネルギーによる発電の促進。
内容 一般電気事業者の販売電気に電源開発促進税(1キロワットにつき44.5銭)が徴収される。

●電源開発促進対策特別会計法
目的 電源開発促進税の収入を財源として行う政府の経理を明確化することを目的としている。
内容 電源開発促進税法による収入を電源立地勘定と電源多様化勘定に区分し、電源立地勘定分を電源立地促進対策交付金、あるいは特別会計法に基づく電源立地対策費として支出する。発電用施設周辺地域の整備や安全対策、発電用施設の設置円滑化のために必要な交付金や補助金などを交付。

●発電用施設周辺地域整備法
目的 発電用施設周辺地域において公共施設の整備を促進し、地域住民の福祉の向上を図り、発電用施設の設置を円滑化することを目的としている。
内容 該当都道府県が作成した整備計画に基づいて、交付金が交付される。

 電源開発促進税は電気料金の領収書には書かれていないので一般にはあまり知られていないが、電気を使えば使うほど原子力推進に振り向けられる資金が大きくなるという仕組みで、これは大部分が電源立地交付金や原子力関係の推進費用として原発の地元にばら撒かれている。平成10年度の電源開発促進対策特別会計は4616万2300万円である。ここから核燃料サイクル開発機構に出資された補助金の総額が前節で説明した一般会計予算とは別に1458億1500万円となっている。このあまりに危険な国策は国民が支払う多額の税金の上に成り立っている。
 電源開発促進対策特別会計には電源立地勘定と電源多様化勘定があり、平成10年度では電源立地勘定に2236億300万円、電源多様化勘定に2380億2000万円が割り当てられている。その歳入は電源開発促進税からである。しかも、前年度の剰余金が電源立地勘定に674億4199万円、電源多様化勘定に293億781万円も含まれている。原子力開発はまるで予算には困らない。金は並々と積まれているのである。
 電源立地勘定はそのほとんどが(平成10年度では2210億689万円)が電源立地対策費として、交付金や補助金として原発の地元市町村に配られる(図−3)。この巨額な交付金こそが財政に悩む地方自治体が原発を誘致する理由なのである。たとえ測定不能の膨大な危険が詰まっていたとしても、過疎化に悩む地方自治体にとって原発を自分たちの町や村に迎えることは巨額の交付金を手に入れる絶好の機会なのである。地方の小さな市町村に、大都市圏に電気を供給する原発が存在している理由はこの交付金の存在によるところが大きい。
 更に電源多様化勘定では、原子力発電開発導入促進対策費が368億4708万円、核燃料サイクル機構(旧動燃)出資及び助成費が1002億2200万円となっており、その半分以上が原子力開発に向けられているのである。原発に代わるとする太陽エネルギー発電等開発導入促進対策費は697億307万円と原子力開発の半分の予算しか割り当てられていないのである。これを見ても国の原子力開発への拘りが歴然としていることがわかる。
 そして、これら原発を動かす財源を理解したところで我々国民が考えなければならないことが2つあると考える。一つは自分たちが扱う電気料金から税金として国に支払われる金が、国の政策的に大規模発電設備、主として原子力開発の促進ばかりに使われるということである。この予算の使い道は我々国民が決めたものではない。もう一つは、大都市で消費される電力のために、多大なリスクを背負わせながらも原発を地方に建設し、交付金で事を解決しようとする日本の原子力行政の体質の問題である。
 まず、我々が支払う電源開発促進税についてであるが、この税金の流れを止めない限り日本の原子力開発も絶対に止まらないと考えられる。電気の需要が増加すると原発推進のための費用が潤い、原発が増加すると電力大量消費の社会を円滑にしてしまう。この繰り返しでは電力多消費型の社会に省エネ意識を芽生えさせることを困難に陥らせているだけである。そしてこの資金の流れを変えることも必要である。原発が危険であるということはもはや誰も否定できない。それならば、消費者から徴収したこの莫大な税金を、原子力開発ではなく、他のエネルギー源の開発に振り向ける方策を取るべきではないだろうか。将来の日本のエネルギー政策を考えれば、この資金を太陽光発電、風力発電開発等にもっと注ぎ込むべきである。電源開発促進税の流れを止めるか、電源開発促進対策特別会計の原発偏重となっている現状の使い道を変える。それが日本の脱原発政策、そして原発代替エネルギー開発への第一歩ではないだろうか。
 そしてもう一つ、交付金を積むことで電力供給地となる原発地元住民にそのリスクを背負わせることも問題視するべきではないだろうか。原子力発電を利用するのであれば、本来はそれを選択した人間や利用者のみがリスクを抱えるべきである。原子力開発の危険性について、昔はよく飛行機事故や交通事故などと比較されてきた。事故が起きないとは言いきれないが、その必要性から人は車にも飛行機にも乗るというニュアンスである。しかし、現在の日本の原子力行政を利用者がリスクを負う飛行機事故や交通事故と同じ次元で考えることができない。消費地となる大都市圏の生活欲求を満たすために、原発の地元住民が背負わされるリスクを、交付金をバラ撒くことで解決しようとする方法自体に、中央集権的な権力支配の構造がまだ残っている日本社会の現状を目の当たりにしてしまう。毎年多額の予算が組まれるこれら交付金は「地方は中央のために」という日本の体質を少しでも見えなくさせようとする手段やカモフラージュになってはいないだろうか。原発に頼らずともやっていけるような社会構造ができていれば、地方自治体は交付金目当てで原発を誘致する必要などないはずである。日本が地方分権的な社会構成を目指すとき、必ず現在のエネルギー政策における原子力開発が、それを妨げる一因になるだろう。


 第3節 交付金は街を潤すか

 「電源三法」により、国から原発を持つ地方自治体に毎年多額の交付金が落ちてくることは前節において述べてきた。そして更に原発を建設、運転する電力会社からも地元に協力金や助成金として巨額の金が配られる。
 電力会社が発電所を建設する際、地元市町村の行政負担などに対し、「応分の額」を出すというこの原発協力金には算出基準に明確なルールはなく、金額も電力会社と地元の話し合いで決まるという。まさに財政困難に悩み、過疎化が進む小さな市町村にとって原発の誘致は持って来いの話なのである。原発を構える地域は、ほとんどが田舎町であるにもかかわらず、近代的な建物、施設、大きな道路が整備されていることに気付く。
 しかし、原発の地元への企業誘致のために、国や電力会社が補助金、低利融資、企業の福利厚生施設への補助金…と大盤振る舞いで企業の誘致をすすめようとしても、結局のところ、さすがに原発の隣に進出してくる企業などなく、制度は生かされていないことが多い。つまり、原発の落とす巨額の交付金は地域の振興や活性化に役立つことなく、ムダ遣いになるケースが多いのである。原発を誘致したことが地域の活性化に繋がり、原発建設が終わっても地元の産業で十分にやって行けるようになれば、原発の増設を誘致する必要はない。しかし実際には、原発が落とす金に依存することに慣れきってしまい、原発からいかに金を引き出すかばかり考えた結果、原発を持つ地元自治体はどこも原発からの金が入らなくなると立ち行かなくなってしまう。立派な施設も利用することもされることもなく、その維持費・管理費だけに金が飛んでしまうという。電力会社は何か問題を起こし、反対運動などが起きると、協力金を上げて事態を解決しようとする。地方自治体は、自分たちの経営が厳しくなると、電力会社とモメて交付金、協力金を上げさせようとする。原発の危険性を二の次にして交付金、補助金という金に地元住民が麻痺してしまい、国や電力会社の思うが侭に原発が次々と増設されていく現状に不安を感じずにはいられない。
 原発が建設されるのはいわゆる「過疎」地域であり、原発はそうした地域の人たちに対する差別の上に動いていることはよく指摘されている。しかし人口が集中し、社会的な設備の整った大都市圏と過疎地域との差別的な関係は、原子力開発が進むずっと以前から存在していたものである。それを利用して、近代的な施設や道路が作られたりすることで地元の為になるのだと、原発は建設される。しかし、その結果として差別は無くなったのだろうか。むしろ広がったのではないかという意見もある。つまり「地方の人間は中央の為に」という社会構造を更に明確にしてしまったのである。
 現在新潟大学教授である古厩忠夫氏は著書『裏日本』の「巻町住民投票をめぐって」の中で次のように述べている。
「高度成長をへて日本人は飢えから解放された。だが、そこに形成された近代社会は、経済至上、効率至上、国策至上の工業化社会でもあった。日本は経済発展を遂げるためのもっとも効率的なシステムをもった国家を形成したといってもよい。そして人びともGNP至上の価値観をもってこれを支えた。その意味では、戦争の時代だった戦前も、国際経済競争の時代だった戦後も、『負けられません、勝つまでは』が合言葉だった。
 その効率的なシステムのなかで裏日本は役割分担を与えられた。『国策』として示される『分業』をにないつつ、裏日本の人びとはそれが国を豊にし、自分たちを豊かにすると考えて従ってきた。原発三県の一つになることも、そのためにやむを得ない『分業』の一つだった。今回原発建設に賛成した人びともまた、反対した人びとと同様に原発に不安をもってはいたが、GNP主義の観点から国策に従うことによって『分業』の役割を果たし、交付金などの見返り財政によって物質的豊かさを追求する条件を整えようとした。」(出典)。
 ここでの「原発三県」とは、日本でも特に原発が多く存在している福井・福島・新潟の三県を指している。東京、大阪から山で隔てられてほどよい距離に位置している。プルサーマル計画もまずこの三県が対象となっている。
 ここから判るように原発が設置される地方は大都市を拠点とする「国策」のなかで「分業」としての役割として原子力発電の建設を余儀なくされてきたのである。沖縄の米軍基地問題においても同じ事を指摘できるかもしれない。裏日本に限らず、「周辺」の人びとは国策(=大)の名のもとに自分たちの地域(=小)を従属させられてきたのである。戦前においては権力的に国策に従うことを余儀なくされ、犠牲となってきた。戦後民主主義のもとでは戦前のようにはいかなくなったから、「国益」と地元利益のギャップは金銭補償によって埋められるようになったのである。誰も好き好んで原発を引き受けようという者はいないはずだ。そして原発を抱える地方自治体は原発がもたらす「財政増による町づくり」を訴えるようになったのである。原発を生活の基盤としてしまった地元住民は国際経済競争の犠牲者とも言えるのではないだろうか。現在の原子力行政は、戦後の日本の中央集権的国家システムを象徴しているように思える。
 しかし古厩氏によれば、1996年の巻原発建設の賛否を問うという「国策」をめぐっての住民投票の実施、そして原発反対票が有効投票数の6割を超えたことは巻町の住民が初めて自分たちで自分たちのことを決め、「原発に頼らない」町作りを選択したことだと次のように分析している。
「中央集権的『分業』に従わない者を『地域エゴ』であるとする、『国策イデオロギー』も喧しかった。たとえば山崎正和氏は、住民投票=直接民主主義は黒白を一気に決める性急さの点、政治的に小(=地域)が大(=国)を制する点で、問題があると述べた(『朝日新聞』1996年11月28日付ほか)。だが、間接民主主義の精緻なシステムのなかで国策に従うことを強いられている日本で、住民投票によって『分業』=地域差別に異議申立てをする必要性を感ずるのは、まず『周辺』である。そうした必要性のなかから、中央から地方への国策型ヴェクトルにかわって、『地方から中央へ』のヴェクトルの時代を創り出そうとする新しい動きがうまれてくるのだ。」(出典)。
 巻町が国からの交付金以外に原発建設を予定している東北電力から支出された負担金は289億3400万円となっている。シーサイドライン建設協力負担金に14億8000万円。町への協力金31億円。巻町漁協へ補償金に26億円、五ヶ浜共有地買収に協力金を含めて6億5000万円等がある。しかし、全ての支出が項目ごとに公になっているわけではない。不透明さが円満する中で、巨額の金が動いていることだけはわかっている。これまでの巻町はまさに原発の金による地域振興、発展を目指していたのである。しかし、原発を拒否した巻町は、経済価値の突出を反省し、経済発展と効率を求めるあまり犠牲にしてきた自然や環境、ゆとりや福祉を大切にした豊かな町作りを目指すことになった。そのために原発は必要無いと住民が判断したのである。「原発を拒否すること」は「原発の金に頼らない町作りの選択」である。現在日本の原発を抱える地方自治体もこの発想を持たない限り、莫大な交付金だけでは潤わない過疎地域から脱却することはできないと考える。東京を頂点としたヒラエルヒーの中に位置付けられて上昇しようとする必要はない。現代は情報化・デジタル化社会に突入し、インターネットの普及によって我々は分散型の効率の良い情報共有化の手段を手に入れつつある。しかし、それを支えるエネルギーの供給システムは未だ集権的な旧式システムとそっくりなのではないだろうか。日本のエネルギー政策においても分散型の地域自立のエネルギー供給システムを構築する構想力、巨額の交付金の使い道を自分たちと自分たちの地域の将来を見据えた効率的なエネルギー開発へ転換する発想力が求められる。


 第4節 原発の経済性

 これまで述べてきたように、原子力発電は莫大な資金の元で建設され、運転されている。では、原発で作られた電気は果たして経済的なもの=安い電気なのだろうか。
 第1章でも記述してきたように、原子力開発が始まって間もない1950年代、アメリカのアイゼンハワー大統領が「原子力の平和利用」を宣言することで世界各国が原子力開発に乗り出そうとしたとき、当時アメリカ原子力委員長であったルイス・ストラウス氏の「Too Cheap To Meter」という言葉でも理解できるように、原子力発電は他の化石燃料による発電よりも遥かに安価なエネルギー供給源と期待されていた。しかし、現在のアメリカが原発から撤退する背景を調べると、その危険性よりもむしろ経済的なデメリットが原因となっているように見える。
 アメリカには3400以上の電力会社があり、企業間での電力の売買が行われている。安い電力が売りに出されれば、たとえ自社の発電を減らしてでもその電力を買いつけるのである。アメリカの電力会社はいかにコストを減らしながら会社を経営するかに懸かっていると言ってもよい。アメリカで4番目の規模を誇る電力会社であるコンシューマンズパワー社(以下CP社)がミシガン州にあるミッドランド原発を閉鎖にした原因もやはり経済的な理由からであった。ミッドランド原発は1980年代に入ると、その建設費が予定の15倍を超えてしまい、CP社は急激に資金不足に陥ってしまった。CP社の月の収益が27億円であるのに対し、原発建設がもたらした負債額は4500億円に上ったのである。CP社は電気料金の値上げで経営難を乗り切ろうと考えたが、自動車会社の猛反発をくらうことになった。1983年の冬、CP社はミシガン州公益事業委員会に電気料金の値上げを申請したが、委員会はこれを認めなかった。アメリカでは発電所を建設するにあたり、その建設費や利子を電気料金に含めることはできないのである。ムダな投資が料金に上乗せされて、消費者の負担にしないためである。原発の建設費を電気料金に転化できないこと。これが日本の原子力行政との大きな違いである。CP社は原発の建設よりも天然ガスへの転換が最もムダがなく、経済的であることを察知し、ミッドランド原発は閉鎖に至ったのである。
 更にアメリカではスリーマイル島原発事故以来、原子力規制委員会が発足し、原発の安全性の審査がとても厳しくなった。バージニア州のノースアンナ原発では、コントロール室に安全指標表示システムを導入したり、環境放射能測定モニターを設置したりと、その安全性を図るために32億円も設備投資することになった。そして更に、安全性の面から作業員の数を300人増やし、事故対策本部室を設けるなど、人件費も含め、総額9億円もの出費がを強いられたのである。原子力規制委員会が決める安全基準の増加、安全性への徹底した設備投資を必要とされることから電力会社はコストの引き上げを余儀なくされたのである。電力会社が、自分たちが抱える費用負担を電気料金から徴収できず、自己負担となるシステムを持つアメリカでは原発がつくる電気は決して安くないのである。これが現在、世界一の原発の規模を持つアメリカが、原発、原子力開発から手を引き始めている最も大きい理由なのである。
 テネシー渓谷開発公団(TVA)はアメリカでもっとも大きな原発産業に着手している企業であるが、テネシー川沿いに設置を計画していた17基の原発のうち13基を閉鎖にしている。原発建設のための2兆円を超える投資を回収するメドが立たなくなったのである。TVAの元会長であるD.フリーマン氏は現在のアメリカにおける原発の経済性について「Too Expencive To Use(使うには高過ぎる)」と話している。
 アメリカでの電気1キロワット時の発電原価は、原子力発電が3.77セントに対し、石炭火力発電は3.16セントと算出され、もはや原発の作り出す電気は高いということが明らかにされている。一方、日本では少し資料が古くなるが、1キロワット時の発電原価は、原子力9円、石炭10円、石油10〜11円、天然ガス10〜11円、水力13円と原発が最も安いエネルギーのように公表されてきた。しかし、実際にはアメリカとは算出基準が違うのである。稼働率の問題である。普段稼働率の低い火力発電を原子力発電と同じ稼働率で算出した場合、発電原価は原子力が8.9円に対し、火力発電は7.2円となり、100万キロワットでは1年間で100億円の差がついてしまうのである。更に日本では、原発の発電原価には使用済み核燃料の管理費や、寿命が30年と言われている原子炉の解体費は含まれていない。放射性廃棄物の管理は半永久的なものである。この管理費等を含めると、原発が生み出す大量の電気は全然安くないのである。
 そして、出力調整の難しい原発は揚水発電と切り離すことができない。原発が増えれば増えるほど電気が余り、揚水発電所を稼動させるように見せて、余った電気を捨てているようなものである。つまり、実際には原発は高い電気を余るほど作っているのである。金と電気のムダ遣いではないだろうか。原発は経済的な発電所、エネルギー源とはなり得ないのである。
 日本の原発建設の資金は我々消費者が負担していることをもっと国民は考えるべき時代が来ているように思われる。電力会社が抱える建設資金の利息の半分は我々消費者が払っているのである。アメリカは経済的に原発に見切りをつけた。しかし、日本の電気料金制度は今なお、電力会社の原発設備投資に有利な現状を作っている。
 原発推進に拍車をかけたのは2度に亙るオイルショックだったことは間違いない。エネルギー弱小国であることを日本が実感した出来事だった。しかしその反面、オイルショックは石油価格の暴騰を引き起こし、それは日本の原子力開発が始まった当初の予定よりも電力の需要が伸びなくなるという事態を招いてしまった。しかし原発が建てられ続けた結果、余るほどの高い電気に頼らざるを得ない社会を作ってしまったのである。原子力行政にとってオイルショックはもろ刃の剣だった。原発を増やすこと、原発が電気を作ること、どちらもムダばかりである。原発を建てるのも、原発の高い電気を使うのも我々一般消費者である。今一度原発とその財源、電源開発促進税の使われ方について、将来の安全性と経済性を踏まえて考えてゆくことが求められているのではないか。

第4章 原発と環境問題

 第1節 温暖化と原発増設

 地球環境問題と言ってもその分野は様々であるが、人間が手に入れた技術や科学が作り上げた現代社会の発展のツケが、自分たちの生活する環境を破壊するという形になって回ってきたことが共通の原因ではないだろうか。
 そして現在、地球の温暖化防止が注目されている。産業革命以後、石炭や石油を大量に消費した結果、二酸化炭素(CO2)などの温室効果ガスの排出が増大し、地球の気温が暖まることが問題となっている。地球が暖まると極地などの氷が解けて島や沿岸部が水没し、異常気象になったり、生態系が破壊されたりするなどといったことが危惧されているのである。
 1997年12月、京都において世界百数十カ国の代表が地球温暖化について話し合う、気候変動枠組み条約第3回締約国会議(温暖化防止京都会議)が開催された。二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスの排出の規制に取り組もうとする国際的な社会の動きは当然のことである。しかし、この会議によって日本政府が打ち出した温室効果ガス排出規制の対策の一つに2010年までに原発を20基増設することを公表した。翌年の夏に通産相の諮問機関である「総合エネルギー調査会」が定めたエネルギーの長期見通しでは、やはり2010年までに原発を20基増設し、総電力量の45パーセントを賄うという方針も出されている。政府(通産相)が二酸化炭素排出削減の柱に据えているのは原発の推進なのである。電力は二酸化炭素の総排出量の約3割を占めていると言われている通り、環境問題や温暖化問題とエネルギーのあり方については切り離すことができないほど、問題は密接に絡んでくるのは確かである。原発が今後20基増設されれば、日本はフランスを抜いて世界で2番目になる原発数を所持する、まさに原発大国になるのである。
 しかし、果たして原発を増設することが温暖化防止、そして環境問題を解決する手段となり得るのだろうか。温室効果ガスの規制には二酸化炭素の排出量が火力発電よりも少ないであろう原発は原発推進派からすれば、間違いなく環境問題解決の筆頭に掲げられるだろう。原発を推進する人たちにとって、この「二酸化炭素排出量の規制」は原発増設の理由となる絶好のチャンスである。しかし、東海村臨界事故で決定付けられた放射能の脅威と原発の危険性、もんじゅの事故や東海村再処理工場の火災・爆発事故で明確となった原発を動かす側のずさんな管理体制。そして何百年後までもその管理を必要とする放射性廃棄物の処理の問題など、地球規模の環境問題の視点で原発の増設を考えると、それはあまりにも環境に適さないものであることがわかるはずである。原発の増設は地球温暖化の解決策の一つであっても環境問題を解決する手段には程遠く、むしろ人類を含む全ての生命体にとっての危険を増加させてしまう。
 本当に地球の環境を考えるのなら、二酸化炭素の排出量がほとんどない太陽光発電等の新エネルギー開発に積極的に力を注ぐことが必要だと考える。前章で説明している通り、莫大なエネルギー予算や我々が払う税金は、そのほとんどが原発の推進に当てられてしまう。政府や電力業界には、発想の多様化が必要ではないだろうか。なぜ原発偏重路線に固執するのだろうか。原発の増設を温暖化体策の選択しとすべきではないはずである。
 佐和隆光著『地球温暖化を防ぐ−20世紀型経済システムの転換−』では、温暖化体策としての原発の増設についての賛否の意見を踏まえ、佐和氏はこのような提案をしている。
「太陽光を始めとする新エネルギーの利用そのものについて反対する人はまずいない。しかし、少なくとも国民の3分の1は原子力発電の安全性に対して疑念を抱いている。そこで、政府は、十分な資金を投じて、省エネルギーと新エネルギーの導入を可能な限り推進し、果たしてそれだけで電力需要を賄い切れるか否かを見極める。もしそれで電力需要を賄うことができるのなら、話はそれで終わるし、もし賄えないのなら、結局は原子力に頼らざるを得ないことを誰もが納得するはずである。
 要は、原子力にいかほど頼らねばならないのかを、手順を踏んで具体的に明らかにすることが必要なのである。」(出典)。
確かに、机上の空論を重ねても仕方がないかもしれない。原発に頼ってしまっている現実から試しに出てみないことには、賛成派と反対派の意見が分かれたままの平行線である。しかし、実際に佐和氏の言う通りのことができるだろうか。現在のエネルギー供給のシステムを考えると、少々難しい話のようにも思える。
 日本の電力会社は合計9社。ほぼ地域独占的な営業形態となっている。電力消費者はその地域に一つしかない電力会社から電気を買うしかないのである。たとえ、「省エネルギーと新エネルギーの導入を可能な限り推進」したとしても、電力会社は原発がなければ日本の電力供給は間に合わないという状況を作り出すこともできる。このエネルギー支配構造を打破しない限り、残念ではあるが上記した提案は現実的とは言い難い。しかし、政府による省エネルギーと新エネルギー導入を推進することは、将来を考えた時に市民の側から求めなければならないことである。
 地球温暖化防止を、原発推進のための言い訳にしてはならない。将来の地球のために考えるべきことはやはり環境問題への取り組みである。原発を環境問題の解決手段にするのではなく、環境問題のために現代のエネルギー大量消費社会のあり方そのものを抜本的に見直す意識変革について真剣に問わなければならない時期が来ているのではないだろうか。


 第2節 原発代替エネルギーは

  第1項 原発代替エネルギーのポイント

 現在電力供給量の約3割を占めてしまっている原子力発電であるが、果たして原発の代わりとなるエネルギー供給源にはどのようなものがあるのだろうか。
 まずポイントとなるのは、原発推進派が掲げる「クリーンなエネルギー」。原発自体がもはや「クリーン」などとは呼べるものではないことは判明しているが、環境問題を考慮するとき、原発の代替エネルギーは更にクリーンであることが求められるだろう。そして、エネルギーの効率性。つまり、いかに地球上に存在する、人間に与えられた資源をムダにすることなくエネルギーとして使うことができるのかということではないだろうか。

  第2項 コジェネレーションの利用

 現在、もっとも注目を浴び、そして小さな動きながらも開発が進んでいるのエネルギー開発にコジェネがある。コジェネとは、コジェネレーションの略語であり、「コ」は生活協同組合(コープ)の「コ」と同じく「共に」を意味している。ジェネレーションは「発生」であり、言わば「一石二鳥のエネルギー発生」を意味している。
 たとえばゴミを焼却する時に出る熱を利用して、発電と冷暖房の両方を行うことができる。あるいはガスで発電しながら、その排熱によって冷暖房も可能になる。
 近年、原発からの撤退を決定したドイツでは、このコジェネの開発、そして利用を積極的に行っている。人口20万人のフライブルク市では、チェルノブイリ原発事故の後、原発の危険性を逸早く察知し、現実性・経済性・を考慮し、尚且つ今までの生活水準を大幅に損なわないようなエネルギー開発に取り組んでいる。そして1998年にはフライブルク市では熱複合発電所が完成した。ここでは天然ガスを使い、電気と熱を同時に発生させるコジェネを利用する発電所である。その過程を簡単に説明すると、
1 ガスタービンで発電。
2 排気熱で蒸気を作り、月の発電機を回す。
3 余った熱を工場で利用する。
といった具合にムダが無く、エネルギー効率が極めて高い発電になっているのである。原子力発電をはじめとする大規模な発電法を使っている場合、ここで発電したエネルギーの実に6割が排熱として捨てられている。つまりエネルギーは4割しか利用されていない。更に、日本では危険性を隠すために原発銀座の福井から京阪神へ送電する、福島や新潟から東京へ送電する、という遠距離送電が行われていることから、この送電ロスもかなりの量に達する。しかしフライブルク市の複合発電所は投入するエネルギーの84パーセントを利用するという、実に経済的なものとなっているのである。この発電所だけで、フライブルク市に必要な電力の40パーセントを供給できるという。この町の原発からの電力供給は最大で65パーセントだったものが、現在25パーセントまで減少している。脱原発政策に行政と市民が一体となって取り組んでいるのである。
 そしてフライブルク市では一般の家庭にもコジェネを導入している。電気、水、ガスなどの消費するエネルギーを従来の1割抑え、外部からの供給に頼らない、新しい街の建設に入っているのである。新しく作られる家やマンションなどの団地では、節水式のトイレの設置、その下水からのメタンガスを発電に利用するなど、コジェネが見事に普及している。100uあたり40万マルク(約2400万円)とその費用は割高となることは確かなのだが、生活していくなかで、十分に採算が取れるという。住民はコジェネを導入しても、日常生活が不便になることはなく、以前と変らない生活を送っているという。
 コジェネの利用の結果として最も重要なことは、現在私たちが使っているエネルギーの量を減らすことなく、資源の使用量を大幅に減らすことができる、という点にある。コジェネはまさに「効率的」で「クリーン」なエネルギーであり、地球温暖化を中心とする環境問題にも対応している。更に原発のように供給地と消費地が別々ということではなく、地域分散型のエネルギー生産が可能なことも効率性を促進するメリットではないだろうか。
 コジェネの場合エネルギー効率は、電力会社に頼っている場合の4割に比べ、8割まで上昇することは先に説明した。つまり10の資源を用いて4を生み出すか、8を生み出すか、というのだから、誰にでも分かる通り2倍のエネルギーが得られるのである。しかし、環境問題、資源問題を本当に理解した上での利用であれば、5の資源を使って4を生み出すという発想でこの技術を利用するべきだろう。投入する資源の量を減らさなければ意味がない。
 原発の存在を前提に環境問題を語り、原発の必要性を説くのではなく、環境問題を前提に、それに合い相応しいエネルギーの選択をするのなら、間違いなく、今求められるべきものは原発ではなくコジェネレーションの積極的な開発ではないだろうか。現在すでに日本人だけが世界の資源の1割を使っているという。原発はウラン燃料の有効利用になるかもしれないが、消費者にエネルギーを大いにムダ遣いさせる社会を築くことに貢献してしまっている。日本においても今後、民・官の協力のもとでのコジェネレーション開発、そして導入がエネルギー問題、資源問題、環境問題への解決の糸口となることは間違いないだろう。

  第3項 太陽光発電の利用

 原発代替エネルギーとしてもう一つ注目されているものに、かねてから語られてきた太陽、風力、波力、地熱等の自然エネルギーの利用がある。これらの特徴は、大自然の与えてくれるものを活かすので、本物の自給エネルギーということだろう。温室効果ガスも排出しなければ、資源の利用も枯渇の心配は要らない。1ヶ所の大きな発電所で膨大な量の電力を生産し、遠隔地にまで配電線を張り巡らせて送電する、という在来型の電力供給システムに比べて、小規模分散型の電力供給システムは「非効率」と指摘もされているが、むしろ地域自立型のエネルギー供給システムという点では「自分たちの使うエネルギーは自分たちの地域でつくる」という姿勢が、原発の抱える地域ギャップの問題点をクリアできるのではないだろうか。
 これらの中で特に開発が進んでいるのが太陽光発電である。太陽電池の価格が近年、目に見えて下がってきたこと、そして余った電力を電力会社に買電してもらえるようになったことが、太陽電池の普及を助けている。しかし、依然として太陽電池の価格は、経済的に採算がとれるレベルに程遠い状況にある。この経済的な問題の解決策について佐和隆光氏は『地球温暖化を防ぐ―20世紀型経済システムの転換―』において次のような提案をしている。
「あなたが自宅の屋根の南側斜面に3キロワットの太陽電池を取り付けたいとする。しかし、とても300万円もの大金の持ち合わせはない。そこであなたは地域の電力会社にその旨を申し込む。電力会社はあなたの要望に無料で応じることを、法律によって義務付けられている。ただし、あなたの屋根に太陽電池を取り付けたのは電力会社なのだから、その電池で発電される電気は電力会社のものであり、配電線に自動的に流し込まれる。それでは、何のためにあなたは屋根を貸したのかということになる。そこで太陽電池の償却年数をたとえば5年として、5年後に電池が償却された暁には、その電池は屋根の持ち主であるあなたのものになる。5年待てば、自分の屋根で発電された電気をただで使えるし、余った電気は電力会社に買ってもらえる。屋根に電池が乗っておれば、多少目障りかもしれないが、特段の負担にはならないし、5年という期間はそんなにながくはない。
 こうした制度が発足すれば、申込者は全国で年間数十万人の規模に達するであろう。」(出典)。
つまり佐和氏の提案と言うのは、太陽光発電の普及の為に太陽電池の価格を現在より大幅に下げる必要があるのを解決する仕組みを述べている。この提案が上手く機能するためにはどうしても政府や電力会社の協力が必要になることは間違いない。太陽発電にかかるコストを指摘するのであれば、現在の原子力開発におけるコストも決して安くないのだから、将来的な環境問題、資源問題を意識した時、積極的な新エネルギー開発に急いで方向転換するべきではないだろうか。確立までに時間はかかったとしても、我々の子孫に計測不能な危険を押し付ける原発を残すよりも、地球に優しくあるための技術開発のはずである。そして、太陽エネルギーの開発・利用で重視すべきことは、コジェネ導入の際と同様に、その利用を進めると同時に、エネルギーを使う量を減らしていくことが必要という点である。
 前項においても例に挙げたドイツのフライブルク市でも、やはり積極的に太陽光発電の導入に取り組んでいる。一般家庭に取り付けられた太陽光パネルによる太陽光発電では、晴れた日には電気が余り、市の回路へ「売電」することもできる。最大で生活に必要な電力の5倍を発電しているという実績も出している。更には市民の共同出資によって、サッカー場や工場の屋根に太陽光パネルが取り付けられ、市民独自の小さな発電所を持つことになる。ここで作られた電気もまた、市の電力会社に「売電」されているのである。太陽光発電は不可能な技術ではないことが実証されているのである。
 ドイツは数年前まで日本と同じく原子力開発に積極的に取り組んできた国家である。高速増殖炉の開発にも手を伸ばしていた。しかし脱原発を掲げた現在、ドイツは行政・市民共々エネルギーに対する発想の転換を行い、小さいながらもその成果が表れはじめているのである。日本は科学技術では世界の最先端を行く国家のはずである。巨額の資金と政府が支える原子力開発の流れを変えれば、時間はかかってもドイツのように脱原発への道を開くことができるのではないだろうか。

第5章 脱原発に必要なもの

 脱原発の為に原発代替エネルギーの存在を知っていても、それを開発、そして利用していかなければ原発の運転は続いてしまう。では、日本が原発代替エネルギーの開発に積極的になるには一体何が必要となってくるのだろう。
 広瀬隆氏の著書『四番目の恐怖』から文章を抜粋してみたい。
「つまり電力会社と私たちが、この問題で議論を交わすこと自体が間違っているのだ。
 電力会社は、電気を大量に売ることによって莫大な利益を手にする。すでに述べた通り、現実に巨額の金を手にしている。彼らにとって、電気は商品である。商品を売らない商人はいない。
 私たちはそれを買う側である。商人の手口にやすやすと乗るほど愚かではない。相手の嘘に気がつけば、これを無視するのが通常の買い物だ。したがって議論の上では、電力会社の言葉を無視しなければ正当な買い物ができないだろう。
 問題は、電気事業法によって9電力が独占企業として君臨し、自由な発電・売電・買電を許さない制度にある。私たちが9電力からしか電気を買えないという法律があるため、彼らが横暴の限りをつくせるのである。
 これは明白な独占禁止法の違反である。
 前首相・中曽根康弘が“原子力法”を国会に提出してから原子力の時代が幕を開いた、とはよく語られる言葉だが、中曽根康弘の次女・美恵子が嫁いだ相手は、握美直紀だった。握美直紀の父親・健夫は、原子力発電所の建設実績でわが国のトップを占める鹿島建設の名誉会長ではないか。
 熊谷組をしのぐのが、この鹿島建設なのだ。
 しかも握美直紀本人が公正取引委員会のメンバーであれば、一体誰が、この電力会社の独占禁止法を摘発できるだろう。」(出典)。
つまり、前にも触れたが、現在日本の電力会社が電力供給について余りにも独占的な構造を保っていることが、やはり脱原発政策の障壁になっていることは間違いない。消費者はイヤでも決まった電力会社から電気を買うわけだから、その電力会社が「原発が必要だ」、「原発こそが将来のエネルギーを支える」といったことを主張する限り、我々が買う電気は原発に頼ったものになってしまう。日本の電力会社が「脱原発のための原発代替エネルギー開発に積極的に取り組んで行きます」という姿勢に変るようには思えない。エネルギーを支配することは一種の権力を持つことに近いと考える。原子力発電のように余りにも巨大なエネルギー基地を所持する、建設していくことは、その権力基盤を揺るがない確固たるものにする気配さえ感じてしまう。これは電力会社に限らず、原子力政策という国策を掲げる国にも同じことが言えるのではないだろうか。原子力開発からの撤退には、この独占的なエネルギー供給の構造を抜本的に変えることがどうしても必要なのである。
 すでに原発撤退を決定したドイツでは、エネルギー法の改正により、電力供給の自由化が普及した。原子力開発に没頭していた頃はドイツもまた、日本と同じように限られた電力会社が独占的な経営をしていたのである。しかし現在では、電気を作る会社、消費者に配る会社がそれぞれ分かれ、発電、配電ともに消費者が自分の使うエネルギーを選べるシステムとなっているのである。
 アメリカも同じように沢山の電力会社が存在し、電力会社同士で電力の売買も行われている。「いかに安い電力を買うか」が重要になると、原発の電力はコストがかかり、経済的に有利ではない現状が明白になったことが、アメリカが原子力開発から手を引く要因になった。
 しかし、日本ではそうはいかない。福井の原発銀座は京阪神の大都市に送電する電気を作り、福島・新潟の巨大原発は首都圏のための電力を供給する。都会の消費者もいちいち自分たちが使う電気が、まったく違う地域から送電されてくることを考えることもないだろう。危険と隣り合わせの原発の地元住民は、巨額の交付金を握らされる以上、何も言えない立場になってしまう。この「中央のために」という中央集権的なシステムが日本の電力産業をはじめ、全ての産業構造の特徴となり、原発はその象徴とも言うべき立場をとっているかのように見えてくる。
 しかし、前章で解説した通り、今注目を浴びる原発代替エネルギー、新エネルギーはどれも地域の特徴を活かしたものであり、分散型の地域自立的なエネルギー供給の構造をとっているものがほとんどである。
 首都圏の住宅やビルの上に太陽光パネルを設置し、コジェネを導入した生活の場を築けば、電力の自給できるのではないだろうか。それで電力が足りないのなら、首都圏の住民は電力大消費型のムダ遣い社会に浸ってしまった現状に気付くだろうし、そのための省エネ対策にも細かいところから見直すきっかけとなるはずだ。自分たちが使う電力の為に、わざわざ地方の住民に原発という危険な代物を押し付けるようなことをしなくて済むのである。
 原発の地元の住民も、自分たちの使うエネルギーだけを自分たちの町で作れば良いのであり、わざわざ交付金に釣られて、大都市のエネルギーを、危険を侵してまで作る必要は無いのである。電力会社の電気に依存しないエネルギーを得ることができれば、浮いた電気代を交付金の代わりに、暮らしやすい町作りのために使うべきである。
 地方や地域が独立したエネルギー供給をするためには、現在の独占的なエネルギー供給構造を抜本的に改革していくことが必要ではないだろうか。これはエネルギー政策、原子力行政に限らず、戦後の日本における産業界、そして旧式な集権的システム社会、その全てにおいて言えることかもしれない。


おわりに

 東海村の臨界事故からおよそ1ヶ月経った11月11日の毎日新聞において、世論調査の結果、原子力政策に「不信感」を抱いているという回答が53パーセントという結果が発表された。事故を契機に全体的に批判傾向が強まったという解説になっているが、むしろこれだけの大惨事を目の前で見せつけられながら、未だに「原子力開発は続けるべきだ」と答えている人が20パーセントに昇ることの方が信じられない。しかし、国民の日本の原子力政策への不信感がピークに達したのは言うまでもなく、これからは国民一人ひとりが、この原子力行政、原子力開発をしっかりと監視していかなければならないだろう。これ以上の規模の事故は何としても起こしてはならない。次に原子力関連施設における事故が起きた場合、その被害は今回の事故を上回ると予測するべきではないだろうか。もはや安全な原発など存在しないという答えは出てしまったのである。
 世界でも異例の原子力開発国である日本の暴走を止めるには、この国のエネルギー政策のあり方を抜本的に変えて行かなければならないことを本論において再三繰り返してきた。原発というエネルギーは権力に近いものである。原子力エネルギーという権力が日本を、日本国民を支配しているという見方もできるだろう。電力というエネルギーを国と9つの電力会社に牛耳られているこの社会構造を崩さない限り、日本の原子力発電はこれからも開発の道を進んでいくのではないだろうか。電源開発促進税は、我々が電気を使えば使うだけ、国家と電力会社の権力基盤を固めてしまう。この中央集権的なシステムに貢献しているのは、実は電力大量消費社会で伸び伸びと生活してしまっている我々自身であるという事もしっかりと認識して、そしてこれが本当に正しい社会のあり方なのかを考えなければならない。電源特会の8割は原子力開発に用いられていることは述べてきた。この資金の流れを止めること、原子力中心に使われてしまう資金の使い道を変えさせること。これが、国と電力会社の独占体制を変革させ、原発偏重路線の方向転換をするための第一歩であることは間違いないだろう。しかし、そう簡単にこの集権的社会構造は改革できない。だからと言って、我々はこれを見過ごさず、しっかりと監視し、「自分たちの生活のエネルギーのあり方を決めるのは自分たちなのだ」という強い姿勢で社会に臨むことが必要である。
 日本は今尚、官僚国家として、官僚と業界(ここでは特に電力業界)の談合による政策決定がなされている現実社会を否めない。そしてそれに対する批判が少ないことも、電力会社を中心とする原子力産業の思うが侭の社会にさせてしまっている要因であり、現代に生きる日本国民の反省点ではないだろうか。
 エネルギーを「使っている」のではなく、「使わされている」日本の現状に国民一人ひとりが気付き、当たり前となってしまっている日常にふと立ち止まって、自分が今生活している社会は本当に自分たちのものなのかどうか、全ての国民が考える時に脱原発への道が開けてくるのではないだろうか。将来の日本社会の明と暗。そのどちらにしても、我々の暮らしを支えるものはエネルギーである。

 本論文の作成にあたり、準備から執筆に作業を移行しようとした矢先に、東海村の核燃料施設臨界事故が発生してしまった。3年間調べ続けてきた原発問題の総まとめとなる卒論に取り掛かる直前に、日本原子力史上最悪の惨事に遭遇してしまった。いつかはこの様な大事故が起きることは、原発反対派の方々の文献では以前から指摘されてきたことだった。しかし実際に、リアルタイムでこの大惨事を目の当たりにしたとき、「ついに起きたか」などという考えは浮かび上がらず、その恐ろしさだけが衝撃的な印象となった。慌ててその資料の収集に至ったが、まだ解明されていないこと、これから明らかにされていくことも沢山あるはずだ。今後もこの事故を軽視せず、その経過に注目していかなければならない。

 最後に、筆者の3年間のゼミナール生活を支えてくれた同期の仲間をはじめ、先輩方、後輩達には、大変世話になっていることを記しておきたい。また、筆者の学習・研究に対し、惜しみ無く助言、アドバイス、資料の提供等、勉学に励むことができる環境を十二分に与えて下さり、3年間御指導して頂いた大石高久教授に、心から感謝の意を表したい。

                                1999年12月
                                  阿部大輔

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◆毎日新聞社ホームページ。
◆NIFTY SARVE 自然環境フォーラム。
◆NIFTY SARVE 市民・ボランティアフォーラム。
◆Yahoo!JAPAN 掲示板『原子力政策』。