Good-by, Joyner
疑惑が尊敬に変わる時、
それが人生のゴールだと言った、
陸の女王の短すぎる一生。


 フロー・ジョーはいつでも、「仮説と真実」「夢と現実」の間を忙しく走っていた。あまりのスピードに、誰も追いつくことができなかったのかもしれない。9月21日、「フロー・ジョー」フロレンス・グリフィス・ジョイナーが心臓発作で亡くなった。38歳で。

「来年のクリスマスにはもう1人家族が加わることを、アル(夫)と祈っています。東京で走れたことは最高の思い出です」
 '88年のクリスマスに届いたカードには、まだ見ぬ子供への愛情が、童話作家らしい文章でつづられていた。'88年ソウル五輪での三冠(100、200・世界新21秒34、400リレー)、五輪直後東京で行われた国際大会('88年9月)、ビジネスのための来日と、新聞社に勤務していた頃、再三、取材のチャンスに恵まれた。ユーモアと気高さ、その両方が、長い爪やファッションよりも魅力だった。何よりも、女子ランナーに革命をもたらしたアスリートである。
 女子100mで10秒49の世界新記録がでた'88年7月16日、インディアナポリスの競技場には4m以上の風が吹いており、じつは追い風参考記録(2mまでは公式記録に認定される)であるという報道がされた。次には、改修工事を終えたばかりのトラックが、じつは傾斜していたためにマークされた記録ではないか、と記されていた。
 ついには筋力増強剤を常用している、という薬物疑惑があげられた。ソウル五輪で栄光を手にしたあとも、あるいは'89年2月に突然引退したあとさえも、この「仮説」が消えることはなかったようである。'89年突然の引退には抜き打ち検査を拒否したからだ、いや、ソウル五輪で薬物使用が判明したが公開しないことを条件に、早期引退勧告を飲んだのだ、という話もあった。
 しかし、どれもこれもが結局「仮説」で終わった。
 仮説に対して、「事実」の中のフロー・ジョーは、当時もっとも厳しかったソウル五輪の薬物テストにパスしたほか、'87年に7回、'88年で11回の競技会以外の抜き打ち検査ですべて陰性。'88年に取材した際、「禁止薬物は一切使用していない。筋肉の生成にはアミノ酸が重要なので、注意して摂取しているくらいです。一生かけても、不当な疑惑を尊敬に変えていきたい。それが自分のゴールだと思う」と、優雅な笑顔を見せていた。
 厳しい練習もまた「事実」だった。短距離ではなく400のインターバルを中心にした中距離走で、かなり心肺機能への負担をかける練習をこなし、練習時間は6時間を超えると説明していた。死後も、多くの仲間が「10秒49をマークする前と後で、彼女の練習には少しも変化がなかった」と、努力の人であることを強調している。
「現実」と「夢」の間の行き来も激しかった。「現実」では、ロスのワッツという貧しい地区で未婚の母のもと、10人きょうだいと共に育ち、子供時代には喘息を患ったこともある。そうした境遇から「いつか子供たちのためのスポーツ財団を作りたい」と話していた夢も、引退後に叶えている。子供が欲しいから引退する、と話した通り、'91年にはマリー・ルースちゃんも誕生。デザイナー、童話作家、詩人、モデル、テレビタレント、ボランティアリーダー、政府諮問委員と、「夢」を次々と忙しく叶えた反面、昨年は極度の疲労から発作を起こしたとも言われる。じつは、重大な心臓疾患を抱えていたとの指摘もある。
 現実と夢、仮説と真実。彼女は常にこの間を生真面目に行き来していたのだと思う。アメリカでは、彼女の死を、「怪しい」という前提で語ることは控えられている。なぜなら、真実と現実の中で生きた彼女の努力こそが、いかに偉大だったか、いかにアメリカ社会に浸透するものだったか、それが理解されているからだ。女性アスリートが真に尊敬に値するということを、走ることのみによって世界中に伝えたのではないか。
 フロー・ジョーは100mをたった10秒49で駆けたスピードのまま、一生を走り切ってしまった。心残りは、彼女が東京で話してくれた「自分自身のゴール」にはまだたどり着いていなかったことだろうか。
 今こそ、疑惑や仮説なしに、1人の女性アスリートに敬意を表し冥福を祈りたい。

Number 455 より再録)

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