清水宏保(スケート)

アエラ「この人を見よ」より


*清水宏保(しみず・ひろやす)……1974年2月27日、北海道生まれ。幼稚園でスケートを始め、93年2月のW杯バゼルガディピネ大会500で初出場初優勝。98年長野五輪で金メダル、3月の世界選手権で世界記録を樹立。

なおも模索するハングリーな精神

 外車の後部座席には、喘息用の吸入器が投げ出してあった。
 高級車と呼吸器──。
 5月、三協精機を退社し、フリーの立場で競技を続ける意向を明らかにした清水宏保(24)と、あるシンポジウムで一緒になった。
 冬季五輪スピードスケート(500メートル)の金メダリストを、いまさら取り上げることはないのではないか。そう思われるだろう。
 しかし、一般的に言えば、「世話になった」長野の企業を電撃退社してまで、清水が変えようとしているのは、この「季節もの」という周囲の評価なのかもしれない。
 だからあえて、夏の清水を書こうと思う。 
 喘息が持病である。
 スポーツ選手の中では特に珍しいことではない。しかし、今でも発作に苦しんでいる選手は多くない。
「特に辛いのは実はオフ、つまり体を一休みさせている今頃です。肺の機能が落ち始めると、すぐに発作が出ます」
 その状態が落ち着くと、次のシーズンを迎える準備に入る。
「この時はさらに苦しいんです。練習量を少しずつ上げ、喘息の肺を、スケートで戦える肺に作って行く。正直言って、これが一番辛い。もうこれで終わりか、というくらいに苦しい。しかし、ひたすら耐えて、耐えて、戦うための肺を作るしかないんです」
 スケートの500メートルも、陸上の短距離同様、無酸素で走り切らねばならない。
 つまり、発作で呼吸ができないという状態と、無酸素でもなお最大のパワーを発揮するという状態と、全く矛盾する2つの機能を肺に宿さなければならない。
 夜の闇で1人、発作に耐え、肺を作る苦しみはまさに「これで終わり」と表現するものなのだろう。
 背は低く、喘息もある。
 だからこそ、コンプレックスをバネに、競技における科学性と、独自性に徹底的にこだわる以外に生き抜く手段はない。
 彼のトレーナーに以前、こんな話を聞いたことがある。
「普通はこの筋肉をほぐして欲しい、という。清水君は、筋肉のどの繊維をほぐし、どの繊維はほぐさないでくれ、と言う」
 長野五輪でも、金メダルをかけたレース直前に「筋肉と対話をしていた」と口にしていた。 自らの肉体をチューニングし、彼の好きな車のように走らせる。夢だったスラップスケートでの世界記録(34秒82)を樹立し、そのことにおいて清水は職人であり、すでに世界トップのプロフェッショナルである。
 退社した今、唯一の武器はこの技のみで、これを軸足にする以外に道はない。利き足をいくら動かしても、軸足を少しでもズレてしまえば、社員という立場を離れての自由な活動も、スケートをメジャーにするという夢も、達成されない。本人もわかっているはずだ。
「周囲の心配は有り難いです。でも安住の地(会社)を去ること自体にも、意味はあるんです」
 高級車と吸入器。
 金メダルという達成された夢と、なおもハングリーな精神をあらわしているように思える。
 妙な取り合わせこそ、清水の生き方なのかもしれない。

AERA・'98.7.6号より再録)

HOME