小説「名探偵・桑形孝三の事件簿」 その1

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「私は、箍枠十船(たがわく・とぶね)の妻です」

女は入って来るなりそう告げた。暑い夏の最中の事である。
ビルの5階にある桑形探偵事務所に入ってきた女はやつれて見えた。暑さの所為ばかりではないようだった。

「ほら、八条君冷たいものをお出しして」

この部屋の主である人物、桑形孝三が私にそう言ったので、慌ててキッチンに行き、アイスコーヒーを持って戻ってくると既に依頼人は話し始めていた。

「・・・で、ご主人、十船さんは浮気をなされたというのですか・・・?」
「は、はい・・・。はっきりとした事は分からないのですが・・・」
「そりゃあこっちも分からないですがね。順を追って説明して下さい。確か階下の興信所を利用なさったと聞きましたが・・・?」
「あ、はい・・・。自分でもどうして良いかわからなかったので・・・。」
「まぁいいでしょう。始めて下さい」

そう言って桑形は話を促した。

「・・・主人の様子がおかしくなったのは・・・今年の6月位からです・・・。今まではそんなことなかったのに・・・どうして・・・どうして・・・」
「奥さん、泣かれては困りますよ。先を話して下さい」
「・・・そうですね、ごめんなさい・・・。6月頃急に、その・・・主人の持ってかえってきた袋の中に女性のストッキングがあったんです・・・」
「!?女性のストッキング?」
「は、はい・・・」
「その他には何か?」
「バナナがありました。また、その頃から週末夜な夜な出かけて行くようになりました」
「ははぁ・・・。何をされに行かれたのですか?」
「私にはただ『男の付き合いだ』とか言ってくれませんでした・・・。まさか・・・他の女性と会っていたなんて・・・」
「女?ご主人は女性と会われてたというのですか?」
「信じたくはありませんが・・・そうなのでしょう。先ほどの話にも出てきましたが興信所の人が、主人の車に盗聴機をしかけておいてくれたんです。これがその・・・内容です」

そういって女はバッグからテープレコーダーを取り出し再生ボタンを押した。
雑音に混じって男性の笑い声が聞こえる。

『ははは、そりゃあ良いだろう、箍枠君!』

「この声の人が主人を夜に連れ出しに来る奄美部長です。主人の上司です」

『確かにいいですね!サキシマは!あとツシマ君も捨て難いですよ!まぁどちらも非常に魅力的ですね!迷っちゃいます!』

「・・・この名前に聞き覚えがあるのですか?」私が恐る恐る聞いた。
「・・・え、ええ。咲嶋さんも津島さんも同じ部署のOLだそうです・・・」

テープは際限なく状況を再生して行く。

『しかし箍枠君、やはり本家はヒラタだろ!ヒ・ラ・タ!』
『やはり本線は大事ですよね〜』

「平田さんは・・・秘書課の人で、社内一の美人な方なんだそうです・・・」

女性として発言しにくい内容なのであろう。俯いて震えるように声を絞り出していた。
しかしテープの中の旦那は何を考えているのだろうか?
奥さんがこれだけ苦しんでいるのに、やれ咲嶋さんだの津島さんだの平田さんだの四方八方に粉を掛けているではないか。同じ男として気持ちは分からないでもないが、やはり許せない。

『でも僕が一番好きなのは・・・』
『わかっとるよ、ミヤマ君だろう』

「このミヤマさんというのは?」
「・・・分かりません。心当たりもないですし、社内名簿を探してみたのですがありませんでした・・・。興信所の方も是ばっかりはお手上げだ、とおっしゃられまして・・・」
「ははぁ、成る程・・・そしてどうやら浮気だけではない、とそのような様子なのですね」
「はい、先日の事なのですが・・・。鉈を買い込んできたんです・・・」
鉈!?

ついつい私は素っ頓狂な声を揚げてしまった。

「あ、し、失礼。いや・・・その。御主人は日曜大工か何か、なされるようなことは? 」
「・・・一度もないです」
「なのに、鉈、なんですね?」

桑形は尋ねた。女は黙って肯いた。

「それに・・・。先日、寝言で・・・」
「御主人が・・・何か?」
「ええ、『ちゅうけん、ちゅうけん・・・』とうなされているのです。私には何が何だか分かりませんでした。ですから翌日尋ねてみたのです。『昨日"ちゅうけん"ってうなされてたようだけど、何なの?"忠犬ハチ公"の事?渋谷に何か用でもあったの?』」
「そうすると・・・どうでした?」
「急に主人は真面目な顔になって・・・ 『"ちゅうけん?"ハチ公?渋谷?渋谷ならシガ ・・・、いや何でもない。あはは、それはお前何か聞き間違いじゃないのか?』 って、逸らかされました」
「渋谷ならシガ・・・と?」
「はい、渋谷ならシガ、と言ってました。間違い無いです。でも何何でしょうね、"ちゅうけん"ってハチ公の事ではないんでしょうかね?」

女は雰囲気にやや慣れてきたのか少し微笑みながら言った。

「・・・まだこの話がどういう物なのか判断材料が少ないみたいですね。分かりました、こちらの方でも然るべきところを当たってみたいと思います」
「ときに御主人のお勤め先をお教え下さると幸いです」
「ああ、うっかりしていました。勤務先はこちらですので・・・」

と旦那の名刺を差し出し、丁寧なお辞儀をした後、女は帰っていった。

< 続く >

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