いまは亡き同期の友たちに



 
 高校卒業後四〇年という時間の隔たりは、否応なく一人一人の人生を変えてしまっています。

 
 
 親しかった同期の友、そのうちですでに物故者となられたひとも決して珍しくありません。
 
 四〇年を記念するという一つの区切りを目前にすると、なにか感傷的にもなり、もうこの機会にも再会することは決してかなわないひとりひとりの顔が浮かんできます。

 
 
 IM君、彼の訃報は衝撃的でした。まじめで、理論家で、健筆で、行動的でもあって、よく一緒に組んでいた彼、在学中に、『学生公論』誌にともに「論文」(のようなもの、いま読み返せば、顔から火が出るどころか、すぐに身を隠したい思いに駆られる代物ですが)を載せていた彼、その彼が大学入試に思うような結果を得られず、精神的に参っているといった風の便りを耳にしたと思ううちに、「Iさ、死んだんだって」という噂が舞い込んできました。嘘だろう、そんなことあるわけない、そう思いたいと必死に言い聞かせていても、「I君の葬儀に参列してきた」という証言まで聞き、一縷の望みも絶たれてしまったのでした。

 
 結局、生前の元気なI君の姿がそのまま目に焼き付いたきり、四〇年近くのちのいまに至るまで、I君の死の「真相」といったものはわからないままでもあります。たしかに、ちょっとエキセントリックなところもあったけど、いつもユーモアに富んでいて、才人でもあった彼は、あまりに早く人生を突き進んでしまったのかも知れない、そんな風に信じるしかありません。「もし、彼が生きていれば」、そう想像をするのもむなしくはありますが、きっととても大きなことをしたに違いないけれど、やはりI君は「神々がめでし」ひとだったのだと、ここに記すことだけが意味あるような気がします。凡才は以来しぶとく生きながらえてきました。それだけを誇りとして、そしてI君にこたえのない問いを時に発しながら。「君とぼくとがそれぞれ逆の人生を歩んでいたら、どんなにたくさんのしごとをしてきていたかな」、と。



 
 
 TK君、彼もまじめ一方で、責任感つよくて、もっとエキセントリックで、でもあきやすく、あんまり受験的お勉強は好きではなく、しかしなにかに絶えず打ち込むタイプでした。なにより、「これからは中国語だ」、いや「朝鮮語だ」と、当時は国交もない間柄に対し、世の流れにあらがうように学習に励もうとしていた、そこがずっと印象に残っています。ひとりのこらずが、「どこかひとと違う」、「一芸に秀でている」、「ガリ勉は好かないが、見えないところで猛勉している」、そんな姿勢にカッコつけているような高校の気風にあって、そのどれにもなりきれず、反発と劣等意識のみに落ち込んでいた私と、T君とは「似たもの同士」ではなく、「似ないもの同士」の親しさめいたものがあったようでした。二人でいろいろな夢、いや夢というより空想をよく語り合っていたものと思い出します。

 
 世の流れが「日中友好」だなんだと変わり、しかしかの国の「文革」の嵐にあおられ、世相は混沌としていたなか、暴力と破壊が席巻していた大学でも、「運動」の渦中であれこれ悩んでいたらしい、そして決して丈夫ではなかった痩躯にむち打って、新しい挑戦に向かおうとしていた矢先、T君は急病に斃れました。誰もが異口同音に申していました、無理をしすぎたんだ、それは誰の目にも明らかだったのでしょう。

 
 T君の葬儀で、遺影に手をあわせ、別れを告げたときも、なぜかあまり悲しみの実感がわきませんでした。あまりに早く駆け去っていったのは間違いないことであっても、T君の場合はその彼が歳を重ね、俗塵にまみれて生きているという姿の方が想像できなかったためかも知れません。あの、詰め襟学生服で飄々として、ちょっと不器用で、でも忘れられない印象を残してくれていたT君、彼にももう会うことはできません。



 
 
 同期生にも青春の荒波は早くから犠牲を強いてきました。学校祭に向けて徹夜続きで頑張り、たおれてそのまま意識が戻ることのなかったIHさん、在学中に、自動車事故を起こして亡くなったSH君、あるいはドラマを地でいくような波瀾万丈の生き方のあげく、二〇代で心中死したISさん、こういった人たちのことは同期生に鮮烈な印象を残したままになっています。でも、それだけではなく、年月を経るとともに、あまり知られることもなく、世を去っていったひとたちも少なくありません。それは同期生の集まりを呼びかけ、それぞれのいまをたぐり寄せようとするうちに、見えてきてしまう冷厳な事実です。

 
 受験に否応なく翻弄され、ちょっと変人の集まっていたせいもあってか、なにかまとまりようもなかった三年次の同組、その中でいまはすでにこの世にない人たちは何人もいます。若くして亡くなり、ほんとうに美人薄命の思いに駆られたSKさん、彼女のさだめには悲しい思いをしました。でもそれだけでなく、すごい勉強家で、授業のたびに先生もうならせたMMさん、一見ぼやっとしているようだけど、猛勉で東大に入ったAY君、物静かで控えめだったINさん、この人たちがもうこの世にいないというのも、とうてい信じられない思いですが、それは次第にわかってきた同期生の消息の一部という、動かしがたい現実でした。

 
 高校卒業アルバムのページには、この人たちも変わらない姿で写っています。ちょっと微笑んで、あるいはなにかはにかんで、そのまま記憶のうちにも焼き付いています。誰のアイディアか、このアルバムで私の組では集合写真の並び順のままに、全員が氏名を自署していました。ですからその筆跡には四〇年の時空を超えた生々しい息づかいが太く記されているようでもあり、よけい寂しい思いがします。

 写真中央に写っている担任のW先生、私は一年次と三年次とこの先生が担任で、さらにご丁寧に大学に入ったら、クラス担任(当時はそういったものが大学にもありました)がW先生の旦那のほう、ほんとうに無理矢理の長いつきあいでした。そのW先生には反発抵抗ばかりしていたのが私で、延々とその罰を受けるよう定められたような思いもしますが、W先生も昨秋亡くなられました。今年の、私たちの卒業四〇周年の機会にお招きできなかったのは心残りでした。高校時代には逆らってばかりでしたが、その後は、W先生ご夫妻にはなにかとお世話になり、ずっと歳を召されてからも賀状だけは頂いておりましたし。

 
 W先生を囲んで並んだ同級生の笑顔、あるいはちょっとうつむいた顔がそのまま四〇年の歳月に洗われていまあるのであれば、その笑顔にふたたび会えるのであれば、どんなによいかとも思います。人間歳をとるのはしかたのないことだけれど、でももう世を去ってしまった、あまりに早すぎる、そんな人たちの顔がいくつも並んでいます。この古い写真のうえでだけ再会できる友たちです。



 
 
 すでに会えなくなってしまった同期の友たちも、この四〇周年の機会に私を含め、その存在を思い浮かべ、多くの思い出を呼び覚ますものたちがいれば、どこかでひそやかに喜んでいてくれるかも知れません。そう信じたい、ふと考えます。