この邦訳に関して記録に残しておきたいことがあります。

 
 この拙訳は私の前任校の学内研究誌に掲載をしました。
 
 訳の出来具合はともあれ、すでに15年以上が経過した現在も、「歴史的資料」としての価値はあると思います。EC・EUにおける中小企業政策の展開の初期段階を示す材料だからです。
 
 ところが、これを掲載して以来あちこちから問い合わせもあるので、手元の抜き刷りもなくなり、バックナンバーを提供できるかと探してみたところ、それほど歳月も過ぎていないのに、なぜかこの掲載号だけが書庫に残っていません。だいたいあちこち交換送付する分以上の刷分はそのまま「デッドストック」化し、包装されたままいつまでも場所をふさいでいたずらに変色古書化の道をたどるのに、この掲載号はそのあるべき場所にないのです。担当者に聞いて、真相がわかりました。
 
 この掲載号に別の論文を載せた某氏が、自分の授業で使うと言って、ストックをみな持って行ってしまったというのです。こういう行為はそもそもルール違反です。大学のカネで出している研究誌を特定の個人が誰の了解もなく独占するようなことは当然認められません。抜き刷りのほか、自分用の若干のストックは良識の範囲で排他利用もできましょうが、全部持って行ってしまうなどというのはあってはならない話ではないでしょうか。もちろん当該号に寄稿した、私やほかのひとたちにはなんの断りもありません。
 
 この某氏は、自分の担当授業でこの自稿を「参考資料」として学生に配ったようです。まあ「教育的な利用」であることは認めますが、そういうことはやらないのが仁義です。これをやったら、研究誌はいくら刷っても足りませんから。

 
 
 かくして、私の翻訳稿を載せた研究誌当該号はことごとく学生の手に配られ、そして消えてしまいました。その学生のうちで、「これは○○先生の貴重な論文が載っているのだから」と永久保存したものが何人いたでしょうか。残念ながら想像するに、ほとんどがそのままゴミ箱に直行したか、漫画雑誌などとともに古紙回収に回ったことでしょう。どこかで「市場」に回って生き残った可能性は低く、地上から永久に消えた可能性大です。某氏の「教育的配慮」のおかげをもって、私の翻訳稿も葬り去られました。いまも、大学の図書館や資料室の書棚には、「保存用」の一、二部は残ってもいましょうが、まことに不便な結末となったものです。
 
 このルール違反を堂々とやった某氏は、以来なんらの反省も自覚もないでしょう。当時の事務担当者も、こうしたことは許されないと理解していたものの、「あの先生は怖いから」と認めてしまったと告白しています。無法もいいところです。このひと、そのほかにも学部内の申し合わせ事項を平気で破っていました。大学というのは、声が大きければ、強面であれば、無法を許す体質がある「良識の府」なのです。

 
 ここまでは敢えて私が言うべきではないと自覚はしますが、この某氏の「論文」にどれほどの価値があるのか、私のような門外漢には単に「相も変わらぬ」ああでもない、こうとも言えるといったお話しのつらつらにしか読めないのですが。少なくとも、私の「資料的価値はある」邦訳がこれと心中させられ、ゴミ箱行きにさせられる理由が十分あるとは思えません。