最高裁判決勝利を期待するメッセージ (1997年8月20日付「教科書裁判ニュース」第352号)
大田 昌秀 (おおた まさひで・沖縄県知事)
森村 誠一 (もりむら せいいち・作家)
吉永 小百合(よしなが さゆり・女優)

教科書裁判と私
吉永 小百合(よしなが さゆり・女優) (1992年11月20日付「教科書裁判ニュース」第295号)
坂田 明  (さかた あきら・音楽家) (1993年 3月20日付「教科書裁判ニュース」第299号)
新屋 英子 (しんや えいこ・女優) (1994年12月20日付「教科書裁判ニュース」第320号)
佐野 洋  (さの よう・作家) (1995年 4月20日付「教科書裁判ニュース」第324号)
藤本 義一 (ふじもと ぎいち・作家) (1997年 5月20日付「教科書裁判ニュース」第349号)
佐高 信  (さたか まこと・評論家) (1997年 1月20日付「教科書裁判ニュース」第345号)
川田 龍平  (かわだ りゅうへい・東京HIV訴訟原告) (1997年 7月20日付「教科書裁判ニュース」第351号、

「戦後50年」と教科書裁判
本多 勝一 (ほんだ かついち・ジャーナリスト) (1995年 1月20日付「教科書裁判ニュース」第321号)


最高裁判決勝利を期待するメッセージ

大田 昌秀(おおた まさひで・沖縄県知事)

 去る大戦において沖縄県は国内で唯一、一般住民を巻き込んだ地上戦の場となり、二〇万人余の貴い生命と文化遺産をことごとく失いました。人間が人間でなくなった極限の状況下では、悲惨な出来事が惹起されました。
 次代を担う若人に、こうした歴史を正しく伝え、平和の尊さを訴えていくことは、私たちに課された使命であり、責務であると考えます。
 悲惨な戦争が再び起こらないことを願うとともに、家永先生のこの間の御苦労が報われますよう期待しております。


森村 誠一(もりむら せいいち・作家)

 教科書裁判は日本の民主主義の礎を守る闘いである。教科書に国が介入して政府に都合がよいように歪める。これはファシズム時代となんら変わりがない言論と思想の統制システムである。こういうシステムを許すことは民主主義の放棄であり、人間性のあらゆる自由の圧殺を導く。
 教科書裁判を闘いぬき、勝利することは人間らしい生活を守るための基本的な闘いであります。最高裁勝利を祈念して止みません。


吉永 小百合(よしなが さゆり・女優)

 子どもたちが、教科書で歴史の真実を学び、平和の尊さを知ってほしい。二一世紀に世界の人々と手をとりあって生きる人間になってほしい−−私は今、そう願っています。
 そのためには、家永先生の教科書裁判が勝利することが不可欠です。最高裁の判決が素晴らしいものになりますよう心待ちしています。

(1997年8月20日付「教科書裁判ニュース」第352号)


教科書裁判と私
もう黙っているのはやめにします

吉永 小百合(よしなが さゆり・女優)

 一九四五年に生まれた私は、東京大空襲の焼けあとや、くずれた防空壕を遊び場にして、幼年時代を過ごしました。小学校、中学校で太平洋戦争のことを学んだ記憶はうすいのですが、親の話を聞いたり、戦争の残骸を見ながら育ちました。ですから、戦争に対する強い嫌悪感を持ち続けています。
 いま、子どもたちに戦争のこわさ、悲しさを教える事が出来るものは、教科書です。その教科書に歴史の真実を記述することが出来ないということは、ほんとうに恐ろしいことです。検定によって教科書が歪められてしまうなんて、とんでもないことです。
 家永先生の長い長い教科書裁判を、いままで陰ながら応援して来ました。
 でも、もう黙っているのはやめにします。
 今こそ、子どもたちと共に、私達大人も、ほんとうの歴史を学び、未来に向かってきちんと歩いていくべき時だと思います。

(1992年11月20日付「教科書裁判ニュース」第295号)


坂田 明(さかた あきら・音楽家)

 家永先生の教科書裁判でまっさきに思うことは、「人間は歴史を学ぶことはできるが、歴史から何も学ばない」という誰かのいったことばです。実にスルドク深い。 歴史は常に為政者の都合に合わせてつくられ改竄されてきた。被支配者側の歴史は力でねじ伏せられ切り捨てられてきた。戦後間もない頃教育を受けた僕らでさえ、この日本列島の「蝦夷」や「熊襲」といった民族は歴史の初めから征伐されるものとしてしか登場していない。
 「蝦夷や熊襲」がいったい何んだったかを書いた教科書はどこにもなかった。
 現代社会は人が人を支配し民族が民族を支配することが民主主義という美名のもとに公然と猛威を振るっているが、民衆は物質文明の見かけの豊かさの前で貧困な精神生活に浮かれている。狂気が正常な人々に支えられた時に戦争がおきる、と誰かがいっているが、そこら中でおきてる戦争に平和のための戦いもクソもない。そこにあるのは自己正統化と相手を支配下におくためだろう。現代の日本の経済の発展は古くは「蝦夷」や「熊襲」と呼ばれた民族、明治以降は、北海道のアイヌ民族や沖縄の人々、朝鮮半島、中国、台湾の山地民族、東南アジアの民族などの多大で悲惨な犠牲の上に成立していることをはっきりと認識する必要がある。地球上のすべての物質、現象そしてすべての生き物がこの宇宙の中ですばらしい循環と食物連鎖によって成立していること。つまりそれらはお互いに育てあっているのである。何かが形を変えたり死んだりすることが生命を支えているのである。アイヌ語でウレシバモシリという言葉の意はお互いに育てあう世界、つまり地球のことだ。それは人が人を支配したり、民族が他の民族を支配する文明の哲学とは根本的に違うものだ。
 教科書裁判で家永先生の闘争が陽の目を見ることと同時に、我々人間が人間中心主義を捨て、自然との共生、異民族同士の共生を考えて行動におこす時代に入ってきている。

(1993年3月20日付「教科書裁判ニュース」第299号)


新屋 英子(しんや えいこ・女優)

 陸軍師団司令部軍管区経理部筆生として下士官待遇の女子軍属となり、大阪城内に通勤することになったのは、一九四五年三月、女学校を一年くり上げ卒業させられた十六歳の春でありました。
 ススメ ススメ ヘイタイ ススメ の教科書が頭の中に焼きつき、高射砲と仇名された校長が、連日朝礼で日本軍の戦勝を伝え、一億一心・忠君愛国を鼓舞し、三年生からは英語も廃止、さらに動力ミシンに向かって軍服を縫う毎日となりました。 陸軍新鋭司令部偵察機の操縦将校であった長兄にも影響され、軍国少女であった私は日本軍隊に志願したのです。
 いや、軍という優越意識がいつの間にか私自身をあおり立てて行ったのでしょう。
 度重なる大阪大空襲で家も消失、疎開先から往復三里の道を歩いて通勤しましたが、一九四五年八月一四日、命令で兵庫県氷上郡へ木材伐採のため将校の秘書になって、労務者、下士官、動員学生などと出発、一五日の重大放送は役場で全員が直立して聞きました。雑音のため、「玉砕するまで戦え」との檄であると勝手に判断していた私は、直属上官の少尉がいきなり軍刀を叩きつけ、「日本は敗けた、今日からわしらの世の中や」と叫んだのを見て仰天しました。
 「この人はおかしくなった」と思ったのですが、学生たちまで、「本当に負けたんだ」というのです。
 私は、「日本は神の国だから、負けそうになったら神風が吹く」と怒りました。
 この将校は戦時下の軍隊で、学徒動員の生徒たちに敗戦を予告し、平和を説き、民主主義の大切さを教えていたのです。
 一九四五年八月一五日、私の真の人生はここからはじまりました。
 家永先生の三〇年にわたる教科書裁判は、日本人が人間としての道を譲らないための根本思想確立の大ロマンでありました。
 先生と志を同じくして私も生きたいと思います。

(1994年12月20日付「教科書裁判ニュース」第320号)


佐野 洋(さの よう・作家)

 現在、ある犯罪にからんで、一つの宗教団体がクローズアップされている。その団体が問題の犯罪と関係があるかないかは、今後の捜査を待つしかないが、テレビでその集団の信者たちを見ていると、恐ろしいなあ、という思いに襲われてくる。彼らの姿と、こどもの頃の私自身とが重なってしまうのだ。
 中学生のころ、私は特攻隊の話を耳にするたびに、自分を情けなく思った。
 「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」の教科書で育った私は、もちろん愛国少年ではあったが、それでも、国のために進んで命を投げ出すという心境にはなっていなかった。
 だから、特攻隊の人たちに比べると、自分はまだ修養が足りない、あと二、三年のうちには、死を恐れない境地に達しなければならない、と本心から焦ったものだ。
 現在、その宗教団体の若い信者たちは、世俗的な欲望が心にきざすと、それは自分の修業が足りないからだと、自分を責め、最終解脱を目指して、うまくもない食事を我慢しながら口に押し込んでいる。
 テレビや一般の新聞は、修業の邪魔だからと、接することを禁じられているらしい。それは、ちょうど戦時中の私たちが、国の外の情報や意見に接することが不可能だったのと、同じである。
 情報を管理し、ある特定の情報を与えられると、人間はどうなるのかの典型を、そこに見ることができる。
 検定という名の『教科書統制』は、こどもに特定の情報のみを与えることによって、一つの鋳型にはめ込もうとする企みだと思わざるを得ない。
 三十年以上に及ぶ家永先生の『教科書裁判』闘争は、日本を昔のような国にしないための戦いであり、だからこそ、心ある多くの国民が自分の問題として支援しているのである。

(1995年4月20日付「教科書裁判ニュース」第324号)


血まみれの代弁者

藤本 義一(ふじもと ぎいち・作家)

 家永三郎先生と一緒に講演したことがある。前座を勤めた私は、戦争の悲惨さと空襲で失った人たちの話を体験として語った。憲法記念日だった記憶がある。
 「裁判は先生のほうに向かっていますね」
 といった会話をした。先生のおだやかな目が忘れられない。あれから、もう四半世紀が過ぎた。教科書裁判三十二年目だ。まだ決着がないというのはどういうことなのか。
 この間に震度七の激震に遭った。脚を痛めた。が、これは天災だ。生きていることより生かされていることを天に感謝しよう。
 だが、戦争は人災だ。その人災を教科書で真摯に訴えるのがなぜいけないのか。厚過ぎる検定の網の目とは一体なんなのか。天災は長い歳月をかけて復興する。人災を長い歳月の中で風化させようというのだろうか。
 私はアンケートにはなるべく答えるようにしている。『新しい歴史教科書をつくる会』にも答えた。−−冷静に判断すべき、と。ところが、このアンケートを出したものは即入会者となったのには愕いた。アンケートに答えれば、逆の立場の人間になる恐怖を覚えた。
 冷静な判断というのは、人災の人災たる所以をより的確にそして具体的に子どもたちに伝える方法という意味であるのに、そのもっとも重要な点が理解してもらえなかった。曲解されてしまった。そういう曖昧な時代が現代の摩訶不思議な方法論と握手するのが怖い。
 焼夷弾を頭部に受けて死んだ小学時代の友人、機銃掃車を背から受けて死んだ中学時代の友人の血痕がまだ鮮明に脳裏に焼き付いている。この被害の裏側にある加害された人の被害も多々あるわけだ。人災は洗いざらい伝えなくてはいけない。それが実際に戦争を体験したわれわれの責務ではないだろうか。
 あの血まみれで逝った友人たちの主張を私は代弁していこうと思う。家永先生と共に。

(1997年5月20日付「教科書裁判ニュース」第349号)


忘れられない指摘

佐高 信(さたか まこと・評論家)

 私たちは勝てるから闘いに立ち上がったのではなく、闘わなければならないから立ち上がったのだ−−。
 この裁判の過程で、家永三郎さんが、こうした意味のことを言っているはずである。
 私は一九六七年春から七三年夏まで、郷里の山形の高校教師をしたが、先輩に家永門下の前田光彦さんがいたこともあって、この訴訟を私なりに支援してきた。
 その中で、この言葉にハッとしたのである。目前の勝敗に一喜一憂することなく、平常心を保って進んでいく。
 家永さんのこれまでが、まさにそうだったのだろう。勝てるから闘うのではなく、闘わなければならないから闘う。言われてみれば当然のこととはいえ、なかなかこういう気持ちにはなれない。
 私の好きな魯迅が、少し違うが、似たようなことを言っている。つまり、つまり、自分は行く先が明るいから歩いていくのではない、たとえ行く先が暗かろうとも、歩いていくのだ、と。
 「展望」とか、「予測」というコトバが私はあまり好きでない。何か、前途に光明があるからと、釣っているような気がするからである。
 暗闇があるから、それともみ合う。闘わなければならないものがあるから、それと闘う。それでいいではないか。いや、それでいいではないか。いや、それしかないのではないか。
 すぐにテンボウとか言いたがる人間たちに、意図的にではなく冷水を浴びせた家永さんの指摘が、私はいつまでも忘れられない。

(1997年1月20日付「教科書裁判ニュース」第345号)


川田 龍平(かわだ りゅうへい・東京HIV訴訟原告)

 中学校の社会科教科書の慰安婦の記述をめぐっていろいろな立場の人が、「強制連行はなかった」と言いますが、許せません。
 歴史を隠蔽したり、歴史的事実を否定することは、その歴史にかかわる人の存在が否定されるということです。事実あったことなのに、なかったといわれることは、人間としての自分の存在が認められないことなのです。薬害エイズでも、沈黙を強いられ、隠され、「自分の存在」を消されてきました。ぼくたちは国や製薬会社に心から謝罪してほしいと思って裁判をたたかってきました。真相が解明されないままでは謝罪ではありません。責任をとる人が責任をとっていません。
 真相を明らかにしてほしい、心からの謝罪をしてほしい、責任者がとるべき責任をとってほしいなどをぼくたちは要求しています。これは元慰安婦たちの要求と共通しています。
 一昨年の九月に沖縄に行き、平和祈念資料館を見学してきました。その中の「集団自決」の写真が一番印象に残っています。家族で殺し合った後の死体の横たわる写真を見たとき、戦争の責任が曖昧にされていると強く感じました。ドイツでもナチスが大量虐殺の事実がなかったかのように証拠隠滅を謀ったと聞いていますが、現在ではしっかりと証拠を残し、歴史を心に刻もうとしています。歴史の事実を隠したりした方が、子どもたちは自分の国に誇りがもてなくなります。真実を教えて子どもたちに判断する力をつけさせることが大切です。
 ぼくの友達は次々に死んでいます。いえ、殺されていっています。ぼくたちのような苦しみはもう誰にも味わわせたくない、殺されたくないと思っています。人は楽しく生きたい。でもそれは社会が平和であり、命や人権を大事にする社会であってはじめて本当に楽しく生きられるということを、ぼくは薬害の被害にあってはじめてわかりました。
 これから社会を良くしていくためには教育が重要です。だからぼくは、高校の社会科の教師になりたいと思っています。若い人が自分の頭で自分たちの将来を考えられるような教育をしたいと思っています。

(1997年7月20日付「教科書裁判ニュース」第351号、1997年5月31日「教科書に真実と自由を」集会での発言を、同ニュースの編集部がまとめた)




「戦後50年」と教科書裁判

本多 勝一 (ほんだ かついち・ジャーナリスト)

 今年は、「戦後五〇年」という十進法での数字上の節目にあたるというので、マスメディアをはじめとしてさまざまな企画がすすめられている。つまり一二進法や二十進法だと無意味な年になり、こうした「何十周年」的行事にあまり私は熱中できないが、このさいそれは措くとして、教科書裁判には二重の意味で「世界最低の日本」を痛感させられる。
 その一。たとえば最近、アメリカ合州国が原爆の記念切手を売りだすことにしたところ、国民感情を逆なでするものとして日本が抗議し、結局この切手は中止になった。この抗議自体は理解できる。だがそれでは戦後の日本で伊藤博文を千円札(一九六三年発行)のカンバンにしているのは、朝鮮や韓国の国民感情を逆なでしないのだろうか。あの地では、伊藤博文は日本の原爆以上に怨念の象徴である。反対に、原爆は゛天罰゛であり、朝鮮・韓国解放への促進剤であった。原爆といえば、最近日本で成立した被爆者援護法は「在韓被爆者」に対してどうなのか。
 これらはごく最近の一例にすぎないが、「戦後五〇年間」の日本は、こうした「自分たちの勝手」「手前の都合」だけの反国際的行状を山と築いてきた。文部省検定教科書はその典型だから、そんな教育によって反国際的日本人を拡大再生産している。  その二。教科書裁判は、日本の裁判がいかに堕落しているかを示した。私も「南京大虐殺」の項目で証人のひとりとして法廷に立ったが、裁判官の証拠採用ぶりは、ひたすら文部省(体制権力側)の意をくむばかり、もはや論理も事実も知ったことか、殺人犯や強盗犯でもここまで無茶苦茶な虚偽・歪曲をやる例は少ないだろうと思ったほどである。
 司法(裁判)は、この五〇年間にすっかり独立性を失い、三権分立を消滅して体制権力と癒着し、一権集中独立国家の番犬と化してしまった。その内実については近く『週刊金曜日』誌上で元裁判官の内部告発として連載する。

(1995年1月20日付「教科書裁判ニュース」第321号)


はじめの部屋