あの日にかえりたい

悩みなききのうのほほえみ
わけもなくにくらしいのよ
青春の後ろ姿を
人はみな忘れてしまう

 弟が死んだ。

 病状が悪い方に向かいだしたのは、日本シリーズの第二戦、タイガースがボロ負けした日のことだった。そして逝ったのは第七戦、タイガースが日本一を逃した日の深夜のことだった。弟は熱烈なタイガース・ファンだった。

 知らせの電話が鳴ったのは、ひとしきりシリーズ関係のニュースを見て、もう寝ようと電灯のスイッチに手をかけた時だった。

 実家に寄って母をひろい、車で駆けつけた時には既に心臓は停止し、かすかに開いた左眼に力はなく、瞳孔は散大しているようだった。しきりに弟の手をさすり、足下に回っては足の指を意味もなく撫でる母の後ろ姿が、ふだんよりいっそう小さく見えた。

§

 父母は健在だが、葬儀の手配やら然るべき人への連絡やら、そういうことをてきぱきと処理できる歳ではなくなっている。

 嫁は気丈にはしているが、残された子供は幼いし、気でもっているに過ぎない。いろいろなことが一気にこの肩にのしかかってきた。

§

 弟とは5歳離れていた。こちらが早生まれで、むこうは遅生まれ。だから学年では6年の違い。こちらが中学入学の時、むこうは小学校入学。むこうが小学校を卒業する時、こちらは高校を卒業した。

 だから、あまり派手な兄弟げんかの記憶はない。しかし、それでもちょっとしたいさかいの記憶ぐらいはある。たいがいは「お兄ちゃんなんだから我慢してやって」ということになってしまう。それでも腹に据えかねることがあって「おまえなんか、死んでしまえ」と叫んだことがただ一度あった。間の悪いことに弟は、その日、社宅の前の道で事故に遭い、それが原因で片方の耳が悪くなってしまった。以来、それはこちらの心の疵になった。

 高校受験の日は試験会場まで付き添ってやった。上石神井の早稲田高等学院、中野富士見町の富士高校。彼はどちらもクリアしたが、都立西高を選んだ。一貫して親に経済的負担を強いた彼が唯一親孝行をした時だったかもしれない。その時、父の赴任の関係から札幌で高校を選ばなければならなかったこちらは、内心、小さなうらやましさを覚えた。

 沖縄返還闘争のデモでパクられたとき、こちらは札幌の出身高校で教育実習をしていた。伝手をたどって留置先を調べた父の話を、帰京してから聞いた。本人は完黙を貫くつもりらしく面会を拒否しているという。亀戸の警察まで行き説得した。「もう、身元はばれている、無意味に時間を使うな」ぐらいのことを言ったと思う。

 パクられた経験が権力と向き合う作法というものについて考えさせたのか、彼は法科を志望した。ふつうよりはちょっと長い浪人生活の末にやっと早稲田に入り司法試験をめざした。大学院へ進みそれなりの時間をもらったにもかかわらず、ついに合格することは適わなかった。

 就職したこちらは、彼が大学に入る頃には、自分のことに手一杯になり、あまり、彼が引き起こした数々のトラブルについて関わることはなくなった。それでも、勤めた会社の倒産やら、債務整理に最後まで愚直につきあったあげくに再就職口に苦労したり、フィリピーナと結婚すると言い出して母をノイローゼにしたり、・・・、そういうことは折にふれて聞かされた。

§

 肩にのしかかってきたことのうち、かたづいたのはまだ葬儀のことだけ。

 あちらこちらへの連絡だとか葬儀の段取り打合せなどは、ある意味で、むしろ救いだった。そういう細々としたことが途切れ、ふっと弟の記憶が浮かぶと、もう、止めどなく涙が出てきてしまうのだから。

§

 「祭壇に飾るお写真は」と問う葬儀屋に、嫁は「一番気に入っていた写真」を出してきた。

・・・悩みなき昨日の微笑み、わけもなく憎らしいのよ・・・

 失恋の歌以外のなにものでもないこの歌が頭の中で鳴った。

 写真の弟はちょっと斜に構えて顔をこちらに向けている。そしてかすかに笑っている。まさに「悩みなき、彼の日の、微笑み」。

この野郎、もうちったァ、長生きしてくれよ、・・・

§

 日本シリーズ最終戦の日の夕方、弟を見舞った。きょうの中継はBSかななどと思いながら・・・。

 「一階の自販機にCCレモンがある・・・・・・買って来て・・・・・・一緒に飲も」。

 しかし、ベッドの脇机には「飲水禁止」の紙札があった。ナースステーションに聞きに行ったが、禁止は禁止だった。その旨を伝えて、「また、明日来るよ」と言って病室を出た。

 それが、兄弟で交わした最後の言葉になるとは、その時は思いもしなかった。

 当分、「CCレモン」のボトルを見るだけで、滂沱の涙にくれそうだ。


暮れかかる都会の空を
想い出はさすらってゆくの
光る風 草の波間を
かけぬける・・・
<この項終わり>

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