飯田市
黒田人形奉納公演
( 2001. 4. 8 )
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南信州新聞社
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| 黒田人形奉納公演 ( 2001. 4. 8 ) |
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| 黒田人形奉納公演 (下黒田諏訪神社) |
黒田人形奉納公演
飯田市下黒田( 地図 )にある諏訪神社では、毎年四月の第ニ土・日曜日に、元禄年間( 1700年頃 )から続くという国選択無形民俗文化財の「黒田人形」奉納公演が行われる。上演は、土曜日が午後七時から、日曜日は午後一時からで、境内に設けられた「専用舞台」(国重要有形民俗文化財)では、定番の「寿式三番叟」「絵本大功記 尼ヶ崎の段」「鎌倉三代記 三浦別の段」などが披露される。
公演では、太夫と三味線、そして「主遣い(しん)」「左遣い(さし)」「足遣い(あし)」を受け持つ三人の遣い手らの意気の合った演技が見もので、発祥の地として知られる淡路にも伝わっていない独特の技もここには残されているという。これは、天保年間における幕府の人形公演禁止令により、大阪などで活躍していた多くの人形遣いたちが各地に流れ、地域の人々によって密かに行われていたこの地に人形遣いたちが定住し技を伝えたから、といわれている。
現在は、黒田人形浄瑠璃保存会が地域に伝統芸能の保存・継承を受け持っており、地元飯田市の高陵中学校にある「黒田人形クラブ」の生徒たちもその技の伝習に励んでいる。平成十一年には、後継者の育成の場として「黒田人形浄瑠璃伝承館」が完成し、黒田人形の稽古や伊那谷四座(「上伊那郡箕輪町・古田」、「飯田市・黒田」、「飯田市・今田」、「下伊那郡阿南町・早稲田」)の合同研修の場に活用されている。 |
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定期上演 「絵本大功記 尼ヶ崎の段」( 2001. 4. 8 )
さて、その下黒田諏訪神社の春祭で上演された演目のなかでも好評だったのが、歴史的にも馴染み深い「絵本大功記 尼ヶ崎の段」だ。これは、近松柳・近松湖水軒・近松千葉軒らによる合作で、寛政十一年( 1799 )大阪豊竹座において初めて演じられたもの。全十四段あるなかで、この「尼ヶ崎の段」が最もよく知られている。(黒田人形保存会・上郷公民館「黒田人形奉納公演」から)
あらすじ
天正十年( 1582 )、中国地方一帯に勢力を持つ毛利氏を征伐するため、京都・本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲った明智光秀が、急の知らせを聞いて駆け付けた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍に囲まれ苦戦する場面から物語は始まる。(浄瑠璃の世界では、実在した名称を使うことはなく、例えば「織田信長」は「小田春長」、「明智光秀」は「武智光秀」、「羽柴秀吉」は「真柴久吉」と置き換えて演じられる)
真柴軍に囲まれ苦戦を続けるなか、武智光秀(明智光秀)の一子・十時郎は、祖母の皐月や母の操へ暇乞いに立ち帰ると、そこには許婚のお初菊もい合わせ、「祝言もせぬ中討死とは情けない」と十時郎を引き留める。しかし、祖母・皐月は、主君殺しの悪逆人光秀の子として汚名を着せて生きるよりは、健気に討死をさせようと思い、祝言に事寄せて最後の盃をさせて十時郎を送り出す。
その頃、館には、旅僧に身を変え様子を探る真柴久吉(羽柴秀吉)がいた。光秀は、久吉が館にいることを察し、竹槍で一突きすると、なんとこれが母・皐月!
深傷をおった母(皐月)は、息子の光秀に対し、主君(小田春長 = 織田信長)を殺して天下を手に入れようとも、それは人間の行為として最も恥ずべきことであり、その天罰は、こうして親をも傷を負わせることにもなった、と光秀を叱責する。
そこへ手負いの十時郎が光秀の身を案じ、一刻も早く本国へ引き帰るべきである、と注進に来る。祖母・皐月は、孫の親を思いやる気持ちを感じ、さらに光秀を叱責する。このような状況を見ていた久吉は、今はここで戦を行い決着をするべきではないと感じ、決戦は「山崎」(山崎の戦い)で行うことを光秀に伝え立ち去る。 |
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人形舞台の様子
舞台右手に太夫と三味線引きが見える |
公演に使われた人形
左が武智光秀、右は真柴秀吉 |
みどころ
黒田人形保存会が作成したパンフレットによれば、これには三つの見どころがあるという。ひとつは、物陰から竹槍で突かれた母皐月は、傷手をこらえながら、恥ずべき行為に及んだ光秀を叱責する場面。パンフレットには「深傷にめげず、武士の道を説いて光秀を叱る気丈な皐月」と記されているもの。主君殺しは、武士にとってもっとも卑劣な行為。さらに、親に傷を負わせるような行為は親不孝も甚だしいことだ。主従関係、親子関係を重んじた当時の常識を、母親の皐月の言葉を借りて、作者が訴えているところが興味深い。
ふたつめは、皐月の言葉を聞き「猛りたつ光秀」の姿。この時点において、光秀は己の行為について何ら気付いていないのだろう。むしろ、母親の言葉に憤りさえ感じている。物語の展開において、光秀がもっとも悪者として位置付けられている場面だ。
そして最後は、ここを退くように注進にきた手負いの十時郎に、ようやく自分の非を感じ「むせび泣く」光秀の姿を描いた場面。舞台左袖にある松の木に上り、これまでの自分の愚行を悔いる姿は、哀れささえも感じさせる。舞台はその後、宿敵・真柴秀吉が登場し、山崎での決戦を約し終演となる。
以上の三点がこの公演におけるポイントとして紹介されているのだが、これはあらすじを掴んでいる「通」の方々が楽しみにしている場面。あまり縁のない人たちなら、これにこだわらず、その巧みな人形遣いに注目しているだけでも見どころは幾らでもあるように思われる。 |
このほか、天明年間、この地訪れた吉田重三郎という人形遣いが伝えたという「寿式三番叟」や「生写朝顔日記 宿夜の段」、高陵中学校黒田人形クラブの皆さんによる「鎌倉三代記 三浦別の段」などが上演された。
下黒田の専用舞台(国指定重要有形民俗文化財)
天保十一年( 1840 )に建て替えられたもので、間口八間、奥行き四間、総二階建て瓦葺き出桁造り。
飯田市黒田人形浄瑠璃伝承館
伝統人形浄瑠璃の後継者の育成の場として、平成十一年七月に竣工した施設。下黒田諏訪神社に隣接。
「黒田人形奉納公演」については、平成 13年 4月 8日に取材・撮影しました。 |
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