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毛利隆元モウリタカモト
生没年:1523〜1563
名前:
官位:備中守、大膳大夫
毛利元就の長男として生まれる。15歳のとき、大内義隆の人質として山口へ赴く。そこで、吉田郡山城への援軍を義隆に要請したりと、活躍している。1546年に元就から家督を譲られるが、戦略は父がずっと考えていったようである。隆元が戦略について無為無策なわけではなく、元就があふれんばかりの発想を持ちすぎていたからであろう。主に内政方面や家中の取り締まりで活躍した。しかし、それは非常に目立たない行為で、父・元就には常に遠慮していかねばならなかった。
隆元急死後、その内政や家中引き締めを他の重臣が担当したところ、うまくいかなかった。毛利家が隆元生存時にほどの落ち着きを見せるのは、長じた弟・小早川隆景がその役目を担うのを待たねばならなかったのである。
毛利輝元モウリテルモト
生没年:1553〜1625
名前:
官位:右衛門督、右馬頭、侍従、参議、権中納言
毛利元就の孫。父・隆元の死によって毛利の後継ぎとなる。当主となった直後には祖父・元就の、元就死後は叔父・吉川元春と小早川隆景の「両川」によって補佐される。おかげで、本能寺の変も手伝って、織田軍の大攻勢から逃れることが出来た。
その織田家の中国方面司令官だった羽柴秀吉に臣従した毛利家ではあったが、その秀吉死後、石田三成によって西軍の総大将として関ヶ原の戦いに巻き込まれる。すでに両川なく、輝元の力量が問われるときであったが、気づいたときには安国寺恵瓊に乗せられて大坂城にいたのである。その安国寺恵瓊とは政敵だった、吉川元春の子・吉川広家の働きで取り潰しだけは免れるというありさまである。
輝元自身は関ヶ原後隠居。領内の家臣配置を整備したり、検地をやったりと領内の取り締めに力を注いだ。大坂の陣で旧主の子・豊臣秀頼自刃を聞くと、「祝着至極」と答えている。これをもって「軽率」と判断も出来るだろうが、関ヶ原で懲りて祖父・元就の遺訓を守るようになったとも取れる気がする。
毛利元綱モウリモトツナ
生没年:?〜1523
名前:相合四郎元綱
官位:
毛利元就の異母弟。武略に優れた弟であった。
しかし、毛利家当主だった毛利幸松丸が死ぬと、元就がすでに分家していたために元綱を当主にする動きが出る。この動きを阻止するため、元就は元綱を斬るにいたるのであった。
毛利元就モウリモトナリ
生没年:1497〜1571
名前:松寿丸→毛利元就
官位:治部少輔、右馬頭、陸奥守
元就の生涯は、まさしく「暗さ」が常にまとわりつく。五歳で母、十歳で父・弘元と死に別れ、家督を継いだ・兄の興元は大内義興の上洛に駆り出される。留守を守る元就であったが、傅役・井上氏横暴を許すこととなってしまう。
兄の死後、兄の遺児・幸松丸を助ける。初陣にて、武田元繁を討ち取るという大殊勲を上げるも、出雲から出てきた尼子経久に従うをえなくなる。
幸松丸が死んだ。跡目を継ぐのは元就か、はたまた異母弟の元網かで家中が分裂した。元就は、将軍の命、という形で家督を相続。元網を泣く泣く討つ。合わせて、元網加担の坂氏、渡辺氏を成敗、毛利家臣団は元就への忠誠を誓う連判状を書き、一気に結束した。
家督を継いだ元就は、尼子と断絶、大内に帰属し、長男・隆元を山口に人質として送った。合わせて、安芸の豪族・宍戸氏と婚姻するなど、地盤固めにも入った。面白くないのが尼子氏、それも経久の孫、晴久(詮久)である。元就の居城・吉田郡山城攻略を決意、三万の兵を引きつれ来襲した。対する毛利は2400。大内の援軍のみが頼りである。篭城戦術を取った毛利軍に尼子軍は苦戦した。しかし、大内義隆はなかなか援軍を送ろうとしない。毛利に恩着せようだとか、毛利の武功を・・・という計算が働いたものらしい。しかし、人質の隆元の説得もあり、遂に陶晴賢(隆房)軍が到着、尼子軍を撃退することに成功した。
しかし、これに気をよくした義隆が今度は出雲攻めを決意、元就らに出陣を促した。従わないわけには行かず、出陣したものの、出雲で裏切りに遭い、大内軍は敗北。元就と嫡子・隆元も散々な目に遭いやっと退却した。これで、大内は文治派・相良武任の台頭を許すこととなり、義隆自身も一切戦をしなくなってしまった。これに反発したのが武断派・陶晴賢らである。大内家の内部抗争が始まった。そして、その結末は、陶晴賢のクーデターであった。大内義隆が落命したのである。
これに対し、元就は、吉川氏に次男元春、小早川氏に三男隆景を送りこむなど、安芸における勢力拡大を画策しつづける一方、予てよりの懸案だった、井上一族を粛清し、家内の引き締めを図った。万全の態勢で迎えたのが、厳島の合戦である。厳島に囮・宮ノ城を築き、この城がいかに戦術的拠点かを吹聴。さらには、嘗て元網殺害のときに父を討たれた・桂元澄内応のうわさを広めたりと「謀略」を使った戦いを展開、国力差をカバーしようとたくらむ。そして、背後の尼子の勢力を削減せんと、尼子家最大勢力・新宮党謀反の噂を流し、疑心暗鬼となった晴久が叔父・国久を殺害した。尼子家中は大いに揺れることとなり、元就は安心して、対陶に全力を注げるようになった。さらに村上水軍の協力を仰ぐことに成功、嵐の中の出陣により虚をつかれた陶軍は4倍の兵力差があったにもかかわらず敗北、陶晴賢は自刃した。
この戦い以後、毛利家の中国地方における覇権は決定的となった。旧・大内領に引き続き、1566年には尼子氏の居城・月山富田城をも落とすことに成功したのであった。
毛利元就のエピソードは数多い。中でも有名な「三本の矢」はウソ話だが、これも兄弟相克で苦労した、いかにも元就らしいエピソードである。敵には手厳しいが、味方には律儀を通した。家臣もそれに従った。この家風は、幕末維新に残り、幕末・毛利家の活躍と暴走と明治維新につながるのである。
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