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北条氏綱ホウジョウウジツナ
生没年:1486〜1541
名前:
官位:左京大夫、相模守
父・伊勢新九郎長氏の死後、北条家当主となる。
家督を継ぐと、以後北条滅亡まで続く虎朱印の使用開始、北条姓に改姓・同じく家紋の変更、小田原城を本城とした支城ネットワークの確立、と身内をがっちりと固めた。
そして、父の代からの継続である対上杉氏に力を注いだ。江戸城を奪取し、岩付城をも手中に納めた。しかし、常に優勢というわけでもなく、一度なぞは玉縄城侵攻を許したり、岩付城を奪い返されたりしている。また、房総の里見家も強力な水軍力で相模に迫ってきて一度なぞは鶴岡八幡宮が炎上している。
しかし、氏綱は上杉氏以外の勢力とも果敢に戦った。里見家の御家騒動で味方してやった里見義堯が敵方・足利義明につき、房総の武田氏の内紛問題で煮え湯を飲まされるも、国府台の地でこれを破って(第一次国府台の戦い)、小弓公方・足利義明を討ち取った。はたまた、甲斐武田氏と、義元の家督相続後父・早雲以来の友好関係が崩れた今川氏と戦い、河東一乱に勝利。冨士川以東を再び北条家のものとした。
さらに1535年にはついに念願の河越城を奪取した。里見実堯との抗争で焼失した鶴岡八幡宮の再建をしてのけ、関東に覇を示威したのちに、氏綱は死んでいる。子・氏康以降の北条家に、「お家の基礎」を残して。
北条氏直ホウジョウウジナオ
生没年:1562〜1591
名前:
官位:左京大夫
氏直が父・氏政から家督を譲られた1580年は、織田信長による天下統一事業が佳境に入ってきた時期であった。1582年には織田・徳川連合軍が隣国の武田氏を滅亡させている。この戦いの折、武田氏とは上杉家の家督騒動ですでに敵対関係であったが、「織田と武田の潰し合い」を期待して兵は出さなかったのだが、その目算が崩れ、急いで兵を出してみたり、信長に贈り物をしたりしてみたが、すでに時遅し。信長の不信を買っている。
しかし、本能寺の変に救われた北条家は、旧織田軍の滝川一益を神流川で破り、上野の支配権を獲得。あわせて信濃・甲斐にも侵攻しようとするが、こちらはすでに徳川家康が先行していた。結局、徳川家と同盟を結ぶことにより、氏直は関東制圧に力を向けることとなる。
しかし、時代は秀吉による天下統一が確実に進んでいた。同盟者の徳川家も秀吉に臣従していた。秀吉の「関東奥州惣無事令」以降、家中でも秀吉への穏便派と強硬派で揉めることとなる。これで揉めている最中に、予てよりの問題だった真田家の上野・沼田の領有問題がこじれ、叔父・氏邦家臣猪俣邦憲が真田家の名胡桃城を攻めるという事件が発生。これを口実としてついに豊臣家の小田原征伐が決定された。
次々と落ちていく支城、迫り来る豊臣勢二十万、氏直は降伏か徹底抗戦かで揉める評定に見切りをつけ、自ら舅の徳川家康を通じて「自分の命と引き換えに城中の者を助ける」条件の降伏を申し出た。秀吉の答えは「主戦派である北条氏政・氏照の切腹、重臣大道寺政繁と松田憲秀の切腹」だった。氏直は助命された。当主でありながら死ねなかった氏直は高野山に行ってなお苦しみ、翌年には秀吉から一万石を与えられる破格の待遇を受けるもその年に死去した。
氏直を縛ったのは進んだ制度であるはずの北条家の合議制。本能寺の変後の甲斐・信濃侵攻のときも、秀吉の小田原の陣のときも、自分の意見を押し通せば結果論的には良かったものの、反対意見に押されて失敗している。此れ、何かと共通なものを見ていないか?
北条氏政ホウジョウウジマサ
生没年:1538〜1590
名前:
官位:相模守
父・氏康に家督を譲られたのが、1559年。それ以降数年間は父・氏康後見のもと試練を積む。二度の小田原城侵攻と第二次国府台合戦を経験し、越相同盟や甲相同盟復活を実際に当主として見る。
上杉謙信死後の御家騒動・御館の乱で弟・上杉景虎を援護しようとしたものの、なんと盟友・武田勝頼が敵・上杉景勝に付き、苦汁を舐めさせられる。これで甲斐との同盟はなくなった。しかし、数年後に武田家が織田・徳川連合軍の侵攻を受けるときに北条も相模からの侵攻を信長に勧められたのに両軍の消耗を期待した結果、戦機をのがし、あわせて信長の不信まで買い、危機を迎える。しかし、このことは本能寺の変の信長の死で救われる。
そして数年後、こんどは豊臣秀吉が天下を手中に納めようとしていた。もちろん、北条家にも豊臣政権への臣従を求めてきた。しかし氏政は、長年の先祖からの苦労の末、やっと手に入れた名前だけの関東管領職が忘れられなかった。そして、氏政の頭にはあの上杉謙信十万の兵と、舅であった武田信玄の兵を小田原城で破った、という過去が頭にあった。そして、氏政は豊臣家に対する強硬論を取った。伊達・徳川と組む構想もあった。
しかし、徳川家康はすでに臣従しており、伊達政宗も豊臣家に臣従した。日本史上最多の20万の大軍を受けることになった小田原城。「城攻め専門家」秀吉の手にかかっては謙信・信玄侵攻時より強化された小田原城の総構えとて、秀吉が単に感心しただけのものに過ぎなかった。結果、小田原城は落ち、氏政は秀吉から切腹させられた。
現代に伝わるのは「味噌汁二度かけ」のエピソード、「刈り入れてすぐの麦をすぐ食おう」のエピソードなど、氏政の「無知」を物語るエピソードばかりだが、実際には戦の巧みさ、「関東制圧」の戦略性は伝えられるほどにひどいわけではない。2つの戦国時代をまたいで生きたがゆえの悲劇であった。
北条氏康ホウジョウウジヤス
生没年:1515〜1571
名前:
官位:相模守、左京大夫
北条家の基礎を固めた父・氏綱が死ぬと、敵である両上杉らは直ちに策動をはじめた。
周囲は皆敵であった。安房の里見氏、武田・今川両氏、そして扇谷上杉・山内上杉。両上杉軍は今までの敵対関係もなんのその、北条家武蔵の拠点・河越城を包囲した。これに、古河公方であり、氏綱の娘婿である足利晴氏が同調。河越城は八万の大軍で囲まれた。これに今川氏も西から動き始めたのである。しかし、北条綱成守る河越城はなかなか落ちず、これにあきれた今川義元は、北条家の領土割譲を条件に北条と和睦した。そして氏康は河越城包囲軍に詫びをいれている。一度までならず、二度もである。包囲軍は氏康を笑った。北条もここまでだ、と。そして数度攻めかかる氏康軍は敗走しつづけた。もう、油断の塊と化した包囲軍に北条氏康の夜襲作戦が降りかかる。扇谷上杉定正は戦死、山内上杉憲政は上野に逃げた。
これ以降氏康は確実な作戦で着実に領土を増やしていった。今川・武田との三国同盟。山内上杉憲政が泣きついた正義を気取る戦争屋さんである長尾景虎が関東管領の名を引っさげて数度来襲しているが、1561年に小田原城まで攻め入られたときも、敵の兵糧線の貧弱さを見て取り、呑気に場内で囲碁をしていたほど。海戦では苦汁を舐めさせられていた房総・里見氏に対しても本拠・久留里に攻め込むなどして牽制をかけ、第二次国府台の合戦で里見氏を破り、里見氏の下総大進出を食い止めた。その一方で子宝に恵まれた氏康は養子縁組作戦で領土を広げている。立派に北条を安定期に持ちこんだ。
武田信玄も今川家攻撃による同盟消失で、小田原城に牽制しに来ているがこれを退けている。善徳寺三国同盟がなくなると嘗ての宿敵・上杉謙信とも同盟し、北条氏秀(のちの上杉景虎、別人説もある)を養子として送り、ひそかに上杉家乗っ取りをたくらんでいる。
三代目として十分すぎる役割を果たし、1571年、この世を去った。
北条早雲ホウジョウソウウン
生没年:1432〜1519
名前:伊勢新九郎長氏(盛時)、早雲庵宗瑞
官位:
北条早雲は死後に通った名前。生存時はずっと伊勢新九郎長氏である。
備中の出とも伊勢の出ともいう。足利義視に仕えていたが袂を分かち、妹が嫁いでいる今川家の領国・駿河に下向する。そして、下向して数年後、妹・北川殿の夫である今川義忠は塩買坂の地で不慮の死を遂げる。義忠唯一の男児であり、妹北川殿の子(つまり、早雲から見れば甥)である龍王丸(後の氏親)はわずか6歳。そこに登場したのが義忠の従兄弟・小鹿新五郎範満。ここに家督争いが起こってしまう。東の扇谷上杉も太田道灌に兵を率いさせ介入して来るわと、もうさんざんである。そこで早雲がこの二派を仲裁。「龍王丸元服まで範満が家督を代行」がその条件であった。この条件は受け入れられた。
その後京に戻った早雲だったが、数年後、妹北川殿からの知らせでこの環境も終わりを継げる。龍王丸元服にもかかわらず範満が家督を譲らないというのだ。再び駿河に下向した早雲は、駿府を急襲、範満を討ち龍王丸改め今川氏親を家督に据えたのであった。
その後は甥・氏親の後見として活躍。その功を認められ興国寺城城主となる。浪人時代に「この中で一番最初に城持ちになった奴に他の6人がその家来になろう」という約束を交わした友人たちを迎えたのもこの頃か。そして、その興国寺城に近い伊豆の不穏な動きを知るのであった。関東のごたごた(永亨の乱、結城合戦)に関連して京都から送りこまれてきた堀越公方の御家騒動である。足利政知の死に関し、政知の三男偏愛によって幽閉されていた長男・茶々丸が脱獄、弟とその母(茶々丸から見れば継母)を殺して堀越公方二代目を自称したのである。しかし、茶々丸は肉親殺し。そのうえひどい酒乱に無為な殺生。そんなことをする奴が隣にいたのでは堪らない。そうして早雲は1591年(2年後、4年後の説もある)、堀越御所を急襲、茶々丸を殺害した。後世の史家はこれをもって「戦国時代の始まり」とするものが多い。確かに「素浪人上がりが室町幕府の一機関を襲った」という事実だけを見ればそのとおりだろう。しかし実際には今川氏親からも兵を借りての急襲だったことを考えると、単なる隣国騒動が自国に飛び火することを嫌っただけなのではないだろうか。この時期早雲は駿河の守護代格である。
それはともあれ、この荒れた旧・堀越公方領を興国寺城時代からの慈愛の政治を持って納めた。「四公六民」は「逆ではないか」と疑われたほど。その結果国人衆や農民のハートをがっちりゲット。オプションとして軍事力の増強というおまけがついてきた。
伊豆の反早雲勢力の一掃に手を焼く中、つぎに考えたのは関東勢からの駿河・伊豆の守備。そこで目をつけたのは箱根の山。それには小田原城を奪うことがベストと考えた早雲は、時の城主・大森藤頼と仲良くし、ある日「鹿狩りをしていたところ鹿が箱根に入ったので、勢子を領内にいれてもいいですか」と了解を求めた。あっさりOKしてくれた藤頼。そして、勢子に化けた早雲の精兵が一気に小田原城に攻め入った。おりしも上杉氏との合戦中で手薄だった城内はこれを支えきれずに撤退した。そして、早雲は小田原城を手に入れることに成功し、ここに弟・弥次郎を入れ、自分は韮山を居城としつづけた。
しかし、それまで対立していた扇谷・山内上杉氏が早雲の勢力拡大を嫌って講和。権現山の地で両上杉軍に大敗を喫した早雲は、ターゲットを上杉に味方する相模最大級の豪族・三浦氏に定める。数年がかりの攻勢の結果、三浦氏を滅亡させることに成功。相模を平定した早雲は韮山城で88の高齢で大往生を遂げた。
細川晴元ホソカワハルモト
生没年:1514〜1563
名前:
官位:右京大夫
父・澄元が叔父高国に管領の座を奪われる。しかし、1531年に三好元長に擁されて叔父・細川高国を討ち畿内を掌握した。その後管領となるも、一向宗と対立、天文法華の乱を引き起こす結果となる。その後、三好元長と対立し、これを討つ。そして、三好元長の子・長慶に京都を追われた。摂津の地で死亡。
本願寺顕如ホンガンジケンニョ
生没年:1543〜1592
名前:光佐
官位:
日本にしろ、外国にしろそうだが、一昔前の宗教熱というものは凄まじい。寺の境内に殺到した人波で死んだものを羨ましがる、というのは有名な話だ。
蓮如以来、乱れた世の中の民衆に馬鹿ウケした一向宗であったが、その教えとも関わり、宗教戦争・農民戦争の様相を呈してきたのである。加賀一向一揆といい、農民たちの自治の高まりの気運といったさまざまな要素が絡み合ってきたためである。そして、多くの戦国大名は、この狂した集団と妥協を選んだ。それほどの力だったからである。しかし、近世思考の武将が出始めるにつれ、その様子が少しずつ変わり始めていた。そのようなときの本願寺法主が顕如だったのである。
顕如は1554年の父・証如の死により本願寺法主の地位を引き継ぎ、同年には門跡に補される勅許が下っている。そのようななか、1568年、京都に上洛してきたのが、織田信長である。
「天下に武士の世を布く」ことを目的とする織田信長との対決は、避けては通れぬものだった。はじめのうちは温和路線で信長の矢銭要求も飲み、天目茶碗を送ったりしていた顕如だったが、地方門徒の要望や、織田信長の石山退去命令などもあり、ついに本願寺は11年にもわたる、日本史上ほぼ唯一といっていい、宗教戦争へと流れていくのである。
1570年9月12日・・・織田軍を突如雑賀の鉄砲隊の弾丸が見舞う。法主顕如自らが攻撃の早鐘をつきならし、檄文には信長を仏敵とし、「蜂起しないものは破門する」とまで書かれている。法主の破門勧告が強いのは西洋の例を引くまでもあるまい。
各地の一向一揆は大健闘した。伊勢長島一向一揆は尾張攻撃を試みたり、二回も織田軍を撃退。織田信長は各個撃滅を決意した。比叡山焼き討ちは、魔王降臨の瞬間だった。
伊勢長島一向一揆には、非農民が数多く参加していた。「道々の輩」「公界往来人」といった人々たちである。「渡り」と呼ばれる運送業者・「芸能」者・漁業従事者たちが多く参加していたのである。この辺は、最近に日本中世史のもっともHOTな場所であり、研究著しい場所であるので、軽く触れるだけとしておくが御勘弁願いたい。そんな彼らを許すわけもない天魔鬼神・信長がとれる戦術は「ジェノサイド」 もはや戦術とはいえないかもしれないが、彼はそれをしてのけた。窮鼠猫を噛むとはよくいったもの。追い詰められた一揆衆は信長本陣付近に突撃を敢行。氏家卜全が戦死、柴田勝家は重傷したほどである。700人程度は、そのまま大坂へ行っているから凄まじい。
朝倉氏滅亡後に「一揆持ちの国」と化した越前に、石山本願寺は僧侶を派遣する。一揆衆の望みは「支配者からの開放」だった。しかし、本願寺のとった行為は戦国大名と同じでしかなかったのである。そこに起こる「一揆内一揆」 そんな中に織田軍が来たら大変であるが、大変だった。越前一向一揆はつぶれ、そして柴田勝家らによって加賀一向一揆も終焉を迎えたのである。
それでも、本願寺は戦いつづけた。数度の講和はあったものの、再び織田軍と合間見えることとなる。石山の徹底封鎖を図る織田軍に対し、本願寺は毛利との同盟に成功。毛利・村上水軍によって、大坂湾の制海権の掌握に成功し、兵糧が本願寺に運ばれた。しかし、翌年には信長の「鉄甲船」によって、毛利水軍は本願寺との連絡に失敗することとなる。
信長は、この宗教戦争の最終決戦に「ジェノサイド」を用いなかった。そして、勅命による講和(もちろん、実質的には本願寺降伏)でカタはついたのである。そして、地方鎮撫が、顕如の残りの仕事となった。
本願寺と信長の戦争で、日本の民主化は300年近く遅れたこととなるが、政教分離はいち早くなされたのである。武家社会である江戸時代に日本は西欧式近代を受け入れる素地を作り、明治維新に繋がった。そして、本願寺は東西に分裂するのだが、それは別の話である。
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