と
土岐頼芸トキヨリアキ
生没年:1502〜1582
名前:
官位:左京大夫
生地:
兄・土岐政頼を西村勘九郎の尽力によって追い、美濃守護となる。それ以降、政治は西村勘九郎こと斎藤道三に任せっきり。女と酒と唯一の趣味である絵画(それも鷹のみを好んで描く)を、加納城から洪水が恐いという理由でどんどん内地、山奥、中心地より遠いところへ居城を移していった。斎藤道三はついに謀反、頼芸は隣国尾張の織田信秀を頼った。
信秀の力により、一時は美濃へ帰ったが、織田信秀が斎藤道三に大敗すると即座に美濃を追い出され、諸国を流浪する。本能寺の変後、織田家に仕えていた旧臣が美濃に招くも、赴いてしばらくして亡くなった。
徳川家康トクガワイエヤス
生没年:1542〜1616
名前:竹千代→松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康
官位:
生地:
戦国最後の勝利者にして、日本に260年余の平和をもたらした男。
3歳にして母と生き別れる。6歳にして今川家に人質へ赴くこととなるが、その途上織田方へ連れ去られてしまう。そこで信長とあってたのしげに遊んだ、という伝承も残る。その後、太原雪斎の作戦により織田との人質交換が成立、既に父・松平広忠は家臣によって殺されており、主君が帰ってきたことに喜ぶ岡崎城の松平家家臣をよそに、今川家にそのまま人質となってしまう。その間、岡崎城は今川家の植民地として、家臣自ら鍬をもって農作業に勤しむありさまであった。その後、桶狭間合戦において今川義元が戦死すると岡崎城に帰還。今川氏真に弔い合戦を勧めるも受け入れられず、織田信長と同盟を結ぶ。三河一向一揆における家臣団をも二分した戦いを経て、三河・遠江二国の主となる。その間に、金ヶ崎、姉川と織田軍団の同盟軍として武名を馳せた。その家康に試練が襲う。武田信玄の来襲だ。篭城主張の家臣をよそ目に出撃を選び、それこそ「見事に」敗れた。武田信玄に一歩もひかなかったことが、武名に一際付け足すこととはなったが、家康にしては生涯の痛恨事であったらしい。その後、信玄は死去。長篠合戦では織田鉄砲隊の援軍あって見事に武田軍を破り、攻勢に転じる。
武田家を織田とともに滅ぼし、駿河一国を得た家康は、そのお礼という名目で上洛する。堺にて滞留中に本能寺の変を知り、「神君伊賀越え」を呼ばれる苦労の末、自国へたどり着く。一応明智征伐の軍を挙げるが鳴海にて羽柴秀吉の山崎合戦の顛末を聞くや、織田軍団消滅後空国となった甲斐・信濃を掠め取る。北条氏直と同盟した家康は織田信雄の要請を受けて秀吉と戦う。長久手の戦いで見事羽柴の奇襲部隊を破る。が、織田信雄が秀吉と単独講和したために兵を退く。秀吉が妹を嫁に押しつけても頑として動かなかった家康。しかし、秀吉最愛の母を人質に差し出すと、家康は秀吉に臣従する。その後家康は秀吉の下小田原の陣を戦い、名護屋まで行き、五大老の一人になる。
秀吉は我が子秀頼を五大老に頼み死んだ。しかし、家康は天下取りへの策謀を露骨に見せる。それを非難した石田三成をうまく、巧みに合戦に持ち込み関ケ原の合戦に勝利すると、徳川家の支配体制を確立させる。それで1603年には征夷大将軍に就任。2年後には子・秀忠に将軍職を譲り、「天下回り持ち」思想に終止符を打つことを見せ付ける。家康はむしろ豊臣家を臣従させる代わりに丁重に扱おうとしていた節を見せるが、淀殿の敖慢な態度に堪忍袋の尾が切れたのか、ついに大坂攻めを行い豊臣家を滅ぼしている。
それ以降は元和偃武といい、200数年間にわたり一揆などを除く戦いはなくなった。
徳川秀忠トクガワヒデタダ
生没年:1579〜1632
名前:長丸→竹千代→徳川秀忠
官位:
生地:
江戸幕府の2代将軍。温厚な性格で武人としてはいまいちであったが、それが家康に平和なときの統治者として認められ覇気が強すぎる兄・結城秀康を差し置いて将軍となった。父を恐れて大御所の命令を認可するという二重署名の形を取り、妻も恐れて側室も持たず、浮気して生まれた子は武田見性院(信玄の娘)に預けてしまった(後の保科正之)。関ケ原の合戦のときは上田城で真田昌幸に翻弄されて間に合わなかったのがよほど堪えたらしく、大坂の陣のときは自分が来るまで合戦をはじめないでくれと本多正純に書き送っている。そして強行軍を飛ばし家康に再度怒られる。
というのが表向きの秀忠像。裏向きは全く違う。創業時の家臣の粛清をし、海外との交易の道を閉ざし、朝廷に対し自分の娘を輿入れさせ(武家政治史上初)、さらに自分の孫娘を天皇にさせている。禁中並公家諸法度、諸宗寺院法度の設定、キリスト教禁教の強化、数多くの大名を取り潰す・・・・さらには「お手伝い普請」の強要などなど。陰湿且つ陰険、根暗なくら〜い政策ばかりを家康死後は行なった。家臣に慕われていなかったということは将軍に推したのが大久保忠隣一人だったということからも分かる。長男家光を母・お江の方とともに自殺未遂に追い込み次男徳川忠長を愛したことは家光の日光東照宮建立からも明らかだ。柳生宗矩をつかい、宗矩の子・十兵衛を日本各国に送り込み大名の監視をさせた。とにかく、そのような陰険且つ悪質な政策をすべて父・家康に押し付けて自らは美名を取った。そのような男である。家康の評判はすこぶる悪いが、秀忠は無事に2代を勤め上げたとした、「2代目向きの実直な男」としての評価を欲しいままとしている。
とにかく、この人が行った陰険な政策によって徳川家の支配体制が確立したことは事実ではある。パクス・トクガワーナと評価される江戸時代のウルトラピースはこの人あってこそのものだろう。しかし、江戸中期には参勤交代その他による出費で大名が困窮し、財政悪化に伴い改革に失敗した親徳川よりの藩が幕末に頼りにならなかったというのもまた事実である。
豊臣秀次トヨトミヒデツグ
生没年:1568〜1595
名前:三好秀次→羽柴秀次
官位:関白
秀吉の甥。「ばかばっか」の豊臣一族においては秀長を除けばまだまだお利巧だったので、いろいろと叔父に代わって大役を仰せつかる。小牧長久手の合戦のときなどは大軍を途中で堂々と休憩させ、奇襲を敵にばらしてしまい、数多くの武将を殺しておきながら新しい家臣を叔父にせがんだりして叱責を食らったりしたが、いつもいつもへまっていたわけではなかったので、秀吉の第一子・鶴松の死後に秀吉の後継者となり、関白の地位を譲られる。立派な後継者になろうと学問に励み、文化・芸術に親しんだ。とはいえ、藤原惺窩などは「学問が穢れる」として秀次に呼ばれても秀次の元へ行くことはなかった。つまり、「見え見えの芝居」であることは否めなかったのである。
秀吉に秀頼が生まれると、この人間の箍は完全に外れる。伝えられる限りの悪行を一応書いておく。まず酒に溺れ、夜中に町人に対し辻斬りをし、鉄砲の稽古といって農夫を殺害、殺生お法度の比叡山においての鹿狩り、盲人の両手を斬り落として楽しむ、正室・菊亭晴季の娘(離婚歴あり)のそのまた娘を側室にし、母子併姦を行う・・・聚楽第はハーレムの様相を呈していた。10代から60代の女性が30人以上も囲われているのである。総括してついた名前は「殺生関白」
秀吉は、この秀次が自分から、秀頼に家督を譲る、関白を譲る、といって来ることを期待していたが秀次の悪行の数々を知るや驚愕、秀吉と秀次の関係は一気に悪化した。秀次と親しかった諸大名は震えあがり、細川忠興は秀次から借りていた大金を他から借金して一気に返した。関東へ下る家康は伏見に残る嫡子・秀忠に「秀吉・秀次合戦のときは秀吉に味方せよ」と言い残している。
秀次は、秀吉への先制攻撃しかない、と主張する家臣の意見を退ける。ついに、秀次は秀吉により切腹させられる。後にも先にも、現役関白が処刑されたのはこの秀次唯一人である。そして、秀次の妻妾、子は全員公開で殺された。母の前で子を斬り、泣き叫ぶ母を切り捨てる。とんでもない処刑の地獄絵図であった。
血筋だけで栄光を得た男の悲劇、といわれている。
豊臣秀長トヨトミヒデナガ
生没年:1540〜1591
名前:小竹→木下小一郎→木下小一郎長秀→羽柴秀長
官位:美濃守、大納言
秀吉の一族の中で唯一有能だった人物。しかも、数少ない「名補佐役」とされている。
百姓をしていた小竹に突如兄・秀吉が訪れる。「侍にならないか」 彼は最初は拒むが、これを受ける。
その後のこの人の活躍は「侍ができようか」と自問したとは思えないくらいにすごい。稲葉山城攻めのとき、兄の留守時に木下隊を総括したのはこの人。金ヶ崎の退き口、小谷城攻め、何かしら戦功を立てているのにすべて兄に譲る。この人が織田家時代の羽柴家で多くやったことは羽柴家中の調整・調停、秀吉の留守、そして秀吉の相談役である。中国計略では、姫路城の留守を預かったり、4000にも満たない兵で但馬一国を攻略してのけたりと織田家と羽柴家のために尽くす。
本能寺の変。秀吉の運命を一瞬にして変えたこの出来事以降も「この人」は活躍する。山崎の戦いでの天王山占拠、柴田勝家への使者、そして、四国遠征の総大将、九州遠征の先行軍の対象、そつなくやってのけている。
また、雑賀衆が長年居続けた紀伊や、神社仏閣が多い大和を平穏無事に治め挙げたのもこの人である。家中は秀長をはじめ大変に渋かった。生活も質素。そのため金は貯まりに貯まった。秀長はその金を揉め事の調停のときに大いに使ったのだ。
この人は豊臣家中の誰からも信頼されていた。この人が大友宗麟に言った「内々の事は利休に、公のことはこの秀長に」というのはまさしくそのとおりである。この人の死後、豊臣家の箍は外れた。単なる偶然でもあるまい。
豊臣秀吉トヨトミヒデヨシ
生没年:1537.2.16(1536.1.1)〜1598.8.18 ※99.9.6訂正
名前:日吉丸?→木下藤吉郎→羽柴秀吉→藤原秀吉→豊臣秀吉
官位:筑前守、参議、関白、太政大臣
生地:尾張国中村
農民から成り上がった天下人、である。尤も、水呑百姓ではなく、一応の土地は持つレベルの農民ではあったらしい。最近では、「日吉丸」という幼名ですら怪しまれている。父・木下弥右衛門は鉄砲傷で死んだ、とあるが、1543年死亡だと、鉄砲はまだ伝わっていないので矛盾が生じる。が、実父を幼少時になくし、継父との折り合いが悪く、寺に預けられて追い出され、放浪の旅に出たらしい。商売(針を売る)を続けながら、蜂須賀小六と出会ったり(なお、矢作川の橋で、というのは太閤記での話しである)、今川義元家臣松下嘉兵衛に仕え、仲間の妬みを買い、胴丸を買いに行くついでにもう戻ってくるな、と言われたとか。要するに、織田家に仕えるまでの経緯については確証が持てることは一つもない。
織田家に小人として仕えた後は、薪の削減、塀の三日普請等をやったとされるが定かではない。桶狭間合戦後は美濃衆の調略が主な任務となり、1561年にはねねと結婚。1566年の墨俣築城は最近では否定されまくりであるが、蜂須賀衆との提携に一役買ったのは確かのようだ。稲葉山城落城の頃から、信頼できる資料に頻出するようになる。それ以降の主な任務は、京都守護職、金ヶ崎撤退戦、姉川合戦後の横山城代。浅井氏滅亡後、浅井家旧領の半分を与えられて、「羽柴秀吉」と改名。小谷から長浜へと居城を移す。その後には、主に播磨攻略を担当。その後には中国の雄毛利家へ華麗な立ち回りを見せる。卓越した攻城法を見せるのも中国地方方面司令官になった以降の事で、三木城・鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻めなどで異彩ぶりを発揮する。
その備中高松城攻めの最中、とんでもない情報が彼のこれからを変える。「本能寺の変」彼が最も愛し、恐れ、慕って来た主君、織田信長が明智光秀に討たれたと言うのだ。この時彼の運命は変わった。急ぎ京へ戻り明智光秀と決戦、信長後継者として立候補する。しかし、それに反発する柴田勝家らのグループとの対立が清洲会議以降明確となる。これを賤ヶ岳で破ると、旧織田家中での後継者としての地位が確定する。これに不満な信長の遺児・信雄が徳川家康と組み、この織田・徳川連合軍に敗れはしたものの外交戦により、徳川家康を臣従させる事に成功。その後は、佐々成政征伐、四国討伐、九州征伐、小田原の陣、と天下統一戦を着実に進め、ついに天下統一に成功した。
しかし、その後の秀吉の評判は甚だ悪い。大坂、伏見、名護屋などの巨大城郭をいくつも造り、無謀とされる朝鮮出兵、血縁である秀次一族殺害。これらすべては、「低成長」への移行が出来ないゆえの悲劇であり、なおかつ、我が子秀頼に自分の幼少時のような苦労をさせまい、という成り上がり者特有の親心であった。
朝鮮出兵に関しては「日本の近代意識の発露」との見方もある。ただ、西欧の近代化での各国の段階とは違い日本の侵略経験が始めてであり、朝鮮攻撃軍の不和ゆえに、明の領地まで侵犯するも失敗している。これは、日韓併合とその後の「謝罪ゲーム」へつながる悲劇となっていく。
秀吉の天下統一後行ったことは結局すべて裏目に出た。秀吉の死後、諸将が離れ、65万石余の大名への転落、そして大坂落城。これらすべては、秀吉自らがもっとも安心と思い、秀頼を縛り付けた大坂城を難攻不落、と思い込む重臣達がなせる業でもあった。大坂城は、大坂城を過信する重臣達の手で、滅んだ。城を守りきる優秀なスタッフは豊臣家中に存在しなかった。
けれども、秀吉の心中は信長と違いだれにでも理解できる。それが今の太閤人気へとつながっているのである。
豊臣秀頼トヨトミヒデヨリ
生没年:1593〜1616.5.8
名前:拾い→豊臣秀頼
官位:右大臣
秀吉と淀君の二人めの男児。父・秀吉は50を過ぎてからの子、ましてやもう生まれないと思いあきらめていたのに生まれた子である。可愛くないはずがない。秀次事件の遠因はこの子と言っても、見当違いではなかろう。この子の為の伏見城を建てたり、朝鮮再征を行ったりした。豊臣政権が諸大名の人気をなくしたのはこれらのせいである。その諸大名にこの子を託して秀吉は死んだ。
秀吉の死後、遺言によって大坂城から一歩も出ない生活が続く。その、大坂城温室にいる間に世の中は目まぐるしく変わっていった。いつのまにか関ヶ原の合戦が起こり、65万石の一大名に落とされていた。そして、嘗ての家来の家康が将軍についていた。母の淀君などは、家康が秀頼に将軍の座を譲ると考えていたそうだが、本当にそういうリアリティを感じていたのだろうか理解に苦しむ。家康は子の秀忠に将軍職を譲り、徳川幕府の勢力安定に努めていった。
このことに怒ったのは母・淀君である。秀忠の将軍就任の挨拶に江戸まで来い、というのを当然の如くにして拒否。仕方なく家康は松平忠輝を大坂にやってことを済ませた。それ以降も家康は秀頼を救おう、江戸幕府傘下として救おうとしていた節がある。家康は秀吉との遺言を守り孫・千姫を秀頼に嫁がせたし、関ヶ原で東軍に属した豊臣恩顧の大名は皆その方式で豊臣家を存続させようという雰囲気だったし、「まんかかさま」北政所・ねねの考えもそうだった。しかし、母・淀君とその側近はそれを拒否した。京都・二条城における会見にはしぶしぶ秀頼を行かせたものの、やはり不満げな母であった。秀頼がどう思っていたか、何をやっていたかは不明である。
家康はついに豊臣家を救えない、と判断した。そうと決まれば戦が起こるのは早かった。大坂の陣。冬の陣にて家康の巧妙な謀略にかかり大坂城をだめにし、夏の陣でも衆寡敵せず、ついに豊臣家は滅亡した。
鳥居元忠トリイモトタダ
生没年:1539〜1600
名前:
官位:
家康の人質時代からの家臣。家康とは2歳年上で、家康に取っては「じい」にあたる鳥居忠吉が、元忠の父であったこともあり、苦楽を共にして過ごす。家康独立後は、家康に従い各地で戦功を立てている。
そして、その家康にもついに天下が来ようとしていた。長い「我慢」の末の天下である。そして、家康が天下を取るための布石として、上杉征伐に行こうとする。しかし、伏見には留守居をつけねばならぬ。しかし、留守の間には石田三成の挙兵は必至。間違いなくその留守居は死ぬこととなる。その留守居こそが、この鳥居元忠だった。家康が東国に降る前日、伏見城で酒宴をかわす二人。兵を多く残していこうとする家康に対し、会津へは一人でも多く連れて行くことを進言した。
石田三成は挙兵し、伏見城へ攻め寄せてきた。よくこれを防いだが、最後には城内の甲賀者の裏切りで伏見城は落城、元忠は戦死した。
家康は元忠の遺児に所領を与え、これに報いている。
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