高橋紹運タカハシジョウウン
生没年:?〜1586
名前:
官位:

 高橋鑑種追放にともない、高橋家の名跡を継ぐ。
 耳川の戦いののち(ちなみにこの戦いに高橋紹運自身は不参加。立花道雪も同じ)、主家大友家が斜陽になる。主君・宗麟は豊臣秀吉を頼ることとした。しかし、島津軍の勢いは破竹の勢い。紹運は大友家のために犠牲となることを決意した。
 怒涛の勢いで迫る島津軍5万。島津軍の降伏勧告を無視した紹運はついに島津軍を迎え撃つ。島津軍は大苦戦、翌日は総大将島津忠長自ら先陣を切って軍を励まさざるを得ない始末だった。これには城兵も衆寡敵せず。高橋紹運以下763名は全員玉砕した。島津軍の犠牲は3700名を超え、紹運の子・立花宗茂の篭もる立花城攻略を断念する以外に道はなく、島津軍の秀吉軍到着前の九州制覇の夢は打ち砕かれたのである。


滝川一益タキガワカズマス
生没年:1525〜1583
名前:
官位:左近将監

 柴田勝家に推挙されて織田家に仕える。鉄砲という新技術、調略の才能を見こまれて、木下藤吉郎(秀吉)が美濃方面を担当したのに対し、一人で伊勢を攻略していく。以後、織田家で伊勢にかかわる合戦や、東日本方面の合戦に関与。北畠家攻略、長島一向一揆、長篠の合戦、そして、信忠の副将として戦った甲州武田攻略の勲功で、望んでいた茶器ではなく上野一国と関東管領の地位を与えられる。ここまでが栄光の日々。
 本能寺の変後、運命は大きく変わる。上野国人衆に本能寺の変の事実を教え、「これからどうするも自由」と言ってのけてはみたものの、造反者は結局出てしまい神流川で北条氏直に敗れる。清洲会議に出席もできず(出席したという説もあるがそれでも発言権はなかった)、柴田勝家に味方するも仲がよろしくない秀吉の疾風の如き攻撃に敗れる。一命は助けられ、続いての小牧・長久手の戦いにて秀吉軍で戦ってみたものの失態をさらしてしまい、程なく失意のまま死んでしまったのである。
 この人の鶴と雀の話は有名である。独り立ちが出来ないことを自分でよく知っていた一益は信長あってこその人だった。上は、勝家でも秀吉でもだめだったのである。


武田勝頼タケダカツヨリ
生没年:1546〜1582
名前:
官位:

 武田家を滅亡に追い込んだ当主、ということになっている。
 とはいえ武将としての才は最低ではない。父の死後、父・武田信玄が落とせなかった高天神城を落としている。が、これがよくなかったのかもしれない。いい気になって岡崎城を引き渡す手引きをすると内応したものが出た、ってんで出陣したものの、その者は徳川家により殺害されていた。そこでターゲットにしたのは元・武田家臣である奥平貞昌篭もる長篠城。しかし、この城の守りは堅かった。容易に落ちない。その間にも徳川家康が救援に赴く。盟友・織田家にも援軍要請が飛ぶ。武田家の勢力を削ぐ機会と見た魔王・信長は織田主力をもって出陣した。長篠城では援軍要請の使者として鳥居強右衛門を立てた。見事武田の包囲網脱出に成功したこの男、岡崎城へ向かう。そこには主君・家康だけでなく織田信長とその軍勢30000だった。援軍が到着知っていることを知った強右衛門は家康の制止も聞かず長篠城へと戻っていく。しかし、武田方につかまってしまうのである。城からよく見える場所に磔になって「援軍はこない」と叫べば一命は助けると持ちかけられた強右衛門、怯えながら承諾。そしていざ磔になり、長篠城兵が見守る中「あと数日で援軍到着!決して降参するな」と大激励してのけたのである。強右衛門がすぐさま槍で突かれたのは言うまでもないが、これにより長篠城兵の士気は大上昇、ついに設楽が原に織田・徳川連合軍が迫る。
 一旦退却を主張する馬場・山県ら老臣、これに対し勝頼は出撃論を選ぶ。そして、設楽が原に出向いた武田軍を待っていたのは、3000丁(1000丁とも)の鉄砲足軽隊による釣瓶打ちだった。俗に「三段撃ち」と称されてきた戦法だが決して3000÷3=1000丁の同時撃ちではない。もっと言えば、2段撃ちは雑賀衆が先だった、というのもあるし、弓の交代攻撃は古くから行われていた、というのもある。ただし、日本に鉄砲が伝来してから32年間でこれだけの鉄砲が集中運用されたことは、日本史にとってまさにエポックメイキングな出来事である。戦いの方は、徳川方・酒井忠次の軍により退却路をたたれていたこともあり、攻撃しかなかった武田軍は、馬防柵+鉄砲の集中運用の織田・徳川連合軍の迎撃態勢に敗れた。老臣も多く失った。
 それまで攻勢だった武田家は守勢に立たされた。戦費はかさみ、民からの徴税もかさみ、重くなる一方だった。おまけに、上杉謙信死後の御館の乱でなぜか盟友・北条氏政の弟の上杉景虎側から外れ、上杉景勝に味方、景勝を勝たせてしまう。北条が怒らないはずがない。
 1582年、義弟である木曽義昌の裏切りに端を発した織田・徳川・北条連合軍による甲州攻め。戦いらしい戦いもなく、裏切りにまみれて天目山にて自刃。名門武田家の嫡流は滅亡したのである。


武田信玄タケダシンゲン
生没年:1521〜1573
名前:勝千代→武田晴信→武田信玄
官位:大膳大夫

 戦国屈指の名武将。信長・秀吉とは別系統の、という制限はつく。
 「男女を問わぬ」色恋に満ちた少年時代、板垣信方はそれをとがめたりもする。父・武田信虎は自分によく似た激しい気性を嫌い弟・信繁を愛していた。しかし、父・信虎の厳しさに耐えられなくなった家臣団、そして税の重さに嘆く民によって担ぎ上げられクーデター、今川家に父を預け、戦国大名としての一歩を歩み出す。
 それからは、父の代からの念願の信濃の小豪族や守護・小笠原追討に命を燃やす。時には妹の夫を躑躅が崎館に呼び騙し討つこともあった。時には戦に敗れ、傅役・板垣信方を失うこともあった。しかし、信濃一国の掌握に限りなく成功を収めようとするところまでたどり着いたのである。そこに、正義の熱血漢が立ちはだかった。長尾景虎、後の、上杉謙信である。信玄に所領を取られた小笠原長時・村上義清に頼られた景虎さん、信玄の行為に怒り心頭、川中島に出陣する。これを信玄も迎え撃ち、後に「川中島の合戦」と呼ばれる戦いが5回もたれたのである。特に4回目、1561年のものは後に講談師が一騎撃ち伝説を作り上げるほどに激しいものだった。戦争芸術家の相手をする一方で、今川・北条との間で三国同盟を締結して外交力を駆使、上野にも出陣したりして領土を着実に伸ばしていく。
 上杉謙信との5回に及ぶ戦いの結果は引き分けだったが、戦略面では川中島掌握に成功、実質的な勝利を収めている。その戦いの間に、あの、義兄にあたる今川義元が桶狭間であっさり討たれてしまっていた。義元を倒したこの男・・・織田信長は、信玄にはかなわないと踏みひたすら貢ぎ物外交を重ねる。漆の箱で包装して物を度々送ってくるこの男にころりとだまされた信玄は、織田家との婚姻同盟を行う。それに時同じくして、今川義元の子・今川氏真が愚鈍なことを見て駿河攻略を決意する。これに異を唱える、今川家の娘をもらっている嫡子・武田義信と、その傅役、飯富虎昌を殺害してまで信玄が欲しかったもの、それは海。徳川家康との共同作戦によって今川家を滅ぼし、ついにその念願のものを手に入れたのであった。
 しかし、この共同作戦で徳川家との関係が悪化。さらに、自分を先んじて上洛した織田信長の、足利義昭との不和が伝わってくる。その義昭からのお手紙が届入たのを機に、ついに西上作戦をはじめた。徳川家康を三方が原であっさり破ったものの、信玄自身の病状が悪化。ついに西上を断念、甲斐に戻る途中の信濃駒場で病死した。


武田信虎タケダノブトラ
生没年:1494〜1574
名前:
官位:

 守護武田家を無理矢理?戦国大名にした男。叔父・武田信恵を討ち果たして以降、戦にまみれた当主生活を送る。石和から、躑躅が崎に本拠を移したのもこの信虎である。
 しかし、合戦の経費のために民に重税を課すは、諫言した家臣を斬るはで下の者はたいそう迷惑したらしい。その彼らが次なる当主にと担ぎ上げたのは、信虎自身が、自分に似た激しい気性を嫌っていた長男・晴信。今川家へ外交関係強化のために赴いた帰り、甲斐に帰れなくしてそのまま今川家に留まってもらうことによってクーデターは成功した。
 ちなみにその後の信虎は、桶狭間合戦以降今川家が斜陽になるまで駿河にいた。しかし、わざと今川家臣に武田への投降を促し歩くことをして、今川家から追放されるのである。そして、子・信玄に駿河攻略のチャンス、と書状を送るのであった。信玄はその後に駿河に侵攻している。
 さらにその後、京へ上ったりしたらしい。信玄より長く生きた信虎は、信濃にて孫の勝頼と面談したりもしたが、甲斐に戻ることなく信濃で、子の信玄と同じように死んでいる。


武田義信タケダヨシノブ
生没年:1538〜1567
名前:
官位:

 善徳寺の会盟により今川義元の娘と政略結婚する。この時期にこれが非運の始まりとは誰も知る由がない。
 桶狭間合戦後、今川家を継いだ氏真が軟弱なのを見て取った父・信玄は駿河攻撃を決意する。これに「不義」と言って反対したのが義信である。二人はこの後対立、信玄は義信を幽閉した。次いで義信は切腹させられるのである(病死という説もある)。
 信玄はこれにより、「親不孝、子殺し」の汚名を着るのである。


伊達稙宗ダテタネムネ
生没年:1488〜1565
名前:
官位:左京大夫

 「塵介集」の制定で有名。
 それだけではなく、京都へ工作して、奥羽守護に補されたりするなど活動的。伊達氏を有力大名の地位に押し上げた。しかし、伊達実元を越後守護上杉家に養子に入れようとしたことに端を発し、子の晴宗と不和になるや、「天文の大乱」を起こし、奥州全体を巻き込んだ大騒動にまで発展させてしまう。伊達氏はこの後せっかく大きくした勢力を失い、輝宗の代までこの後遺症に悩まされることとなる。


伊達輝宗ダテテルムネ
生没年:1544〜1585
名前:
官位:

 独眼竜政宗の父であり、政宗にとっては保護理解者であった。
 近隣諸国とよく渡り合い、伊達家の衰亡を防ぎとめた。やはり、織田信長に名馬を送るなどして中央への外交も行っている。
 嫡子・政宗の才を見ぬいた輝宗は、妻にして、最上義光の妹、義姫を始めとする政宗の弟小次郎擁立派の矛先を防ぐ形で政宗18歳のときに家督を譲ってしまい、伊達家伝統の内乱を未然に防いでいる。
 そんな隠居生活のある日、二本松の畠山義継が泣きついてくる。政宗の降伏条件が厳しい、というのだ。嘗て援軍をよこしてもらった恩がある輝宗は政宗を説得した。そして、義継と歓談して、分かれようというそのとき、義継が逆心したのである。輝宗を拉致して伊達領をあとにしようとする義継。それを追う伊達家家中、追い詰められた義継は輝宗と刺し違えて死ぬ(政宗が父もろとも狙撃したという説もある)。


伊達政宗ダテマサムネ
生没年:1567〜1636
名前:梵天丸→伊達藤次郎、伊達政宗
官位:大膳大夫

 「遅れてきた戦国武将」にして、「奥州の独眼龍」とはこの人である。
 三歳のときに疱瘡により右眼を失明。それ以降母・義姫に嫌われ、劣等感に満ちた少年時代を送る。
 しかし、虎哉宗乙(こさいそういつ)を始めとする優秀な師、また片倉小十郎(景綱)や伊達藤五郎(成実)を始めとする優秀な腹心とともに成長していくのだった。
 18歳で家督を譲られる。家督を次いでまもなく、大内定綱の降伏後の豹変、ということが起こる。怒れる政宗は奥州ではじめて「撫で斬り」をやってのける。大内定綱の居城・小浜城の出城にいた者どもを女子供かまわず切り捨てたのである。これには奥羽全土が震撼した。それを恐れ降伏しようとした二本松の畠山義継の降伏、条件は厳しくした。それで義継は輝宗に泣きついたのだが、輝宗は、畠山義継の逆心行為によって死んでしまうのである。怒り爆発の政宗は劣勢も省みず人取橋で畠山・芦名・相馬・佐竹連合軍と激突する。伊達成実の奮闘もあり、なんとか勝利をすれすれモノにする(が、実際は限りなく引き分けだったらしい)。それ以降も奥州全体を激しく駆け回り、ついに摺上原で芦名軍に勝利した政宗は24歳にして奥州を席卷、奥州66郡中の30余郡を物にすることに成功したのである。
 しかし、中央では豊臣秀吉がまさに天下を取らんとしていた。秀吉は、豊臣政権に臣従した芦名家を滅ぼし「関東奥州惣無事令」を無視する政宗に冷たい視線を注いでいた。そして、小田原北条を攻めるにあたり、伊達家に従軍を要請してきたのである。
 伊達家はこれへの対処に揉めたが、結局は小田原へ行くことで決着した。それで出立しようとする際に母・義姫が弟の小次郎と共に政宗を接待したい、と申し出る。政宗はそれに出向いたのだったが・・・いざ、吸い物を飲もうとしたとたん、毒を一瞬で感じ取り、すぐさまそれを吐き出し、毒消し薬を飲むと同時に、弟・小次郎を殺害したのである。これだけでなく、度々の禍根を断つために仕方ない処置であった。そして母・義姫は実家・最上家へと去った。
 ここからは秀吉と政宗のナアナア劇である。
 小田原の陣に遅参した政宗。このままではおとりつぶし。死ぬ前に千利休に茶を習いたい、などと申して秀吉の気を引き、諸侯の前に引き出すときには死に装束で出ていった。そして土産の砂金が袋から溢れ出す。秀吉は「もう少し遅かったらここが危なかったぞ」と杖で汗だくになっている政宗の首を指して言って政宗を許した(諸大名引見の前に秀吉得意の非公開会見があったともされている)。会津あたりは取られてしまったものの、政宗は難を脱した。
 続いては奥州に起こった一揆。これが、裏で政宗が糸を引いていると勘ぐったお隣の蒲生氏郷。秀吉に訴える。「この花押、まさしく政宗のもの」 対する政宗の答えは「鶺鴒の眼に針で穴があいていない」 よく見てみると、まさしくそのとおりだった。秀吉は、政宗の仕業と知りつつも、その人物を見て許したのだった。
 まだまだ起こる波瀾。今度は秀次事件に連座の危機。今度の上洛には黄金の十字架を引っさげていった。「死ぬときは派手に」 そう言う政宗に対し秀吉は、領土を少し削るだけで許してしまった。
 政宗も、朝鮮出兵に実際に出陣し、京を派手に行軍し、「伊達者」の元となったりして秀吉を喜ばせたり、実際に渡海してプサン近くの金海城を開放したりしてさらに秀吉を喜ばせたりと、苦労しながらも秀吉に仕えていった。しかし、その秀吉もついに死んだ。
 今度の天下は徳川家康。そう見た政宗は家康にかねてより接近。関ケ原の戦いのときは「百万石のお墨付き」を得たりした。旧領である、上杉の白石城を落としてみたものの、和賀の一揆の煽動発覚、お墨付きは反故にされてしまった。政宗は仙台に城を築くこととし、反故にされたことに不満は言わなかった。
 その後も、婿・松平忠輝と大久保長安の騒動や、支倉常長によるイスパニア航海、大坂の陣と元和年間まで休まることはなく人生を送った。
 家康死後も天下を狙うことなく、幕府につかえ、秀忠・家光の尊敬を得た。そして、趣味に生き、充実して有り余るパワーを使い果たしていった。1636年、江戸にて死去。死に床でも、時の将軍・家光が見舞いにくると聞くやいなや、床上げしてこれに会っている。終生、人前で寝た姿を見せなかったとされている。


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