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斎藤龍興サイトウタツオキ
生没年:1548〜1573
名前:
官位:右京大夫
父の死にともない13歳で家督を継ぐ。これに乗じた信長を竹中半兵衛の十面埋伏の陣で破ったはいいものの、その竹中半兵衛をあきれさせ、ついに17人(21人)で稲葉山城を取られてしまう暗愚ぶりを示したとされている。竹中半兵衛の捨て身の諫言も耳に届かず、祖父・斎藤道三に言ったとおりに信長に敗れ、道三の譲り状どおりに美濃一国を信長に与える始末となってしまう。
その後、伊勢長島に逃れた後、朝倉家に頼るが、1573年、刀禰坂の戦いで戦死する。
斎藤道三サイトウドウサン
生没年:1494〜1556.4.20
名前:峯丸→松波庄九郎→西村勘九郎→長井新九郎規秀→斎藤秀龍→斎藤道三 他
官位:山城守(自称)
北面の武士の出、とされている。妙覚寺に入門、その後は油商人の山崎屋に婿入りし、山崎屋を繁盛させる。有名な、銭の穴に油を通す、というのはこの頃のこと。その後、美濃に下って、まずは守護代の長井家に取り入る。長井家から推挙、という形を持って美濃守護の土岐政頼の弟・土岐頼芸に仕える。京にあこがれる頼芸の心をがっちりつかんだ道三は、頼芸にクーデターを焚き付け、これを成功させてみせる。国内の反対勢力を様々な手を持って潰していき、女と鷹の絵にしか興味がない頼芸をどんどん美濃の山奥へと居城を移させる。その一方、稲葉山城を改城していき、土岐頼芸の家臣達を皆城下に住まわせることに成功、一大消費都市となった稲葉山城城下の加納に楽市令を布き、稲葉山城は山城にもかかわらず城下町は栄えに栄えた。ついに、土岐頼芸の追放に成功してしまう。
その頼芸が頼った織田信秀と、それに組んだ朝倉孝景を撃退し、それでも戦を仕掛けてくる信秀に対し、手痛い一撃を与える。これに懲りた信秀は嫡子・信長と道三の娘・帰蝶との縁組みを持ち出してくる。道三の方も信秀が「ウザかった」らしく、これを承諾している。
1551年に織田信秀が死に、家督は婿にして「うつけ」の信長が継ぐ。ここで道三は婿に会っておこうとふと思案、信長に使者を送ったところ信長はあっさり承諾。道三サイドとしては、徐々に深くなりつつ息子・義龍との対立への布石、また、信長が本当に馬鹿だった時の「後始末」というのが頭にあったらしい。会見の場所は尾張と美濃の国境の正徳寺。一足先についた道三は婿のうつけぶりをみようと民家から織田軍の行列を覗く。道三の目には信秀時代と打って変わった織田軍の軍装が映った。長槍の採用、鉄砲隊の配備。これらに道三はみはったが、次に来た信長にはもっと目をみはるものがあった。諸肌脱ぎで瓜をかぶりつき、腰には瓢箪とそのものまさしくうつけだったのである。
しかし会見の場。婿の服装に合わせ平服で出てきた道三と会見したのはしっかり盛装を着こなしている信長の姿だった。こともあろうにか、「是ぞ山城殿にて御座候」と信長へ向かって道三を紹介した堀田道空に対し「であるか」と舅にして蝮の道三の前で言ってのけるのでだった。
会見終了後、「誰が見ても信長はうつけ」と笑う家臣に対し道三は「わしの子らはあのうつけの門外へ馬を繋ぐであろう」と予言した。それから、斎藤家と織田信長家の同盟はより緊密なものとなった。
しかし道三がかつて美濃の政情安定のために旧主君・頼芸から譲り受けた深芳野から生まれた子・義龍を頼芸の子と吹聴しまわっていたことが元で義龍との関係が悪化。義龍は弟二人を殺害後稲葉山城にて父の敵討ちとして挙兵。道三方にも2000の兵が集まったものの義龍側に参じた兵は12000。信長の援軍の深入りを気遣ってか、合戦直後早々に死を選ぶ。道三の首は義龍の命で晒されたが、道三を討った元家臣・小牧源太がその恩を感じひそかにこれを盗んで葬ったのであった。これが今の道三塚である。
道三は死の直前、信長へ美濃一国を譲ることを記している。結果として正徳寺の道三の予言通り、稲葉山城は信長が落とすこととなる。
ちなみに最近は道三2代説の方が主流、といわれている。長井家に養子に入るまでが初代、それ以降が2代目らしい。
斎藤義龍サイトウヨシタツ
生没年:1527〜1561
名前:
官位:
この男、出生に疑問が打たれている。母・深芳野は斎藤道三が当時の主君・土岐頼芸と襖の虎の絵の目を槍で突けるかという賭けをして道三が勝ったことによって、頼芸から道三に下された女である。主君の妾を家臣にやるという習慣はこの当時は多い。問題は、そのときすでに深芳野が身篭っていたのではないか、ということ。道三の女になり7ヶ月で義龍が生まれたのだから疑問が投げかけられて当然である。ただ、すでに道三は土岐頼芸の側室時代の深芳野と密通していた、という説もある。真相は闇のままである。とはいえ、どうやら義龍出生からしばらくは道三はひどくこの子を可愛がったらしい。
義龍が長じる。道三はクーデターにより、美濃一国を手中に治めんとしていた。しかし、国人層の中の動揺はなくならない。そこで、道三は義龍が旧主・頼芸の子であることを盛んに触れ回ることによって事無きを得たのである。
道三隠居後に稲葉山城城主となってはじめてこの事実を知った義龍。義龍には道三の子としか思えない異父弟が二人いた。鷺山城に隠居の道三がこの子らに家督を次いで与える、と思い込んだ義龍は仮病を装ってこの弟二人を殺害、真の父・頼芸敵討ちとして挙兵する。道三もこれに抗しようとしたが、敗れる。道三は婿・信長に美濃一国の譲り状を書き、唯一殺されなかった末子には僧になるよう遺言を書いた。しかしながらも、義龍の見事な采配に「しばらくは斎藤家も安泰」と漏らしている。
義龍は、桶狭間勝利で破竹の勢いの信長を迎え撃たんとした1561年に突如死んでいる。
佐久間信盛サクマノブモリ
生没年:?〜1581
名前:
官位:出羽介(自称)、右衛門尉
尾張時代からの有力武将。信長弟・信行(信勝)との抗争のときは信長方についたようである。
桶狭間合戦以降も各地で活躍 「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に退き佐久間」とうたわれた。実は「退き佐久間」にはいくつかの解釈がある。(A)先鋒の柴田に対し、退却戦で活躍した (B)退くときくらいしか役に立たない (C)すぐに「退け、退け」と言っていた。
とにかく、金ケ崎の退き口以降では、対六角への箕作城の守備、三方が原援軍(これがあとで命取りとなる)、伊勢長島、越前一向一揆鎮圧と転戦している。そして、長篠合戦では武田方への贋内応をしたともされている。その後は7ヶ国の兵を率いて石山本願寺攻めを担当している(当時、織田家最大の方面軍)。まさに、織田信長の天下統一へ大献身しているかのように見えた。
石山本願寺との勅許講和が、信長から1通の書状をやってくる。これが終劇の始まりだった。
「いい働きもせず、失敗もせず、5年間何をしていたのか。武で攻めず、かといって調略もせず、居城を囲んでおれば信長の以降で敵は滅ぶと思っていたのか。日向守(明智光秀)は丹波で働き、羽柴藤吉郎(秀吉)も比類なき働きをした。池田勝三郎(恒興)も然り。柴田修理亮(勝家)も働いた。7ヶ国の与力を与えたのだ。新しく家臣を召し抱えればどうにかなるかもしれないのに、それすらやっていないではないか」と説教は続く。そして、「朝倉攻めでは遅れてきたのに『さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷』とは何事か」「三方が原の折平手を捨て殺した」と続く。そして、子の信栄(後に正勝)には「筆にも墨にも述べがたき事」とされている。その折檻状の中程には「一天下の面目を失い候儀、唐土・高麗・南蛮国までも其隠れ有間敷候」といかにも信長らしい?お言葉が残っている。シメとして「大敵を平らげるか、父子共に高野山に隠棲するか」と決断を迫っている。
結局は裸足で高野山に追放され、その地で死んでいる。
里見義豊サトミヨシトヨ
生没年:?〜1534.4.6
名前:竹若丸→里見義豊
官位:
父・里見義通の晩年の子とされる。その父が死ぬと、幼少故に叔父・実堯が一時的に家督を継ぐ。家臣の補佐あって無事成長した義豊ではあったが、叔父が家督を自分に譲らないのではないかと疑い、1533年、稲村城に実堯を攻めこれを殺し、里見家を継ぐ。しかし、従兄弟にして実堯の子・義堯が北条氏綱の援を受け安房に攻め入って来る。真里谷武田氏と結びこれに対抗しようとしたものの、犬掛にて義堯に破れ敗死した。
里見実堯サトミサネタカ
生没年:?〜1533
名前:
官位:
兄・義通の死に伴い、まだ幼い甥に代わり家督を継ぐ。足利義明に従い各地へ出兵、鎌倉へも進出したとされる。しかし、元服した・甥の義豊が自分に家督を譲らないのではないかと危惧し、実堯は稲村城で殺されてしまう。
里見義堯サトミヨシタカ
生没年:1512〜1574.6.1
名前:
官位:刑部大輔
里見氏は清和源氏新田流とされている。新田氏の家なのになぜ二ツ引両の紋であるかというと、足利尊氏に属して戦功があったかららしい。
父・実堯を従兄弟の義豊に殺された義堯は北条氏綱の援を受けて義豊を倒し、里見家当主となる。当主になってからは、小弓公方の足利義明に従い、旧恩ある北条氏綱と戦う。その足利義明とともに国府台において北条軍に合戦を挑むが、前線に出過ぎていた足利義明が北条軍に討たれると軍は支離破滅。義堯もやむなく安房に退却する。慎重に慎重を重ねて勢力を上総にまで伸ばす。居城を久留里に移し、上総における勢力安定を狙う。1562年には家督を子の義弘に譲っている。1564年の第二次国府台合戦に負けたものの、三船台の合戦において房総における覇権は確実となる。
里見家はなぜかいつも北条にやられっぱなし、という印象が強いが、実際には、海戦では北条水軍に圧勝しているし、陸の戦いでも結局は北条の攻勢を凌ぎきった。その理由は、穏便に家督を継ぐことが出来た氏康と違って、家督争いまで演じて家督を実力で勝ち取った経緯のある義堯の苦労があるのではないだろうか。
真田昌幸サナダマサユキ
生没年:1547〜1611
名前:武藤喜兵衛→真田昌幸
官位:安房守
青年期には武田信玄にその才を認められ、真田家の嫡男でないことを惜しみ、武藤家の名跡を継がされる。曾根内匠と共に武田信玄に「我が両目の如くなり」と言わしめる近習ぶりであった。
父・真田幸隆の死後、長篠の合戦でさらに兄・信綱と昌輝が戦死したために真田家を継ぐ。衰退の色濃い武田勝頼の下、上野の沼田などを攻略していっている。
武田家が1582年、織田・徳川連合軍の攻撃を受けたときも勝頼に「我が居城に・・・」と勧めたものの勝頼は岩殿山に逃げ、そこで小山田信茂の裏切りにて死んでしまった。武田家滅亡、と分かれば、そこは現実家の真田昌幸、織田軍に下る。しかし、本能寺の変後、織田軍団が消滅、神流川で北条軍が滝川一益を破ると北条に、信濃に徳川が来ると徳川に、小大名らしい見事な立ち回りを見せた。
しかし、徳川家康との関係が悪化すると、上杉に従属、怒った家康が発した徳川軍を上田城で散々に討ち破る。その後は、豊臣家に臣従した。秀吉は昌幸を「表裏比興の者(表裏あって信用ならない奴)」と見て警戒していたが、昌幸は信玄以来の従属ぶりで秀吉に仕えた。その後、その秀吉の懇願命令で家康組下とはなったものの、真田領の小胡桃城の領土問題で豊臣軍の北条侵攻の口実を作ると、秀吉に中山道の先鋒を任せられる。軍議の場では家康と同格に扱いをしてくれた。これが、昌幸のハートをがっちりつかんだ、とされている。
秀吉死後、関ヶ原の合戦。東につくか、西につくかで長男にして徳川家康の養女をもらっている信幸と、石田三成と親しい大谷吉継の娘をもらっている次男・幸村信繁の間で揉めるが、その二人に対し、好きなほうにつけ、と言ってのける。かくして、信幸は東軍に、自分と幸村は西軍についた。その信幸が含まれる徳川秀忠率いる中山道軍を上田城でまたしてもこてんぱんにしてやるが(ちなみに信幸は支城・戸石城をきちんと落としている)、関ヶ原の地で西軍が負ける。
勝った家康による論功行賞。東についた信幸と、その舅・本多忠勝のとりなしで一命は助けられた昌幸と幸村は高野山に隠棲。「真田紐」を考案し、これを売りに行かせるついでに諸国の情報を集めてたりもしたが高野山の地で死去。死ぬ日まで秀吉像を毎朝拝礼していたという。ちなみに、幸村は大坂の陣で大活躍、家康を少しは困らせた。そのとき、徳川家康は「真田、大坂入城」の報に「親のほうか、子のほうか」と手をかけた戸をがたがた振るわせながら聞き、「昌幸は数年前に死去、入城したは子のほう」と聞いてやっとその震えが止まった、というエピソードも残っている。
※「表裏比興」は「表裏一体」とは違うというご指摘を頂きまして、史料に伝わる言葉を採用することにしました。この件については、ブログ「Theメディア市」内のエントリも参照してください。(2006.5.24)
真田幸隆サナダユキタカ
生没年:1513〜1574
名前:
官位:弾生忠
真田家のもとは滋野氏の分家の海野氏。近隣豪族の連合軍に敗れ、それで故地奪還を夢見て敵・武田信玄に降る。
信玄の北信濃攻略では道案内を務める。合戦で倒せなかった村上義清を調略で見事倒してのける。この功で故地奪還に成功している。それ以降も調略と謀略をもって武田家の勢力拡大の一端を担った。上杉謙信を何度も手玉に取り、謙信に「真田ある限りは信濃獲ることかなわず」と言わしめている。
ちなみに、真田の六文銭は幸隆考案ともされている。
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