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大内義隆オオウチヨシタカ
生没年:1507〜1551
名前:
官位:左京大夫、筑前守、太宰大弐、左兵衛佐、兵部大輔、伊予介、侍従、兵部卿
西国随一の大名大内義興の死後家督を継ぐ。儒学詩歌、有職故事に通じていた。当初は九州に出陣し少弐氏を破り、大友氏と講和し、安芸に出陣して安芸武田氏を滅亡させこれを領国化させていた。この勢いに時の将軍足利義晴から幕政参加を請われたほどであった。そんな中、吉田郡山城篭城戦で毛利が陶の援軍で勝利し、あわせて尼子経久が死ぬと出雲計略の絶好の機だとして出雲に出陣。しかし、月山富田城において裏切りによって敗北を喫する。これ以降、相良武任を起用した文治政治を展開した。これによって確かに城下町山口は京都を模範とした都市計画に基づいて発展し、対明貿易の独占と南蛮貿易の利益によって富み、山口には朝鮮・明・南蛮・京の文化が混ざり合った独特の文化が形成された。しかし、家自体は貴族化とともに軟弱化し、義隆を含む多くの者が酒色に溺れ、遊興三昧であったともいわれる。しかし、この政治に武功派家臣が反発。陶晴賢のクーデターによって山口を追われ、大友家へ亡命しようとするが嵐で果たせず義隆は大寧寺で自刃した。
大内義長オオウチヨシナガ
生没年:?〜1557
名前:大友晴英
官位:
陶隆房のクーデターの後に大内家の家督を継いだ、大内家最後の当主。大友家より大内家に養子に入ったのである。陶隆房は義長の旧名「晴英」から一字拝領し、「陶晴賢」と名乗る。が、政治の実権は陶晴賢が握っていた。
その晴賢が厳島で毛利元就に敗れると、数年後、迫り来る毛利軍に敗れ、長門の長福寺で自刃した。
毛利元就は大内義長の兄である、大友宗麟に「義長の命を助けようか」と聞いてみたものの、宗麟の要求は茶器だった、という逸話が残っている。
太田道灌オオタドウカン
生没年:1432〜1486
名前:太田持資
官位:
扇谷上杉氏の執事。小さい頃から才気煥発で、父・資清が、「障子はまっすぐだから立っていられる。お前の根性は曲がっている。それでは人の役には立つまい」と言うと「屏風は曲がっているからこそ立っている」と答え父を怒らせた、とか、「おごるもの久しからず」と言った父に「おごらざるもの亦久しからず」と言い父を激怒させた、という逸話も残る。常山紀談には「七重八重 花は咲けども 山吹の みの一つだに なきぞ悲しき」の歌が分からなかったということを恥じて以来歌道を志すという話が載っている。
軍事に明るかった彼は、今川家にいることの北条早雲をうまく武力を背景にあしらったりもした。古河公方と主君が推す堀越公方が戦った「享徳の乱」では30を超える戦を戦い抜き武名を馳せた。この強さの原因は今までの騎馬戦術を改めての足軽戦術の確立によって、であった。
享徳の乱終結以後の山内上杉と扇谷上杉の対立に際しては河越城、岩槻城、そして江戸城の築城によってこれを凌ぎ、築城家としての名声も上がった。
道灌は諸事に歌を使った。一例を挙げれば、小机城を攻めたときのこと。攻めあぐんだ道灌は「小机は まず手習いのはじめにて いろはにほへと あとはちりぢり」と兵を鼓舞した(子供が手習いをする小机は、いろはにほへとまではちゃんと書くが後は散り散りになるのが子供の習字だ。城とてこれに同じ、の意)。主君、上杉定正と房総出撃のときは山道を行くか海を行くかで迷い、海の道は満ち潮がある、と躊躇する定正に対し、古歌を使って、今が引き潮であることを定正に教えた。
上杉定正は、家臣・太田道灌の名声が日々高くなっていくことを感じた。これにつけこんだのが山内上杉氏。ついに道灌は定正に風呂場で暗殺される。最期に「昨日まで まくめうしわを入れ置きし へむなし袋 いま破れけむ」と歌った。我慢を入れていた袋も限界だ、という意味である。ちなみにこの時「当方滅亡!」と叫んだともされる。
その通りに扇谷上杉氏は河越夜戦で滅亡してしまう。ついでに道灌を殺させることに成功した山内上杉氏もその時、衰退化することとなる。が、それは後の話しである。
大友宗麟オオトモソウリン
生没年:1530〜1587
名前:大友義鎮
官位:右衛門督
若き頃の宗麟は粗暴で、父・義鑑はこれを嫌い、側室腹の塩市丸に跡目を継がせようとした。しかしこれによって家臣団が二分、父と塩市丸は宗麟を推す家臣によって落命、瀕死の父の遺言によって大友家を継ぐ。
それ以降の大友家は、戸次鑑連(立花道雪)らを初めとする勇将に支えられ、反乱を起こした高橋鑑種を成敗し、九州に上陸してくる毛利と戦い、龍造寺とも戦う。
若き頃の母の死、父を失った二階崩れの変と不幸を経験し続けの宗麟はキリスト教に目をむけた。城下町・大分での布教を許し、みずからも洗礼を受け、ドン・サンフランシスコという洗礼名を受ける。海外貿易での収入によって軍事力は大きくなり、国崩しと呼ばれる大砲も実戦で使った。九州の他のキリシタン大名とともにローマへ少年使節を送ったりもした。
しかし、家督を嫡子・義統に譲ってからは酒に溺れ、女に溺れさっぱりであった。居城を島城である丹生島城に移すとなお一層その度は高まった。固めで知られる立花道雪が女遊びを始めて、心配に思ってやってきた宗麟に向かい涙ながらに諫言されても数日後にはどこ吹く風であった。九州を切支丹王国化しようと日向出兵。寺を焼き討ちしながら進み、宗麟自体は後方でただただ祈ってるだけであったため味方の士気はさっぱりであった。そこを島津軍に耳川で破られてしまう。
島津の攻勢に耐えれなくなった宗麟は秀吉の助けを請う。丹王島城からの大砲攻撃と、高橋紹運・立花宗茂父子の奮戦もあって、無事に豊臣軍が九州上陸。滅亡のみは免れたのであった。
織田信雄オダノブカツ
生没年:1558〜1630
名前:茶筅丸→織田信雄、常真
官位:大納言、内大臣
信長の三男として生まれるが、次男であるはずの織田信孝の生母の身分が高くなかったため次男として扱われる。織田信忠とは同腹の兄弟。信長の謀略により北畠家に養子として入る。勝手に伊賀に攻め込みゲリラ作戦に負け(天正伊賀の乱)父の叱責を受ける。しかし翌年これを討伐。その後本能寺の変が起こるも単独では明智に向かう力はなく、それだけならいいのに、山崎の戦い後の1582年6月15日、明智の残党狩りにと安土城下に放った火が安土城天主に燃え移る、という失態をさらす。続く清洲会議では誰も担ぐものはおらず、弟・織田信孝との対抗上秀吉が押した甥・織田三法師を推し、次いで後見人となり、尾張・伊勢を得る。さらに賤ヶ岳合戦では秀吉に味方し秀吉の思惑通り弟・織田信孝を殺している。その後は秀吉の調略に乗り家老を三人殺し、秀吉に攻撃の口実を与える。信雄は徳川家康と組みこれを迎え撃つ。池田恒興の人質を返し池田を羽柴方につかせてしまったり、伊勢の城を数多く落とされ小牧・長久手の合戦において勝利を得た徳川家康の足を引っ張る。家康に戦闘で負けた秀吉は、信雄に地位と領土を与え信雄と単独講和に成功。家康が「お坊ちゃまは手におえない」というほどの軽薄さであった。その後小田原の陣で転封を拒否して改易。秀吉のお伽衆として捨て扶持を得る。関ケ原戦の後、大坂の陣では大坂城からすぐに退散。家康に情報をもたらす。結局は信雄の家系が信長の血筋として明治にまで残った。
織田信忠オダノブタダ
生没年:1557〜1582
名前:奇妙丸→織田信忠
官位:秋田城介、左近衛権中将
1576年に信長から尾張・美濃と岐阜城及びそこに貯えられた財と家督すべてを譲られる。天下布武事業のみが信長に残った形となり、信長は安土城を築くこととなる。その後は信長の名代として松永久秀征伐、石山本願寺攻め、播磨計略、甲州武田征伐に出陣を重ねる。家臣が御膳立てしたとよく言われるが、家臣を使いこなす能力は十分にあり、二代目としては一応合格であった。エキセントリックな父とは違い普通の人といったかんじで、家臣からはそこそこ慕われた。
しかし、本能寺の変にて父が急死。二条御所にいた信忠は父の救援に赴こうとするが果たせず。ここで単身逃亡し生き続けていれば織田家及び天下布武事業は何とか継続しただろうが、信忠は死を選んだ。誠仁親王を脱出させ、織田三法師を脱出させ、討ち死にした。
織田信長オダノブナガ
生没年:1534.5.12〜1582.6.2
名前:吉法師、三介、三郎
官位:上総介、尾張守、弾正尹、左近衛大将、右大臣、右大将
尾張国守護斯波氏の守護代の織田家のそのまた家来の家系、古渡城城主・織田信秀の三男。幼少時には乳母の乳首を噛みきり、誰も乳母がいなくなる事態にまでなりそうであったが、池田恒興の母が乳母になってからは事無きを得た。少年期以降、「うつけ」と世間から囃される。これに信長の非凡さを見抜いたのは、父・織田信秀、そして舅・斎藤道三、あとは万松寺住職・大雲禅師くらいのものであり、彼を保護したのは、傅役の一人、平手政秀と斎藤道三の2名程度だった。
父・織田信秀が若くして死んだのは、信長18の時。当然家督争いが起こることとなるが、これは、信長家臣団に対する信長の発言力が強くなった一因にもなる。1560年、自軍の5〜10倍ともいわれる今川義元の軍勢を桶狭間にて本陣急襲攻撃によって撃退、武名は一際上がる。その後は、三河の松平元康と提携し、兵農分離による専業武士をもって、尾張を完全に統一後、「コツコツと」美濃・伊勢を略取。稲葉山城を岐阜城と改名し、「天下布武」の印の使用を開始。天下を武力によって統一し、武士社会にする決意を表した。足利義昭が信長を頼ってきたのを利用し上洛に成功。近江の浅井長政に妹の市を嫁がせ盟友の一人とするが、越前朝倉攻めにて長政の裏切りに遭う。これ以降、対立が表面化してきた義昭の画策による「信長包囲網」「反信長同盟」に苦しめられつづけることになる。怒れる彼は浅井朝倉に対し姉川の合戦後に木下秀吉をみっちりと監視させ3年掛かりで攻略、彼らに組みした不犯の地比叡山延暦寺を焼き討ち。伊勢長島・越前の一向一揆に対してはジェノサイド戦術を取り、越前一向一揆の死亡者は『長崎原爆の犠牲者と匹敵する』(立教大学・藤木久志氏)ほどだった。武田信玄に対しては当初平伏外交を続けたが、これが効かなくなり、徳川家康に援軍を送ったが、三方ヶ原戦の結果は織田・徳川方の大惨敗。ついに決戦間際までになったが、信玄の死によって小康を得る。信長包囲網の仕掛け人・足利義昭を京都より追放、室町幕府は滅亡した。
その後の織田家は凄まじい。長篠合戦では鉄砲足軽隊の集中運用による武田軍殲滅、第2次木津河口戦で世界初の鉄張り戦艦によって毛利水軍(村上水軍)を撃退したとされ、1580年には10年間戦いつづけた石山本願寺との講和による実質的勝利など。しかし、彼のあまりの働きぶりには家臣がついていくのが大変であった。実直さでこれに応える老臣・柴田勝家、どんな苦労も厭わない働きぶりはもはやマゾヒストの領域であった羽柴秀吉。これらの人々はうまく信長に仕えていたが、荒木村重など上手に信長に仕えることが出来ず謀反に踏み切る家臣が現れる。その後、林通勝(秀貞)・佐久間信盛らの追放などもあり、家中の者の一部に織田家臣であることに疲弊感をもつものが出てきていた。結局、信長は明智光秀の謀叛というかたちで落命する。しかも、自らの全国デビューである桶狭間合戦が如き急襲を受けて、である。
信長は「中世の破壊者」などといわれるが実際には京七口の関所を認める等、中世的なものとの妥協も数多く見受けられる。また、信長の検地を後の太閤検地と比較し、他の戦国大名と同じであるという指摘もある。しかし、秀吉とて妥協せずとも良くなったのは四国などの地方進出後である。信長の功績は「畿内の宗教勢力との対決」であっただろう。日本の文化の中で始めて宗教色が薄れた桃山文化を生み出し、政教分離が達成されたのである。その点で同年代のヨーロッパの近代の幕開けに通ずるものがあり、家康の近世政治制度確立、秀吉の近世土地制度確立の前段階としての信長の対宗教は評価されてしかるべきであろう。
織田信秀オダノブヒデ
生没年:1510〜1551.3.3
名前:
官位:弾正忠
尾張の守護斯波氏の家臣・守護代織田氏のそのまた家臣。しかし、勝瑞城より徐々に勢力を拡大する。手始めは今川義元の弟・氏豊が拠る那古野城。城主・今川氏豊と連歌友達になった信秀は那古野城を訪問。氏豊は連歌の会を催す。しかし急にこの城で倒れ、「余命幾ばく、遺言をしたいので家臣をこの城へ」と城に家臣を入れることに成功。那古野城をものにする。それ以降は尾張の旗頭として活躍、信長誕生とともに那古野城を譲り末森へ移った後は、1540年には安祥城を奪取。西三河計略の拠点とする。1542年の小豆坂の戦いでは今川義元を破る。しかし、土岐頼芸が頼って来たことに端を発する美濃攻めでは斎藤道三に散々な敗北を続け、嫡子・信長と道三娘帰蝶を婚姻させ同盟を結ぶ事を選んだ。しかしその後、1549年の小豆坂の戦いで敗北、安祥城ごと囚われた長男・織田信広救出のため松平竹千代を手放さざるを得なくなった。尾張統一戦の途上、1551年突如倒れ帰らぬ人となった。その後は、最後の居城に織田信行を置いておいたこともあり信長と信行の間で家督争いが起こることとなる。
信長を唯一理解した男として描かれることが多いが、実際には信長教育を傅役・平手政秀らに任せ、放任主義を取っていた。それが近代的思考の少年・信長にトラウマを・・・というのは議論の分かれるところである。
織田信行オダノブユキ
生没年:?〜1557
名前:織田勘十郎信勝→織田達成→織田信成、織田信行
官位:武蔵守
自筆史料の限りでは諱は上記の変遷をたどっている。うつけである兄・信長に比べ、性格は穏やか、家臣の言うことをよく聞き、行儀・礼儀がよく、学問もよくしたため、家臣からは都合のいい主君として担がれていた。父の死後、柴田勝家や林兄弟らの後押しを受け、兄信長と戦うが兵力では勝りながら末森の戦いで敗北。この時は、母土田御前のとりなしで許される。これ以降柴田勝家らは改心するが、信行は改心せず再び謀反を企てたため信長はやむなくこれを謀殺。これ以降織田家中は一つへまとまりを見せるようになる。
織田秀信オダヒデノブ
生没年:1580〜1605
名前:三法師→織田秀信
官位:中納言
羽柴秀吉の推挙によって祖父織田信長の後を継ぐ。安土の地に置かれたが秀吉の傀儡であった。尤も秀吉はこの幼児に付け入り、実の父のように接した。秀信は秀吉に天下を取られたのだ、という世間の声に聞く耳を持たず、それどころか秀吉に育ててくれた恩義を感じてさえいた。成人して岐阜城城主となった。石高こそ少なかったが、官位は中納言と高かった。
しかし、秀吉死後の家康による会津征伐では軍装に芸術性を持たせようと手間取っているうちに石田三成が挙兵。領地美濃が主戦場となる気配を見せはじめた。老臣達は東軍につくように画策するが、三成によって佐和山城に呼ばれ、なぜか育ててくれた秀吉の遺児を守ろう(秀頼は言うなれば本能寺の変後の秀信に立場が似ている)と、西軍荷担を決意してしまう。天下の名城岐阜で篭城すれば東軍降伏の機会がつかめよう、という老臣の言葉を「我が祖父、曾祖父は一度たりとも城に篭もって戦ったことはなかった」と祖父ゆずりの怒号で出陣、東軍の先鋒に敗れて戦力を消耗する。最後まで連れ従った家臣全員に感状を出す心優しい一面を見せ降伏。福島正則らの助命意見によって高野山に行き、そこで死んでいる。これにて織田の直系は絶えた。
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