石川数正イシカワカズマサ
生没年:?〜1592
名前:
官位:伯耆守

 三代に渡って松平家に仕えていた家柄に生まれた数正は、徳川家康とは人質時代も一緒だった「竹馬の友」。長じて西三河の旗頭となり、今川との人質交換によって嫡子・信康を取り戻したり、姉川の合戦で一軍を率いたり、長篠合戦で織田軍の援軍を引き出させたりして、徳川家重臣として活躍した。
 しかし、賤ヶ岳の戦いの後、主君・家康の命で羽柴秀吉に謁見した所から運命が狂い出す。そこで、「人たらし」秀吉から想像を絶する接待を受け、少し秀吉にたらされてしまう。続く秀吉と家康の戦、小牧長久手の戦いにおいては、穏便派として家中で孤立。やがては「秀吉に内通しているのではないか」と噂される。それに堪らなくなったのかどうかは定かではないが、1585年11月突如秀吉の下へ出奔。家康はこのことを重視し、「数正が出奔した以上、当家の軍法はすべて秀吉に知れ渡ったであろう」と急遽軍法をすべて変更したほどであった。数正自身はその後、歴史の表に出ることなく静かに死んでいる。


石田三成イシダミツナリ
生没年:1560〜1600
名前:佐吉→石田三成
官位:治部少輔

 石田三成の秀吉への仕官のとき・・・徐々に熱く、濃い、量が少ない茶を出していったと言う有名なエピソードがある。彼は気遣いが丁寧すぎる、尋常ならざる男であった。それが、秀吉の優遇を得た理由でもあったし、自らの身を滅ぼした理由でもあった。
 とにかく、秀吉貴下での事務・兵站能力は素晴らしく秀逸していた。刀狩や太閤検地などの今日まで伝えられる秀吉の優れた政策にすべて参与している。その能力と「七本槍」に隠れてしまってはいるが、賤ヶ岳では一応ちゃんと武功を挙げている。が、小田原の陣の際の館林城及び忍城での失態がちょっとばかりの武功を下げた結果となった。戦術に関しては秀吉の意向もあったようなのだが、館林城では城の地形を考えない城攻めを行い、忍城では水攻め失敗と言う事態を起こした。結果、館林城は篭城側に有利な条件で降伏させざるを得なくなり、忍城が開城したのは小田原開城後という事態になってしまった。
 しかし、その後の朝鮮出兵では軍目付としての役割を十分に発揮する。しかし、十分に発揮しすぎたのか、武功派武将からは不審の目でますます見られるようになる。一応彼がこの朝鮮出兵の場においてやったとされる事を連ねてみると、1、小西行長らの戦功を誇張し、加藤清正らの戦功を秀吉に伝えずにえこひいきした。2、小西行長の早期休戦案に同調、挙げ句の果てまでには秀吉をも騙そうとした。3、黒田如水との会見のとき、如水が三成が来た事を無視した事に激怒、勝手に帰りこれを秀吉に誇張して報告した。4、小早川秀秋が戦功を挙げたにもかかわらず、これをまげて報告。小早川家は危うく厳封となるところであった。5、戦費で領地からの取り立てもままならない諸大名の代わりで仲介をしたが、そこで巨額の銭を得た。などなど、枚挙にいとまがない。これらすべてに共通して言えるのがすべて「豊臣家の御為」であること。三成自身がやっていた「兵站輸送」は大切な仕事ではあるが、戦地にいる武将から見れば「内地でぬくぬくとしている三成めが」と恨みを買う他の何物でもなかった。
 秀吉の死後、威を借りてた虎の死んだ後の狐はむなしい。前田利家という箍が外れた豊臣家において、武功派七将は三成を襲撃。敵対関係の家康を頼るまでは良かったが、奉行からは遠ざかれる。友である大谷義継に諌められるも、関ケ原にて豊臣家の権力安定を狙うも失敗。京で斬首された。
 石田三成の評価は近年高まっている。豊臣家に義を通したこと、そして石高にして10倍以上もの家康に日本を二分する戦いを挑み実現まで漕ぎ着けた企画力の2点でである。前者については「豊臣家の天下を奪おうとする野心家家康」という構図が必要であり、後者に関しては「なぜそれだけのプロジェクトを実現させながら勝てなかったのか」という問題にぶち当たる。石田三成が筋を通したことは現代人から見れば明らかに「義人」と映る。ここで「では当時の人はどうだったか」という視点を持ってしまうと石田三成は途端にイヤな奴に思えてきてしまう。そこが大谷吉継と決定的に違う点である。また、「約束を破らない系」の義人である上杉謙信とも違う。曲がった事が嫌い、という点で石田三成は織田信長も通じる。頭が切れるが故のミスも同じようにある。「では当時の人は?」という問いに対しては同じように「イヤだったんだろうな」という答えが用意されるのも似ている。この二人の場合に違うのは「結果」から生まれる評価の違いであろう。つまり、現代の石田三成の好き嫌いは当時の人への感情移入の有無と、家康の好き嫌いによって分かれるわけである。
 一人の妻を愛し8人の子を産ませる夫、このような手堅い仕事をこなす部下、常に自分を心配してくれる主君……三成の「妻」「上司」「部下」としてならこれほどいい奴はいない。しかし、同僚としては「本音」を持ち出し、「建て前」で生きているこっちとしては迷惑であろう。
 結果家康が豊臣家を滅ぼしたことにより石田三成は豊臣家への義を通した、ということになった。もちろん家康に堂々の戦いを挑んだことも歴史の事実である。石田三成もまた、戦国史を彩る個性的で愉快な人間の一人なのである。


井上元兼イノウエモトカネ
生没年:?〜1550
名前:
官位:

 井上一族は毛利氏とは同じの国人一族。毛利幸松丸死後の家督問題のときに元就を推薦している。それほどの力があった。
 しかし、1550年7月、元就はこの井上一族30数名を抹殺している。
 その理由として元就は(1)評定に応じず、(2)正月等の出仕を怠り(3)隠居と偽り奉公励まず(4)段銭・棟別銭を納めず(5)普請にも応じず(6)公領で横暴を働き・・・ほか7条を付け加えている。
 もともと井上家は毛利家と同じ国人領主であり、立場は同等。しかし、戦国大名化を図る毛利元就にとって強大な権力を握る井上一族はまさに目の上の瘤であった。それを誅し、家中での絶対権力を得るクーデターであったといっていい。そのためこの井上一族抹殺も極秘のうちにことは進められている。「奇襲」だったのである。
 これ以降、毛利家は団結、毛利家の戦国大名化は進み、厳島の戦いへと家中は流れていくのである。


猪俣邦憲イノマタクニノリ
生没年:?〜1590
名前:
官位:

 北条氏邦の家臣。天下統一戦である小田原の陣のきっかけを作ったことで名前が残った男。
 1580年に沼田城は真田昌幸の手によって落とされた。しかし真田が臣従した徳川が北条と同盟を結ぶに当たり上野は北条家のものと取り決められたことにより、家康から代替地をやるから沼田を手放せ、という命令に反発。徳川の大軍から防ぎきった真田が新たに臣従した豊臣家からまた、北条に沼田をやれ、との命令が来たので今度ばかりは素直に従った。しかし、沼田のうち名胡桃城付近だけは先祖代々の墓があるので(もちろん、ない)、と譲歩を秀吉に頼み、秀吉もこれを了承した。しかし、先走ったのか目障りに思ったのか、この猪俣邦憲が名胡桃城を攻撃、真田家名胡桃城城代鈴木重則を自害させた。これに、秀吉は激怒し、当主の上洛を了承しない北条に対する秀吉の堪忍袋の尾がとうとう切れ、小田原の陣の口実となった。
 なお、小田原の陣後、猪俣邦憲は磔にされている。


今川氏真イマガワウジザネ
生没年:1538〜1614
名前:
官位:

 父の急な死によって家督を継ぐ。織田信長との弔い合戦をしようとせず、松平元康を織田方へ走らす。蹴鞠と和歌をよくする。一応、治水工事、楽市令、検地の実施という内政面での功績がちゃんと残っている。北条氏康と組んで、同盟から離脱した武田家へ成敗しようとして甲斐への塩輸出禁止をするも、上杉謙信の前に失敗(しかも、このことに関して攻められるのは氏真だけで、同犯の北条氏はまず責められないことが多い)。結局、武田徳川連合軍の前に敗れ去り、今川家は滅亡する。
 舅・北条氏康の下に逃れるが、北条氏康の死に伴う甲相同盟復活に伴い追放されている。その後彼の人生は称賛に値する。北条氏から追われた後、何とみずからを追い出した張本人・徳川家康を頼っているのだ。その後上洛し、さらには親の仇信長の前で蹴鞠の妙技を披露。その後は京に隠棲し、天寿を全う。今川家の血筋を後世に伝えている。尤も、徳川幕府の治世の下子孫は「今川」を憚り、「品川」と名乗っている。
 父・今川義元が危惧した風流ぶりが返って自らの保身に役立ったとは、皮肉である。


今川義元イマガワヨシモト
生没年:1519〜1560
名前:梅岳承芳→今川義元
官位:

 今川氏親の三男に生まれた義元は、当時の慣例に従って寺に入れられた。そこで、太原雪斎の教えを受けていた。しかし、兄氏輝の死によって、平穏な日々は終わりを告げる。異母兄・今川良真とそれを押す重臣・福島氏を、太原雪斎の活躍で討つと晴れて今川家当主となる。
 それまでの北条との友情関係を絶ち武田と結んだ義元は北条と戦い、次いで織田信秀を小豆坂で破った。安祥城を攻略し、織田信広と松平竹千代の人質交換に成功。三河における政権と三河衆の家臣化に成功する。1554年には太原雪斎の奔走により武田・北条・今川の三国間で婚姻同盟が成立。三雄が善徳寺で会い見えた事から善徳寺の会盟と呼ばれるが、三雄が一堂に会したかどうかは定かではない。その後今川家は織田併呑に全力を注ぐ事になる。1560年、織田討伐の兵を挙げた義元(上洛戦であったともされるが、真相はどうであったか分からず)は織田の前線砦を破り上機嫌に、桶狭間に陣取っていたところ織田軍が義元隊に猛攻撃を仕掛けてきた。今まで「迂回路」で「窪地である」田楽狭間に(あるいは桶狭間に)「酒宴中」油断していたところを「奇襲」されたことになっているが、実際には桶狭間「山」だった!というのが藤本正行氏(『信長の戦国軍事学』洋泉社)らを中心に「信長公記」中心に分析した結果前述の内容が否定されついつある、というのが現実だ。とにかく、2000〜4000の織田全軍が、総勢では20000〜40000の今川軍の義元本陣付近(織田軍の1.5〜2倍)に攻撃を仕掛けることが成功し、「窮鼠猫をかむ」か義元の首まで取ってしまったことが歴史の事実である。義元は退却するも織田軍に追いつかれ、それでも首を獲ろうとした毛利新介の指を噛み切るなど奮戦した。しかし結局討たれて死亡した。


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