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2008.02.01. 掲載
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目次
1.905i携帯電話
2.成田前泊
3.オーストリア航空
4.ウィーン市内観光
5.ウィーン国立オペラ座
6.ベルリン市内観光(自由行動)
7.ベルリン・フィルハーモニー
8.ベルリン市内観光
9.ベルリン郊外のポツダム観光
出発の1週間前に、海外で使える携帯電話のレンタルについて調べていると、国内と同じように電話が使えるだけでなく、i-mode でEメールも、インターネットも使える機種が、昨年11月から発売されていることを知った。レンタルの携帯は電話だけなので、もちろん、この新機種に変更した。これで、海外でもメールはもちろんブログに書き込むこともできる。素晴しい!
今度のツアー「小澤幹雄さんと行くウィーン国立劇場とベルリンフィル鑑賞の旅」に大阪から参加するのは私たち夫婦だけで、成田に9時50分集合となっているため、成田に前泊した。ホテルから見る夜景は寂しく、ただ、頻回に飛行機の発着を眺めることができたことだけが成果だった。
これまで海外旅行に出るのはほとんどが関空からで、成田からは15年前が最初で最後だった。関空と比べてやはり成田は大きい。飛行機はオーストリア航空で、乗るのは初めてだ。客室乗務員の服装が靴下まですべて赤に統一されている。
ここで、マリア・テレジアと言うウィーン独特のコーヒーを飲んだが、素晴しかった。これはブラックコーヒーにオレンジリキュールがたっぷりミックスされていて、えもいわれぬ陶酔感を味わうことができた。アルコール度はかなり高い。10種類のコーヒーの中から選べるのだが、帰りの飛行機でもためらうことなくこれを選んだ。妻は Franziskaner(フランシスコ会修道士)を選んだが、帰りには同じ Maria Theresia を選んでいた。
ウィーンのホテルに着いた。早速ブログ「エンジョイBOW」に「只今ウィーンのホテルに入りました。時刻は21日午後6時7分です」と書き込んだ。ブログでは 2008年1月22日 (火) 02時08分 となっている。時差が8時間あるからだ。
この書込みに対して、「ブログのコメントもメールの送受信もバッチリでよかった!音楽鑑賞のはじまり〜(^^) いっぱいのオハナシを忘れないでお持ち帰りお願いしまーす。」というコメントが、 2008年1月22日 (火) 04時02分のタイムスタンプで書き込まれている。大成功だが、こんなに遅くまで起きていてこの人、大丈夫だったのだろうか?
ホテルに荷物を置いて、落ち着いたところで、有志だけでウィーンの夜をホイリゲ(heurige)でワインを飲みながら楽しもうということになり、行く先を書いたメモを持って4台のタクシーに4人づつ分乗した。
タクシーに乗って約15分、降ろされたところにそれらしき酒場は見当たらない。すぐ後にもう1台が到着したので、場所は間違っていないのだろうが、人影の少ない暗い田舎の道を散々探し歩いて、約10分後に漸く見つかった。その間、一人女性が尋ね周ってくれたが、この方は信越放送の元プロデューサーだったことを後で知った。
ホイリゲと言うのは、オーストリア東部に見られるワイン酒場で、ワインの作り酒屋が自家製ワインを売り、料理も簡単な家庭料理をセルフ・サービス方式で提供している。ワインは白ワインで、ジョッキ型のグラスに入っている。ジョッキはビールの中ジョッキの大きさだった。私は妻の分も飲んでしまった。
ここで小澤幹雄さんを中心にワインを飲み、談笑しあった。そこへバイオリンのメチャ上手いおじいさんが来て、10曲ばかり日本の歌を演奏してくれるので、嬉しくなって大声を張り上げてこれに合わせ、最後のチゴイネルワイゼンにブラボーを連発したら、あとでちゃっかり寸志を求めらた(笑)。
このホイリゲは小澤征爾さんもよく来られるところだそうだ。ベートーヴェンが遺書を書いたハイリゲンシュタットのすぐ近くにある。
翌朝、ホテル周辺を歩いてみた。これは海外旅行で私たちがよく行なう習慣である。ここはドナウ川の河畔にあり、ニューヨーク、ジュネーブに次ぐ第3の国連本部として建設された国連都市(Uno City)がすぐそばにある。ステファン寺院の北東約2kmに位置している。
図1.午前7時50分、ウィーン中心部へ向う道路
図2.国連都市(Uno City)、ビルの谷間の風は激しく、台風のように体が吹き飛ばされる
図3.ドナウ川、遠くに地下鉄(U-BAHN)の橋が見える
図4.地下鉄のU1は南西に向うと旧市街に通ずる
午前中は現地ガイドの案内でウィーン市内観光をした。先ずは旧市街の南東約5kmにあるウィーン中央墓地(Zentralfriedhof)。ここは97年夏に市電で来たが、その前日デジカメを路上に落として使えなくなり、しかたなく、使い捨てカメラで撮影したので、満足する写真がない。だから、今回は良い写真を撮りたいと期待していた場所だった。観光シーズンでないため、邪魔になる観光客の姿がなく、思う存分撮影することができた。
ツアーのメンバーの平均年齢が私に近いので、誰もがここに来ると映画「第三の男」を思い出し、あのラストシーンが思い浮かぶ。
図5.映画「第三の男」のラストシーンが思い浮かぶ
図6.入り口からルエガー教会に向かって約200m行くと左側に「名誉区32a」がある
図7.「音楽家(MUSIKER)」の標識があり、ここに多くの音楽家が眠っている。
図8.(5)のモーツアルトの記念碑の左右に(2)ベートーベン(6)シューベルトの墓碑がある
図9.中央にモーツアルトの記念碑、左右にベートーベンとシューベルトの墓碑
図10.中央にあるモーツアルトの記念碑(墓碑ではない)
図11.3楽聖のそばでツーショット
図12.私の最も好きな作曲家シューベルトの墓碑
図13.斜めからも撮っておこう
図14.アップでレリーフまで鮮明に記録しておこう
図15.大好きなシューベルトの墓碑のそばでツーショット
図16.シューベルトの墓碑は敬愛思慕したベートーベンの墓碑の隣にある
図17.シューベルトが思慕、敬愛したベートーベンの墓碑
図18.ベートーベンの墓碑のそばでもツーショット
図19.ブラームスの墓碑、うしろはヨハン・シュトラウスの墓碑
旧市街に戻って、シュテファン寺院(Stephansdom)から出発。 97年に来た時とはかなり印象が違う。前回は盆休みの頃で観光客で街はあふれていたが、今回はほとんど観光客が見当たらず、静かで閑散としている。街がもっと汚れていると思ったが、予想外に明るく美しい。ローマ法王が来られるというのでステファン寺院の壁を水圧で洗い、あの真っ黒の部分がかなり取り除かれているのも、街を明るく感じた理由かも分からない。
図20.シュテファン寺院
図21.シュテファン寺院の美しい屋根
図22.シュテファン寺院
図23.シュテファン寺院のこの屋根も風格がある
図24.シュテファン寺院の前には観光用馬車が集まっている
図25.歯痛のキリスト、拝むと歯痛が治まるとか?昔の人は歯痛で悩んだらしい
シュテファン寺院の西側にはグラーベン通りがあり、南側にはケルントナー通りがオペラ座まで続く。ウィーンで最も賑やかな歩行者専用の大通りである。
図26.おしゃれな店やカフェが立ち並ぶグラーベン通り (Graben)
図27.ケルントナー通り(Kaerntner Strasse)の始まり
図28.ケルントナー通りの終り近く、ウィーン国立オペラ座に至る
図29.ウィーン国立オペラ座、夜ここで「ドン・ジョヴァンニ」を観た
図30.ホテル・ザッハーの入口、国立オペラ座の向かい側にある
図31.カフェ・モーツアルト
図32.カフェ・モーツアルトのメニューは独、英、日の3カ国語で併記されている
図33.この現地ガイドさんはシューベルトそっくりで、嬉しくなった
図34.市立公園(Stadtpark)にあるヨハン・シュトラウス像
図35.金色に輝くヨハン・シュトラウス像をアップで
図36.映画「第三の男」にも出てくる地下水道の出口
図37.王宮庭園の南東の位置にあるゲーテ通りに立つゲーテ像
図38.王宮(Hofburg)への入口
図39.王宮(Hofburg)、左側は旧王宮、右側は新王宮
図40.美術史博物館(Kunsthistorishes Museum)
図41.美術史博物館
図42.美術史博物館にはルーベンスの絵、ブリューゲルの絵が豊富にあった
図43.美術史博物館と自然史博物館の間にマリア・テレジアの像がある
夜は今回の音楽鑑賞の旅の最初の公演となる「ドン・ジョヴァンニ」をウィーン国立オペラ座で鑑賞した。「ドン・ジョヴァンニ」はモーツアルト最後のオペラで、1865年にこのオペラ座が開場した際に、こけら落としに上演された。
指揮:ロター・ケーニッヒス(Lothar Koenigs)
演出:ロベルト・デ・シモーネ(Roberto de Simone)
ドン・ジョバンニ:アーヴィン・シュロット(Erwin Schrott)
騎士長:ゴラン・シミッチ(Goran Simic)
ドンナ・アンナ:タマール・イヴェーリ(Tamar Iveri)
ドン・オッタヴィオ:サイミール・ピルグ(Saimir Pirgu)
ドンナ・エルヴィーラ:ロクサーナ・ブリバン(Roxana Briban)
レポレロ:マウリツィオ・ムラーロ(Maurizio Muraro)
ツェルリーナ:ロクサーナ・コンスタンチネスク(Roxana Constantinescu)
マゼット:ハンス・ペーター・カンメラー(Hans Peter Kammerer)
旅行の前に、フルトヴェングラー指揮の1954年ザルツブルグ音楽祭における収録のDVDと、ムーティー指揮の1987年スカラ座におけるライブ収録のDVDを観ていた。それと比べるためか、あるいは、オーソドックスな演出だったせいか、格別に感動するというほどのものではなかった。
バリトンの3名の声質がよく似ていて、目をつぶっていると、ドン・ジョヴァンニかレポレロか騎士長が分かり難いことも気になった。
字幕が英語で流れるが、それを読みきらぬうちに次に変わってしまう。あらすじは分かっているので、字幕を読むことはほとんどしなかった。
オペラ座の内部は古典的なオペラハウスで、歴史の重みが感じられた。午後6時30分開演で、終わった時には10時近く、それから、カフェ モーツアルトで軽く食事をして、ホテルに戻り、ベッドに入ったのが午前0時過ぎだったように思う。翌朝午前5時に集合し、午前7時5分の飛行機でベルリンに飛ぶので、これまで経験したことのない強行軍だった。
図44.オペラ座の中央階段でツーショット
図45.小澤幹雄さんと妻がツーショット
図46.オペラ座内の廊下で
図47.開演前の緞帳
図48.緞帳の前で
図49.ホールの天井
図50.観客席左側後方
図51.観客席左側前方
図52.観客席右側前方
図53.私たちより前の座席
図54.オペラ字幕が座席にあり、独語と英語のどちらかを選べる
前夜就眠が午前0時近くだったのにも関わらず、午前5時に集合してバスで空港まで行き、午前7時5分発の飛行機でベルリンに向った。私は時間一杯に眠ったが、妻は徹夜に近かったらしい。朝食はバスの中でのサンドイッチ弁当。9時55分にベルリンに着き、10時半ごろホテルに着き、荷物を預けたのち、午後3時のチェックインまで自由行動となった。
初めて来たベルリンで4時間近くを過ごさなければならないことになるとは、ぼんやりしていて気が付いていなかった。それでも、このホテルの近くにはベルリンの銀座と言われるクーダム通りがあることを知っていたので、地図を片手にそちらへ行くことにした。ホテルからクーダム通りの初めまで約1km、クーダム通りが約1.5kmなので2.5kmばかりを散策しながら歩いた。
世界1周クルーズでも思ったが、世界中どこへ行っても、日本ほどブッティックをはじめ店が大きくてセンス良いところはなく、ベルリンも意外なほど地味で、小規模だったのには驚いた。日本人はそれだけ中流購買層が大きいのだろうか?
ベルリンは楽しい飾りが一杯の街だ。2.5kmほど歩いただけで面白いもの、モダンなオブジェをたくさん発見した。道路にオシャレなショーケースが並んでいるところもある。こんな街を今まで見たことがない。
図55.ベルリンは楽しい街、ホテルの入口にこんな車がお出迎え
図56.このようなオブジェがいくらでも見つかる
図57.これは何を表しているのだろう?
図58.大きな釣竿と糸でもあるまいが、、、
図59.キングコングが墜落してきて、これで串刺し?
図60.新鮮な牛肉を売っています
図61.靴屋さんの前の道路にこのようなショーウインドウ
図62.ミッテ地区ではこんな楽しい絵もあった
クーダム通りへ行く途中で奇妙な、しかし妙に心惹かれる建物が目に入った。それは1895年にドイツ皇帝カイザー・ヴィルヘルム1世を記念して建造された教会で、第2次大戦の空襲で焼け落ちたが、一部残った中心部を碑として残し、隣に近代的な教会を建てたものだった。モダンと古いものの共存もまたベルリンの特色なのだろう。
図63.カイザー・ヴィルヘルム記念教会
図64.カイザー・ヴィルヘルム記念教会
図65.カイザー・ヴィルヘルム記念教会
図66.カイザー・ヴィルヘルム記念教会内の美しいモザイク
図67.カイザー髭の由来がよく分かる大理石像
クーダム通りの終りまで歩いて引き返す途中で「ストーリー・オブ・ベルリン」を見つけた。ここでは、ベルリンの歴史を最新マルチメディアを駆使して紹介してくれるというので入館した。しかし、なんとなく薄気味悪い場面が続くので、駆け足で廻り、ベルリンの壁がどんなものか分かっただけで良しとした。翌日、本物のベルリンの壁を見ると、あれがベルリンの壁と思ったのが恥ずかしくなってしまった。
図68.「ストーリー・オブ・ベルリン」広告
図69.ベルリンの壁の模造品(実物とはほど遠い)
クーダム通りの始まりまで歩いて引き返したところで、ヨーロッパで一番大きなデパートKeDeWe(ケーデーヴェー)に入り、ここのレストランで寿司を食べた。寿司を握るのは中国人のように見えたが、給仕をするのは日本人だった。この寿司がかなり美味く、日本の普通の寿司屋並で、赤だしの豆腐やワカメも本物だった。醤油はキッコーマンの食卓用。久しぶりに満足できる和食にありつけて大満足だった。
あと残り1kmばかりだったが、疲れたのでタクシーでホテルに帰った。ホテルには小澤幹雄さんと添乗員だけが居て、ほかのメンバーは未だ帰って来ていなかった。しばらく待ってチェックインを済ませて部屋に入った。夜には、このツアー最大のイヴェント、カラヤン生誕100周年記念コンサートがある。
図70.ヨーロッパで一番大きなデパートKeDeWe(ケーデーヴェー)
この部分は、「戦慄的感動の演奏 −カラヤン生誕100周年記念コンサート−」のタイトルで既に掲載してあるので、省略する。
西ベルリンは東ドイツの中に陸の孤島として存在していた。ベルリンの壁(Berliner Mauer)は西ベルリンとそれをとりまく東ドイツとの間に作られた壁で、西ベルリンと東ベルリンを隔てる壁はその一部に過ぎない。1961年から存在したが、1989年に破壊され、現在は一部が記念碑的に残されているだけだ。
この記念碑的なベルリンの壁を撮影することができた。ここは元ゲシュタポの本部があった場所で、「Topographie des Terrors」という野外博物館として、ナチス時代の悲惨な日々が展示公開されている。
図71.白い部分が東ドイツで、その中にある赤い島状の部分がベルリン(Wikipedia)
図72.白い部分が西ベルリンで、これをとりまく東ドイツとの境界にベルリンの壁があった(Wikipedia)
図73.ベルリンの壁
図74.ベルリンの壁
図75.ベルリンの壁
図76.ベルリンの壁
図77.元ゲシュタポ本部の跡地に作られた野外博物館の看板
図78.この野外博物館ではナチス時代の悲惨な日々が展示されている
図79.フランス大聖堂(Franzoesischer Dom)
図80.コンツェルトハウス(Konzerthaus Berlin)
図81.コンツェルトハウスの前に立つシラーの像
図82.カニポーズに元気がない
図83.フンボルト大学(Humboldt Universitaet) ここへ鴎外、北里、寺田などが留学した
図84.ブランデンブルグ門(Brandenburger Tor)を斜めから
図85.ブランデンブルグ門をバックにツーショット
図86.ブランデンブルグ門正面、東側からの眺望
図87.ブランデンブルグ門東側正面の上にある4頭立て馬車の彫像
図88.ブランデンブルグ門正面、西側からの眺望
図89.ベルリンの壁跡ライン(BERLINER MAUER 1961-1989)がレンガで記録されている
図90.ブランデンブルグ門の前に連なるベルリンの壁跡ライン
午後は、ベルリンの西南約26kmにあるポツダム(Potsdam)を観光した。ここのツェツィーリエンホーフ宮殿(Schloss Cecilienhof)で、米英ソ三国首脳によるポツダム会談が行なわれ、ドイツの戦後処理や日本の全面降伏を要求するポツダム宣言が発表された。
会談当時の状態に保存されたツェツィーリエンホーフ宮殿内で、当時の資料を見た。印象に残ったのは、会談当初の写真に写っている3首脳のルーズベルト大統領、チャーチル首相、スターリン書記長の中で、ルーズベルトは癌のため死亡してトルーマンに代わり、チャーチルは選挙で破れて労働党のアトリー首相に代わり、ひとりスターリン書記長だけが最後まで残った。そのため、最初からの事情を知っているものとして、スターリン書記長の意見が支配的だったのではないかと想像できたことである。
図91.ポツダム会談の行なわれたツェツィーリエンホーフ宮殿
図92.ツェツィーリエンホーフ宮殿の左手に目が誘い込まれた
図93.良く見ると、こんなに楽しい窓が付いている。ドイツは楽しい国だ。
図94.サンスーシー公園(Park Sanssouci)
図95.奇妙な樹があるものだと思っていたら、剪定したあとだった(笑)
図96.サンスーシー宮殿(Schloss Sanssouci)
図97.二羽の鳥が並んで滑って行った
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