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野村医院(大阪府交野市)

医療情報や自身の思いをホームページに記録

2004.09.30. 掲載
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今回は、30年前からレセコンやMS-DOSパソコンを医療に積極的に活用し、96年に起きたO-157集団感染を機に開設したホームページでは現在192に達するほどの膨大なタイトルを公開し、さらに日々更新を続けている事例を取り上げます。


192ものタイトルを掲載するホームページを作成

野村望院長は、大阪中心部から北東へ電車で40分ほど、京阪神地区で働く人々のベットタウンである交野市に、1973年に野村医院(写真1)を開院し、以来約30年間、家庭医として地域のプライマリ・ケアに携わっています。

「メカ好き、作ることが好き、説明が好き、されるよりもする方が好き」という野村院長が96年に開設した自院のホームページ(写真2)は、8年を経過してすでに13ジャンル192タイトル(2004年8月時点)という膨大な量のコンテンツに発展しており、個人が作っている他の医療機関のホームページに比べ、量、内容ともに圧巻です。


写真1.
大阪と京都のほぼ中間に位置する大阪府交野市に建つ野村医院。建物は野村院長自身が設計した



写真2.
13ジャンル192タイトル(2004年8月時点)と膨大な量と内容を誇る「野村医院ホームページ」


タイトルを13ジャンルに分類して掲載

掲載されているコンテンツは、192タイトルが「当院の紹介」、「患者さん用情報」、「医療関係」、「当院の出版物」、「院長のエッセイ」、「パソコン関係」、「音楽」、「映像」、「ハウツー」、「BOWのひとりごと」、「電子掲示板」、「Web情報源」、「医療関係リンク」といった13ジャンルに分類されています。

内容は、大別して医療情報関係、パソコン関係、音楽・映像など趣味関係、エッセイなどで、医療機関のホームページでありながら、その内容だけに留まらず、野村院長のすべてがオープンに表現されたものとなっているのが特徴です。

これらのうち医療情報関係のコンテンツは、「当院の紹介」、「患者さん用情報」、「医療関係」の3ジャンルに46タイトル掲載されています。

<当院の紹介>
「診療時間・診療科目」、「院長の自己紹介」、「診療方針」など医院情報のほか、「勤務マニュアル」、「医院勤務者のことばづかい」といったスタッフに対するものや、「病名マスターの標準化」、「病名の履歴と略号」といった医院運営に関するもの、また、「野村医院の開院20年間における紹介患者の分析」、「年間疾病統計」といった院内の患者統計など18タイトル。

<患者さん用情報>
(写真4) 「患者さん用薬の説明集(五十音別、薬効別、剤型別)」、「病気の話」、「健康保険点数改定の説明」、「尿検査の話」、「医薬分業と院内処方」、「薬の服用方法」など、患者向け医療情報。

<医療関係>
「外科を選ぶか内科にするか」、「一外気質」、「肥満について思うこと」、「嗅診のすすめ」、「医院経営と表計算ソフト」、「腹十二分目でも健康」、「自分の禁煙・他人の禁煙」、「野村望医学関係論文目録」、「平成14年10月改正の概略と当院の対応」、「猛烈な下痢腹痛の体験記」など、「当院の紹介」「患者さん用情報」のジャンルに入らない医療関係のタイトル。

一方、医療情報関係以外のパソコン関係、趣味関係、エッセイなどのタイトルは146にのぼり、特に野村院長が趣味のなかで最も大切にしている「歌」と「ことば」、最近力を入れて制作したDVDライブラリを掲載している「映像」のタイトル数は合わせて92にもなります。

<パソコン関係>
「PCを用いた診療補助システムの開発」、「医用画像独習記」などMS-DOSマシーンの時代に記録したPC関連の著作や、Windowsに移行後の「ウイルス対策」、「実用解像度」などパソコン関連の解説のほか、「パソコン物語−中高年医師たちの挑戦の記録−第1章〜第4章」、「小論文 中高年医師たちとインターネット」といったパソコン初心者の交野市医師会の医師たちがパソコンに奮闘した記録など。

<ハウツー>
「勉強覚え書き」、「開業医というプロの整理法」、「私の海外旅行エンジョイ法」、「私の(超々)整理法」、「レセコン活用法」など、野村院長のノウハウを公開。

<当院の出版物>
開院20周年(1993年)を記念して20年間のデータをまとめ、DTPで制作した「野村医院二十年史」のほか、「還暦まで」、「パソコン物語−中高年医師たちの挑戦の記録−」など計5冊を自家出版しました(写真5)。

この後、DTP出版を止め、Webサイトで公開しているタイトルをCD-Rに焼くという形式の電子出版に全面移行しました。2001年9月より現在までに「エーゲ海クルーズ」「歌と思い出」「98画像の変遷」「心に生きることば」の4点を出版しています(写真6)。要旨や制作の経緯などを解説。

<院長のエッセイ>
「エーゲ海クルーズ」などの旅行記や「医師会独立奮闘記」、「頑固な私の総括」など折にふれて野村院長が感じたことを綴ったエッセイ。

特に野村院長が最も大切にしている「ことば」に関して綴った「心に生きることば」は、第1章から9章まで人間、趣味、教育、行動、情報、思考、創造、運命、価値、80点主義について自身の考えをまとめており、さらに章順、項目順、アイウエオ順、出典順に索引をつけています。

<音楽>
「メロディー整理法(簡易楽譜のすすめ)」、「歌のデータベース1000曲」、「歌の曲名検索1000曲」、「歌と思い出1(昭和11〜20年)〜10(昭和61〜平成8年)」など趣味の歌の思い出に関するコンテンツ。これもジャンル別、アイウエオ順などの索引をつけています。

<映像>
「神戸ルミナリエ96」に始まり、「旧友の集い」など写真を豊富に掲載。最近はDVDに力を入れており、「DVDライブラリ(五十音順、分類別、制作年順、本邦公開年順、登録番号順、索引)」の掲載が多くを占めています。

そのほか、ハンドルネーム“BOW”で掲示板に書き込みをした記録<BOWのひとりごと><電子掲示板>や、<Web情報源>、<医療関係リンク>が掲載されています。

ホームページのカウント数は、開設1年目の97年に1200だったのが年々増加し、なかでも「歌と思い出」や「歌のデータベース1000曲」(2000年)、「心に生きることば」(2004年)といった趣味関係が掲載された年にカウント数が多くなっています。

そうなるとBBS(電子掲示板)で話題になったり、リンクを張るサイトが増えるなども相まって、ますますカウント数は増加し、2004年8月時点で11万カウントを突破しました。2004年に入ってカウント数は急激に増え、毎日平均100人以上の人が訪問している計算になります。

「パソコンは自分にとって“趣味”ではなく“ツール”だ」と言う野村院長(写真3)は、その活用方法の1つとして日々感じたことを記録して新たなタイトルを制作し、更新を続けています。


写真3.
毎日活用している診察室のパソコンの前で、これまでのパソコンでの取り組みを説明する野村院長


写真4.
「患者さん用情報」として、病気や薬、医療制度などの説明を掲載。
「薬の説明集」は、いわゆる「もらった薬がわかる本」などの一般向け医薬品解説本が
世の中に出る前から患者さんに公開していたもの


写真5.
DTPで出版した5冊の出版物。「野村医院二十年史」、「還暦まで」、
「パソコン物語−中高年医師たちの挑戦の記録−」、「テキストWindowsパソコンの使い方」、
「はじめての電子掲示板−BOW BBSの愉快な仲間たち−」


写真6.
2001〜02年にかけて制作した電子出版の4枚のCD-R。「エーゲ海クルーズ」、
「歌と思い出」、「98画像の変遷」、「心に生きることば」


患者本位の家庭医としての考えをホームページに公表

野村院長はホームページを「他の方のために作っているのではなく、あくまでも、自分がしたいことをして、それを掲載し保管しているメモなのです。それが他の方のお役に立てれば嬉しい」と考えています。

医療関係のコンテンツには、大阪大学医学部第一外科(現在の臓器制御外科)に入局して心臓外科専門医を目指していながら、大学紛争により大学を自ら辞し、一般医へ方向転換した野村院長が、30年間の経験に基づいた患者本位の家庭医としてのあり方が綴られ、患者にはわかりにくい医薬分業など医療制度に対する野村院長の考え、薬に関することなどが多岐にわたって説明されています。

たとえば、「野村医院の診療方針」(写真7)には、野村院長が診療に際してこころがけている8つの方針が解説されています。

「自分が診療できる範囲の病気を診療し、自分の診療能力を超えた病気の場合は速やかにそれに適した専門医に紹介することをモットーとし、安易に紹介して患者や紹介先に迷惑をかけないように、自分のできることを増やし、できないことを判断する力を養うよう努めてきた」こと、「患者の治ろうとするのをお手伝いさせてもらうのが医療の本質」だということ、「診療は問診に始まり、問診に終わる」こと、「できるだけ説明する」こと、「患者にできるだけ不安を与えない」、「医師は得られた情報をできるだけ多く、正確に、わかりやすく患者さんに伝え、同時に医師としてのアドバイスをする必要がある。そしてアドバイスを受け入れるかどうか決めるのは患者さんである」こと、「診療に関係したデータを残す」ことなどです。

また、「職員に求めてきたこと-医院勤務の基本-」、「勤務マニュアル」(写真8)、「医院勤務者のことばづかい」といった一連のタイトルでは、「自分が患者なら、自分の家族が患者なら、こうしてほしい、こんなことはしてほしくないと考えて、患者の身になる」こと、「正確さを保つよう各々が注意し、ダブルチェックなどで誤りを最小限にする」ことや「臨機応変に要領良く」、「患者の秘密を守る」、「医療従事者間の協調」など職員に望む基本的なことがらや言葉づかい、院内業務に関するマニュアルなどを記載しています。


写真7.
野村院長が診療に際して心がけている8つの方針を解説


写真8.
「職員に求めてきたこと-医院勤務の基本-」、「勤務マニュアル」、
「医院勤務者のことばづかい」といった一連のタイトルで職員に望む基本的なことがらや
言葉づかい、院内業務に関するマニュアルなどを記載


エンジニアを諦めるも積極的に医療にパソコンを活用

「病弱な両親に医学部に行ってくれと懇願されたため、しぶしぶ進路を変更したが、高校2年生までは工学部に行き、エンジニアになるつもりだった」という野村院長は、開業した翌年の74年からレセプトコンピュータを導入しました。さらに、MS-DOSの時代の85年6月に大阪府医師会マイコン同好会(その後マイコンクラブに改称)に入会してパソコンを購入、グラフィックソフトやカラーイメージスキャナーを駆使した医用CG(Computer Graphics)を自作して患者への説明の一手段として活用するなど、その当時から積極的にパソコンを使ってきました。

そして、全国の医師だけではなく、画像関連の専門家とも交流を深め、最新技術を習得したり、同好会として大阪府医学研究症例費助成を受けて「パーソナルコンピュータを用いた診療補助システム」の開発を行い、検査・診断の補助計算ソフトや、収支や給与計算、薬剤管理、レセプト作成などの経営関係ソフトなど、その他さまざまな診療補助ソフトを統合するシステムを開発したりするなど、活発に活動しました。88年には、マイコンクラブのBBSが本格的に稼動するまでの間、パソコン通信のホスト局を開局、また、Niftyに加入してパソコン通信を楽しみました。

さらに、それまでの「レセプト電算処理用の傷病名マスタ」と「ICD-10対応電子カルテ用標準病名マスタ」の2種類の病名マスタが2002年に統合され「新傷病名マスタ」に標準化されたのを機に、「野村医院の病名マスタの標準化」に取り組みました。

また、1973年に開院した当初から、家庭医として自分の守備範囲を越えた診療については積極的に専門医に紹介してきた野村院長は、その実績データをまとめてホームページの「内科開業20年間における紹介患者の分析」として掲載。また、パソコンで紹介状の作成を簡単に行えるソフトも作成して、これを使用しています(写真9)。

このように、ホームページを開設する以前から、野村院長はパソコンでできることに積極的に取り組んできたのです。そして、ITが日々急速に進化することを謳歌している野村院長は、記録することに対する強い思いとあいまって、ホームページに膨大なライブラリを築き上げています。

今後、取り組みたいことのなかで公表を予定しているのは、「野村医院31年史」、「一医師として伝えておきたいことがら(一医師の回想、医療メモランダム、開業医のコツ)」、「パソコン関係(診療補助、CG、診察説明補助や疾患に関する画像)」、「通信」、「インターネット」、「パソコン今昔」、「携帯メール」、「エッセイ(今後取り組みたい27テーマ)」、「内科開業医のための疾患カラーアトラス」「ホームページで動画を発信」などを挙げていますが、「特に医療関係についてを掲載していきたい」と意欲を燃やしています。


写真9.
自作した紹介状を簡単に作成できるソフトで作成した紹介状フォーマット


O-157集団感染を機に「パソコン同好会」が発足

野村院長が、ホームページを開設するに至ったのは、96年に大阪・堺市でO-157による集団感染が発生したとき、それに関する最新情報がインターネットでしか得られなかったため、パソコンにほとんど触ったことのない交野市医師会の医師たちが、インターネットに接続したいと「パソコン同好会」を設立することになり、パソコン歴の長い野村院長がその世話役に抜擢されたことがきっかけです。

これを機に野村院長は、まず自身のマシーンをWindows95に買い替え、自院のホームページを立ち上げたのです。このときの奮闘記は前述した「パソコン物語−中高年医師たちの挑戦の記録−」(写真10)に掲載されています。


写真10.
96年に交野市医師会の有志が集まって作ったパソコン同好会で、
中高年医師たちの奮闘記をまとめた「パソコン物語−中高年医師たちの挑戦の記録−」



第一の目標はインターネット接続

96年8月初旬、まずは交野市医師会A会員35人中15人がパソコン同好会参加に名乗りをあげました(写真11)。40代2人を除けば、平均年齢はほぼ60歳の中高年医師、しかもパソコンに触ったことのない超初心者が大半でした。それにも負けず、パソコン同好会は、インターネット接続を第一目標に動き出しました。第2土曜の午後の2時間、医師会事務所で例会を開き、野村院長が購入したものと同じでテレビやカラオケも楽しめる家庭用マルチメディア・パソコンとプリンターを会員で一括購入することに決まり、9月上旬には次々と会員宅に搬入されました。

パソコンのセットアップ作業やWindows95の必要最低限の知識をまとめたテキストの作成、会員や医師会のプロバイダー決定など野村院長のきめ細かいフォローと、会員間の競争意識の上手な扇動によって、悪戦苦闘しながらもさまざまなトラブルを克服、徐々に各会員がインターネットに接続できるようになってきました。9月下旬には、野村院長が交野市医師会のホームページを完成(写真12)、インターネット上に誕生しました。

さらに、パソコン同好会第1回例会から1ヵ月が経った頃には、会員からの電子メールが野村院長に届くようになりました。10月下旬には、全員がインターネットに接続、多くの会員がメールの送受信を行うようになっており、当初の目標を瞬く間に達成してしまいました。


写真11.
パソコン同好会に参加し、勉強している交野市医師会の医師たち


写真12.
パソコン同好会を機に野村院長が作成した交野市医師会ホームページ


中高年の初心者がパソコンに楽しく取り組む法

こうした「パソコン同好会」の世話役をした経験から、初心者、特に中高年層が楽しくパソコンを学ぶにはどう取り組めばよいのかということについて野村院長は、最近のパソコンの進歩やインターネット環境を考慮して、以下の点を挙げています。

1.マニュアルよりも実際に触ってみること
2.一番わかり易い入門書を購入すること
3.失敗も成功もメモをとること
4.Web接続ができて簡単な検索くらいができる先輩がいること、わかる人に尋ねること
5.まずは起動・終了・再起動・保存(上書き)・削除をマスターすること
6.ウイルスソフトを使用すること、少なくともプロバイダーのウイルスチェックサービスを受けること
7.使いやすい・故障しにくいマシーンを使うこと


医師からの一言


野村望氏

「生きている期間は限られているから、したいことをやる」。早くに妹や母親を亡くし、大学の親友など同級生もすでに何人も他界していることから、「自らの家系は短命、寿命は70歳までと予想、わずかしかない残りの時間をしたいことをして過ごすつもり」と話しています。

開業31年でリタイアし、2005年4月には、医師となって10年目のご子息圭氏に野村医院を継承する予定です。その後は、自分で創ること、何かを書いたり、まとめる、編集する、情報を発信するなど、30ほどの「やりたいこと」をするつもりだそうです。


野村望氏の略歴

1961年大阪大学卒業。翌62年同大学医学部第一外科(現在の臓器制御外科)に入局、曲直部壽夫教授、川島康生講師に師事して心臓外科を専攻。人工弁置換術、同種弁移植、心臓移植など心臓外科が急速に発展し始めた時期に、夢中で心臓外科専門医への道を進んでいたが、大学紛争の経験で大学に留まることに疑問を感じて開業の意思を固め、1973年9月に内科・循環器科・消化器科を標榜する野村医院を開院。以来、専門医から一般医に方向転換し、家庭医として地域住民のプライマリ・ケアに力を注ぐ。

1985年、49歳でパソコンを始め、O-157の騒ぎで交野市医師会の会員にインターネットを教えることになったことを契機に、96年、60歳で野村医院ホームページを開設。パソコンを趣味ではなくツールとして日々活用して記録を続け、以来8年で医療関係から趣味のことまでタイトル数192を蓄積。現在も頻繁に更新を続けている。交野市医師会理事。


<注釈>

これは三共(株)ホームページの「かかりつけ医療最前線」に、2004年9月30日付けで紹介されたものです。このページは、登録した医療関係者しか訪問することができないため、三共(株)にお願いして転載の許可をいただきました。

ことの次第は、2004年8月10日に突然電話で取材の申し込みがあり、19日(木)の午後2時から、和野美奈子さんという若い女性記者の取材を受け、3時間ぶっ通しで、お茶も飲まずしゃべり続けました。その時の私の熱気に乗せられて、このよう膨大な紹介記事を書いて下さったこの記者の能力に感嘆するとともに、31年間の開業医生活の良い記念となり感謝しています。


<2004.9.30.>

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