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思春期の作文

2008.11.27. 掲載
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マンションは収納スペースが限られているので、廃棄処分を余儀なくされる。これによって、整理が否応無しに行なわれ、意外な掘り出し物が見つかることもあり、結構楽しい。

昨日見つけたのは、中学1年から高校1年までに書いた作文で、ちょうど思春期のころにあたるため、思春期の作文としてまとめてみた。もちろん、学校用に書いたものだから、思春期の葛藤などは影も見えないが、それでも、どのようなことをしていたのか、どのようなことを考えていたのか、どのような文章を書いていたのかが分かり面白い。


1.中学1年(昭和24年、1949年 13歳)

●海

白い波は新しき水を持ってざあざあと寄せてくる。希望と光はここより生まれるのであろう。海は希望の泉であり、悲しみの泉であると言えよう。待てども待てども帰らぬため、海を見て泣く人もあろう。

だが僕は違う。それは父母がいるというからだけではない。海を見れば悲しみを忘れ、心楽しくなる。これはただ単なる空想ではない。事実である。

春は去り、夏の候となった今日、人々の心の中に思い出されてくることがあるだろう。夏休みになれば、一日中水の中で遊びたいほど僕は海に恋いこがれている。そして青々とした大海原のような広い気持ちになりたく思う。あの青い海の色は私を引きつける。ああ、どうかして海になりたい!!

あの海は世界のはてまでつながっている。なんという楽しいことではないか。時には荒れ狂う台風のように、また、時には静かなる朝の海のごとく、そういう海に私はなりたい。

海には多くの資源がある。それを人々は発掘しないだけのことである。僕は将来そういう富を発掘し、少しでも世界を長く残したい。

海は呼んでいる、海は笑っている、海は私たちを引きつける。これからの少年少女は心を大きく持たねばとつくづく思う。

もう早い者は水泳をしていることだろう。僕も1週間ばかり前に泳いだ。これから暑くなってくるが、僕は少しも気持ち悪くは思わぬ。それは海があるからだ。海を見よう、皆さん!!

註:
これは鷹匠中学1年4組池田学級の学級新聞「クラスの光」に掲載をした文である。幼い頃より海が好きだったが、この夏も海がたまらなく好きで、このような文を書いたのだろうと思う。「少しでも世界を長く残したい」というのが何を意味するのか、まさか、地球が滅亡するなどとは思っていなかったはずだが、、、

この学級新聞は、自分たちで謄写版のガリ版を切り、職員室の機械で印刷をして皆に配ったものだ。


2.中学2年(昭和25年、1950年 14歳)

●二回目の母の日

「計画」
二回目の母の日を明日に控えた今日、先生からのお言いつけを守るために、色々計画を立ててみた。

まず自分の机の上の整理。これは母の日と少し関係がないように思えるが、実際は正反対である。だから、一番初めにやることにした。

次に家の中の掃除。これもできるだけ行ないたいものです。鶏舎の土の入れ替えと餌のしたく、庭の掃除、電気器具の修理、お使い等である。これらを実行できるかどうか疑問だが、力いっぱいやろうと思っている。

「実行したこと」
昨夜はあれほど早く起きると言っていながら、今日は九時半まで眠ってしまった。これで鶏の餌を作ることができなくなってしまった。

でも、机の上の整理はきちんとやった。本箱に本がきれいに並び、引き出しの中もごみ一つ無くなった。美しく清らかで気持ちの良い机の上。

次に、表、裏の両庭を掃除し、ごみは燃やし、紅葉、芙蓉、菊等の移植を母の指図で行なった。

鶏舎の土は昨晩の雨のため乾いていなかったが、表面の乾いた所を取り、入れ替えてやった。

二時半に昼食をとり、その後少し昼寝をして、夕方みかん箱とりんご箱を利用して座布団入れを作ってあげた。

そのほか、そら豆の皮をむくのと、いちごをつぶす役をしてあげた。

もう何もすることが無いと思っていたら、風呂に行ったあとの留守番があった。

これで今日の一日は終わったわけだが、足りなかったことは無いかと思っている。精力はまだまだたくさん残っていますよ。

国語教師多賀先生のコメント
いつもその精力を お母様がおよろこびになるように使って下さい
今日はあなたもゆかいでしことと思います  多賀

母の感想
十四日の母の日には、丁度大掃除に当りましたが、前日よりお友達と山へ行って、笹をとって来るなど準備をしてくれ、人手を借りずに、主人と望と二人で大掃除をすませました。

鷹匠中学へ入学してより一年間で身長が十糎余り伸び、畳など軽々と出し入れするのを見てゐると、心嬉しく、母の日だからと殊の外一生懸命にしてくれるので、頼もしく嬉しく思いました。

二十一日の今日は、二度目の母の日で、朝より又私の手伝いをしてやろうと言ってくれるので、丁度菊をさしたいと思ってゐたので、庭の土を耕してもらったり、水を運んでもらったり、秋には奇麗に咲く事を楽しみながら、庭の手入れを手伝ってくれました。

次には鶏舎の砂を奇麗なのと取り替えてくれたし、夕方には座布団十帖入れる木箱も作ってくれる等、一日中私のしてほしい事を手伝ってくれて、大たすかりでした。

二度も母の日をしてくれるなんて有難い事でした。 野村

国語教師多賀先生のコメント
御感想をありがとうございました。いつまでも こどもの心が母と共にあるようにと 私は願っています  多賀

註:
中学2年の母の日の1週間後に、国語の教師から2回目の母の日を行なうよう命じられ、その報告の文章である。母親の感想も求められたようで、母は達筆で書いてくれている。


●感想文 中勘助「銀の匙」

あらすじ
身体の弱い内気で情熱的な子供が、成人して行くその間の有様が書かれている。

感想
この人は子供の世界というものを実に正確に観て居る。幼い世界、下から見た世界として、これほど偽りなく鮮やかに描いた作品は珍しい。眠っていたこの子の才能が、薫という一少女とのことで目覚めたということを、私はロマンティックに思う。が、よくあることかも知れぬ。

上手と思う所が余りにも多く、一々取り上げればきりがない。感じ易い子供の心をよくこれほど上手に描写したことかと驚く。自分も頭が悪いことを除けば、ヒーローと似ている点が多い。そのためか、これを読みながら自分は同情したり、怒ったりしている。

平易で明せきなこの文章は、この人をこの著者だと想像させる。それに比べて、私の文章の不明せきさが気になる。

国語教師多賀先生のコメント
よい文章をよく、多く、よんでいると 上手になります。

註:
中学2年の二つの作文は、国語担当の多賀先生の指示で書いたもののようだ。私はこの先生が好きでなかった。これが中学3年だったらきっと反抗していたと思う。事実、中3から高1にかけては、教師何するものぞと思っていた。


3.中学3年(昭和26年、1951年 15歳)

●想い出を綴る

三年の春秋は流れる水の様に、又夢の様に過ぎて、卒業の日が間近に迫って来ると、瞼に浮かぶのは懐かしい中学生活三ヵ年の思い出です。

想えば、桜の花の咲き初めた頃入学した鷹匠中学校のこと。下界を見降ろす芝生の上の昼食や、校庭のすず懸の木に登って、その円くて堅い実をいくつもいくつも取ったこと。ただ夢中で裏山を駆け、砂山を滑り、ズボンも服も泥だらけにして母にひどく叱られたり、腕白の度が過ぎて、先生に泣いて謝ったこと等環境に恵まれた外大での思い出です。

校舎移転のあわただしさと、窮屈な分校生活から始まった二年の生活も、間もなく増築校舎が落成して、木の香も新しい教室で、伸び伸びと勉強に励むことが出来る様になった時の嬉しかったこと。運動会、音楽会、作品展示会と次々に催されていく落成記念行事の盛大だったこと。変声期の奇声に苦労したのも、又背丈がぐんぐん伸びて非常に満足だったのもこの頃でした。僕達は向上への道を一途に走り続けました。春には奈良、秋は琵琶湖へ遠足した時の楽しかったことも忘れられない。二年生は眞に思い出深い年でした。

三年生は四国への修学旅行です。知らない土地に対する物珍しさよりも、初めて友と寝床を同じにする喜びに興奮して、はしゃぎ明かした旅館の夜。どうしても眠れず、甲板と船室を何回も往復しては、夜光虫だけが美しく光る夜の海を眺めた船のこと。

それから忘れられない昨夏の二つの思い出。我が鷹匠クラブが全国優勝の栄冠を抱いて、堂々と凱旋した時の感激。それにも増して、僕の心に強く残っているあの悲しい事件。過去の色々な出来事も今は思い出。甘く美しく、そしてわびしい春の夜の夢なのです。

僕達がこの思い出多い学び舎と別れて後も、鷹匠中学は益々発展して行くに相違ありません。後に残る皆様は誰もが寒中の厳しい寒さに負けず、毎朝駆け続けた強い心の持ち主だからです。

校庭の緑の若芽が萌え始める頃、僕達は後の事を少しも案じないで、思い出を懐かしみながらも、更に新たなる希望に胸を一杯にふくらませ、喜びに心を躍らせ、元気はつらつと母校にお別れいたします。

−我が心の故郷鷹匠中学校よ、永遠なれ−

注:
この中の「鷹匠クラブが全国優勝」というのは、中学生の軟式野球の全国大会で、鷹匠中学の野球部が優勝したことを指し、これは読売新聞の主催で、友人の石井君もチームの一員だった。また、「あの悲しい事件」というのは、甲子園浜で開かれた鷹匠中学の臨海学校で、水泳中の2年生が溺死したことを指し、秋には慰霊祭が行われた。

この作文は、中学卒業記念文集に掲載されたもので、作文と文章スタイル のタイトルで、このサイトに載せたものを再掲した。


4.高校1年(昭和27年、1952年 16歳)

●私の尊敬する人 ベートゥベン

私の尊敬する人という題の作文であるが、今までは漠然と尊敬する人はあっても、本当にそのことについて考えてみたことがなかった。

私は音楽愛好者ではない。ベートゥベンの作品について、交響曲は第九と第五をレコードやラジオで聴いた程度である。だが清浄荘美な第九の、そしてその終曲の崇高な歓喜の音楽に驚き、興奮し、感動した。このような素晴しいものを我々に残していったベートゥベンのことを知りたく思っていたが、この機会にロマン・ローランの「ベートゥベン」を読んでみることにした。

読むにしたがい知らされるこの人の気高い生涯に、彼ほど本当の意味での偉大な人は居ないと思う。一生涯彼につきまとった貧困、病疾、孤独、その他あらゆる種類の苦悩との長年月にわたる闘いと、超人的な努力で以てそれを征服し、その苦悩の真中で、自分の例が他の不幸な人々の援護になる事を願い、また、あらゆる自然の障害に面しながらも、人たるに値するものになるため、出来得るすべてのことをなし遂げたベートゥベン。

粗野で頑固で、最大の者に対しても自分の意思を曲げず、深い教養と処女の如き清らかな一生を通したベートゥベン。我々に遺していった彼の全てのことが我々に勇気を与える。

熱情の全てを捧げたジュリエットに残酷な報酬を払わされ、音楽家にとって最大の敵である耳疾に絶望して、したためたハイリゲンシュタットの遺書。そこには、芸術と徳が彼を自殺から救ったとある。しかし、それは傷ましい悲痛の叫びである。

彼があの第九交響曲を作ったのは晩年、彼の甥が不良化し、遂には自殺までしかけた苦悩の時、耳がまったく駄目になるという不幸の連続の中に於いてであった。なんと偉大な人、超人と言うより他はない。そして、彼のほとんどの作品が、耳が悪くなってから書かれたものであるとは。

生涯喜びを拒絶された彼は、自ら歓喜を創造しなければならなかった。苦悩を通じての歓喜を。
管弦楽と合唱が声を限りに歓喜を奏す。熱狂せる歓喜の歌を聴く者は、非常なる感動を覚え、明日への希望を新にする。

ロマン・ローラン著、高田博厚訳、叢文閣出版

社会科担当教師のコメント
秀 ベートゥベンの理想主義的精神が躍如として把握されている。

註:
神戸高校1年の社会科の授業で「私の尊敬する人」を書くという課題を与えられ、それに対する私の解答である。こどもの頃から音楽は好きだったが「私は音楽愛好者ではない」と書いている。これは、マニアックな音楽通というのが、その頃から嫌いだったので、自分はその類の音楽愛好家ではないと、わざわざ宣言したのだろうと思う。

社会科担当の井島先生を思い浮かべることはできるが、それ以上の印象は残っていない。秀の評価を下さっていることを知って意外に思っている。

私は今でもベートーヴェンを尊敬しているが、ベートーヴェンをこよなく尊敬しながら、31歳の若さでこの世を去ったシューベルトの方が好きだ。尊敬されるより好かれる方がよほど良いと思う。


<2008.11.27.>

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