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私の年賀状スタイル

2008.01.01. 掲載
2020.01.06. 追加
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オマケの人生に入った今年から、年賀状のスタイルを変えることにした。

私は一旦決めたことを度々変更することは好まないので、細かな修正はあるにしても、大筋はオマケの人生の終りまで変わらないのではないかと思う。そこで、一部が残っていたこれまでの年賀状を探し出し、私の年賀状のスタイルとポリシーについてまとめてみた。



図1.1954年(昭和29年)高校2年生

彫刻刀を使ってゴム版に午年の馬を彫った記憶がある。それまでは手書きだったように思うが、現物は残っていない。そう言うわけで、これが手許に残った一番古い年賀状になる。翌年は受験勉強の真っ最中だから、年賀状を出す余裕はなかったのかも分からない。



図2.1957年(昭和32年)医学部教養課程2年

大学に入ってドイツ語を習ったので、気取ってドイツ語の年賀状を、酉年の鶏の版画で送ったようだ。2年間の教養課程はコーラス三昧の学生生活だった。



図3.1968年(昭和43年)結婚の翌年

前年の11月に結婚したばかりで、最初に迎えた正月だった。入局した医局は超多忙で、この年の5月の連休までは、家に1日中居る日を作ることはできなかった。結婚したばかりなので、差出人に妻の名前を連記した。



図4.1975年(昭和50年)開業2年目

73年9月に開業したばかりで、年賀状を書いたり印刷する時間的余裕がなく、既成の判を使ってなんとか間に合わせた。差出人は診療用のゴム印である。しかし、このやり方は予想以上に手間がかかる上、ダサイので1回限りで止めにした。



図5.1977年(昭和52年)開業4年目

1976年から、「謹んで新春の御祝詞を申し上げます」の賀詞を印刷し、宛名と個別コメントを手書きするようになった。差出人に家族名を連記するのが流行りだしたが、妻の名前を連記するのは、妻の関係者以外は止めた。その理由として、このころから年賀状は400枚を越え、もうこれは儀礼の一つと考えるようになったが、儀礼に対して、関係のない妻や家族の名前を連記することに疑問を感じたからだ。私の年賀状のスタイルは、ここから始まった。このスタイルは9年間続けた。



図6.1985年(昭和60年)開業12年目

この年から、「御祝詞」を「お慶び」に変更し「謹んで新春のお慶びを申し上げます」とした。「御祝詞」はちょっと大層過ぎると思ったように覚えている。また、「本年もよろしくご指導の程お願い申上げます」という付加文は、年賀とは関係がなく、物欲しそうな感じがするので削除した。今から思うと、もう誰にも頼らないという気持が意識の深層にあったのかも分からない。このスタイルを9年間続けた。簡潔でかつ優雅なこの賀詞を今も良いと思っている。



図7.1995年(平成7年)開業22年目

1993年から、賀詞を「恭賀新禧」に変更し、DOSパソコンのPC98で、「大字様」というキャノンレーザープリンター附属ソフトを使って、宛名も印刷するようになった。宛名までPCで印刷する人は、当時は少なかったように覚えている。


この数年前からパソコンで印刷した年賀状が見られるようになった。私は1985年からPCをこき使ってきたが、年賀状の印刷はしないでいた。そのわけは、当時のPCのフォントはビットマップフォントで、それをドット・プリンターで印刷するため、大きな文字はギザギザになり、見られたものではなかったからだ。ところが、93年ころから、キャノンのレーザープリンターでは、トゥルーフォントが使えるようになった。レーザープリンターなので、大きな文字でも滑らかで美しく印刷できる。そこで満を持して、この年からPCで印刷を開始したというわけである。

年賀状のフォントとして、多くの人は「草書体」を使うが、私は「楷書体」専ら使って来た。活字体として、明朝体、ゴシック体は読みやすく疲れない。また、手書きでは文字をくずして書く方が楽だ。しかし、気品があって美しく、それでいて読みやすいのは楷書体だと思う、というか、私の好みだ。

また、コメントもパソコンで書いた。トゥルーフォントでは紙面に合わせて、いくらでも文字のサイズを縮小することができるので、それが可能になったのだ。

謹んで新春のお慶びを申し上げます」という賀詞は今でも好きだ。それを「恭賀新禧」に変更した理由を考えてみた。

その第1は、大きな文字でもPCでこんなに美しく印刷できることをデモンストレーションしたかったのではないか。PCでトゥルーフォントを使って年賀状を印刷し、インパクトを与えたかったのだろう。

第2は、所属していた地区医師会の会長からいただく賀状を、カッコイイと思っていたことも関係している。「謹賀新年」とだけ大きな文字で印刷された年賀状をスマートで男らしいと感じ、ある程度年を重ねれば、私もそれを真似たいと思ってきた。

第3は、人と同じことをするのは嫌だという私の性格も関係しているだろう。「謹賀新年」はあまりにも広く使われている。「恭賀新年」でも代わり映えがしない、「賀春」「」はちょっと生意気な感じがする。そこで、4文字の賀詞をいろいろ検討し、実際に楷書体で印刷をしてみた。そして、数ある賀詞の中で「恭賀新禧」が一番私の好みに合い、これを選んだ。「」には「」とか「」にはない「めでたさ」が感じられた。

この年から昨年までの13年間で、この「恭賀新禧」という賀詞の賀状をいただいた記憶はない。しかし、3年前の台北旅行では、この「恭賀新禧」の張り紙をたくさん目にした。そして、中国では最もポピュラーな賀詞だと現地ガイドに教えら、これを選んで間違いではないことを知って嬉しかった。

そしてこれを6年間続けた。


図8.1997年(平成9年)開業24年目

1996年よりWindows PCを使い出したが、年賀状はDOS PCで従来通りに行なった。文面は基本的には変わらないが、E-mailアドレス、URLを加えるようになった。96年に初めてホームページを開設し、その頃個人のホームページはまだ珍しかったので、付け加えたかったのだと思う。これも人のしないことの一つだろう。



図9.2007年(平成19年)引退2年目

2001年からは、DOS PC の使用を止め、完全にWindows PC に移行したので、この機会に年賀状も Windows PC で印刷することにした。ソフトとしては「筆まめ」を用い、文面はこれまでと同じだが、「恭賀新禧」のフォントは「顔真卿体」に変更し、その他はこれまで通り「楷書体」を使った。

賀詞のフォントだけを「顔真卿体」に変えたのは、Windows PC による印刷に変わったことを示したかったのが第1の理由で、全部を「楷書体」で埋めると、端正ではあるが柔らか味に欠けると思うようになったのが第2の理由だと思う。Windows PC でたくさんの種類のフォントを利用できるようになり、それらを試した結果「顔真卿体」の温かみと気品のあるフォントを選んだ。

差出人も妻と連記することに変更した。頂く年賀状の差出人は連記が圧倒的に多くなり、そのため宛名も頂いた連記差出人とするようになったからである。特に最近は「儀礼年賀」というより、年1回の「安否報告年賀」というふうに年賀状の用途が変わりつつあるように感じられる。

このスタイルを2001年から7年間続けた。



図10.2008年(平成20年)引退3年目

オマケの人生に入ってからの年賀は、これまでのスタイルを大きく変えたく思った。もう、儀礼ではなく、安否報告として、私たち夫婦の過ごしてきた1年間が良く分かるような年賀状にしようと考えた。そうなると、「百聞は一見に如かず」で画像が最も雄弁である。

画像を印刷しようと思ったもう一つの理由は、昨年いただいた友人の賀状だった。外国旅行で写した奥方との2ショットがなんとも微笑ましく、良いなあと感じた。そして、古希を越えれば、2ショットのいやみは蒸発するものだということを実感し、真似をしようと思ったのだ。そこで、これからの年賀状は以下のスタイルで行くことにした。

1.文面は書きなれた横書き、2.トップに私たち夫婦の写真を載せる、3.個別コメントを印刷でなく、万年筆ブルーブラック手書きで書く、4.文面はレーザープリンターでなく、インクジェットプリンターで印刷する、5.普通紙でなくインクジェット用写真紙を使う。6.文字フォントは楷書体を中心に、住所・電話・メールアドレスはゴシックを使う。

個別コメントをこれまでPCで印刷してきたが、それはこのような細かいこともPCでできると誇示したい気持があったような気がする。しかし、コメントに目が止まるのは、手書きアナログ文字の場合が多いことに気づき、これからは、万年筆のブルーブラック手書きで行くことにした。ただ、インクジェット写真用はがきの写真面に万年筆で書くのは案外難しく、来年から検討する必要があるとは思っている。

今年の夫婦の写真は、オマケの人生が始まった日のモルジブ国マーレの海である。賀詞は1993年から使っている「恭賀新禧」を残した。賀詞だけで言えば、これが一番長く15年間使って来たことなる。

以上、私の年賀状のスタイルをまとめてみた。幸いオマケは昨年にはあったが、これがいつまで続くかは分からない。調べてみると、私の年賀状スタイルは、これまで6〜9年で変わって来たようだ。しかし、オマケがそれほどあるとはとうてい思えない。だから、今年のスタイルが最後のスタイルになると思っている。

総括好きな私にとって、私の年賀状のスタイルとポリシーをまとめることができたことは非常に嬉しい。これが年男の最初の仕事となった。

<2008.1.1.>



図11.2009年(平成21年)引退4年目

前年1月に、ウィーンのシューベルトの墓の前で撮影した写真。11月には、孫娘が生まれた。

<2009.1.5.>追加



図12.2010年(平成22年)引退5年目

前年7月に、フィンランドのヘルシンキにある、シベリウス公園で撮影した写真。海に臨む緑豊かな公園で、多数のステンレスパイプを組み合わせたオブジェとシベリウスの顔のレリーフがある。

<2010.1.1.>追加



図13.2011年(平成23年)引退6年目

前年11月に、大阪天満宮で孫娘の七五三のお参りをした時の写真

<2011.1.1.>追加


2012年は喪中のため、年賀状を控えた。



図14.2013年(平成25年)引退8年目

前年6月に、クロアチアのスプリット港で写した写真

<2013.1.1.>追加



図15.2014年(平成26年)引退9年目

前年7月に、スイスのユングフラウをバックに写した写真

最初の年賀状スタイルから今年は60年目、振り出しに戻った。思えば長い道のりだった。もう後が長くはないのだから、続けることができる限りは、この安否報告スタイルの年賀状を続けようと思う。

<2014.1.5.>追加



図16.2015年(平成27年)引退10年目

前年8月、モスクワ大学をバックにツーショット

<2015.1.4.>追加



図17.2016年(平成28年)引退11年目

前年5月、ブリュッセルのホテルでツーショット

<2016.1.4.>追加




図18.2017年(平成29年)引退12年目

前年8月、ワルシャワの王宮前広場でツーショット

<2017.1.5.>追加




図19.2018年(平成30年)引退13年目

前年6月、ハルシュタットの湖畔をバックにツーショット

<2018.1.9.>追加



図20.2019年(平成31年)引退14年目

前年1月、北海道ルスツに家族7名全員集合

<2019年1月>追加



図21.2020年(令和1年)引退15年目

前年7月、ハンブルク市庁舎をバックに2ショット


<2020年1月>追加

図22.2021年(令和2年)引退16年目

前年12月、自宅バルコニーで、大阪東部をバックに2ショット


<2021年1月>追加

図23.2022年(令和3年)引退17年目

前年12月、中之島公園バラ園をバックに2ショット


<2022年1月>追加

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