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台北旅行後のゆううつ

2005.05.31. 掲載
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今年の5月の連休に医師会の家族旅行で台北へ行き、その記録を台北への旅として、Webサイトに掲載した。いつもなら、旅行記を書いてしまえばそれでおしまいなのだが、今回はそれを書き終えても、まだ何かを書いておかなければならない気持が続く。しかし、それが何なのかがはっきりしないので落ち着かない。とりあえずは、台湾で驚いたこと、感心したことなどから書き始めていくことにする。


驚いたこと

建物や道路が汚れている

台北に来て真っ先に感じたのは建物も道路も汚れていることだった。それも黒かびによるしみに似ていて、建物の壁、屋根、屋上が黒くしみ状にくすんでいる。バスも頻繁に通るが、ホテルの窓から見下ろすと、屋根の部分がどれもしみ状に汚れている。これは湿度が高いからだろうと直感した。

帰国後調べてみると、台北気象台の1971年〜2000年のデータでは、年間降雨日数が163日、年間降雨量が2120mm、年間平均湿度は81%で、東京のそれぞれが、43日、1500mm、66%なので、湿度が非常に高く、そのためにカビが繁殖するのだろうとの推定は裏付けられたようだ。1年の45%、半分近くが雨だと知ると、雨嫌いの私はこの地を敬遠したくなる。

交通機関

台北の交通でまず驚いたのはバイクが非常に多いことだった。サラリーマンの通勤手段として欠かせないものだと聞く。二人乗りが多いが、ヘルメットはほとんどの人が着用している。車も多い。その大部分は日本製で、たまにドイツ車を見かけるくらい。これについて、台湾が高温多湿でクーラーが必須だが、欧米のはクーラーの性能が劣り、役立たずなので日本車が圧倒的に人気があると現地ガイドが解説してくれた。欧米車はクーラーを取り付けずに輸入し、日本製クーラーを付けるらしい。そのクーラーだが、ほとんどの家庭で年中クーラーを使っているそうだ。

空き巣対策

ほとんどの家の窓に鉄格子が入っている。それが低い階なら分かるが、2〜30階の高層マンションでも、すべての窓にこれが付けられている。もし、火災でもあれば大惨事になるが、それでも、鉄格子は欠かせない。そのわけは、台湾の犯罪で一番多いのが「空き巣」で、無防備の窓の家はたとえ高層であっても狙われるからだと現地ガイドは言う。

帰国して調べてみると、殺人、強盗、強姦のいわゆる凶悪事件は日本の3〜4倍だが、空き巣などの侵入盗犯は日本とほとんど変わらない。それはすべての窓に鉄格子という日本では考えられない過剰防衛をして、ようやく日本と同じレベルが保たれるということなのだろう。もし、鉄格子を付けなければ、凶悪犯罪なみで日本の3〜4倍になるのかも分からないと思った。


合理的だと感心したこと

横断歩道の信号

台北の横断歩道では人の形をした赤と緑の信号があるほか、歩行者が歩道を渡ることのできる時間が秒単位で、20、19、18、、、とカウントダウン表示される。日本の点滅表示とか、メロディー表示と比べて、これは親切で便利だ。しかも、おそらく台北方式の方がより低価格で設置できると思われる。

統一発票(レシート)

「みやげ物を買ってレシートを受け取ったら、日本に帰る皆様はいらないでしょうから、それを私に下さいね!」と現地ガイドは言う。そのレシートで2ヶ月に一度宝くじのような抽選があり、もし当たれば、最高二百萬元、日本円で約700万円もらえるというのだ。「当たれば山分けしましょう、賞金の半分を交野市医師会に送ります。残りの半分は私に下さい。」この話を聞いて、だれもが宝くじレシートをガイドに渡した。

なるほど、こうすれば売り上げを確実に把握できて税収を確保できる、台湾政府は頭が良いなと感心した。レシートに通し番号をつけ、レシートを発行すれば、一定の割合の税金を払う仕組になっている。消費者は物品を購入すると宝くじを買う気分になり、売る方も他の店との競争上、宝くじつきレシートを発行しなければならなくなる。その結果、この制度は成功し、政府は税収を確保できることになったと聞く。台湾政府はなかなかの知恵者だ!


台北旅行の後、心に残るやるせない気持

悲情城市

今回旅行記を書いたが、それだけで何か満たされぬ気持が残り、とりあえず旅行記に書かなかったことを書き始めてみた。そして今、自分の書いておきたいことが分かりかけてきた。それは映画「悲情城市」を観たことから始まったことに気づいたからだ。

悲情城市」については、現地ガイドの話に登場し、旅行案内のパンフレットでも何度か目にすることがあった。また、その映画のロケ地となった九分では、ポスターがいくつも貼られていた。しかし、台北旅行中はそれほど関心は起きなかった。それなのに、帰国してから妙にこの映画のことが気になり、アマゾンでDVDを見つけ、手に入れるやその日のうちに鑑賞した。

それは不思議な映画だった。ストーリーがはっきりしない、というより、それを明白にさせることを考えずに作られているかのようだった。私は西部劇や時代劇などストーリーの単純な映画を好み、難解な芸術作品は苦手だ。その点ではこの映画は決して難解ではない。戦中戦後に日本でもよく見かけた記憶のある光景が現われる。日本の昔のうた、日本語の会話の入る場面もある。しかし、ストーリーをつかみたいという気持は起こらず、ただ、時間の過ぎ行くままに、画面を見つづけた。

この映画は、45年の日本敗戦の日からはじまり、惜別、悲恋、精神錯乱、暴力、処刑、そのほかいろいろな話があらわれるが、それぞれはあまり大きく関係していない。そして、あともどりすることなく、4年の年月が過ぎていく。これを見終わったあと、やるせない気持がしばらく私から離れなかった。

2・28事件

悲情城市」を観ることで初めて2・28事件を知った。台北市の闇市のタバコ売り女性をめぐる殺傷事件がもとで、中国本土からやってきた外省人と外省人によって成り立っていた国民党政府に対して、もともと台湾に住む本省人が抗議行動や暴動を引き起こした。その始まりが1947年2月28日で、わが国の2・26事件と紛らわしい名前がついた。この抗議行動はまたたく間に台湾全土に広がり、これに対して国民党政府は武力による大規模な掃討と弾圧を本省人に対して長期間にわたって加えた。その結果、この事件で28000人の本省人が殺されたといわれている。

この事件は、長い間一般市民の間で密かに語り伝えられ、公に発言することはタブーとなっていた。しかし時が経つにつれ、弾圧していた側の国民党政府も次第に台湾化していき、1988年に李登輝が本省人として初の総統に就任して以降、本格的な民主化時代がはじまった。そして、1989年に公開された侯孝賢監督の映画「悲情城市」を皮切りに、事件当時の証言や告発をする動きがみられるようになった。政府に対する反逆として定義されていた2・28事件も、今では自由と民主主義を求める国民的な抵抗運動として公式にも再評価されているそうだ。

悲情城市」では、日本の敗戦の日から、この2・28事件にいたるまでの時の流れを、激情を抑え、直裁的表現を避け、穏やかに記録している。そのことが、なんともいえない不思議なやるせなさを私のこころにもたらしたのだった。

台湾の歴史

台湾の歴史についてこれまで知っていたのは、日清戦争で勝った日本が清国から台湾の譲渡を受け、日本の植民地となり、太平洋戦争で日本が敗れて、中華民国に返還された。その台湾へ、毛沢東率いる中国共産党軍に敗れた蒋介石率いる中国国民党軍が逃げ込み、今の台湾を作ったということだけだった。

悲情城市」を観て、2・28事件が、中国本土からやってきた外省人に対する、本省人の抗議行動であったことを知り、もう少し詳しく台湾の歴史を調べてみた。

 ・16世紀まで :マレー・ポリネシア系先住民族が住む
 ・17世紀はじめ:福建省より移民が始まる
 ・17〜19世紀:中国(清国)が支配
 ・1895年〜 :日清戦争に勝った日本に割譲され、日本の植民地となった
          台湾人はこれに抵抗し、14000人の死者が出た
 ・1945年〜 :日本の敗戦で、中華民国に返還された
 ・1947年  :2・28事件が起こり、28000人の死者が出た
 ・1949年〜 :中国共産党軍に敗れた中国国民党軍が台湾を中華民国の臨時首都とし、
          戒厳令を発令した
 ・1975年  :蒋介石死去
 ・1987年  :戒厳令が解除された
 ・1988年  :李登輝が本省人として初の総統に就任した
 ・1989年  :映画「悲情城市」が公開された

この歴史を知ると、孫文がなぜ台湾で建国の父として尊敬されているのかと台北で思った疑問が解ける。孫文は中華民国を作った。現在の中華民国は台湾である。だから孫文は台湾の建国の父である、というわけだ。

台湾の民族構成と言語

本省人:ホーロー人(福建省南部出身)    約70% 台湾語(ホーロー語)
本省人:客家人(広東省出身)        約15% 客家語
外省人:45年以降移住してきた人      約13% 北京語
先住民族:                 約 2% 12の民族で異なる言語

台湾は上記のような多民族国家である。戦後中国大陸から蒋介石とともに逃げ込んできた国民党の人たち(外省人)が、人口割合わずか13%でありながら、政治の中枢を握り、台湾を中華民国と定め、威厳令を発令して台湾を支配してきた。それは、1988年に李登輝が本省人として初の総統に就任するまで続いた。

台湾の言語は、日本に統治されるまでは、ホーロー語(台湾語)が広く使われていたが、日本の植民地になってからの50年間では日本語が国語とされ、日本語を勉強しなければならなかった。現在70歳以上の本省人の中に流暢に日本語を話せる人がいるのはその名残りである。

戦後は大陸から外省人が来て台湾を支配し、北京語が国語となったので、北京語を勉強しなければならなくなった。台湾の人は歴史に翻弄され、不本意ながら、台湾語以外の言語を国語としなければならないという「悲哀」を経験してきているのだ。

現在の台湾は、台湾全島で都市化と文化の均一化が進んでいる。そこで、北京語のみの単一言語社会に向かうとする流れと、台湾語、客家語、先住民族の言語という多言語社会を維持して多様なアイデンティティを守ろうとする流れが交錯しているようだ。ただ、これまでと違って、強制された言語ではなく、台湾人が自由意志でそのどちらかを選ぶことのできるというのは「悲哀」の歴史と同じではない。しかし、台湾をとりまく国際情勢とくに大陸(中華人民共和国)は、それをまた「悲哀」に戻すかも分からない。

現在の台湾の人々の複雑な気持

医師会家族旅行で私たちが台北にいたころに前後して、台湾最大の野党、国民党の連戦主席が中国共産党の胡錦濤総書記(国家主席)と60年ぶりに国共両党のトップ会談を行ったが、現地ガイドはそれについてひとことも触れなかった。

台湾の主な政党に、本省人が中心の民主進歩党、外省人が中心の中国国民党がある。10〜20代、50〜60代の人びとは民主進歩党への支持が多く、30〜40代の働き盛りの人びとは中国国民党を支持するものが多いという。その理由として、30〜40代は、中国大陸に投資をし、会社経営を行っている世代で、台湾人としての自覚や、台湾は独立国だという国家のアイデンティティよりも、目前の企業経営や経済活動をより大切に考えるからだという。

経済を優先するグローバリゼイションの波は世界のいたるところに押し寄せている。台湾も中国も例外ではありえない。現在の台湾の人々の複雑な気持が分かるような気がする。現地ガイドは、自分は若く見られるようだが、50代だと言っていたのを思い出した。彼も民主進歩党支持なのだろう。

やるせない気持と希望

台北旅行後のやるせない気持について映画「悲情城市」と、それに関連して台湾の「悲哀」を書いてきた。台湾の歴史を知ると、それが運命とはいえ、もの悲しい。台湾人と比べると、私たち日本人は幸運な民族であるとつくづく思う。ここまで書いてきて、台湾だけが悲運だったのではないことに気づいた。私はいつの間にか「悲情城市」に呪文をかけられてきたようだった。


台湾賛歌

台湾は過酷な運命に耐え、いくたの苦難を乗り越え、今やハイテク分野で世界のトップクラスにいる。そのことについては、IT機器の恩恵を多大に享受している私はかなり知っているつもりでいた。

その確認を兼ねてWeb検索をしてみると、世界経済フォーラム(WEF)が発表した2004年上半期の成長競争力ランキングで、台湾は世界第4位、アジアではトップであり、英国EIU(Economist Information Unit)の最新の予測では、2003〜7年までの5年間の台湾の経済環境に対する評価は、最上級レベルの「極めて良好」で、世界第17位、アジアでは第3位となっている。

思っていた以上に台湾のハイテク産業が発展し成功していることを知った。そして、悲しい運命を体験したことによって、台湾はこれほど大きく飛躍したのではなかろうかと考えた。

Silicon Valley Japanese Entrepreneur Network(SVJEN)に掲載された「IT立国台湾の新しいビジネスモデル」を読んで感動してしまった。これは九州大学産学連携センター教授/副センター長の谷川徹氏が、世界でトップレベルのハイテク産業を築くために行ってきた台湾官民の対策、台湾のハイテク産業が現在行っている戦略などについて書いた論文である。

台湾のIT企業は急速かつ大規模に生産を中国大陸に移管し(投資ランキングでは台湾が実質第1位)、その結果、台湾の雇用は大陸に奪われ、失業率も大幅に上昇した。それに対して、台湾のハイテク産業は必死でこの新しい事態に対応しようとしている。

「台湾ハイテク産業が生産を大陸に移し、その結果台湾の国内産業の空洞化が起きたことは不幸なことである。しかし、そのことは幸運なことでもある。もし今、生産機能の大陸移転が進まなければ、台湾産業と台湾ハイテク地域の高度化・技術革新・構造改革は遅れ、いつかもっと大きな危機に遭遇したときに耐えられないだろう。今まだ体力がある時に、このような改革のキッカケを得たことは幸運である」と台湾工業技術研究院の幹部は話したとのことだが、過酷な運命に弄ばれた国であるだけに、危機に対して真剣に前向きな対応ができるのだろうと思った。台湾はスゴイ!

ここまで書いてきて、台北旅行後にとりつかれたやるせなさ、陰鬱な気分はすっかり吹き飛び、愉快な気分が戻って来た。そういうわけで、素晴らしくも美しい五月の最後の日を、「悲情城市」の呪文から解き放され、楽しく終えることができた。もう心残りはない。それにしても、これほど長く私をメランコリーな気分にさせた「悲情城市」はスゴイ映画だと思う。しかし、もう一度観ようとは決して思わない。


<2005.5.31.>

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