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嗅診の効用

<枚方市医師会会報第30号(86年9月)より>

2000.12.01. 掲載
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交野支部   野村 望 .

医師は病人の診察を終えると、無言のまま急いで部屋を出て行った。心配しながら診察を見守っていた患者の家族達は、「先生は何か忘れものでもされたのだろう」と話し合っていると、間もなくその医師が戻ってきて、病人の夫を家の外に呼びだし、「奥さんは肺壊疽だから大きな病院に入院させるように」と告げた。

幸い病人の兄が鉄道病院の薬剤師をしていたので、頼み込んでそこに入院させてもらったが、病院の医師達は「肺壊疽ではない、肺結核だろう」という診断である。時は昭和14年、結核が猛威を奮るっていたのはご存じの通り、レントゲンを撮るのも大層な時代で、数日後にやっと撮ってもらった所、肺結核ではなくてやはり肺壊疽であることが判明した。

鉄道病院の医師達は面目を失った訳であるが、病人の夫に対して「最初に診て戴いた先生がどうして肺壊疽を正しく診断されたのか、その理由を尋ねてみてはくれないか」とていねいに依頼してきたと云う。

後日、その医師から聞かせてもらった診断の根拠は部屋の匂いであった。「診察の途中、私がお宅の家の外へ一旦出て行ったのを覚えているでしょう。あれは自分の鼻が間違っていないか確かめたのです。外の空気で嗅覚を新たにしてもう一度部屋に入ってみると、やはり同じ匂いがする。そこで自信をもって肺壊疽と診断したのです」と話されたという。

名医の誉れ高かったと伝え聞く、その先生の名は、田中吾明といい、田中克明先生の御祖父に当たられる。以前、酒の席でこの話をかの病人の夫から聞かせてもらったのを思い出し、嗅診の効用の良き実例としてご紹介させて戴いた次第。

もちろん、田中先生は病人が高熱と頑固な咳で苦しんでいた事も考慮し、視診、触診、聴打診の結果をも総合して診断されたのであろうが、最も大きな役割を果たしたのが嗅診であったという訳である。

これに似たようなことを十年ばかり前に私も経験した。ある朝、中年の男性があたふたと来院され、「こんなに臭い痰がでました。何か悪い病気では無いでしょうか」と非常に心配している。持参した痰は灰褐色で確かに強烈な悪臭がする。聞いてみると、二三日前から咳が出て熱も高かったという。胸部のレントゲンを撮ってみると、左の中肺野に空洞様の陰影があった。

そこで「これは肺化膿症ではないかと思います。抗生剤の注射と薬を出して置きますが、病院で診てもらったほうがよいでしょう」と説明し、患者の希望される病院に紹介した。その病院では結核と診断されたようであったが、約二ヶ月間の入院中、喀痰の培養では結核菌は常に陰性だったとのことである。

これは退院してきた患者から聞いたことなので、正確かどうか分からないが、もし私の診断が正しかったとしたら、それは私がたまたま、ものすごい悪臭の痰を嗅ぐ機会があったという好運によるもの以外のなにものでもあるまい。

悪臭が病気の診断に役立つその他の例として悪性腫瘍の末期状態がある。おばあちゃんの部屋が余り臭いので診てもらったところ、子宮癌の末期だったという話は良く聞いたものだが、胃癌でも末期には病人の寝ている部屋には壊死特有の臭気が漂っている。

お尻にできた膿瘍を診た外科医はその位置や形から肛門周囲膿瘍を疑うことがある。 その場合切開してコリゲルーフという特有の強烈な悪臭のする膿がでてくれば診断は確かめられ、痔瘻になる可能性を患者に説明するだろう。

内科医にも臍が痛いと言って診察を求められる事がある。表面的に余り変化がなくても鼻を近付けてみて悪臭があれば臍炎と考えて間違いがない。このような悪臭のある膿とか分泌物をみたなら、嫌気性菌感染を考慮して検査し治療するのが普通であろう。

以上疾病診断における嗅診の効用の実例をいくつかご紹介した。これらは狭い意味での病気の診断についての効用である。しかし嗅診が最も診断に役立つのは広い意味での病気の診断、つまり、病気を持った人間として患者を診る場合である。

例えば、顔には出ていないが、吐く息がアルコール臭い患者を診た場合、本当の酒飲みなのか、気が弱くて酒の力を借りて診察を受けにきたのか(案外、こんな人がいる)、礼儀を知らないのか、それとも酒を飲んだために症状が出たり悪くなったりしたのか、たまたま酒を飲んだ後で症状がでてきたのか、などと推量するヒントが一瞬にして得られる。

もちろん、咽頭や口腔粘膜が発赤していても単純に咽頭炎と診断しないとか、意識が混濁していても簡単に脳卒中と考えたりしないで済むという狭い意味での効用があるのは言うまでもない。

アルコールが出たので、順序としてタバコの匂いを取り上げてみる。最近はかなり少なくなったが、それでもタバコの匂いを強く身に付けている人がいる。その様な人が循環器疾患とか潰瘍、喘息などタバコによって増悪する病気で来院している時には「だいぶタバコをお吸いのようですね」と先制攻撃をかけておいて、それから、おもむろにタバコの有害性を話すと効果が有るように思う。

ただし、診察の直前までタバコを吸っていた人をヘビースモーカーと間違える失敗も時にはあるが、それはそれで性格判断に役立つと考えるわけである。

煙の匂いといえば、線香の匂いも例えば、熱心な宗教の信者であるとか、最近法事があったのかと推量するヒントを与えてくれる。

口臭は嗅診からみて非常に興味深く、またバラエティーに富んだ情報である。口臭を大きく分けて(1)患者がこれを訴え、確かに口臭が有る場合と(2)患者は訴えるが、実際には無い場合と(3)患者自身は自覚していないが、明らかに口臭が認められる3種類のタイプがある。どう言うわけか、(1)は余りなく(2)(3)が多い様である。

(2)の場合も自分から口臭が有ると思い込んだタイプと、他人から口が臭いと言われて、それから信じ込む様になった2通りのタイプがある。始めの方は、性格的なものが強く関係しているようで、時には精神科の疾患に近いこともある。後の方は、人間関係に問題がある様な印象を受けている。例えば、配偶者とか兄弟間の潜在的な対立感情が関係しているらしい症例をしばしば経験する。

(1)とか(3)のように実際に口臭が有る場合、その大部分は口腔内疾患によるもので、それに次いで胃の病気、鼻の病気、呼吸器の病気が多いようだ。口腔内疾患による口臭は鼻をつまませて、静かに口の中の空気を吐き出させると、臭うことで見当がつく。原因として歯とか歯肉の病気が多いのでよく観察する必要がある。

口腔以外の原因による口臭は、口を閉じさせ、勢いよく鼻から空気を出させると臭いがすることで見当がつき易い。

口臭というより食事とか飲物、嗜好品の匂いが診療に役立つこともある。先に述べたアルコールもその一つであるが、午後の診療の場合、夕食を終えてからの来院であるとか、食事の内容まで瞬時に分かることがある。そのほか、仁丹を口にしていた人は容易に分かり、案外多いものであるが、これらの情報をどの様に利用するかは結局その人次第なのかもしれない。

診療中いちばん困惑する臭いは尿臭であろう。鼻がひん曲がる程の強烈な臭いのする着物を着たおばあちゃんを診察したり、静脈注射をしている時には、なまじ嗅覚があることを、正直、呪わしく思うことがある。

尿臭があってもそれ程不思議でない人の場合には、考えることも少ないが、思いもかけない人から尿臭を発見した時には、複雑な気持ちになる。その人の性格、これまでの生活歴、現在の環境、家族関係、老化、などを考えざるを得ない。そして、これは人ごとではないことを痛切に感じるのである。

最後に、体臭について書いてみたい。一般に日本人は体臭の少ない民族であるといわれているが、個人差、年齢差、男女差がある。ここで問題になるのは異常に強い体臭(腋臭など)、不潔非衛生による体臭、年齢以上に年寄り臭い体臭などであろう。

また、体臭を修飾するものとして香水などの化粧品、職場の匂いがある。職場の匂いのする患者から職業は何かとか、仕事帰りかどうかが一瞬にして分かることがある。

近ごろは男性も香り高く装うのを好しとしているかの如くである。(その分だけ、男の誇りは低くなっているように見えるが)

このような時代に診療をしているわけだから香りの暴力にもしばしば襲われることになる。醜悪なものは目をそらせば良いが、不快な匂いから逃れるのは困難である。ましてその体に触れなければならないことが多い職業だから、これはもう災難のようなもの。後でいくら手を洗っても臭いが抜けず難儀な目に逢うことがしばしばある。そのような時「いくら良い香りでも過ぎれば悪になることをご存じないのだな」と思ったり、どの様な性格なのか、センスはどうかなどと分析したりしてうっぷんを晴らすことがある。

それにしても、最近の香りの洪水はなんとかならないものか。「女は匂いのない時がもっともよく匂う」と言ったのはローマの喜劇作家プラウトウスであるが、同じことを私もつくづく感じている。女のいちばんよい香りは匂いがしないこと、その次は体臭が消える程度の上品な微かな香りと思っている私などは時代遅れなのだろうか。

以上、診療における嗅診の効用を述べてみた。しかし嗅診という言葉は内科診断学には見当たらないし、診断に利用している医師も少ないようだ。その訳を考えてみるのに、例えば嗅覚と云うものが定量的客観的評価に適当ではないとか、すぐに馴れを示し感度が鈍るとか、もともと嗅覚などというものは生物の進化と共に退化して行く運命にあるのであって、そのような感覚を重視するのは人類に対する冒涜であるといった所かもしれない。

幸か不幸か私の嗅覚は人よりほんの少しだけ良い。そして、私はこの嗅覚を五感の一つとして大切に思っている。視覚、聴覚、触覚、味覚よりも嗅覚が劣等な感覚であるとは到底思うことができない。匂いのない生活など想像するだけでも味気ないではないか。医学部の学生だった頃、「嗅いで見て、動く滑車は三叉し。。」と覚えた通り嗅神経は12の脳神経の第一番目、脳神経の頭である。その頭が役立たずである筈がないではないか。

確かに人間の嗅覚は犬より劣り、嗅覚によって得られた情報は現在の科学的な処理になじまないものかもしれない。しかし事実を把握するのに役立つのなら、その様な事はどちらでも良いことではなかろうか。情報が一瞬の内に得られ、しかも、尿臭のように視診では見いだせない程度の僅かな違いを、嗅診で見いだし得る場合があるのだから、これを活用しない手はないと私は思う。

(1986.6.22.)

<補足説明>
「嗅診の効用」は、医療の現場で視覚、聴覚、触覚ばかりが重宝され、嗅覚はほとんど無視されている状況に疑問を抱き、脳神経の第1番目に位する嗅神経を医療にも活用しようと呼びかけた文章である。この短文のもう一つの隠れた目的は、世の中に氾濫する臭いの暴力(主として香水)に対するささやかなうっぷんを書いておくことにあり、枚方市医師会会報に投稿した。

「名医の誉れ高かったと伝え聞く、その先生の名は、田中吾明といい、田中克明先生の御祖父に当たられる」と書いた田中吾明先生は、阪大医学部の前身である大阪府立高等医学校を明治43年に卒業された方で、私の大先輩ということになる。そのお孫さんである田中克明先生は枚方市長尾と尊延寺で開業されている。

また「かの病人の夫」というのは義父の弟(妻の叔父)田伏 学のことで、吾明先生の卒業の年、明治43年の生まれ、先年亡くなった。

肺壊疽:古い医学用語で、現在は肺化膿症という
肺化膿症:ばい菌のために肺組織の腐ったり融けたりして穴があき(空洞)、その中に膿が溜まる病気
壊死:組織が腐ること
膿瘍:膿が溜まった状態
肛門周囲膿瘍:肛門の周りにできる膿瘍で、破れると痔瘻になる
コリ・ゲルーフ:Coli-Geruch(独語)大腸菌特有の臭気
臍炎:サイエンと読む、おへその炎症
嫌気性菌:ふつうのばい菌の反対に酸素の少ない環境で繁殖するばい菌
咽頭や口腔:のどの奥や口の中
歯肉:歯ぐき


<2000.12.1.>

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