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ハワイ珍道中

 2001.5.2.〜5.6.

2001.05.20. 掲載
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私は、この旅行記のタイトルを、「ブルーハワイ」とか、「憧れのハワイ航路」とかにするつもりでいた。ところが、T-baba様というお方が、「ハワイ珍道中」という名前で、前宣伝をしてくれたので、急遽こちらに変更した次第。まあ、よく考えてみれば珍道中であったことには間違いなく、適切なタイトルをいただいと感謝申し上げる。

どうしてハワイ旅行?

昨年のゴールデンウイークは、交野市医師会から韓国へ行き、彼の地で存分に楽しんできたことを報告した。今年の医師会旅行は、台湾へ行くとの案内があり、それに夫婦で参加する積もりでいた。しかし、蓋を開けてみると参加者が少なく、旅行は中止となってしまった。

しかたがない、今年は家でゆっくりするかと思ってはみたものの、4日間の連休を無為に過ごすのは、もったいない気がして、やっぱり、ゴールデンウイークはどこかへ行くことにした。野村医院は、これまでゴールデンウイーク中の診療を、カレンダー通りに行ってきたし、今年もその積もりで、患者さんに説明をしている。カレンダー通りに診療すると、5月3〜6日の4日間しか休みがない。できれば、ハワイに行きたいと思ったが、ハワイ旅行は最低限5日が必要と書いてあるので仕方なくこれを諦め、国内で、今まで行ったことのない東北へ行くことにして、行きつけのJTBに申し込みをしたのだった。

しかし、そうは言っても、やはり国内よりも外国へ行きたいという思いが離れないまま、幾日かが過ぎた。そして、その間に22時30分、関空発のホノルル行き便があることを発見したのだ。これなら、診療を休まなくても5日間を取れる、もうけた、これでハワイへ行こうと勇躍、またもや、JTBを訪問した。しかし、4月始めの申し込みでは満席が当然で、キャンセル待ちをせざるを得ない。申し込みをしてから数日後、診療中にキャンセルが出たのでOKという電話が入った時、何とついているんだろうと感激した。

飛行機の座席は並び席ではない?

私たち夫婦は、なんてまんが良いのかと喜び勇んで旅行代金を払いに行ったのだが、その手続きの間にポスターを見ていると、ハネムーン旅行には並び席を保証するというプランがあることに、妻は気が付いた。ということは、並び席は普通では保証されていないのではないか、彼女の心に不安が急速に燃え上がって行くさまを、横目で見ながら、これは大変なことになるぞと、覚悟を決めた。

並び席について、JTBのスタッフに尋ねるのだが、なかなか要領を得ない。結局、今度利用するJALでは、並び席は保証されていないことを聞き出した。それが分かると、妻は「知らない人と7時間も並ぶのは絶対にいやだ」と猛烈に言い張り、それからも長時間ねばりにねばって、「並び席を手に入れるには、20時の集合時間より早く関空に行って、JALで、並び席の搭乗券をもらうしか方法がない」「午前7時から、搭乗券の引き換えができる」ことを聞き出したのだった。

私たち夫婦は、これまで海外旅行ではビジネスクラスだったが、それは私が望むからで、妻は以前からエコノミーにして、その代わり外国旅行の回数を倍にしようと絶えず言ってきた。今回は、エコノミーをキャンセル待ちで入手できたのだから、ビジネスクラスは望むべくもなく、並び席でなくても致し方ない。もし、今回並び席でなければ、これから妻はエコノミーを主張しないだろう、それなら、「災い転じて福となす」だ、と私は思っていた。

しかし、妻は違った。関空へ7時に行き、並び席を入手することを即座に決断し、私にそれを強いたのである。普段なら迷いに迷うタイプの妻が、この時ばかりは、選択肢はこれしかないと迫ってきたのだから、私も従うほかはなかった。やれやれ...

出発前の大忙しで歯も浮いた

旅行の前に、これほど忙しい思いをしたことはこれまでなかったと思う。毎月の最大のノルマである会計事務所のチェックを受け、校医をしている倉治小学校の全校生徒の春の検診を2日間で行ない、レセプトを打ち出して総括し、同期の桜の開院披露パーティー出席、その模様をデジカメで撮影し、その写真でWebページを作成し、それを同期の桜にメーリングリストで知らせ、画像を添付して同報メールで送信、おまけに、連休の谷間なので、多数の患者さんを診療しなければならなかった。これらが重なったせいだと思うが、何年ぶりかで歯が浮いていた。

4時半起で関空詣で

JALで並び席の搭乗券をもらうために、4時半に起床し、5時に自宅を出発、阪神高速、湾岸線を飛ばしたら、6時には関空に到着していた。連休の谷間のせいか、それとも時間が早いためか、とにかく道路は空いていた。7時前にJTBの職員がカウンターに現れたので、航空券を受取り、JALのカウンターで、搭乗手続きをした。もちろん、一番乗りで、席は選り取り見取りと言われ、窓側で、一番前方のエコノミーの席の搭乗券を、獲得できたのである。荷物を渡すと、そのままとんぼ返りをした。

9時からの朝の診療に間に合わなければ、携帯に電話するようにと職員に話しておいたが、帰り道も混まず、7時半に関空を出て8時45分には帰宅できた。まさに、「早起き三文の得」である。

関空特急はるかの中でメールを受信

夜の診療を済ませて、河内磐船駅からJRで関空に向かったが、関空特急はるかの中で、メールを2回受信した。その一つは I さんからで、ご子息の病気の相談だった。 それに対して、以下のメールを返信した。
「外反母趾」について小生は知識が乏しく、ご相談にお答えできず申し訳ありません。今、関空に向かう途中です。連休は海外にいます。BOW

すると、すぐさま、これに対する返信が届いた。
野村 望 先生  お取り込み中に、ややこしいことを聞いて申し訳ありません。
Have a good time! です。

もう一つのメールは、H君からで、以下のメールを返信した。
Hello, MIKE 今、関西空港でホノルル行きに乗るところです。メールへのコメントは帰国後に送ります。BOW

思えば、初めてi-mode 携帯を使って、旅先でメールを交信したのが一昨年の夏の北海道旅行だった。その時は転送メールは未だ使えず、専ら携帯との直接メール交信であったが、プロバイダーのメール転送サービスのお陰で、全てのメールを携帯で交信できるようになった。それがさらに発展して、リモートメールができたので、どのような長文のメールでも読めるようになったのである。ITの進歩は素晴らしい!

憧れのハワイ航路

私にとって、ハワイと言えば、岡晴夫の「憧れのハワイ航路」「トリスを飲んでハワイへ行こう」「真珠湾攻撃」「エルビスのブルー・ハワイ」「トロイ・ドナヒューのハワイアン・アイ」などが瞬間的に頭に浮かぶ。ところが、職員に尋ねたら、4人が新婚旅行で、ハワイに行っていたのには驚き、世代の違いを思い知らされた。

関空22時30分発の、憧れのハワイ航路JAL78便に搭乗すると、座席は窓側の一番前、おまけに3人掛けの通路側の席は空いている。これなら、準ビジネスクラスだと嬉しくなった。この席の前の壁にはベビーベッドを設けることができるようになっている。後で聞いたところ、ここは特別の場所らしくて、そう言われてみると、スチュワーデスもいろいろ尋ねてくれたり、何かと気配りをしてくれたのを思い出した。

いつもなら、往きの飛行機の中で旅行地の下調べをするのだが、今度は座席が狭くて窮屈で、それに出発までの疲れが出て、ハワイのことを調べる元気がなく、ハワイの地理もほとんど知らないまま、ホノルル空港に到着した。

ホノルル空港からアロハ・タワーへ

ホノルル空港に到着すると、JTBの迎えのバスが、ここアロハ・タワー(ALOHA TOWER)の見える場所へ運んでくれた。このタワーは、ホノルル港に面して建てられていて、昔、ホノルルが海上交通の中心地だったころは、ハワイの象徴だったようだ。「憧れのハワイ航路」は、ここに入港したのだろう。そう思うと、何か懐かしい気持ちになってきた。

ここに、「アロハ・タワー・マーケットプレイス」という、ショッピング娯楽センターが開設されていて、その中にJTBの案内所がある。ここで、「'OLI 'OLI カード」や「'OLI 'OLIブック」、「'OLI 'OLIフォン」などを手渡された。これらのグッズは、後で分かったのだが、ハワイ滞在中、何物にも勝る有用なツールになった。

いつもの海外旅行なら、その地に着いた時には、おおよそのオリエンテーションはできているのだが、今回は、その余裕がなく、ホノルルがオアフ島のどのあたりか、パールハーバーはどこか、ワイキキの浜とはどのあたりかなど、皆目頭に入っていなかった。

今回は添乗員つきのツアーではなく、何ごとも自分で決める必要があるので、まず、オプショナル・ツアーの選択から始めた。厚かましい大阪の老夫婦が、好きなように質問するのに、ここJTBの案内所のお嬢さんは、笑顔で親切にいろいろ考えてくれ、教えてくれた。旅行の最初から感じがいい。その結果、選んだのは、パールハーバー巡りとサンセット・クルージングだった。ハワイと言えば、昭和16年12月8日の真珠湾奇襲攻撃が、まず頭に浮かぶ。太平洋の真中で、夕日の沈む様を見るのも魅力的だ。もらったばかりの「'OLI 'OLI カード」が早速役に立った。これで申し込みも、支払いもすべてできるのだ。

オプショナル・ツアーを決めると、猛烈に腹が空いてきたので、Chai's Island Bistro という、中華風レストランに入って昼食にしたが、そこで食べたマカデミアンナッツ風味の大海老や、マグロのカツが、ヌーベル中華風で美味かった。空腹だったせいか、ハワイで食べた料理の中で一番印象に残っている。


かつては、ハワイ航路のシンボルだったアロハタワー


アロハ・タワーの反対側の景色は、いかにもハワイ的

'OLI 'OLI スニーカーでオリエンテーション

ハワイのことは皆目分からないので、ホテルに行く前に、オアフ島の簡単なオリエンテーションを得るため、このアロハ・タワーから出ている「'OLI 'OLI スニーカー」を利用することにした。45分毎に便があり、「'OLI 'OLI カード」を見せるだけで乗せてくれる。これを利用しない手はない。運転手は、運転中も絶えず説明をしてくれるので、いろいろのことが分かった。

中でも、ハワイでは高速道路は無料だが、ただほど高いものはない、その代わり税金は収入の3分の1以上取られるという話が、妙に印象に残っている。

市内を走ると、真っ青な空の色の中に高層ビルが林立し、これまでのヨーロッパ旅行とはまったく違う光景に接して、ハワイへ来たという実感が湧いた。

ハナウマ湾(HANAUMA BAY)

ダウンタウンを通り抜け、カメハメハ大王像や、アメリカ合衆国唯一の宮殿イオラニ宮殿を眺めたあと、ハイウエイを東に走り、まず、ハナウマ湾(HANAUMA BAY)に着いた。映画「ブルー・ハワイ」の舞台になった場所との説明があったが、展望台から見るマリンブルーの海には、珊瑚礁が広がり、絵に描いたような美しい湾で、白い砂浜、青く澄んだ空、緑のヤシの木、ここはハワイの素晴らしさが凝縮したようなところだ。思わず、珊瑚礁の彼方(Beyond The Reef)が鼻歌に出る。


ハナウマ湾の北側


ハナウマ湾の南側


ハナウマ湾を見下ろす展望台のある原っぱ

ハロナ潮吹き穴(HALONA BLOW HOLE)

ハナウマ湾から少し北東へ走ると、ハロナ潮吹き穴展望台に到着する。これは、海水の浸食によってできた岩穴で、荒波が打ち寄せると高いときで、4〜5mの潮が吹き上がる。それだけのことだが、豪快な水しぶきを眺めると、自然の妙に驚く。

この潮吹き穴の左手には、サンディ・ビーチ(SUNDY BEACH)が見える。美しいビーチだが、流れが速いので泳ぐには注意が必要とのことだ。


ハロナ潮吹き穴


ハロナ潮吹き穴


ハロナ潮吹き穴の右手の景色


ハロナ潮吹き穴の左手にサンディ・ビーチが見える

シー・ライフ・パーク(SEA LIFE PARK)

ハロナ潮吹き穴を後にして、次は、オアフ島の最東端のマカプウ岬(MAKAPUU Pt.)にある、シー・ライフ・パーク(SEA LIFE PARK)に来た。ここでは、イルカショーに人気があるそうだが、興味がないのでパスをして、公園の中を散策した。後ろにみえる小さな島は、ウサギ島と言う名前だと説明があった。


シー・ライフ・パーク


シー・ライフ・パーク

ヌウアヌ・パリ(NUUANU PALI)展望台

シー・ライフ・パークを北西に上って、ヌウアヌ・パリ(NUUANU PALI)展望台に到着した。ここは、オアフの中部山岳部(コオラウ山脈)の切れ目に当たり、北東からの風が集中的に吹き抜けるため、一年中、強風が吹くので有名。また、ここはハワイ諸島を制覇したカメハメハ大王の最後の戦場となった場所で、この時の戦いでは、多数の将兵が断崖から落下し、戦死したと伝えられている。

ここの展望台からは、カネオへの街など裏オアフの素晴らしい眺望が広がる。しかし、あいにく雨が降り始めたのと、余りの風の強さに閉口して、すぐバスに戻ってしまった。


カメハメハ大王の最後の戦場の説明図

最初のトラブル

「'OLI 'OLI スニーカー」という無料観光バスに乗って、3時間あまりの駆け足観光をしたお陰で、少しはハワイの見当がついてきた。最後に、DFSというハワイ唯一の免税ショッピング・センターでバスを降り、店内を見て回った。ここへ入るには、「'OLI 'OLI カード」を見せて、OCRで読み取りを済ませなければ、入場できない。入ってざっと眺めてから、いざ出ようとして驚いた。3階から2階、1階へと戻るのに、巨大な売り場を全部通らなければ、出口に到着できないのだ。これで火事でも起これば、大惨事になるだろう。

DFSを出ると、そこへ「'OLI 'OLI トロリー」が来たので「'OLI 'OLI カード」を見せ、ホテルの名前を言うとOKで乗車させてくれた。「'OLI 'OLI スニーカー」もそうだったが、運転手がかなり流暢に日本語で話してくれるので、これなら、日本国内よりも便利かもしれない。もちろん、こちらも無料、乗り放題。

こちらにに来て初めて知ったのだが、泊まることになったシェラトン・モアナ・サーフライダーは、ハワイで一番旧いホテルだった。このホテルについては後で書くことにするが、チェックインの段階で、最初のトラブルが発生した。ホテルの玄関から入って、少し奥まったところにあるチェックインカウンターに行き、「'OLI 'OLI カード」を見せるだけでチェックインの全作業は終了。レイを首にかけてもらい機嫌よくしていたら、血相を変えて妻がやってきた。「黙って消えてしまった、パパは何時も自分勝手や、私が後に付いてきてるのを確かめへん」とカンカンである。

「声をかけたやないか」とむっとして言い返すと、「私の右の耳は聞こえへんのやから、右側で言っても分かるわけないでしょう」と、とりあってくれない。ホテルのカウンターにいる人も、そのやりとりに困惑しているようだ。しかたがない、悪かったと平謝りをしながら、その場を離れた。そういう訳で、亭主の威厳など、はなから吹っ飛んでしまった!

ハワイ最初の夜

翌朝のパール・ハーバー行きは、7時30分集合だから、早く起きなければいけないので、6時半に目覚ましをセットした。風呂から出て明日の下調べをしようとしたが、睡魔の誘惑が強く、ベッドの上で毛布も被らずそのまま眠ってしまった。あまりよく眠っているので、起こさないようにと、妻が何かを上に掛けてくれたらしい。

ところが、午前3時半に目が覚めた。まだハワイの下調べができていない、パール・ハーバーはどこにあるのかさえ分かっていない。このように気になることや、考えたいことがある時には、眠っていてもそれを考えているという経験を、こどもの頃から繰り返してきたので、やっぱり、勝手に目が覚めるんだなと苦笑した。早速、勉強を始め、明日以降の自分たちの行動に関係する知識がまとまりかけた頃目覚ましが鳴った。しかし、妻はそれにまったく反応せず、眠り込んでいる。後で聞くと、2時頃まで眠れなくて安定剤を飲んだらしい。

短時間で知識をまとめなければならない時に行う私の常套手段は、要らないページを破り捨てることで、これも50年前の大学受験の頃に、身につけたやりかたである。当時「蛍雪時代」という雑誌を手にするや、要らないページを全部破り捨てるので、残るは数ページ。両親は本を破ることに抵抗を感じているようだったが、要らないものをもう一度読むのに費やす時間など残っていないと、私は意にも介さなかった。

このように書けばかっこ良いが、私のすることに失敗がつきまとうのもいつもの通り。必要なところを破り捨ててしまっているのに気がついて、屑カゴの中のゴミ探しも、2〜3度しなければならなかった。

コナ・コーヒー(KONA COFFEE)で奥様上機嫌

このホテルには1度に4杯分作れる本格的なコーヒー・メーカーが置いてあり、それに使うコナ・コーヒーが2袋用意されていた。メカ音痴の妻が、複雑な構造をしたこのコーヒー・メーカーに、手出しできずにいるのはよく分かっていた。

「ハワイの水は世界で2番目に美味い、一番目は貴方が一番美味いと思う水だ」と「'OLI 'OLI スニーカー」の運転手さんに聞かされていたので、この水を使って美味しいコーヒーを作ってやれば、コーヒー好きの妻は喜ぶだろう、男を挙げるのは今だと思った。断っておくが、私は家ではコーヒーなど入れたことがない。いつも、妻がドリップ式で私の好みのコーヒーを入れてくれる。

コーヒーメーカーから魅惑の香りが流れ始めた頃に妻を起こして、熱湯で温めておいたコップに、コナ・コーヒー(KONA COFFEE)を注いで、飛び上がるほど熱いコーヒーを提供すると、予想通り、妻は大喜びで、感激してしまった。私たち夫婦は、熱いものは熱ければ熱いほど美味しいと思う味覚の持ち主である上、このコナ・コーヒーがまた美味しかったのだ。

帰国して調べてみると、ハワイ諸島の中で、「ビッグアイランド」と呼ばれて親しまれているハワイ島の西部に、コナ地区があり、コナ・コーヒーは、そこで収穫される高級コーヒーだった。ハワイのコナ・コーヒーは、この地域だけで生産され、しかも有機農法で手作りのため、世界のコーヒー総生産量の1パーセント以下の量でしかなく、本物の 100% 純粋なコナ・コーヒーを手に入れることは難しいことを知った。

この美味しいコーヒーのせいで、妻はすっかり上機嫌になり、それにつられて私も、「昔アラブのえらいお坊さんが...」と「コーヒー・ルンバ」が鼻歌に出てくる始末。

パール・ハーバー(PEARL HARBOR)

ハワイ第2日目は、パール・ハーバーなどを観光するオプショナル・ツアーで始まった。パール・ハーバーは、ホノルル港のあるアロハ・タワーよりも西側にあり、海軍基地である。海岸に見学者センターがあり、ここで真珠湾攻撃に関する映画が25分間上映され、写真や資料の展示も見た。真珠湾奇襲攻撃の映画を見ながら、愛国少年時代なら拍手喝采、大人としては苦痛と贖罪の気持ちを強く持った。日曜の平和な朝、宣戦布告なくして、突如攻撃し、船舶12隻、航空機160機を大破、2400名の命を奪ったのだから、アメリカ人が許しがたく思う気持ちも分かるような気がする。

この見学者センターの向かいに、記念潜水艦ボウフィンが横たわっている。太平洋での潜水艦の活躍ぶりを記念するための記念艦で、これは、沖縄からの疎開学童を乗せた対馬丸を沈めた潜水艦でもある。

真珠湾の中にアリゾナ記念館(ARIZONA MEMORIAL)がある。これは、1941年12月7日の日本軍の奇襲攻撃により沈没した戦艦アリゾナ号の上に、橋を架けたように作られたもので、1962年に完成した。アリゾナ号には約1500人の乗組員がいたが、1177人は艦と共に海中に沈んだ。記念艦の奥には、この人々の名前が刻まれた大理石の大きな石板が安置されている。見学者センターからこの記念館へは、海軍のシャトル・ボートが送り迎えをしてくれる。

ハワイは時差で19時間日本よりも遅れているため、私たち日本人は昭和16年(1941年)12月8日が忘れられない日であるのに、アメリカ人にとって、それは12月7日であることを、ここに来て初めて知った。

これら2つの記念艦に加えて、1998年9月22日、米本土から曳航された戦艦ミズーリー号が真珠湾内に入り、アリゾナ号の隣に係留された。1945年9月2日に行われた連合軍に対する日本無条件降伏の調印式が、この艦上で行われたが、その戦艦ミズーリー号が、真珠湾奇襲攻撃の犠牲となった記念艦アリゾナ号の隣に、永久保存されるということは、最初の敗北と最後は勝利を表すモニュメントとして、この両艦がアメリカ人に貴重な存在であることを感じた。


潜水艦ボウフィン


奇襲攻撃を受けた時の真珠湾内の海軍船舶の配置図


真珠湾の入り口近くにあるアリゾナ記念館と戦艦ミズーリー号


同じものをアップで撮影


戦艦ミズーリー号


見学者センターに展示されている奇襲攻撃の主役日本海軍零型戦闘機の絵


見学者センターに展示されたアリゾナ記念館の模型


海中から飛び出した戦艦アリゾナ号の甲板の一部

ビショップ博物館(BISHOP MUSEUM)

パール・ハーバーから東へ戻ると、アロハ・タワーとの中間あたりに、ビショップ博物館(BISHOP MUSEUM)がある。ここでは、ハワイの文化遺産や太平洋諸地域の人類学の成果を知ることができた。200年前までは、ハワイの住民は陶器や土器、鉄を知らない生活をしていたが、このミュージアムの1階には、これら古代ハワイ社会の生活が、また、2階には西洋文化の影響を受けた王朝時代の資料が、3階には移民の文化について展示され、特に、日本人の移民の資料が豊富で興味深かった。

ここで、昼食にハワイの食事が出たが、口に合わなかった。その後、レイ・メイキングの実習があった。これは笹の葉のような植物の葉を6枚編んでレイのもとになる輪を作る作業だが、元外科医の私にとって、手ですることには自信があり、ツアーのほかの人たちの2倍以上のスピードで作ってしまった。レイ・メイキングを教えてくれている先生に、「あなたは、もしかして、レイつくりのプロと違いますか?」とからかわれ、否定しながらも内心得意だった。いくつになっても、このような誉め言葉に弱いのだから、生きている限り、未熟者で終るのだろう!

レイを作ったところで、めいめいが自分の作ったレイを首にかけ、フラダンスのレッスンを受けた。簡単そうに見えたフラダンスが、案外難しいのだということが良く分かったところで授業は終った。


ビショップ博物館の屋根の部分


手作りのレイを首に掛けたところ


ビショップ博物館前の庭園で


ビショップ博物館前の庭園で


ビショップ博物館前の庭園からダウンタウンの高層ビルを望む

ワシントン・プレイス(WASHINGTON PLACE)

アロハ・タワーの少し北側に、白い建物のワシントン・プレイス(WASHINGTON PLACE)がある。ここはハワイ州知事公邸で、現地ガイドがインターホンを押すと、守衛の警官が現れ、門を開いて中に入れてくれた。この邸宅で、カメハメハ王朝最後の女王、リリウオカラニ女王が、王制廃止後の余生を過ごした。内部は非公開と案内書には書いてあるが、このツアーの実力か、それとも規定が変わったのか、簡単に中に入れてくれた上、各部屋の写真撮影もOKだった。

ここで余生を過ごしたリリウオカラニ女王は、「アロハ・オエ(ALOHA OE)」の作曲者で、彼女は250曲余りの作曲をしたと言われている。部屋には、彼女が弾いていたグランドピアノ、愛用したチェアなども展示されていた。私たちが訪れた時には、ハワイ州知事はこの館の2階に滞在中で、それは2階に上がる階段の前に、アメリカ合衆国の国旗、ハワイ州の旗、知事の旗が並んで掲げられていることから、在邸であると教えられた。


道路の外から見たワシントン・プレイス


門の中に入って見たワシントン・プレイス


知事在邸を示す3本の旗


ハワイ王朝最後の女王、リリウオカラニ女王の肖像画


リリウオカラニ女王が弾いたグランド・ピアノ


リリウオカラニ女王が愛用したチェア

ハワイで一番旧いホテル

キャンセル待ちで手に入れたハワイ旅行だったが、宿泊先がハワイで一番旧いホテルで、今年は開業100年目の記念すべき年に当たる。そのことを知ったのは、ここシェラトン・モアナ・サーフライダー(SHERATON MOANA SURFRIDER)ホテルに来てからのことである。

1901年オープンのモアナ・ホテルは、開業当初から「ワイキキのファーストレディ」の愛称で親しまれ、1969年にできたシェラトン・サーフライダー・ホテルと合併して、現在のホテルになったそうだ。

メインストリートのカラカウア大通りに面し、白亜の優雅な外観から、最も目立つホテルであることは間違いなく、ワイキキを訪れた誰もが目にする憧れのホテルだと聞く。1901年に建築された木造コロニアル様式の旧館バニヤン・ウィングを中心に、両側に近代的なダイヤモンドヘッド・ウィングとタワー・ウィングが立っている。

2日目の夜は、海沿いの中庭「バニヤン・コート」を囲む「バニヤン・ベランダ」で、ハワイアンの音楽、フラの踊りを眺めながら、夕食を摂った。ビールを注文してバドワイザーは嫌だと言うと、アサヒがあるとS−DRYを運んで来た。カニもロブスターも取り立てて言うほど美味くはいが、分厚く切ったローストビーフと、野菜は美味かった。外人が半数近くいて、いい雰囲気なのだが、日本人の結婚披露宴で良い場所を占拠されていて、予約をして置いた浜辺近くの席がとれなかったのは残念だった。

バニヤン・コートを通り抜けると、プライベート・ビーチに出る。この浜辺で中年の男女がしばし抱擁し接吻を交わすのを、まるで映画「南太平洋」の世界だと見とれながらも、その映像は、しっかりビデオカメラに収めておいた。

息子圭が小学生の頃の夏には、白浜の白良荘グランドホテルに1週間ばかり滞在し、白良浜で海水浴を楽しんで来たが、このシェラトン・モアナ・サーフライダーとワイキキ・ビーチの地理的関係もそれに瓜二つで、ビーチの西端近くの浜辺に面してホテルがあり、そのようなホテルに泊まることができたことに対して、何か因縁めいたものを感じる。


シェラトン・モアナ・サーフライダー玄関


シェラトン・モアナ・サーフライダー玄関


エレベータのドアが開くと、床には100th Year Anniversary のマット


正面から見た1901年設立当初のモアナ・ホテル


ワイキキ・ビーチ側から見た設立当初のモアナ・ホテル


部屋の窓から見下ろした朝のワイキキ・ビーチ


部屋の窓から見下ろした昼のワイキキ・ビーチ


部屋の窓から見下ろした夕方のワイキキ・ビーチ


MOANA SURFRIDER


「バニヤン・コート」から「プライベート・ビーチ」に出る手前で


このビーチでは中年の男女が抱擁と接吻を交わし、映画のシーンそのもの


アップで撮ってみた

ホノルルからインターネット掲示板に書き込んだ

街を歩くと「インターネット・カフェ」が目に付くが、入るにはちょっと躊躇する雰囲気がある。このホテルの自分たちの部屋に入ると、支配人からの留守電があり、貴方をVIPとして待遇する、21階(最上階)に「メモリー・ラウンジ」を設けてあり、そこにはPCも置いてあるので利用してくれという伝言が入っていた。

ハワイ2日目の朝、私はその部屋を訪れた。目的はメールが届いているか、掲示板に何か書き込みがないかのチェックである。その部屋には、2台のIBM−PCが置かれていた。昨夏ロンドンのホテルで触れたPCでは、英語とロシア語以外の表示はできなかったが、ここでは日本語による表示も可能である。

Hotmailで自分宛てのメールのチェックをしたが、重要なものは届いていない。次に、自分と、池田先生、明石先生のインターネット掲示板を訪問してみたが、ここも変化がない。

そこで、ハワイから自分の掲示板に書き込むことにした。まさか、連休の後半に、ハワイくんだりまで出かけている夫婦がいようとは、誰も思っていないだろうから、読んだ人は驚くだろう、そう思うと愉快だ!

ところが、この純正のIBM−PCには、日本語用のMS−IMEが組み込まれていない。部屋にいる女性に尋ねたが、私は何も分からないと言う。困ったが致し方ない、Broken English で書き込むことにして、以下の書き込みを行った。

707 BOW 2001 05/05 02:24 (日本時間ではこうだが、ハワイ時間では 05/04 07:24)

NOW IN HONOLULU
We are enjoying HAWAII DAYS from May 3. This IMB PC can not use MS-IME.
So I try to write this message usuing English. My wife is sleeping now.
5/4 BOW in HONOLULU

勝手違うパソコンを前にしてあがってしまったのか、IBM PC を IMB PC などと書いている。IMB PC なんてPCはあるのか? それはどんなPCだ?

帰国して、まずこの掲示板を覗いたら、この書き込みの7時間ほど後に、池田先生の奥方T-baba様が、以下のレスを付けて下さっていた。英語力の彼我の差は歴然としている。ああ〜!

708 T-baba 2001 05/05 10:06

WOW !!
I was so astonished I couldn't say a word !
I say congratulations to you and your wife KYOUKO SAMA !
Such a beautiful experience will give you a great pleasure I think.
Enjoy life in HAWAII ! How I envy you !
TORA TORA TORA

ご自分のハンドル・ネーム「寅」に「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)をダブらせて、私の奇襲作戦に花を添えて下さった。

ワイキキ・ビーチ(WAIKIKI Beach)

ワイキキはハワイの代名詞かも知れない。この海岸の名はハワイのフラ・ダンスと共に、世界に響き渡っている。実際、白く輝く砂の彼方に広がる紺碧の海、その上を走る白いヨット、目の覚めるような青い空、風にそよぐヤシの木、そそり立つ豪華な高層ホテル群、それらの中にいると、世界の果てから、人々がこの海岸を求めてくる気持ちが分かる。

ワイキキ・ビーチに沿って東西に走る大通りが、カラカウア大通り、この大通りはダイヤモンド・ヘッドに向かって一方通行になっているので、ぶらぶら歩いていくと、左手に動物園、そしてダイヤモンド・ヘッドが左前方に見えてくる。

今度は逆方向に、この大通りを西に向かって歩いていくと、左手に私たちの泊まったシェラトン・モアナ・サーフライダー・ホテル、巨大なシェラトン・ワイキキ・ホテル、ピンク色の宮殿のようなロイヤル・ハワイアン・ホテルがあり、右手にはハイアット・リージェンシーの巨大なツインビルが並び建っている。朝から晩まで人通りで一杯、カラカウア大通りはハワイのお祭り広場といえそうだ。


ワイキキの浜辺から西を望んだところ、モアナ・サーフライダー・ホテルが見える


ワイキキの浜辺から東方を望む


ワイキキの浜辺から南方を望む


サーファーが波乗りに成功


前方にダイヤモンド・ヘッドが見える

ダイヤモンド・ヘッドへ登った

ハワイのシンボル「ダイヤモンド・ヘッド」、この名前は、イギリス人の水夫達がこの山にごろごろしていた石をダイヤモンドと勘違いしたことから付けられたのだと聞いた。ハワイへ来たからには、ダイヤモンド・ヘッドに登って、景色を見ておこうと思う人は多いだろう。私たちは、「バカと何とかは高いところへ登る」を地で行く夫婦で、たいていの旅行で、展望台などの高いところへ登って来たのだから、今回も例外ではない。

道は少し険しく悪路で、頂上付近にトンネルがあり、真っ暗なため、麓で借りてきた懐中電灯が役立った。30分くらいで頂上に立つと、ここは360度展望のできるスポットで、ここからの眺めは絶品である。この眺めも、白浜の平草原から見下ろした景色とよく似ているのに改めて驚いた。白浜とワイキキは本当に良く似ている!


ダイヤモンド・ヘッドへの登山口


ダイヤモンドヘッドから眺めたワイキキの浜辺


シェラトン・モアナ・サーフライダー・ホテル付近をアップで

サンセット・クルージング

ハワイ最後の夜は、デラックス・サンセット・クルージングでハワイの海に夕日が沈んでいくさまを見たいと思った。乗船は5時30分、下船は7時30分、ディナー付きで、丸ごとロブスターはまずまずの味だったが、ほかの料理自体は大したことはない。ところが、歌が良かったので、私たち夫婦はルンルン気分で過ごせた。私たちの席は、このミュージシャンのすぐ横にある。ビデオ・カメラを向け、手拍子足拍子で歌に合わせると、彼も上機嫌で、もう乗り乗り!

その歌をご紹介しよう!
最初が、アイル・リメンバー・ユー( I'll Remember You)。ハワイ出身のシンガー・ソング・ライター クイ・リーが作った歌で、これをエルビス張りに歌い出した途端、拍手が沸きあがった。

次は、ブルー・ハワイ( Blue Hawaii)をエルビス風に歌い、ラブ・ミー・テンダー( Love Me Tender )へと続く。どうやら、エルビスがお気に入りのようだ。

それが終ると、今度はアンディのハワイの結婚の歌( The Hawaiian Wedding Song)、次はKコールのラブ (L-O-V-E)、これらの歌を、ムードたっぷりに上手く歌ってくれる。

デッキに出て、サンセットのシーンをビデオに収めている時、ちょうどビートルズのイエスタデイ(Yesterday)が聞こえて来た。妻は感激して、「この歌は、私たちの結婚式の時に流した歌なの」と、このおっちゃんに話しかけているが、奴さん、日本語が分かるのか分からないのか、とにかく、ニコニコしてこれに応じている。

夕日が水平線の彼方に沈んで行くまでの、刻々と変わりゆく光景は、どこか寂しく、しかし、美しい。やはり、人生の終わりを感じるのだろうか?

サンセットが終る頃、歌はロックンロールに変わった。ロック・アラウンド・ザ・クロック(Rock around the Clock)、ダイアナ(Diana)、もうゴーゴーの世界、踊り始めるおっさんが出てきて、全員でロックンロールを踊りだした。妻もその中に入って行って踊りはじめ、興奮のうちに、サンセット・クルージングは終了した。楽しく素晴らしい夕べだった!


サンセット・クルージングで乗ったスター・オブ・ホノルル号


良い歌を聴かせてくれたミュージシャンのおっちゃんもご機嫌だ!


良いムードの中でのディナー


妻もロックンロールに加わった


ハワイのサンセット


ハワイのサンセット


ハワイのサンセット

携帯電話の充電器がトランクの中

ホノルル空港で搭乗券をもらい、荷物をJALに預けた後で、借りていた携帯電話「'OLI 'OLI ホーン」を返却することを思い出し、JTBのカウンターに立ち寄ったところ、充電器も返すようにと言われ、一瞬戸惑った。そう言えば、コンセントアダプターみたいなものがあったが、これを充電器とは思わず、トランクの中に入れてしまったのだ。あれを返さないなら、70ドル支払って下さいと言われたが、トランクはもうJALに渡してしまっている。

仕方がない、払いましょうと言った途端、妻に腕を掴まれ、あれよあれよと言う間に、さきほどトランクを預けた所に連れて行かれた。幸い、トランクはその場に残っている。パスポートを見せ、柵の中に一人だけ入れられ、トランクを開いた。これを見ている多数の目が気になり、冷や汗たっぷり、もちろん、充電器は見つかり、返却した。

その後、妻のきつい詰問があり、「これは私が持っておく」と荷物引換券を取り上げられたが、いつの間にか、私の上着のポケットに戻っていた。

こう書くと、ヘマをするのは私ばかりのようだが、そこは似たもの夫婦、相方も、それに負けないドジなことをしている。文章の公平さを保つためには、そのことにも、触れないわけにはいくまい。

2日目の朝のことだ。浴室の方から、「ギャー」という悲鳴が聞こえた。何ごとが起こったのかと飛んでいくと、妻は湯舟の中で倒れもがいている。ふらついたので、タオル掛けを握ったら、すっぽ抜けてバスの中に尻餅をつきながら倒れてしまったらしい。なるほど、タオル掛けのバーは外れ、床に無残に転がっている。

手を貸さないと妻は起き上がれない。昨夜、眠れなくて安定剤を飲んだのが効いていて、ふらついたようだ。フロントに電話して弁償をすると言うのを制し、私はバスタオル掛けを元通りに直した。こんな時、亡くなった母なら、「やっぱり兄ちゃんね」と誉めてくれるのだが、誉めることを潔しとしない妻は、「直った?」と言っただけ。

Look JTB ハワイ株式会社

今度のハワイ旅行は、これまでの海外旅行とは、まったく違っていた。その最大の理由は、Look JTB が、ハワイで展開している「'OLI 'OLI ハワイ」という巨大なハワイ旅行バックアップシステムにあること間違いはない。ハワイの観光を牛耳る「Look JTB ハワイ株式会社」という印象を持った。

「'OLI 'OLI カード」を見せるだけで、バスに何度でも乗れ、ホテルのチェックインも,このカードを見せるだけでよく、ほとんどの支払いが,このカードでできる。トロリーバスは10分おき、観光バスは45分おきに走っていて、運転手が日本語で説明をしてくれる。帰りの空港行きのバスも,「'OLI 'OLI エアポートエクスプレスが、10分から15分間隔で走っているので、便利この上なしだ。こうなると,日本国内の観光よりもよほど便利で、費用も時間も少なくて済む。

帰りの飛行機

帰りの飛行機も、窓側の並び席の搭乗券をもらったので,妻はご機嫌である。関西空港に到着した時の彼女の第一声が、「これからは,エコノミーにしよう」だった。私はもちろん反対だし、そのための「切り札」を持っている。その「切り札」とは、少し前に話題を賑わせた「エコノミー症候群」である。以前から、私は心臓病で死ぬと繰り返し言ってきた。また、循環器内科医の息子も,その意見に賛成なので、妻もそう信じているようだ。その上、飛行機搭乗中に心臓病で死ぬ人が多いことを,患者さんによく説明するが、それを傍で聞いているから、機内では事故が起こり易いと思っているだろう。「もし、エコノミーにして,そのような目に遭えば、悔いるぞ」は絶大な効果のある切り札なのである。

今回は、旅行前がいつもと比較にならぬほど慌しかったので、ゆっくり、のんびり旅をしようと夫婦で話し合っていたのに、バタバタする性格は直らず、結局は,フルに時間を活用してしまっていた。せっかちな旅行は、これからも続くことだろうが、似たもの夫婦だ、致し方あるまい。

(2001.5.15.)

今朝の朝日新聞を読んでいると、今年は真珠湾奇襲攻撃から,ちょうど60年目に当たるため、アメリカでは5月25日から超大型映画「パール・ハーバー」が一斉公開されるという記事があった。その他にも、関連書籍が多数刊行されているそうだ。その「パール・ハーバー」を今回訪問できたこと、泊まったホテルが開業100周年目だったこと、それらに,何か不思議な因縁を感じつつ、それを喜んでいる。


<2001.5.20.>

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