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飛鳥U世界一周2007航海記

4.地中海2

2007.08.10. 掲載
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5月 4日:村上和雄先生の講演、ギターコンサート
5月 5日:マルタ共和国ヴァレッタ
5月 6日:村上先生の著書、副機関長招待夕食会
5月 7日:サン・ジミニャーノ、シエナ
5月 8日:ピサ、リボルノ、アルノ川
5月 9日:エックス・アン・プロバンス、マルセイユ
5月10日:ミロ美術館、ピカソ美術館、村上先生と会食
5月11日:地中海の日の出、村上和雄先生講演
5月12日:カイル・イーストウッド ライブ
    
写真の多い「 写真集4.地中海2 」に移動する


5月4日:村上和雄先生の講演、ギターコンサート

ピレウスを昨夜22時に出港した飛鳥Uは、地中海の一部であるイオニア海を航行中である。波はかなり高く、これまでの航海で一番大きいような気がする。船も少し揺れるようだが、あまり気にならない。明日の朝早く、マルタ共和国のヴァレッタに寄港する。

今日の講演は村上和雄筑波大学名誉教授の「笑いや感動が可能性を引き出す〜遺伝子オンの生き方」で、満席だった。先生はスライドやパワーポイントを使わずに話されるのだが、話術よりもその内容で、聞いている者をひきつけてしまった。

私にとって、印象に残ったのは、1)DNAの働きが現在までにわずか2%しか分かっていないこと、2)良い方の遺伝子をスイッチ・オンにし、悪い方の遺伝子をスイッチ・オフにするという考え方、3)科学を昼の科学と夜の科学に分け、発明発見などは、夜の科学つまり、感性、直感、熱い思い、意欲などが関係するという考え、4)発見には、幸運という運命が大きく関係しているという意見、などだった。

笑いが血糖値を下げるという実験結果は、私にとっては目新しいことではなく、また、笑いが何にも勝る良策だと受けとった人が多いように見受けられたのが少し心配だった。

夜にはジョン・ザラディン(John Zaradin)のギター・コンサートがあった。これもビデオ撮影がOKなので、一番前の座席に座り、ビデオカメラを両太ももの間に置き、目立つことなく最後までうまく録画できた。帰国して、ハイビジョン映像でそれを確認するのが楽しみだ。

<コメント>

◆投稿 ヒマジンスキー | 2007年5月 8日 (火) 10時06分
このあたりは全く知らない世界なので望さんの記述で大いに勉強しています。唯一ピレウスの港だけは昔ギリシャとの貿易業務でよく聞いた名前です。それにしてもクルーズというのは凄い社会人教育の場なのですね。レクチャーについて行くだけでなく、紀行を書くことでの復習も含めると勉強ツアーです。頭脳を使ってstay youngできているようですね。

こちらは飛鳥Uのスクリーンセーバーをゲットし、もうすぐマルセイユだなと眺めています。日本も昨日あたりから晴天が続く模様です。

◆投稿 BOW | 2007年5月 9日 (水) 07時14分
ヒマジンスキーさん、コメントありがとうございます! >クルーズというのは凄い社会人教育の場なのですね。
そういう見方もあるのですね!

>レクチャーについて行くだけでなく、紀行を書くことでの復習も含めると勉強ツアーです
勉強は嫌いですが、記憶の貧弱な脳をカバーするために書いておくことは結構楽しいんです(笑)。明日はマルセイユ、快晴の天気予報とキャプテンが放送していました。ついています。

<メール>

◆MH | 5 May 2007 23:42:47
*コンサート
昔のカメラとは違ってビデオカメラはかしゃかしゃ音がしないから雰囲気を壊しませんね。今回の作品は年内にロードショー可能でしょうか?

◆MH | 8 May 2007 23:16:50
今回のツアーではハイビジョンカメラ、それも出発直前の三月末に発売された最新モデルのカメラで撮影なさっているのですね。貴重な映画ができるでしょう。期待しています。一方、ヨーロッパに入りますと矢継ぎ早に被写体が出てくると思いますがどうか無理をなさいませんように。健康第一で写してください。

John Zaradinのギター演奏(ビデオ・スナップ)


5月5日:マルタ共和国ヴァレッタ

ピレウスからヴァレッタまでの航路

マルタの国旗

ヴァレッタの衛星写真

クルーズの寄港地にマルタ共和国のヴァレッタがあると分かっても、それがどこなのかまったく知らなかった。そのヴァレッタが、これまでの寄港地の中で一番印象に残ったのだから、旅は実際にしてみないと分からないものだ。

長靴型をしたイタリアのつま先にシチリアがある。そのすぐ下にある小さな島がマルタ共和国で、面積は淡路島の約半分しかない。その首都がヴァレッタで、ヴァレッタ市内だけなら、歩いて一周するのに1日もかからないだろう。

ここに入港した時、飛鳥Uのほとんどの乗客が、嘆声を漏らしたのではなかろうか?高い城壁に守られた中世の都市そのものが目の前に現れたからだ。広い入り組んだ港が、すべて巨大な城壁に取り囲まれていて、そびえた立つ景色に圧倒されてしまう。「マルタストーン」と呼ばれるハチミツ色の石灰岩の建造物は、威圧するのではなく、見る者を魅了してしまうのだ。海から眺める素晴しい景観は、クルーズでしか味わえないものだということがよく分かる。

上陸して、午前中ツアーで半日観光をして、この街の概略見当をつけておき、午後から徒歩で思う存分散策をした。街の中は中世の建物がそのまま残っていて、この街全体が世界文化遺産である。聖ヨハネ騎士団によって、全く人工的計画的に建設されたこの都市の街路は、整然と碁盤目状であり、城壁の上から見下ろす景観もまた壮大で、しかも、美しい。歩き回ったために、この日の万歩計は13500歩を示していた。

そのほかに、私の印象に残った個所を列挙すると、聖ヨハネ大聖堂の内部の壮麗な装飾、カラバッジョの「聖ヨハネの斬首」、昔の日本と同じ赤いポスト、想像できないほど数の多いバス、などがある。その上、カラバッジョの絵を除いては、写真撮影が許されていたことも嬉しかった。

この港を離れる時、神戸港で行なわれて以来絶えて久しかった「セイル・アウエイ・パーティー」が7デッキで開かれた。それに呼応して、ヴァレッタの展望台には鈴なりの人々が見送ってくれている。まるで、林ができたのかと見間違うほどだ。そして、その展望台の前を飛鳥Uが汽笛を鳴らして通過すると、礼砲が7発発射された。火炎が走り、煙が上がり、轟音が響いた。誰もが興奮し、感激している。

ここまで書いたことでだけでも、このヴァレッタの魅力がお分かりいただけると思うが、私はこのヴァレッタの歴史にも、それに劣らぬ興味を持ってしまった。

聖ヨハネ騎士団は、オスマントルコによってエルサレムを追われ、キプロス島へ移り、そこからロードス島へ逃れて、城壁都市を築いた。しかし、またも追われて流浪の身となり、最後にマルタに定住した。1565年に、ここでもオスマントルコ軍の猛攻撃を受けたが、かろうじて、守り通した。

当時ヨーロッパはオスマントルコに次々と侵食され、オーストリアも風前の灯だったという。この勝利によって聖ヨハネ騎士団の評価は一気に高まり、財産も増えた。そこで、この後に予想されるオスマントルコの再攻撃に備えて、新に作ったのがヴァレッタである。ヴァレッタの名は、先のオスマントルコ軍に勝利した時の、騎士団長の名前から名付けられた。もしも、このとき、オスマントルコに敗れていたら、ヨーロッパの歴史は大きく変わっていただろうといわれているらしい.

聖ヨハネ騎士団は、その後約270年の間、この地を治めてきたが、オスマントルコが衰え、ヨーロッパでは大航海時代に入り、フランス革命が起り、高貴高潔な騎士たちの存在価値がなくなってきた。そうなると、騎士たちは堕落して行った。そして、ナポレオン軍がここを侵攻すると、騎士団はまったく戦うことをせず、イタリアへ逃げ出した。ナポレオンをして、「この国には強固な砦はあるが、それを守る強固な精神はない」と嘆かせたという。

このマルタは、最近もまた、歴史の節目に大きく関わっていたことを知った。1989年12月2〜3日に、ブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長による米ソ首脳会談が開かれ、事実上冷戦が終了することになったが、その会談(マルタ会談)は、この地で行なわれたのだった。この小さな島が、2度に亘って歴史の転換点の場所となったことを知ると、一層このヴァレッタに興味が湧いてくる。

ロードス島は、2001年のエーゲ海クルーズで訪れた地で、思い出すことが多くある。そのロードス島の城砦を作った騎士団が、このヴァレッタの城塞都市を造ったことを知り、感慨深かい。

<コメント>

◆投稿 ヒマジンスキー | 2007年5月 9日 (水) 13時26分
マルタ共和国、ヴァレッタ、聖ヨハネ騎士団、1565年、オスマントルコ、ストロンポリ島と読み進み、ヨーロッパに入ってくると船上における水の消費が減った理由は?というクイズが出てビックリ。飲兵衛の私などは勝手に「ヨーロッパにくると皆さんがワインを飲むようになったのか」などと馬鹿げた考えまでさせられました。何とも発想が貧弱なこと。

読者というのは勝手な人種で、自分勝手なことを考えてしまう。「健脚コース」ならどのくらい歩いたのだろうと想像していた。流石にBOWさん、12,500歩という情報で今回の章を閉じられた。読者の思いを自然に斟酌できるところも文章の達人たる所以かなと感心申し上げた次第。

◆投稿 BOW | 2007年5月12日 (土) 16時42分
ヒマジンスキーさん
毎度うれしいコメントありがとうございます。水の使用量のはなし、ビックリされたでしょう!

いよいよ本格的にヨーロッパに入り、いささか疲れました。記事の掲載はちょっと遅れそうですが、お待ちくださいね!

◆投稿 さくら38 | 2007年5月 9日 (水) 20時11分
いよいよヨーロッパへ!マルタの景色は一度テレビで見た事があるので、なんとなく思い出して。これからの情景は見慣れたようなところが出てくる様で、BOWさんの素晴らしい文章を読みながら旅行できるのでわと・・・。村上先生の事は奈良での講演の事をある人を通じて知っていましたので、飛鳥Uでのお話、そして身近に接触があったり、驚きました。これからはますます忙しくなりますね。

◆投稿 BOW | 2007年5月12日 (土) 16時50分
さくら38 さん、こんにちは!
マルタもご存知でしたか、すごいですね。私はまったくしらなかったところです。

ヨーロッパも、私なりの見方で、書いていくことになります。村上せんせいについては、まだ続きがあります。それもお読みくださいね!

◆投稿 FUJIMOTO | 2007年5月11日 (金) 21時02分
昨日帰国しました。お元気に、また楽しく世界一周を続けておられ何よりです。まだ3分の1程度が終わったばかりです。是非とも体調にはご留意され、引き続きお楽しみください。私も引き続きブログを楽しまさせていただきます。

◆投稿 BOW | 2007年5月12日 (土) 16時53分
FUJIMOTOさん、お疲れ様でした!
オデッサではビックリしました。ものすごく嬉しかったです!楽しい旅を続けられ、思っていた以上にクルーズの良さを知ることができました。ありがとうございました!

<メール>

◆MH | 9 May 2007 15:16:39
*マルタ
ヨハネ騎士団まではかすかに覚えていますが首都が城壁に囲まれた都市とは知りませんでした。この島は海上交通の要衝にあり、第二次大戦の時、ナチスドイツとイギリスの空軍が死闘を演じた場所とも記憶します。出港する飛鳥Uをマルタの人が展望台で手を振って見送る。「帽振れー」ですね。礼砲7発。飛鳥Uも汽笛を鳴らして答礼したと思います。海の挨拶はいいものですね。

グランドハーバー沿いの城壁と展望台(アッパー・バラッカ・ガーデン)

深い濠で囲まれた高い城壁の中にシティーゲートがある

懐かしい赤いポスト、マルタはかって英国の支配下にあった

騎士団長宮殿の廊下 

聖ヨハネ大聖堂内の騎士団の墓碑の一つ

展望台(ローワー・バラッカ・ガーデン)から、遠く飛鳥Uが見える

展望台(アッパー・バラッカ・ガーデン)には7門の大砲

展望台から1発目の礼砲(ビデオ・スナップ)

さようなら、ヴァレッタ


5月6日:村上先生の著書、副機関長招待夕食会

イタリアの長靴のつま先の部分とシチリアの間を通り、飛鳥Uがイタリアの西側を北上していると、左舷側に小さな背の高い島が見えた。山頂は雲に隠れている。このあたりには、このような島がたくさんあるのかと思いながら、魅力があるので、映像に収めておいた。その後キャプテンの船内放送があり、この島はストロンポリ島という標高924mの活火山で、短い周期でマグマを噴き上げるので、夜間でも遠くから見えるため「地中海の灯台」と呼ばれていると知った。船で親しくなった元外国航路の船員で、何度もここを通ったことのある方が、「こんなに近くで、この島を見たことがなかった、キャプテンの配慮だろう」と言われた。

午後から、4日に講演された村上先生の著書を、船の図書室で見つけ、一気に読んでしまった。書かれていることのほとんどが、私がこれまで考え、実行してきたことだったので驚いた。ただ、一つだけ違うのは、「世の中の役に立つため」に行動するという目的が私にはなかったことだ。このように、ほとんど同じ考え方、生き方をしてきたけれど、村上先生と違うのは、大物と小物、大きな成果をあげたか、小さな成果しかあげられなかったかだと思った。

著書名をメモにとっておいたので、ご紹介しておく。村上和雄著:そうだ! 絶対うまくいく! SWITCH ON! your genes 「できる」遺伝子が目ざめる生き方・考え方 海竜社 2006年1月第1刷、2007年2月第7刷。

今夜は3回目のフォーマル・ナイトで、しかも、副機関長からディナーに招待された。副機関長に招待されたのは4組の夫婦で、私たちには、はじめての経験である。会話が弾み、楽しいディナーだった。副機関長はいろいろの質問に答えて下さる。ところが、飛鳥Uで使う水について、逆に副機関長から質問された。「昨年の飛鳥Uで、シンガポールから地中海に入るまでは、水の使用量がどんどん増えて、どうしようかと心配するほどだった。ところが、ヨーロッパに寄港するようになってから、水は逆に余る一方で、その原因が分からない。いろいろ分析検討して、漸くその原因が分かったが、いったいそれは、何故だったと思うか?」

皆はいろいろ答えるが、ほとんどが外れ。正解は「ヨーロッパに入ってから、購入してきた品物の置き場がなくなり、浴槽にそれを置く人が増えたため、室内のバスを使う人が減り、グランド・スパを利用するようになったから」だった。それほど、バスの使用水量は膨大だということだった。

私たち夫婦は前にも書いたように、グランド・スパが大好きで、乗船最初の日を除いて、一度もバスを使っていない。水の使用量節約に協力していることになるが、それをお話すると、飛鳥Uは海水から水を作っているので、心配ご無用とのことだった。

<メール>

◆MH | 9 May 2007 15:16:39
*ストロンポリ火山
この火山を見るだけのために日本から出向く値打ちがあると聞きました。飛鳥Uのツアーはサービス満点ですね。エトナ火山はそう遠くないですね。

*村上和雄先生
遺伝子研究の世界的権威程度の知識しかありません。大兄のメールで面白い人物と判り今晩、著書を探しに行きます。とはいっても田舎の本屋の悲しさ。欲しい本が手に入りにくいです。

*副機関長
我等日本人の風呂好きは客船には頭が痛いでしょう。なにしろ「湯水の如く・・・」ですから。海水から真水を作る装置と言えば逆浸透膜でしょうがゆっくり、じわじわと真水が出来るのでしょう。

ストロンポリ島


5月7日:サン・ジミニャーノ、シエナ

ヴァレッタからリヴォルノへの航路

イタリアの国旗

リヴォルノの衛星写真 直ぐ北にピサ、北東にフィレンツェ、南東にシエナ

イタリアのリボルノ港に、午前7時に寄港した。ほとんどの乗客は、ここからオプショナル・ツアーで、フィレンツェなどトスカーナ地方へ観光に出かける。私たちはフィレンツェへは2回行っているので、サン・ジミニャーノとシエナ1日観光(健脚コース)を選んだ。

ここへは片道約3時間だが、バスの車窓から見る丘陵はどこまでも美しい。狭い範囲なら、これくらい美しい景色はあるだろうが、目的地に着くまでの道中がどこまでもこれほど美しく続くところを知らない。それは、なだらかな緑の丘陵をメインに、淡い緑の木々の集まりがあり、それに黄緑色の集まりも加わり、濃緑の糸杉の集まりがアクセントとなり、それらの調和が素晴しい。これは決して放置された自然が生み出したものではないだろうが、人工美を感じさせることはない。

サン・ジミニャーノもシエナも、中世の都市の美しさ、素晴しさがあった。しかし、それ以上に私はこのトスカーナの美しい丘陵に魅かれた。これまで、私が感動した風景は、すべて映像に収めることができている。それが肉眼で見た以上のものではないとしても、その私の感動のあらましを、その映像でもっていくらかは分かってもらえるだろうと思っている。しかし、この美しい丘陵は、肉眼では存分に楽しんだが、その映像の記録ができなかった。それが、なんとも口惜しい。

ツアーを企画した会社は、1ヶ所だけで良いから、どこか車を停めやすい場所を選び、5分くらいでも良いから、撮影休憩をするスケジュールを考えるべきだと思う。今回の世界1周クルーズで、ほとんどの参加者が映像記録を行なっていた。私よりかなり年配のご婦人が、高級デジタル1眼レフに交換レンズを装着し、連続撮影をしているのに驚いたことが何度かある。それほど映像記録が普及しているのだ。

このサン・ジミニャーノとシエナへのツアーはバス2台で行った。別のバスに乗っているものが、一緒になることはほとんど無かったが、一度その機会があり、その時偶然、村上和雄先生ご夫妻にお会いした。私は、先生の著書を読んだところだったので、著書に書かれていたことと、ほとんど同じ生き方をしてきたが、違うのは、大物と小物、大きな成果と小さな成果だと申上げた。先生はお笑いになりながら、私の名前を尋ねられ、ご自分は奈良のお生まれで、奥様は京都の方だと紹介して下さった。前日たまたま先生の著書を読んでいたので、このようなお話ができたのだった。

帰船してコンピュータ室へ行くと、畏友今中孝信先生からメールが届いていた。彼は、私がブログに書いた村上先生の講演の記事を読まれて、村上先生と昵懇の間柄であることを私に知らせて下さったのだった。それを知った瞬間、何と言う巡りあわせが続くのかと驚嘆してしまった。しかし、このような不思議な出会いとか、運命があることを、私は以前から感じ、信じてきた。現在の科学では説明がつかないが、運とか運命というものは間違いなくあると思ってきた。村上先生の講演でも、著書にも同じことが書かれていたと記憶している。

なお、このツアーが健脚コースであることは間違いなく、どちらの都市も車が入らず、坂あり階段ありで歩行し、万歩計は12500歩だった。

<メール>

◆MH | 9 May 2007 15:16:39
*トスカーナ
是非行きたい場所です。できれば二週間くらい滞在してあちこち見たいものです。なにしろフィレンチェにも行ってないのですから。代わりにキアンティだけは沢山呑んでいます。

サン・ジミニャーノの城壁

サン・ジミニャーノの入口、サン・ジョヴァンニ門

チステルナ広場

サン・ジミニャーノのドゥオモ(参事会教会)

シエナのカンポ広場、扇形をして中心に向けて傾斜している

広場に面する美しいマンジャの塔とプブリコ館

シエナのドゥオモと鐘楼、鐘楼の窓は上に行くほど大きい

出航して行く豪華客船


5月8日:ピサ、リボルノ、アルノ川

5月4日に村上和雄先生のご講演を聴き、6日に先生の著書を読み、7日にツアー先で偶然先生にお会いし、立ち話をしたら、その夜、友人から先生に関するメールをもらうという不思議な連鎖に驚いたことを昨日書いた。この連鎖はまだまだ続き、今朝朝食後、村上先生ご夫妻と中央エレベータ前でまたお会いした。同じ飛鳥Uに乗船しているとはいえ、730名もの乗客が、そのような短期間で続けて出会う確率はきわめて低い。先生に、これまでの経過を申上げると、夕食を5月10日にしないかと言って下さるので、喜んでお受けした。

これまで、イタリアは2回旅行したが、ピサはあまりにも有名なので避けてきた。しかし、今日は午後4時出港なので、リボルノから片道40分の近距離にあるピサへ半日観光をした。ところが、ここでも旅はしてみないと分からないということを改めて知ることになった。

ピサのドゥオモ広場は長方形で、東に大聖堂(ドゥオモ)とそれに附属する鐘楼、その西側に洗礼堂があり、北側には墓所(カンポサント)がある。この4つの建物が4点セットで並んで建っている。大聖堂も洗礼堂も外観内部ともに美しい。洗礼堂の中を眺めている時、突然コーラスが響いてきた。その素晴しい音響にしばし聞き惚れてしまった。私は数人の女性が、祈りの聖歌を歌っていると思ったが、それは間違いで、黒人の案内女性が、ただ一人で祈りを捧げたのだった。白鳥英美子が歌う、アメイジング・グレースの曲が頭に浮かび、強く感動した。そして、音響が宗教の施設にとっていかに大切であるかということを学んだ。

ピサの斜塔は大聖堂に附属する鐘楼で、32億円をかけて修復工事が行なわれたとのことだが、想像していた以上に傾きが大きい。それだけではなく、その他の建物も傾いていて、その傾く方向がそれぞれ違っているというのだから驚いてしまった。ここでは、どれが垂直なのか分からないというのだ。砂上の楼閣とまではいかなくても、その傾向は充分にある。

なぜそうなったかというと、ピサという都市は、もともとアルノ川が運んできた土砂が堆積して作られた土地で、そのために地盤が弱く、沈下し易いからである。アルノ川はイタリアで5番目に長い川で、フィレンツェを通って(有名なベッキオ橋はこの川に架かっている)、最後はピサに流れ込んでいる。この川は、現在も上流から大量の砂を、このピサの地に送り込んでいる。そのため、この川は常に土砂で濁っている。

かっては、この都市も港町として繁栄し、フィレンツェと覇権を争ったが、敗れて傘下に入った。メディチ家はこの港を利用しようとしたが、土砂が溜まり、港として機能しないため、ここを諦め、新たに港として作ったのがリボルノだという。このアルノ川の土砂流入は、今も続き、そのため、リボルノ港もまた砂水色に濁っていて、海水の色からは、これが海とは思えないほどだ。しかし、港としては活況を呈し、客船が5隻停泊していたほか、数え切れないほどの輸出用の自動車が、岸壁を埋め尽くし、コンテナが山積みされている。そして、中国の貨物船が多く目に付く。

午後からリボルノの街の大通り(Via Grande)を散策した。立派な建物が連なる大きな通りだが、シエスタの時間で多くの店は閉まっていた。

マルタの出港では礼砲も轟き、熱烈な見送りを受けたが、ここでは真っ赤なヘリコプターが何度も何度も飛鳥Uの周囲を旋回した。最初は取材撮影かと思ったが、2〜30回、約50分も飛び回るので、これは歓送の儀礼だと思うと、胸に来るものがあった。海水の色は、湾内では砂水色だったが、湾外に出ると緑青色に変わった。

午後6時15分に散髪の予約をとってあったので、12デッキのグランド・スパの反対側にある、資生堂美容室に出かけた。私は散髪が嫌いなので、自発的に散髪に行ったことはほとんどない。乗船前に散髪したままの頭は、かなりむさくるしく見えるらしく、今回も妻に半強制的に行かされたのだった。本当は5月6日に予約していたが、例の副機関長の招待夕食会が舞い込んできたのでキャンセルした。すると、次の予約は5月16日以降だと言う。それでは困ると妻が交渉をして、顔剃りなし、美容師にしてもらうという条件で、本日の予約がとれた次第である。

顔剃りがなくても一向に構わないが、美容室で美容師さんに散髪してもらうのは、ちょっと恥ずかしい。待合室に腰掛けていると、ご婦人が出てくるのが分かる。顔を見られたくないので、うつむいてやり過ごした。呼ばれて部屋に入ると、理容店とは様子がかなり違う。散髪を始める前に、「きれいな白髪ですね」と言ってくれた。可愛い美容師にそう言われると嬉しい。髪をカットする音も、洗髪の仕方も新鮮に思える。散髪が終わって、髪を整えるところで、また「きれいな白髪ですね」と言ってくれた。理容店でそんなことを言われたのは、これまで一度もない。もう嬉しくなって、また、この美容師さんに散髪してもらいたいと、半ば本気で思うほどだった。理容師が乗船するのは今年からで、それまでは男の散髪も美容師がしていたという。髭の薄い私なら、美容師に散髪してもらう方が良いかもしれないと思った。

<メール>

◆MH | 16 May 2007 22:31:44
地中海の旅もたけなわ。大兄と一緒に船に乗っている気分です。村上先生を送った後も旅は続きます。 *ピサ
一体に有名な所は、いつでも行けると若い頃にすっ飛ばした挙句が年を取っても全く行けていません。その一つがピサです。洗礼堂のコーラスは魂を洗われるような音だったでしょうね。ここで白鳥英美子を思い出すところが同年代の素晴らしさ。トゥワエモア時代からの彼女の声には更に磨きがかかり、中でもAmazing Graceは絶品です。私は River to Ocean も好きです。吉祥寺で彼女のCDを買い握手会に応募したら当たりましてね。喜んでいたら当日風邪を引いてオジャン。残念。

*美容室
美容室で髪を切ってもらうのも飛鳥Uなればこそ。娑婆ではとても無理な話です。おまけに髪を褒めてもらって、これはもうこたえられません。小生も散髪屋など止めて美容室に行きたい。どう褒めてくれますか。綺麗なゴマ塩頭ですね!などなど。

*リボルノ
土砂混じりの水はリボルノに続いていますか。茶色の水に中国船。一体に共産圏の船は汚いです。ペンキをけちって錆が浮いています。日本人の最大の美徳は綺麗好きです。あるときからNYの大家が 競って日本人に家を貸すようになりました。支綺麗好きに加えて火の用心がしっかりしていて家賃は間違いなく払う、こんないい借家人はいませんものね。

ピサの洗礼堂、ドゥオモ、鐘楼(斜塔)

ピサの洗礼堂

ドゥオモ、正面から

ドゥオモ内部

斜塔とドゥオモ

カポサント(墓地)

2〜30回、約50分ほど見送りを続けてくれたヘリコプター


5月9日:エックス・アン・プロバンス、マルセイユ

リヴォルノからマルセイユまでの航路

フランス国旗

イタリアのリボルノ港を出て、翌朝午前7時にフランスのマルセイユ港に着岸した。この港は広大で、海水の色は濃いブルー、そして澄み切っている。停泊している飛鳥Uの船上から見える景色は360度美しい。この港には、飛鳥Uクラスか、それ以上の客船が5隻入港していた。

まず、エックス・アン・プロバンス半日観光(午前)というツアーに参加した。エックス・アン・プロバンスに来るまでの景色は、トスカーナ地方と違って、こじんまりして暖かく、牧歌的な美しさがある。また、旧市街の街路は、プラタナスの広い並木道が続き、たくさんの噴水があり、とても美しい。途中、野外の野菜市場を通ると、カラフルな野菜や果物が山積みされていて、楽しくなってしまった。

ある建物の頂の部分に、男性と女性の裸像の彫刻があり、男性はローヌ川を、女性はデュランス川を表しているとガイドから説明を受けた。デュランス川はよく氾濫するので、女性の片足が、建物の外に突き出ているという。すぐ、「デュランス川の流れのように、小鹿のようなその脚で、、、」という「河は呼んでいる」の主題歌が頭に浮かび、鼻歌に出た。あの映画の主人公パスカル・オードレは、私の青春時代の憧れだった。

セザンヌの葬式が行なわれたサン・ソーヴール寺院の正面に、モダンな聖人の像が彫りこまれていたので、写真に収めた。サグラダ・ファミリアの側面にあるモダンな彫刻に通じるものがあり、私はこのような彫刻が好きだ。寺院の中に入るとパイプオルガンの演奏が響いてきた。アルカデルトのアベ・マリアのようだった。荘厳で心にしみる思いがする。ガイドさんによると、たまたま、パイプオルガンの練習に来ているのだろうという。

次は、セザンヌのアトリエを訪れた。アトリエは2階にあり、38名が一度に上がると、床が抜ける可能性があるというので、半分づつに分かれて見学した。アトリエは思いのほか質素で、当時世間では評価されていなかった状況を示しているようだった。その後、セザンヌが愛し続け、描き続けてきた、サント・ヴィクトワール山が良く見える高台に登った。ここでは10名近い日曜画家が、この山を描いていた。このような場面に遭遇するのも珍しい。パイプオルガンと合わせて、2つ良いことがあったととガイドは言った。どうやら私たちはついているようだ(笑)。

マルセイユはフランス第2の都市であるが、第1の都市パリとは仲が悪いとガイドは言う。しかし、フランスの国歌ラ・マルセイエーズは、マルセイユ住民を意味するマルセイエーズに、定冠詞ラが付いたものだろう。どうして仲の悪い住人の歌を、国歌にしたのか不思議に思った。

それについて、ガイドの説明はこうだった。フランス革命のおりに、マルセイユからも義勇兵がパリに向けて出征して行った。その時の壮行会で、出征兵士たちは「ライン方面軍の歌」を歌った。パリへ行く道中でも度々壮行会が開かれる。その度に、この歌を歌っていると、兵士達はこの歌を歌うのが上手くなり、パリに着いた時には、彼らはこの歌とともに、民衆から熱烈歓迎されたらしい。そういうことから、フランス国歌に制定されたということだ。出征兵士壮行の軍歌だから、このように勇ましいのだろうう。

1989年7月14日に、フランス革命200年祭を記念して、NHKは巴里祭の実況生中継を行なった。その時、フランスを代表して、ミレイユ・マチューがこのラ・マルセイエーズを、格調高く堂々と歌った。この時から私は彼女の熱烈なファンになった。だから、この歌は私にとって格別の意味を持っている。

午後は、シャトルバスでマルセイユの旧港近くに出た。旧港は数え切れないほど多くの豪華なヨットが折り重なるように停泊し、見事な光景を作り出している。そして、そのヨットハーバーの向かいの、小高い山の頂上に寺院が見える。その姿はモン・サン・ミッシェルにどこか似ている。寺院の名はノートル・ダム・ド・ラ・ガルド寺院。

そこまで登れるかと尋ねたら、無理だと言われ、チューチュートレインで運んでもらった。往復わずか5ユーロで安い。この寺院も内外ともに立派だったが、もっと素晴しかったのは、ここから眺める景色だった。船から見る360度よりも、はるかに美しく壮大である。海、山、空、市街が360度、どの方向から見ても美しい場所を私は今まで見たことがない。風は猛烈で、何度か吹き飛ばされそうになった。

マルセイユ港を午後9時に出航したが、こんどは何のセレモニーもなかった。港を出る少し前に、パイロット・ボートが飛鳥Uの左舷に接近し、下船してきたパイロットを載せ、港へ向かって走り去った。その一部始終を観察することができた。午後9時というのに、夕陽を浴びたマルセイユの街は美しく輝いて見えた。

明日、村上和雄先生ご夫妻と夕食をご一緒することになったので、図書室からもう1冊著書を借り出した。村上和雄著:遺伝子オンで生きる こころの持ち方であなたのDNAは変わる!サンマーク出版 2004年9月25日初版、2005年11月第2刷である。この著書から、先生は私と同じ1936年生まれであることを知り、急に雲の上の人が身近に感じられるようになった。また、先生は大学紛争に巻き込まれ、それがきっかけとなって、京都大学を辞め、アメリカの大学へ移られたことを知った。私も大学紛争がきっかけで大学を辞め、開業医となったのだった。そのようなことから、明日の夜の会食が楽しみとなった。

<コメント>

◆投稿 Ikeda | 2007年5月15日 (火) 12時52分
クルーズをお楽しみのようで何よりです。あまり世界一周クルーズについて関心はなかったのですが、これほど沿岸沿いに航行し、これほど多くの所に寄航するとは思っていませんでした。特に地中海では、すべての観光地に立ち寄ったら、確かに疲れてしまうと思いました。

これからボルドーへ行かれるのだと思いますが、どうぞワインでも楽しんでください。その後、オンフルールに寄航するようですが、私は昨年、ここと対岸のルアーブルへ陸路で廻りました。ルアーブルは「商船テナシチー」や「霧の波止場」その他古いフランス映画に、良く出てくるので、期待していましたが、戦後、完全に近代化されてしまっていたのは残念でした。それに比べればオンフルールの方が港町の雰囲気が残っていると思いました。

映画と言えば、すこし前になりますけれども、ストロンボリの近くを通ったのは良かったですね。ただし「オデッサの階段」が紹介されているのに、こちらでは映画の事に言及されていないのが、少し意外でした。エイゼンシュテインに比べれば、バーグマンやロッセリーニの方が知られていると思ったからです。

いずれにしてもビデオカメラを持っての観光は大変だと思いますので、疲労が貯まらないように、お元気でお楽しみください。

◆投稿 BOW | 2007年5月16日 (水) 02時36分
ikeda様、コメントありがとうございました。

クルーズでは、もっと自分の時間がとれるだとうと思っていたのが間違いでした。食べたと思ったら、すぐまた食事で、食べてばかりいるような気がします。

一昨日はオポルトのポートワインのワイナリーを、今日はサンテミリオンのワイナリーを見学して、どちらでも試飲をしてきました。見学とは名ばかりで、樽をみて、通訳付きの長い説明をウンザリしながら聞くだけ。もうこれからは、ワイナリー見学などしないと決めました(笑)。

昨年オンフルールとルアーブルに行かれたとのこと、知らなかったのでビックリしました。オンフルールも普通の地図に載っていなくて、探すのに苦労しました。ほんとに、何にも分かってないのです。そのかわり、予期していなかった発見があり、それを楽しんでいます。

「ストロンボリ」聞いた名前だと思いながら、分からなかったのですが、DVDライブラリーに載せていました。集めるだけで、見ていなくて(大部分がそうですが)、そうだったのかと思いました。教えていただいて、ありがとうございました。

◆投稿 ヒマジンスキー | 2007年5月16日 (水) 15時36分
さきほど読んだ横浜市営地下鉄内での電光ニュースによると、中国を観光旅行中の日本人の団体が乗ったバスが自家用車と正面衝突し中国人のバスガイドが死亡、十数名の日本人がケガをしたとのことでした。

「セザンヌのアトリエは2階にあり、38名が一度に上がると床が抜ける可能性があるとのことで半分づつに」というお話で『立派なツアーは危険を予知できるのだなあ』との感を深めました。

国の人口と外国からのビジター数の比較にはドキッとしました。スペインと日本、凄い違いですね。 BOWさんの書き物はしばらくお休みかと残念に思っていましたが、念のために開いたら長文をものしておられ、健在なること確認して嬉しく存じました。続編をお待ちします。

◆投稿 BOW | 2007年5月17日 (木) 03時13分
ヒマジンスキーさん、コメントありがとうございます。

今回は忙しい日が続いたので5日分まとめて書きました。明日から、パリ、アントワープ、ブリュッセル、ロンドンと休むひまなく、一日おいて湖水地方、ついでアイルランドです。そのあとはNYまで海上。

とにかく、明日からが最高に忙しいと思うので、しばらく書けないかも分かりませんが、まとめて書くつもりです。ご愛読お願いしますね(笑)

<メール>

◆MH | 16 May 2007 22:31:44
*海の色
リボルノの沖合いの緑青色はマルセイユでは濃いブルーだとか。これぞ地中海の色。所謂 Mediterranean Blue です。昔ナポリからカプリに行く海の色がこれでした。

*ヂュランス川
パスカル・オードレー、(歌は中原美沙緒とインターネットで出ました)我等の青春の日々です。あの頃は矢鱈に腹が減って、何故か眠かった。

*ラ・マルセイエーズ
歌詞の柄の悪さには閉口します。フランス人でも何とかならんかと言う人が増えたとか。パリ祭の日。この日に殺された貴族の末裔は門を閉じてひっそりと先祖を偲ぶのだそうです。表では踊り狂う群衆。肉を食う人種はやりますなあ。

プラタナスの並木が続くエックス・アン・プロバンスのミラボー大通り

セザンヌのアトリエの入口

セザンヌがくり返し描いたサント・ヴィクトワール山

マルセイユの旧港から見えるノートル・ダム・ド・ラ・ガルド寺院

寺院からは、マルセイユの360度のパノラマが見える、旧港


5月10日:ミロ美術館、ピカソ美術館、村上先生と会食

マルセイユからバルセロナまでの航路

スペイン国旗

バルセロナ港へ午前8時に入港した。視界全体がもやのかかった状態で、これは1日中続いた。12年前の夏に来た時のギラギラした強烈な光景は見られない。本日のバルセロナ港は、クイーン・メリー2世号15万トンのほか、飛鳥Uクラス以上の客船が全部で10隻入港している。これは、バルセロナ開港以来のことだと、キャプテンの船内放送があった。この乗客1万人以上が、一度にバルセロナ観光にくりだすのだから、バスの数が足りず、近隣から助けを求めているという。

バルセロナはスペイン第2の都市で、スペインの100万人都市はマドリードとここだけである。EU加盟で援助金をもらい、インフラの充実に努めた結果、著しい発展を遂げたという。12年前に来た時と比べ、車の数が非常に増えたことが分かる。どれも新しい。

ここでは、数年来住宅建築ブームで、新築マンションがどんどん作られ、バブル状態ではあるが、まだ破れるところまでは行っていないという。90平米の集合住宅が、1億円もするようになったというから、日本の都会以上の高値である。だから、これまで40年ローンだったのが、今年から50年ローンが誕生した。もちろん、これは親子2世代で払っていくことになるそうだ。スペインでは1戸建て住宅は求められず、集合住宅を購入する。それは、バカンスなど家を空ければ、家の中のもの全てを盗まれてしまうからだという。

そう言われて思い出すことがある。以前スペインに来た時、門扉や格子が頑丈で、それを乗り越えようとすれば、必ず負傷するような、天に突き出た鋭利な槍を思わせる防衛柵を持つ家を幾つも見てきた。同じラテン系国のイタリアでは見られないものだった。これは、それほどにしておかないと、家財道具一式を簡単に盗まれてしまうからだということが、今回の話で良く分かった。この国では、屋外に放置された自動販売機はない。そのようなものは瞬く間に運び去られてしまうのだと言う。

このようなことを書いたが、私の一番好きな国はスペインである。スペインの人口は4400万人で、昨年この国を訪れた外国人は5800万人だという。日本はというと、外国人はわずか700万人しか訪れていないとのことだ。やはりこの国には、それだけの魅力があるということだろう。

ここでの午前は、「バルセロナ半日車窓観光」を選んだ。午後にミロ美術館とピカソ美術館に行くことが最優先のため、午前は車窓からバルセロナの街の変貌を見るだけで良しとしたわけである。ミラ邸、パトリョ邸は変わりがなかったが、サグラダ・ファミリア教会はかなり変わっていた。ただ、私はガウディの作品があまり好きではない。そして、サグラダ・ファミリア教会の西側面受難のファサードにある、フランス人が作った、最後の晩餐に連なるモダンな彫像を好む。これはガウディーの建築物にもっともふさわしくない作品と受け止められるかもしれないが、これがあるから、サグラダ・ファミリア教会は救われていると私は思う。

モンジュイックの丘も、道路が広くなり整備されているように思えた。ここから、10隻の大型客船の並ぶ姿を見ることができるだろうと期待したら、その場所は工事中で立入禁止だった。バルセロナの市街の方も、かすみがかかって明瞭ではない。こういうわけで、本日の午前の部は、予想をやや下回る結果で終わった。

午後からはミロ美術館とピカソ美術館へ出かけた。前回のスペイン旅行で、ミロ美術館を訪れたところ、あいにく休館で悔しい思いをしたが、今回は充分に鑑賞することができた。また、室外のオブジェは、写真やビデオ撮影が可能だったので、その点でも満足できた。

次のピカソ美術館では、ピカソの天才を示す絵を多く見た。その中では、これまで医学関係の絵画によく紹介されてきた「科学と慈悲」が印象に残っている。ピカソ16歳のこの作品や、「画家の母、マリア・ピカソ・ロペスの肖像」という15歳で書いた作品を見ると、美術学校の絵の教師だった父親が、息子に教えることが何もないことを悟り、絵筆を捨てた気持がよく分かる。

スペインが生んだ二人の偉大な画家は、まったく対照的で、デッサン下手のミロとデッサンの天才であるピカソ、変化の少ないミロと絶えず改革を続けるピカソ、鈍才と天才、非常に面白い。私はミロの絵が好きで、ピカソを尊敬している。

ミロ美術館で、自分はミロの絵が一番好きだが、その次は誰だろうという疑問が浮かんだ。モローだろうか、ボナールだろうか、などと考えていて、それはルオーだと思った。そうすると、二人に共通点があるだろうかと二人の絵を思い浮かべ、それは黒の線だと気がついた。ミロは細い繊細な線で、ルオーは太く大胆な線であるが、どちらも、黒い線が効果的に使われている。もう一つの共通点は、どちらの絵にも、こどものような稚拙さがある。私は精密精巧な物が好きであるにも関わらず、絵画に関しては、稚拙に見えるものが好きだという矛盾したところがある。

ピカソ美術館では、ピカソが作った数点の皿を見て、素晴しいと思った。もし、ピカソの絵とこの皿のどちらかを選べと言われれば、私は間違いなく皿を選ぶだろう、などと考えて楽しんでいた。

船に戻ると「エル・パティオ・アンダルース」フラメンコショーが催され、これを見終えてから、村上和雄先生ご夫妻と一緒に夕食を頂いた。ビールを飲み、笑いの絶えない夕食だった。その中で、運とか運命を信じること、サムシング・グレートと先生が表現される創造主の存在、そして、生きていることの素晴しさなどを話された。私もまた同じようなことを思って来たと申上げた。

飛鳥Uがバルセロナ港を出港したのは24時で、その時はもう疲れて眠ってしまっていた。

<メール>

◆MH | 16 May 2007 22:31:44
*バルセロナ
飛鳥Uクラスが10隻も集まり、最大はクイン・メリー2号の15万トン。観光客が合計で一万人は流石の観光慣れしたバルセロナが慌てたでしょうね。

着岸中のクイーン・メリー2世号

ミラ邸

サグラダ・ファミリア教会の4本の鐘楼

ミロ美術館室前景

ミロ美術館室外で


5月11日:日の出、村上和雄先生講演、祝誕生夕食会

目を覚ますと、カーテンの隙間から昇り始めている朝日が見えた。急いで飛び起き、デジカメとビデオカメラを手に、バルコニーへ出た。太陽は水平線の彼方に20%ばかり頭をのぞかせたばかり。雲もなく絶好の撮影条件である。夢中になって地中海の日の出の映像を収めた。クルーズで夕陽は2度ばかり撮影できたが、朝日は今回が初めてなので嬉しい。

今日の村上和雄先生の講演のタイトルは「生きている。それだけで素晴しい。〜サムシング・グレートの働き」だった。世界の富を全部集めても、世界の学者を全部集めても、木の葉1枚、大腸菌1匹すら創れない。生きているだけでもまさに奇跡なのですと話される。私は昨夜お話を聴いているので分かりやすかった。

生物が持つすべての染色体の1セットをゲノムというが、人ゲノムには32億の科学の文字が書き込まれている。最近の遺伝子科学の進歩は著しく、それらの多くが読み出せるようになって来ている。しかし、この文字を解読できることよりも、その文字を書きこむことの方が、比較にならぬほど難しい。それを書いたものが存在する。それを神と呼んでも良いが、宗教を越え、外国人にも理解できるようにと配慮して、先生はサムシング・グレート(Something Great)と表現されているとのことだ。今回が村上先生の最後の講演で、ハリウッド・シアターは補助椅子が出る盛況だった。

今夜はIさんの奥様の喜寿を祝う誕生会に招待された。6組の夫婦が一つのテーブルを囲むのは難しいので、男女別々に円卓を取り囲んだ。今夜はロイヤルパークホテル「桂花苑」からのゲストシェフ、有本大作氏による中華料理で、フカヒレの姿煮もある超豪華メニューなので驚いた。もう一つ驚いたことがある。男6名のうち4名がアルコール駄目だった。飲めるのはM氏と私だけ。ということは、大きな声を出しているのも二人だけということになってしまった。

ここで、また驚くことが出てきた。Iさんの招待を受けてご一緒したT氏が、枚方で開業されているT先生のお父様であることが分かったのだ。クルーズは出会いの旅というが、まさにその通りのことが続く。

地中海の日の出


5月12日:カイル・イーストウッド ライブ

ユーラシア大陸とアフリカ大陸の間にあるジブラルタル海峡を通過している時間が、午前4時頃のため、眺めることができなかったのが残念である。

今夜は、カイル・イーストウッド ライブコンサート(Live Concert by Mr.Kyle Eastwood)が催された。カイル・イーストウッドのベースも良かったが、ペットがダントツにうまく、テナーサックスとのデュエットは圧巻だった。これまでの飛鳥Uのコンサートの中で最高と思う。カイル・イーストウッドはクリント・イーストウッドの息子で、父からギターの手ほどきを受けたそうだ。やはり、才能は遺伝するのか、遺伝子オンにする生き方ができるのだろうと思った。

今度は、イタリア、フランス、スペインを連続で回り、興奮のし通しで、クルーズで一番充実した、それだけに忙しく疲れた期間だった。これで地中海シリーズは終了し、明日から大西洋シリーズが始まる。そのトップがポルトガルのオポルトだ。村上和雄先生はここで下船されることになっている。

<メール>

◆MH | 16 May 2007 22:31:44
*ジブラルタル
先の大戦中、潮の流れに乗ってナチの潜水艦が地中海に出入りした所ですね。アフリカは目の前ですか。イギリスは未だここを領有しているのでしょうね。


<2007.8.10.>

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