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目次
改訂版の説明
あらまし
8色画像
16色画像
フルカラー画像
CG展出品画像
フレームからノーフレームへ
Windows95機が登場するまでは、日本のパソコンの大半をNECのPC9801機が占め、国民機と呼ばれていた。2002年に、私が経験したPC9801機時代の画像を「98画像の変遷」のタイトルでまとめて掲載した。 これを、当時注目されはじめていたフレームスタイルでまとめたが、あとで読んでみると、読みにくく、分かり辛い。
そこで、今回これをフレームスタイルから、通常のノーフレームに改訂することにした。構成を調べてみると、18個のHTMLファイルで成り立っている。これを1本化するのはかなり面倒な作業だったが、結果は予想したよりも良く、PC98時代に熱中した対象の記録ができたと思う。
そこで、旧フレーム版を削除し、このノーフレーム版を新しくUPする。画像は旧版のままだが、小さなサムネイル画像から選択して大きい画像を表示する方法は止め、すべての画像を直接大きいサイズで表示した。説明文の内容は旧版のままだが、配置と文体を変えた。
PC9801というDOSマシーンがパソコンの代名詞だった1986年から1991年頃までの画像を「98画像」という名前でまとめ、時系列で並べた。当時作った代表的な作品の中から、Windowsに復活できた189個の画像を眺めながら、技術の驚くべき進歩とともに、画像に夢中になっていた当時を思い出している。
1986年8月に、民生用スキャナ第1号の「GT-3000」が発売され、これを使用して、約300枚の医用画像を作成した。これらは主に診療中の患者さんへの説明に使ったほか、講演などでは、これをスライドにして活用した。その当時の状況は「医用画像独習記」に詳述している。
今、これらを眺めると稚拙な画像と感じるが、当時の医療関係の世界では、このようなものでさえ、誰も作っていなかった。
8色画像のファイル形式はいろいろあったが、最後は「GRAファイル」に落ち着いた。今回、Windowsで画像を表示できるようにGRAファイルをJPGファイルに変換した。
1988年11月にパソコン通信を始め、Nifty Serve のFQLDという画像関係のフォーラムで16色画像を学んだ。この頃「16色ボード」が発売され、これをPC9801機に装着すると16色表示が可能になった。その結果、16色は8色とくらべて格段に細かい表現ができることに驚いた。この頃 Mac は未だ9インチのモノクロモニターだった。その頃の状況は「実用画像通信」に詳述している。
16色については、スキャナの取り込みソフトのほか、関連ソフトはすべてフリーウエアのものしかなく、その大部分が、FQLDのシスオペ「魔女」さんとそのグループの作品だった。その代表的ファイル形式である「Q4ファイル」を、今回、Windowsで画像表示できるようにJPGファイルに変換した。
このほかに「WCGIファイル」という佐渡の WAI-WAI NET で作られた独創的な画像形式があり、画像ローダーを内蔵しているので、98ユーザーであれば、画像の知識が全くなくても、ファイル名を入力するだけで瞬時に画像を表示できた。
私はこれが気に入り、16色画像の大半をこの形式に変換していたが、Windows上でこれを直接JPEGに変換する方法がなく、DOSマシーンを廃棄処分してしまった現在、WCGIファイルの画像の復活はできなかった。
1989年に「Hyper Flame Plus」 というフレームバッファー(ビデオ用メモリー)が発売され、PC9801にこれを装着すると、フルカラー画像を表示できるようになった。緞帳が降りてくるように、数秒をかけてゆっくりモニターにフルカラー画像が表示されるのを見ながら、このようなことがパソコンで可能になったことに感激し、その先端にいることを喜んだ。
Mac も1987年に Machintosh II が米国で発売され、1989年頃から日本でも普及し始めた。新しい Mac はこれまでの白黒2色から256色、フルカラーに飛躍し、優れた多くの周辺機器やソフトを持ち、一気にPC9801を追い越した。
私はフルカラー画像について、Niftyの FPICS という画像関連のフォーラムで学んだ。フルカラー画像で使うソフトは、FPICSのシスオペの「マジック」さんとそのグループの作品がほとんどで、全面的にDOSマシーンからWindows機に移行するまで、これらのソフトを使ってきた。いずれも無料で使用できる公開ソフトで、当時は PDS(Public Domain Soft)と呼ばれ、現在は「フリーウエア」と言い換えられている種類のものだ。
16色でもそうだったが、フルカラーのスキャナ取り込みソフトもPDSしかなく、一般が使える最先端の技術はパソコン通信でしか得られなかった。この状況は、1996年7月に堺市で起きたO-157事件の際に、知りたい医療情報が、本や雑誌、パソコン通信からではなく、インターネットでしか得られなかったこととよく似ている。
DOSのフルカラーの「ベタファイル」形式であるFALファイルを、Windowsのベタファイルの形式であるBMPファイルに変換した。それをJPEG形式に圧縮したファイルで表示する。
1989年末に高岳製作所から「Image Engine」という圧縮ボードが発売され、90年早々にこれを購入した。これによってフルカラー画像のサイズが20分の1から30分の1に圧縮可能になった。もう革命的だと思った。このファイルは拡張子が.npg で、「NPGファイル」と呼んだ。未だ世の中にはJPEGが無く、フルカラー画像はすべてNPG画像にして患者さんの説明などに使い、Niftyへもこの形式でUPしている。
Macユーザーが余りにMacの画像関係の優秀性を誇示するので、ついこの間までは白黒しか扱えなかったくせに何だと言う気持もあって、「BOWの98画像初心者用講座」を発表した。PC9801は圧縮画像も使うことができるのだと、8色画像からフルカラー画像までのPC98画像をまとめたものだ。しかし、画像面でのMacとPC98との差は歴然としてきていて、Macへの転向を本気で考え始めていた。
1991年に入ると、「JPEG」というフルカラー画像のための統一された圧縮方式が、通信の世界でも話題になり始めたが、それに対応するソフトは我が国にはなく、米国の「Image Alchemy」だけが知られていた。そこで、これを購入するために、はじめてVISAカードを作り、当時パソコン通信の最大手だった米国のCompu Serveに接続し、このソフトを購入した。1991年6月のことである。
「JPEG」画像は圧縮率や画質では「NPG」画像と変わりはなかったが、世界統一方式であることから、互換性に問題のないことが最大の長所で、NPG画像からJPEG画像に全部切り替えて行った。
1991年10月になると、カノープスから「Super CVI」というビデオキャプチャもできるJPEG圧縮ボードが発売され、これを使ってビデオ画面からの画像を取り込み、JPEG画像で保存することも始めた。
「98画像の変遷」を今回まとめてみて、1986年から1991年までの6年間は、「GT3000」「16色ボード」「Hyper Flame Plus」「Image Engine」「Image Alchemy」「Super CVI」という画像の分野での最先端のハードやソフトをいち早く取り込み使い込んだ期間、私が一番画像に熱中していた時代だったのだと改めて思う。
神戸にあるTWIN-NETというCG専門のパソコン通信局に入会し、このネットが主催する第1回CG作品展に4点出品した。89年9月22日から30日までの間、神戸異人館「ラインの館」を借り切り展示し、折から、CGがブームになりかけていたせいか訪問者が多く、会員一同大満足だった。
これに気を良くして、第2回CG展を90年2月18〜23日まで、大阪市北区西天満のギャラリー「クォーレ」で開き、私は1点のみ出品した。その後この通信局を離れたが、ここでCGのプロから大学生までの広い範囲の人たちと交流できた1年ばかりの経験は私にとって貴重である。
章内目次
●血圧 ●動脈硬化
●心電図 ●心臓病 ●狭心症心筋梗塞 ●口腔内の病気 ●腹部の解剖
●胃十二指腸潰瘍 ●肝臓病 ●糖尿病 ●顔面 目耳鼻 ●皮膚病など ●アレルギー病
PC9801F2の発売されたのが1983年10月、アップルはその年にLISAというパソコンを発売した。これはマスコミや専門家に高く評価されたが、値段が高くて売れ行きが悪く、代わりに翌84年1月に登場したのが Machintosh(MAC)である。私がパソコンを始めた85年には、Machintosh 512が発売されたが、モノクロ2色画像しか表示できず、それに対してPC9801は8色表示が可能だった。
1986年8月に民生用の最初のスキャナである「GT3000」がエプソンから発売されるまでは、画像作成は「お絵かきソフト」で手書きするより方法がなく、このスキャナーの発売は画像の世界にとって革命的だった。私は発売の情報を得ると同時に予約し、真っ先に購入した。
これを使って作った画像を見て、これまで積極的に画像に取り組んで来られた大阪府医師会マイコンクラブのある先生は「竹槍とじゅうたん爆撃の違い」と感嘆されたのを思い出す。
しかし、このスキャナに付属したソフトは単純この上なしの粗末な物で、ファイルも「GTI」という非圧縮のベタファイルだった。そこから「IMG」という圧縮ファイルを見つけ、自分で医用画像を300枚以上作り、同時にこれを作成するシステム「画像システムディスク」を考案し、1988年6月30日に医用CGシステムの構築作業を終了した。
この日はパソコン購入3周年、CG開始2周年目に当った。この日に間に合わせようと、がむしゃらに突進したのを覚えている。この独学で画像を学んだ状況は「医用画像独習記」に詳述している。
その「医用CGライブラリー」のいくつかを、次に紹介する。PC9801で作った画像の60%以上を復元できたことは、半ば諦めかけていたものなので懐かしく、SPレコードで楽しんだ曲をCD化できた喜びに近い気持だ。作成から15年以上が経過したこれらの画像を今見ると、たしかに稚拙だが、当時このようなCGライブラリーを作っていた医師はなく、医療関係の業者が作った画像はもっとお粗末だった。
病気のテーマをしぼって職員や患者さんと一緒に勉強をする「土曜勉強会」行っていた時期がある。野村医院の診察室で、パンフレットやビデオ、パソコンをフルに活用した。15インチと21インチのモニターを2台並べ、同時にパソコンの画面やビデオ画面を表示したが、10名程度の勉強会に適していた。
87年6月27日に行った第1回土曜勉強会のテーマは「高血圧の食事療法」で、その時に作ったCGがこの「血圧」と次の「動脈硬化」である。これらは、その後も患者さんへの説明とか、講演会のスライド作りに使ってきた。
これも前の「血圧」と同じように、第1回土曜勉強会のために作成したもので、その後も、診察中の説明や講演会のスライド作りに使ってきた。
「成人の心臓病」というテーマで、87年8月29日に第2回土曜勉強会を行い、また、同じテーマで87年10月14日に市民健康講座で講演をした。その時のために作ったのが、この「心電図」と次の「心臓病」、「狭心症と心筋梗塞」である。かって心臓外科を専攻し、現在循環器科を標榜しているのだから、最先端の心臓病の知識を分かりやすく画像で説明しようと苦心した。
「成人の心臓病」というテーマで、87年8月29日に第2回土曜勉強会を行い、また、同じテーマで87年10月14日に市民健康講座で講演をした。その時のために作ったのが、この「心臓病」、次の「狭心症と心筋梗塞」、前の「心電図」である。その後も診療中の説明に使った。
「成人の心臓病」というテーマで、87年8月29日に第2回土曜勉強会を行い、また、同じテーマで87年10月14日に市民健康講座で講演をした。その時のために作ったのが、この「狭心症・心筋梗塞」、前の「心臓病」、「心電図」である。その後も診療中の説明に使った。
88年2月27日に行った第5回土曜勉強会のテーマは「かぜとかぜに似た病気」だった。そのために作ったCGの一部である。呼吸器の病気のCGも作ったが、残念ながら消失させてしまったようだ。
これは87年12月19日に行った第4回土曜勉強会「胃十二指腸潰瘍」のため、次の「胃十二指腸潰瘍」とともに作ったCGで、その後も診察時の説明によく使った。
これも87年12月19日に行った第4回土曜勉強会「胃十二指腸潰瘍」のために、前の「腹部の解剖」と一緒に作ったCGで、その後も診察時の説明によく使った。
この肝臓病のCGは土曜勉強会のためではなく、診察時の患者さんへの説明用に作った。この中の「肝硬変(腹水貯留)と(食道静脈瘤)」は訴える効果が強く、デモ用に良く使った。(腹水貯留)の写真はフルカラーで作り直して加工し、TWIN-NET の第1回CG作品展にも出品した。
87年10月31日の土曜勉強会のテーマは「糖尿病」だった。これはそのために作ったCGで、ほかに BASIC で標準体重、肥満度、必要カロリーを算出するプログラムを作った。また、表計算ソフトを使って摂取食事のカロリー計算をするフォームも作成し、毎日の食事を記入してもらってカロリー計算を行った。その後も診療中の説明に活用した。
この顔の周りの病気のCGは診療の説明用に作った。どれも画像を示して説明するとよく納得していただけ、不安も解消されるようだった。
これも診察の説明用に作ったもので、外科的疾患の画像8枚が消失しているため、痛風をこちらに掲載した。メラノームはCG展出品の素材の一つ。
88年4月23日の野村医院第6回土曜勉強会のテーマ「アレルギー(花粉症と喘息を中心に)」で使用するために作ったCG。
1988年11月から、高橋 徳先生に勧められて NIFTY Serve に入会し、本格的にパソコン通信を始めた。その頃「16色ボード」が発売され、これをPCに装着すると16色画像を表示できるようになった。しかし、これに対応するソフトをメーカーは提供できず、使えるソフトはPC-VANのQLD-SIGという画像関係のフォーラムのシスオペ「魔女」さんとそのグループの人たちが作ったソフトが大部分だった。その一つである「Q4ファイル」は16色画像の標準となった。
もう一つの16色を扱うグループとして佐渡のWAI-WAI NET があり、ここで「WCGIファイル」という独創的な画像ファイルが作られていた。これは画像ローダーを内蔵し、PC9801であれば、ファイル名を開くだけで瞬時に画像を表示できる優れものだった。
私はこれが気に入り、医師会のマイコンクラブや Nifty Serve などでこのソフトの使い方などを解説したりして、積極的PRを行った。大阪府医師会マイコンクラブの星 喬先生は、これを使って毎週、大阪府下の感染症情報をグラフ表示でマイコンクラブのBBSに投稿を続けて下さり、ずい分診療に役立った。
私の16色画像の大半はこの形式に変換していたが、Windows上でこれを直接JPEG に変換する方法がなく、DPC9801を廃棄処分してしまった現在、WCGI ファイルの画像の復活は残念ながら諦めざるを得ない。
そうは言っても、この16色画像というのはフルカラー画像へ移行するまでの一時期に咲いたあだ花だったような気もする。8色から16色に移って一番難解だったのはパレットという概念で、16色で絵を描く時にどの絵の具を16色に選ぶかということに例えられた。これは256色でも同じだった。ところが、フルカラーになるとパレットはもう要らなくなった。
ここで、Windowsの場でも復活できた数少ない16色画像をご紹介する。
最初の4枚はFQLDというフォーラムが Nifty Serve に誕生した時、お祝いとしてUPした画像である。その素材として、「過換気症候群」という病気の女性の手を、ためらわずに選んだ。一度見れば忘れることのできない手、そこに患者の不安が象徴されていると感じた。1989年7月10日に、Nifty Serve の FQLD にアップロードした。そのときの補足説明文が残っているので、これも添付しておく。
補足説明
【作 者】 ボウ MGG02232
【登 録 名】 「不安」
【登録ファィル 名】 ANXIETY.COM
【データ 形 式】 16色
【圧 縮 形 式】 Q4、LHARC
【ファイル内容】 ANXIETY.Q4 ANXIETY.RGB
【必要 プログラム】 XLD4.EXE
【コ メ ン ト 】
これは強い緊張と不安に襲われているある若い女性の手です。いろいろのストレスが引金となって、発作的に呼吸をし過ぎた結果炭酸ガスが過剰に肺から排出され、そのために血液が急激にアルカリ性に傾き、この絵のように手足が硬く痙攣して曲げることができず、呼吸困難と死の恐怖感を抱いて担ぎ込まれて来られた患者さんです。過剰換気症候群(Hyperventilation Syndrome)という病気で、何故か10歳から25歳くらいの女性に多いのです。
私は画像を医療用に限って作ってきました。FQLD の新設にあたり、日頃 QLD 関連のトゥールを使わせて頂いている感謝の気持ちを捧げたく、この題材を選びました。16色画像の作品第1号をUPできるのを光栄に思っています。
GT3000Vを使い、GT4HP.EXEで写真から画像を取り込み、KID98 で修正を加えました。デフォルトのパレットでは肌の暗部が濃緑に表現されるので、別にパレットを作り、Q4ファイルに組み込みましたが、GRA ファイルに変換される場合に便利なように、RGB ファイルも一緒に梱包しておきます。自動解凍になっています。
この頃はハンドルネームを「ボウ」としていたようだ。気になって調べてみると、1989年12月3日22時00分に送信したメールまでは「ボウ」、その59分後からは「BOW」に変わっていて現在に続いている。
突然理由も書かずに「BOW」に変更しているが、「ボウ」ではちょっと野暮ったい、「BOW」の方がハイカラと思ったのだろう(笑)。
このシスオペの「魔女」さんには、Nifty Serve のFQLDのフォーラムでも、また個人メールでも大変お世話になった。素晴らしいソフトを次々創作して提供し、周りには多くの画像を愛する人々が満ち溢れていた。色々なジャンルのCG作品も豊かにあった。
その魔女さん、本名北川 裕さんが、1990年6月2日に交通事故で突然この世を去られた。それを知った時の衝撃は、1971年12月に突然この世を去った友人野中清也君の時と同じだった。FQLDの「お悔やみの間」に書き込まれた弔文のLOGを大切に残してある。それは 90/06/03 03:06 から始まり、90/06/10 18:46までの「349通」の弔文で、行数は「5100行」に及んでいる。
あれから10年以上が過ぎた今、それを読み返していて、その中に私が親しくお付き合いいただいた方のお名前を見つけた。マジックさん(海老原一之さん、FPICSのシスオペで、フルカラー画像をこの人に学んだ)、RAYさん(高橋 徳先生、私を通信の世界に導いてくれた恩人)、練馬のワトソンさん(楜沢 順さん、芸大出の画家で FPICS で活躍中のCG画家)、奈良のOGさん(小川浩史先生)、二世健康法師さん(故川合日出雄先生)、はりま人さん(柴田四郎先生)である。
以下は、亡くなられたことを知って即刻送信した私の弔文である。
058/058 MGG02232 BOW 魔女さん さようなら (10) 90/06/03 10:01
魔女さん
貴方はもうこの世を去られたのですね
誇り高い貴方のあのメッセージを もう読めなくなったのですね
貴方の論理的で 感情的で 力強くて 繊細な文章がとても好きでした
それにも増して CGについて数え切れぬほどの恵みをいただきました
悲しい 寂しい 惜しい
北川 裕 の名でいただいたメールを取り出し 読み返しています
ありがとうございました
さようなら 6/3 BOW
残りの4枚は、89年10月28日に、大阪科学技術センターで行なわれた「医療におけるパソコン通信シンポジウム」で私が講演した「実用画像通信」の中で使ったスライド原図の一部である。Q4ファイルでも残していたので、Windows用に変換することができた。
最初は画像通信に使う画像作成のツールを紹介したもので、タブレット、マウス、スキャナ旧型、新型を診察机に置いて撮影したもの、次はそれを加工して説明用の文字入れを行ったものである。
その次は、当院の胆石症の患者の腹部エコー像である。モノクロ16階調ではかなり細かいニュアンスまでが表示できることを見ていただいた。最後は、同じ画像のパレットを変えるとこのような奇怪な画像に変わることを供覧し、16色ではパレットファイルが本体と同じほど重要であることを強調した。
1989年後半から、NIFTY Serve のFPICSという画像のフォーラムでフルカラー画像を学び、作った画像ファイルをNIFTY Serve にUPしてきた。フルカラーをそのままパソコン通信で送信するには膨大な時間を要するため、最初は256色GIFで、90年からはNPGという圧縮ファイル形式で、そして91年からJPG画像で送信した。
今回はGIF、NPGファイルをJPGファイルに変換してある。NIFTYにUPした画像を中心に、1991年までのフルカラー画像の代表作を選んだ。
1991年3月、Nifty Serve のFSKY2に「BOWの98画像初心者用講座」を発表した。8色画像からフルカラー画像まで、NPG圧縮画像も含めてPC98画像をまとめたものである。この後しばらくして、JPGという世界統一規格の圧縮画像ファイルが登場し、現在に至っている。
少し説明を加えると、これは、1990年2月25日にパソコン通信で親しく交信している大阪近辺の医師にお越しいただいた時の記念写真である。その日のスケジュールが下記の通り残っていた。ここで医用画像の勉強会を開いている。「教えてもらうのは嫌い、教えるのは好き」な性分に苦笑している。
メンバーは左から、
「TOKU」さん:高槻で開業の高橋 徳先生は私を通信の世界に導いてくれた恩人
「SATORU」さん:府立羽曳野病院アレルギー小児科部長の土居 悟先生
「OG」さん:奈良で小児科開業の小川浩史先生
「二世健康法師」さん:寝屋川で開業されていた故川合日出雄先生
「はりま人」さん:姫路で耳鼻科開業の柴田四郎先生
90年2月25日のスケジュール
〜10.30:集合
10.30〜12.30:作品披露(野村、柴田、小川、土居、高橋、川合)
12.30〜13.30:昼食
13.30〜18.00:CGの勉強、途中でコーヒーブレーク
ハイパーフレーム+、FSCAN、GIF画像
ハイパービジョン、圧縮画像の紹介とデモ
KID98、WCGI画像の実習
彩子、ハイパー彩子の紹介
ベクトルエース、FDラベル印刷などの実技
その他
18:00〜20:00:夕食と懇親
20:00 :散会
神戸にあるTWIN-NETというCG専門のパソコン通信局に入会し、このネットが主催する第1回CG作品展に4点出品した。1989年9月22日から30日まで、神戸異人館「ラインの館」を借り切り展示したところ、訪問者が多くて会員一同大満足だった。
画像仲間の柴田四郎先生(はりま人)が姫路から、小川浩史先生(OG)が奈良から会場に来て下さり感激したことを思い出す。お二人は「フルカラー画像」のところの「大阪近辺で医用画像に取り組む男たち その2」に出ている。また、このCG展のビデオが「感性の歓声」というタイトルで残っている。
使用ハードウェア: PC-9801RA21、GT4000、Hyperflame_plus
使用ソフトウェア: FSCAN、LDIMG、HyperSayco
2002年に掲載した「98画像の変遷」を最近読み返したところ、書いた本人にも良く分からない、面白くない、読み続ける気がなくなると言った感想を持ってしまった。私が7年間熱中した対象の記録がこれでは気落ちがしてしまう。
そこで、なぜこんなに面白くないのかの理由を考えてみた。そして、ほかのページと違ってフレーム形式であることと、画像の表示をまずサムネイル画像で行い、大きい画像で見るには、サムネイル画像をクリックする2段構えにしていることの二つが、その大きな要因だと判断した。
2002年ごろはフレーム形式のサイト記事が流行りはじめ、私もいくつかのページをこの形式で作ったが、今残しているのはこれだけだった。
フレーム形式のページは、訪問者に見たい項目がいくつもあり、それぞれを自分で選ぶ場合には便利だとは思う。辞書で単語を調べるような場合は最適かもしれない。
しかし、物語性の強い記事の場合には、ストーリーが分かり難いという欠点がある。この欠点の意味は大きい。それに加えて、サムネイル画像から、大きな画像を表示するということも、その操作のために見ている時間を中断させ、ストーリーを分かりにくくしてしまう。
そう考えたので、フレームをノーフレームに変更し、画像は直接表示するように改訂した。改訂作業を始めてみると、すぐに難作業であることが分かった。それを箇条書きで書いてみる。
1.2002年からあと、フレームページを作っていないので、その構造を理解するのに時間がかかった。
2.「98画像の変遷」は18個ものHTMLファイルから構成されていた。
3.これを一つのHTMLファイルに統合するには、個々のHTMLファイルの内容を調べる必要がある。
4.個々のHTMLファイルを単純につなぎ合わせば良いと言う代物ではない。配置に工夫が必要となる。
5.個々のHTMLファイルは参考とするため、改訂の最後まで必要で、改訂後も必要になるかもしれない。
改訂作業を終えて、改めて読んでみると、ストーリーが良く分かるようになり、読み続けたいという気持ちになった。画像そのものは今から見れば幼稚であるが、1986年以前には、このような画像は一般大衆の世界には存在しなかった。そして、わずか7年足らずで、現在の豊潤な画像の世界が大衆の手の届くところとなった。その記録としての価値はあるのではないかと思う。少なくとも、私にとっては、大切な思い出深い記録である。
1986年は私が50歳となった年である。その10年前、40歳から節目を意識して生きるようにようになり、節目節目で何らかの記録を残してきたように思う。
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