久保田新田藩(秋田新田藩)・(岩崎藩)

佐竹家

2万石
外様 柳間 陣屋


出羽久保田藩主佐竹義処は弟の佐竹佐竹義長に2万石を分与して、久保田新田藩を成立させる。いわゆる壱岐守家である。

当初は特定の領地ではなく、宗藩からの蔵米支給。藩主は定府だった。幕末明治二年に陣屋を湯沢の岩崎に構えたため、岩崎藩とも。

佐竹義処は庶長兄の佐竹義オキ(ウ冠に眞)の子、甥の佐竹義都(よしくに)にも1万石を分知、式部少輔家と称される。

この両家は一門の重きを成すが、宗藩四代佐竹義格に嗣子がないところから、両家による後継争いが激化。
両家相互に宗藩藩主を立てるという約定が成され、宗藩五代には当壱岐守家から、佐竹義長の長男が佐竹義峯として入る。
六代には式部少輔家佐竹義堅が世子となっていたが、相続前に死去、両家相互の約定から、義堅の子義真が六代藩主に収まるが、藩主になれなかったとは言え、式部少輔家の義堅が一旦は世子となった以上、次ぎは壱岐守家からと考える壱岐守一派はこれに激怒、両家それぞれに他の佐竹一門各家以下、家臣、ニ分して、党を成し争い、いわゆる秋田騒動となる。

この佐竹義真は22歳で急死。壱岐守家一派による毒殺説もある。式部少輔家はこの義真の死去で絶え、両家対立の構造は無くなるが藩内の抗争は継嗣というよりも経済政策を巡る政争となって尾を引く。

宗藩七代には、当、秋田新田藩壱岐守家の二代佐竹義道の長男、佐竹義明が入る。

佐竹家も仙台藩の「要害」に似て、一門家臣を領内各地の封地に屋敷を構えさせる、厳密には一国一城令に反した政策を取っている。

常陸時代以来のいわゆる佐竹四家は、佐竹東家が久保田城下に、佐竹西家(小場家)が大館に、現在も城下町の面影を残す角館には佐竹北家、湯沢は佐竹南家の預り領。
その他に横手に戸村家、院内に大山家などの佐竹一門家臣が入っていた。


歴代藩主

 

藩主

官位・通称

出自(実父・嫡出関係)

初代

佐竹義長(よしのぶ)

従五位下 壱岐守
久保田藩主佐竹義隆の三男

二代

佐竹義道(よしみち)

従五位下 壱岐守
佐竹東家佐竹義本の子

三代

佐竹義忠(よしただ)

従五位下 壱岐守
佐竹義道の三男(長兄佐竹義明が宗家を継ぎ、次兄義敏は父に先立つため)

四代

佐竹義祗(よしもと)

従五位下 壱岐守
先代の兄で早世した佐竹義敏の遺児

五代

佐竹義知(よしちか)

従五位下 壱岐守
佐竹義祗の子

五代

佐竹義純(よしずみ)

従五位下 壱岐守
佐竹義忠の子佐竹義恭の子

六代

佐竹義核(よしざね)

従五位下 壱岐守
陸奥相馬中村藩主相馬益胤の三男で、宗藩11代佐竹義睦急死によって宗家を継ぎ、佐竹義尭となる

七代

佐竹義ェ(よしつま)

従四位下 壱岐守
相馬中村藩主相馬益胤の四男。実兄の急な宗藩藩主就任にともない、急遽相馬家より養子に入る。

八代

佐竹義理(よしただ)

 
陸奥相馬中村藩主相馬允胤の子

出羽の諸藩に戻る
蝦夷・陸奥・出羽の諸藩に戻る

三百藩TOPに戻る