番組の変遷
番組の内容や司会者の変遷、主なトピックについてまとめました。
「第△回」「△年△月第△週」「放送日」の表現については、「週を特定する三つの表示について」を参照してください。
- 1967年5月第1週
- 『9500万人のポピュラー リクエスト』の後継番組として放送開始。「投票数」による20位までのランキングを発表。「ルッキング アヘッド」コーナーで有力曲を3曲紹介。米キャッシュボックス誌トップテンの紹介。テーマ曲は、レン・バリイのヒット「ワン・ツゥ・スリー」のインストゥルメンタル盤。司会は土屋恵アナ。
- 1968年4月第1週
- 番組で紹介する米ヒットチャートをビルボード誌に変更。アシスタントに須藤典子さん。
- 1969年春ごろ
- 司会がみのもんたアナ、テーマ曲が「スター・コレクター」(モンキーズ )に。
- 1970年5月第1週
- リクエストに加え、さまざまな指標により「点数」をつけランキングを決める方式に変更。60分編成では、圏外21位から40位までの曲名を発表し「ポップ20入りを狙う曲」数曲を紹介。ほかに、プレゼントコーナー、ポップス情報、米ビルボード誌トップテンの紹介など。
- 1970年12月第4週
- 年末または翌年年始に、全国ラジオ音楽賞ポピュラー部門の発表を開始。
- 1971年半ば
- アシスタントに高橋小枝子アナ。
- 1971年後半
- 60分編成で「今週の推薦曲」コーナーを開始。
- 1972年末
- 「ビルボード」コーナーが終了。
- 1973年10月14日
- 文化放送が独自編成を開始。東急百貨店の冠番組『ミュージック ピット イン東急』に。テーマ曲は「タイム・アンド・スペイス」(ネルソン・リドル・オーケストラ)。
- 1974年3月第5週
- プレゼントコーナーが終了。
- 1976年4月第2週
- 司会がせんだみつおさんに。
- 1977年6月第3週
- 放送回数が第581回であるにもかかわらず、第600回だとアナウンスする。
- 1977年10月9日
- 文化放送での番組名が『サンデー ビッグ ミュージック』に。
- 1978年10月1日
- 文化放送の独自編成が終了。
- 1980年10月第1週
- 推薦曲コーナーが終了。
- 1980年10月第2週
- 司会がばんばひろふみさんに。このころから毎週、放送回数を「第△週」とアナウンスするようになる。
- 1982年4月第2週
- 司会が梶原茂アナに。
- 1982年8月
- このころから文化放送が前月の月間ランキング表の配布を開始。20位までのランキング、点数を記載。
- 1983年4月第3週
- 司会が川島なお美さんに。テーマ曲は「キャノンボール」(ジョン・ウィリアムズとスカイ)。
- 1983年4月第4週
- ランキングを決める「点数」の水準が高くなる。
- 1984年4月第2週
- 司会が八木誠さんに。このころから、圏外21位から40位までの発表の際、アーティスト名をアナウンスするようになる。
- 1985年3月第5週
- 番組が終了。
1967年から1970年までについては、中嶋ひろ志さん、村松秀幸さんからの情報によりました。番組開始当初の米ヒットチャート誌とその変更時期、アシスタントの開始時期は、パソコン通信「ニフティサーブ」のパティオ「ロック考古学館」への投稿(KEN-G氏、1999年1月9日、2月8日)によりました。
1970年から1980年までについては、Chifumiの記録とスターコレクターさんからの情報によりました。
1980年から1985年までについては、スターコレクターさんからの情報によりました。
第1回ラジオ音楽賞ポピュラー部門の発表の中で紹介があった1970年年間ランキングは、新方式になった5月以降のランキングだけで算出したように見えます。
1973年末の数週間は、ニシヤマ キクエ アナが担当しました。
東急百貨店のいずれかの店舗のレコード売場で、AJPのランキング表を配布していたようです。順位、前週順位、曲名、アーティスト名を記載。点数の記載はありませんでした。
アシスタントは、引き続き高橋小枝子アナが担当しました。
当時50回ごとの区切りの週にだけ「第△回」とアナウンスしていましたが、この週以降は誤った区切りになりました。
初回は、ばんばさんが急病のため、八木誠さんが代行しました。
1983年の年間ランキングは点数を補正することなく算出したようで、前半にヒットした曲より後半にヒットした曲が有利になりました。
2024-11-03 2025-04-06