北は北海道から南は沖縄まで、全国31社111局の民間放送に寄せられたリクエストを中心に、全国民放ディレクターで組織するポップ20選定委員会によるランキング、全国主要レコード店からの集計、「ビルボード」そのほかからの海外の動向などを資料に、コンピューターが打ち出した日本最大のヒットチャート
『オール ジャパン ポップ20』!

モンキーズの「スター・コレクター」が流れる中、このようなメッセージで始まった『オール ジャパン ポップ20』は、1967年5月から1985年3月まで全国のAMラジオ局が放送していた洋楽ヒットチャート番組です。
(上記のメッセージや以下に説明する番組構成は、1971年ごろのものです)

番組編成

30分編成と60分編成がありました。また文化放送では1973年10月から1978年10月まで、独自の編成で放送していました。

30分編成と文化放送独自の編成では、ランキングを20位まで発表していました。また60分編成では、40位まで発表していました。

番組構成

30分編成
レッツ ゴー ポップテン
10位から4位までカウントダウン。曲をバックに、順位・曲名・アーティスト名・点数のアナウンスがありました。上昇曲が流れる時間は長め、下降曲は短めでした。毎週ではありませんが、もっとも順位を上げてポップテンに入ってきた曲の前には、ファンファーレと「ジス ウイーク モースト アップ カマー」とのアナウンスがありました。
みのもんたのプレゼントコーナー
ジス ウイーク ニューカマー
20位以内に初登場した曲を下の方から紹介(と記憶していますが、上の方からだったかもしれません)。曲をバックに、順位・曲名・アーティスト名のアナウンスがありました。
20位から11位までの発表
初登場の曲(複数の場合、最後に紹介した曲)をバックに、20位から11位までカウントダウン。順位・曲名・アーティスト名・点数のアナウンスがありました。
『ビルボード』トップテンの発表
米ビルボード社に国際電話をかけ、トップテンをカウントダウンで発表してもらいました。電話の後、数曲の紹介がありました。
各地の動き
各局の順位で特徴的なものについて紹介がありました。
待ってたベイビー、ポップスリー!
3位、2位をカウントダウン。曲をバックに、順位・曲名・アーティスト名・点数のアナウンスがありました。
AJPナンバーワン!
曲をバックに、1位の曲名・アーティスト名・点数のアナウンスがありました。
エンディング
オープニング同様にモンキーズの「スター・コレクター」が流れる中、再度1位から10位まで順位と曲名、11位から20位まで曲名のアナウンスがありました。
60分編成
20位から11位までの発表
オープニングに引き続き、20位から11位までをカウントダウン。順位・曲名・アーティスト名・点数のアナウンスがありました。曲のオンエアは、上昇曲だけでした。
みのもんたのプレゼントコーナー
各地の動き
レッツ ゴー ポップテン
『ビルボード』トップテンの発表
文化放送ではこのコーナーを、他のネット局で翌週放送する内容に差し替えて放送していました。文化放送でこの番組を聞けば、月曜日の未明に5日先の土曜日付けのビルボードの順位を知ることができました。
みのもんたのミュージック情報
番組担当ディレクターによる洋楽界の話題
21位から40位までの発表
21位から40位までカウントアップ。曲名だけのアナウンスでした。ランキングを発表した後、「ポップ20入りを狙う曲」を数曲紹介しました。
待ってたベイビー、ポップスリー!
AJPナンバーワン!
エンディング

文化放送での差し替えは、日曜深夜=月曜未明に60分枠で放送していた1972年4月まで行っていたようです。Chifumiはこの期間、文化放送を数回聴取し、差し替えを確認しています。
 30分枠で週2回放送していた1972年4月から10月まで、Chifumiは毎週1回目の放送(日曜早朝)を聴取し、差し替えしていないことを確認しています。2回目の放送(日曜深夜=月曜未明)は聴取したことがなく、差し替えしていたかどうか不明です。
 30分枠で日曜深夜=月曜未明だけの放送になった1972年10月から、コーナーが終了した12月までについても、不明です。

文化放送独自の編成
『ミュージック ピット イン東急』
50分編成(1973年10月〜1977年10月)
『サンデー ビッグ ミュージック』
55分編成(1977年10月〜1978年10月)

上記「30分編成」に記載した各コーナーを、「60分編成」に記載した順序で放送していました。20位から11位までの発表は、60分編成と同様に、上昇曲をオンエアしていました。60分編成にしかない「今週の推薦曲」コーナーや、21位から40位までの発表はありませんでした。

全国向けの編成と同一の原稿による別録りでした。みのもんたアナと高橋小枝子アナは、全国向けと文化放送で、まったく同じトークをしていました。

全国向けではリクエストのあて先を「お聞きの放送局の『オール ジャパン ポップ20』の係」としていましたが、文化放送独自編成では「東京都新宿区 文化放送『ミュージック ピット イン東急 オール ジャパン ポップ20』の係」とアナウンスしていました。

ランキングの特徴

ここからは、このウエブサイトの編者であるChifumiの主観も交えて紹介します。

ランキングの対象は楽曲

『オール ジャパン ポップ20』は、シングルレコードのランキングではなく、楽曲のランキングでした。ラジオのヒットチャートとしては特別なことでなく、これが普通だったと思います。 もう少し詳しく書くと、次のような特徴がありました。

(普通と言いながらあえて特筆するのは、ラジオのヒットチャートがすっかり廃れてしまい、時代を共有していない世代の中に、ヒットチャートとはシングル盤の販売順位だと誤解する人がいるかもしれないと危惧するからです)

カバーや競作はまとめて扱っていた

フランシス・レイの「ある愛の詩」とアンディ・ウィリアムスの「ある愛の詩」は、ひとつの楽曲として、毎週ひとつの順位がついていました。番組では、フランシス・レイとアンディ・ウィリアムスの「ある愛の詩」が週替わりで流れました。

両面ヒットにはそれぞれ順位がついた

クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの「光りある限り…」と、このシングル盤のB面だった「ルッキン・アウト・マイ・バック・ドア」が同じ時期にヒットしましたが、それぞれに別の順位がついていました。

シングル盤が未発売でもランクインした

ビートルズの楽曲を中心に、その他のアーティストでもアルバムの中の曲がランクインした例が数多くあります。中には、日本でアルバムさえ出ていない(当然、邦題もない)時期から、原題でランクインした曲もあります。ニール・ダイアモンドの「さすらいの青春」は、当初「アイ・アム・アイ・セッド」としてランクインしていました。

点数を発表した

1位から20位については「点数」を発表しました。この数字によって、圧倒的な1位なのか、2位と僅差の1位なのか、といったことがわかりました。
(番組開始から1970年4月までは「投票数」だったようです)

40位まで発表した

60分編成では、ランキングを40位まで発表しました。 他のラジオチャートでは20位までというものが多かった中、これは魅力的でした。大ヒットは無理だろうけれどこの曲好きだな、と密かに思っていた曲に順位がつくのはうれしかったものです。

2023-03-12 2025-02-02