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明治維新に官軍から招集令状
「人数をまとめて、直ちに京に上れ」京の参与役所から多田院(現多田神社)に、多田郷士の応援を求める飛脚が着いたのは明治維新の慶応4年(1868)正月6日。
鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗れてから3日後でした。
この夜、将軍慶喜は大阪城から海路で江戸ヘ脱出し、翌7日には慶喜追討の大号令が発せられ、戊辰戦争が始まりました。
命令を受けて、郷士たちは親子ぐるみ兄弟ぐるみで総勢80人が集結し、亀岡を経て8日京に到着し「多田隊」として京の守護につきました。
多田郷士は昔から、清和源氏の祖・源満仲の廟所である多田院(現多田神社)を守護してきており、多田院御家人とも呼ばれていましたが、
知行地は取り上げられ、当時は農民に近い暮らしをしていました。
最初の任務は新政府副総裁岩倉具視邸の警護でしたが、洋式軍事教練をかさねしだいに活躍の場を広げていきました。
倒幕後も旧幕臣の大名の抵抗はやまず、なかでも新政府に脅威となった奥羽越列藩同盟に対する北越征討には、多田隊から36人が参加しました。
戊辰戦争最大の激戦、関川村(山形県)の戦いの後、会津藩などが降伏し東北の戦は終わりました。
多田隊でも戦死1名・重傷1名を出しましたが、明治2年(1869)7月20日多田隊は解散し、隊員は故郷に帰りました。
政府からは1人10〜25両が下賜され、重傷者でも100両どまり、戦死者にはどういうわけか金が出なかったそうです。
また郷士たちが「士族」になることも拒否され「御用済みになれば捨てられる。これが兵士が体験した明治維新だった」そうです。
それにしてもつい百余年前の出来事で史料も残っているはずなのに地元でも知る人が少ないのは、当然の義務を果たしただけだったからでしょうか・・・
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