|
(川西書店組合発行「川西の歴史散歩」などより)
「ことなくば世々に伝えよ白銀の 山に黄金の花は咲くとも」
「大事あれば掘り出てもみよ摂津多田 白銀の山に眠る宝を」
豊臣秀吉は大阪城が徳川氏の手に落ちることを恐れて、城中にたくわえていた
金貨四億数千両と金塊3万貫を多田銀山に埋蔵させたという伝説があり、この
2首の歌が伝えられています。
平安時代から採鉱がはじめられた多田銀山は、十数キロ四方に広がった鉱脈を持ち、
豊臣時代(16世紀)になって秀吉は、陣屋を立てて奉行を置き管轄させたそうです。
この頃、南蛮人がつたえた製錬法で、銅と銀を分離できるようになり最盛期を迎えました。
しかし、慶長3年(1598)に秀吉が病に臥せると突然「銀山払い」と称して、付近一帯に強制疎開が
命ぜられ、囚人達を使って密かに「鉱山の閉鎖と軍用金埋蔵」の作業が行われたといわれています。
そしてすべての作業が終わると、作業に従事した囚人達は観音像を拝ませた後処刑されたといわれ、
その時の観音像は近隣の陽泉寺に今も残されているそうです。
この地域も、その後徳川時代になりやがて生産高が減少して衰退しましたが、現在も当時の名残りをとどめています。
はたして秀吉の埋蔵金は本当にあったのか?
今も地下に眠ったままなのか・・・・
「銀山」の場所は「ローカルエリアのマップ」へ
|