清和源氏の本流「多田源氏」


「源氏」と言えば「源平の合戦」や「源義経」「源頼朝」が広く知られています。
「源義経」や「源頼朝」は「清和源氏」の子孫にあたりますが、「清和源氏」とは「清和天皇」の皇子である 「貞純(さだずみ)親王」の長男「経基(つねもと)」が源の姓を賜ったのがはじまりで、その子「満仲(みつなか)」が 平安時代の中期(西暦968年)に、北摂の「多田」の地(川西市)に館を築きやがて武士団の独立的な地域をつくりあげて 「清和源氏」の発祥の地となりました。

その後「清和源氏」の本流(本家の家筋)として「頼光」「頼綱」の流れをくむ「多田源氏」がこの地を継いでいました。
ちなみに、「源頼朝」が源氏として特に有名なのは、征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を創設して初代将軍になったためです。 河内源氏として名をあげた「頼信」の子孫にあたります。

ところで「多田源氏」として「満仲」から8代目にあたる「行綱(ゆきつな)」については、いわゆる「鹿ケ谷の変」(1177年)の 密告者として見られていることが多いかもしれません。
「鹿ケ谷の変」とは、その頃隆盛をほこっていた平家に反対する陣営が「鹿ケ谷」の山荘で平家の打倒計画をくわだて、 「行綱」もさそわれて参加していましたが、内部の足並みがそろわないことから計画の成功に疑問を持った「行綱」が、 計画の内容や参加者の名前を「平清盛」に知らせたため、謀議に参加した者は捕えられ計画は未遂に終わったものです。 しかし「行綱」も安芸の国へ流されてしまいました。

その後「行綱」は多田の地に戻り、「義経」陣営の一員として一の谷の合戦でひよどり越えの先陣をきって活躍し、また民衆の 支持も得ていましたが、やがて「義経」が「頼朝」と対立してしまったため「行綱」は「頼朝」から勘当され所領は没収されてしまいました。 「頼朝」には「行綱」を排除して「源氏発祥の地」を手に入れる意図があったのかもしれません。
いずれにしても「行綱」は変わり身の早さで動乱の時代を懸命に生き抜いた武将であったとの見方ができるのではないでしょうか。

余談ですが、江戸時代に『多田五代記』をまとめた「多田兵部」は「行綱」の子「家綱」の子孫で、「行綱」から27代目にあたります。
また、国学者「多田南嶺」も同じ系統の子孫と思われます。