清和源氏の祖・源満仲(みなもとのみつなか)は、自分の子供の一人「美女丸」(びじょまる)を僧侶にしようと、修行をさせるかたわら和歌や管弦なども習わせるために、中山寺(宝塚市)へ修行に出しました。
しかし、「美女丸」は素行が悪く武芸の真似事をして、わがままな毎日を過ごしていました。
「美女丸」が15才になったある日のこと、父満仲が「美女丸」を多田の館に呼び寄せて修行の成果を尋ねました。
このとき「美女丸」は、和歌や管弦はもとより経文も読むことができなかったのです。
満仲は怒り重臣の藤原仲光(なかみつ)に「美女丸の首を切れ」と命じましたが、仲光は主君の実子の命を絶つことができず、とりあえず「美女丸」を遠ざけて満仲の気持ちを静めることに努めたのですが、満仲の怒りはおさまりませんでした。
困り果てた仲光は、我が子「幸寿丸」(こうじゅまる)に「美女丸殿の身代わりとして、そなたの一命を私にくれよ。若君の首と申して殿にさし出したい。」と断腸の思いで言うと、「幸寿丸」は、「わが身ひとつをさし上げて、それが父上への孝行となり、そのうえ殿への忠義ともなれば、ひとつの命をもってふたつの道にしたがうことができます。」
ようやくの思いでその首をかき落とし、「美女丸」を比叡山の名僧、源信僧都のもとへ修行に送り出しました。
のちに、これを聞いた「美女丸」は、悔い改めて修行に励み名僧源賢となったのですが、自分の身代わりになって命を絶った「幸寿丸」のために川西市西畦野(にしうねの)に忠孝山小童寺を建立し、その菩提をとむらったとつたえられています。
今も境内には石柱に囲まれた「幸寿丸」「美女丸」「仲光」の墓がコケむしてたたずんでいます。
挿絵とあらすじで楽しむお伽草子「満仲」は、京都大学電子図書館へ
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