「壇の浦」後の安徳天皇


源平の合戦「壇の浦の戦」で、平氏は平宗盛が安徳天皇と神器を奉じ、源氏は源義経を総大将として壇の浦(山口県下関市)で激戦をくりひろげましたが、平氏は敗れ二位の尼(平清盛の妻)は幼少の安徳天皇を抱いて入水したといわれています。
ところが、能勢町の野間出野には壇の浦で入水したとされている安徳天皇が、この地に逃れて短い一生を終えられた事を示す「安徳天皇御霊跡地」があります。


                  (能勢町教育委員会の掲示板(写真:右)より)
『寿永4年(1185)3月24日壇の浦の敗戦に、平氏に擁護された安徳天皇は、二位の尼のはからいによりご潜幸になった。 (中略) 石見・伯耆・但馬の国を経て、その年の6月15日、ここ摂津国能勢の野間郷に来られた。
主上は長い苦難の旅路をこの地において快気され、漸く安穏の月日を送られたのである。(中略) 
 ご潜幸の年も明けた文治2年(1186)5月17日朝まだき、供奉者らの手厚いご介護もむなしく、この地で崩御されたのである。(中略)
 里人たちは主上の「ケシ髪」のお姿に遠慮して、子どもには「おけし」にしないことや崩御された日が神田の田植えの日で、漸く夜間に田植えしたことが明治の代まで慣例となっていた。(中略)
 今を去る八百有余年、幾星霜を越えてきたにもかかわらず、付近の地名、習俗などにも昔日の名残を留め、岩崎の社頭に佇めば古木にわたる風の音に昔の影を浮べることが出来るのである。』