共生のイメージを探る

出合い、介助、インターネット

斉藤 龍一郎

 「障害学への招待 社会、文化、ディスアビリティ」(石川准+長瀬修編、明石書店、一九九九年)を読んだ。イギリス・アメリカの障害学の現状(大学講座、学会、雑誌ほか)紹介も、障害者とコンピューターをめぐる現状と課題分析もおもしろかった。僕自身は難聴が進行しつつあり遠からず補聴器や手話の世話にならなくてはならない、という状態なので、ろう者宣言・ろう教育をめぐる論考も非常に興味深かった。障害者プロレスに参加するために世田谷へ移っていったCP者(脳性マヒ者)夫婦の一家とのと関わり(彼らの結婚式に呼ばれた!)からすれば、異質な者の文化について論じた論考にも引き込まれるところがあるし、精神病者の友人たちをとりまく医療と「社会復帰」の状況も気にかかる。

 CP者の歌人である最高齢の花田さんの文章以外は、まだ若い研究者たちの手になる論文集は、これからの障害学の広がり・深化が、社会学や福祉政策論といった学の世界へおよぼすであろう波紋そして障害者福祉・障害者教育の現実の場面へ踏み入り変えていくだろうことを期待させる。

 だからますます期待は募るという意味で、僕の身近ではかなり切迫した問題である障害者と医療に関する資料集積・情報の整理といった作業が現れていないことに不満を覚えるし、何よりも研究者でも社会福祉のプロでもない僕自身の障害者運動への関わり、ことに二〇年来の「障害者介助」への関わりの中で感じてきた諸問題に直接に対応する論考がないことに苛立ってきた。で、「介助をするということ」と題して文章を書いているうちに、いくらか苛立ちの根っ子が見えてきたので、ここで文章にしてみたい。

 「介助をするということ」という文章については、僕のホームページに掲載したところ早速友人が読んで感想をくれた。また、それを書いているうちに、四年くらい前にCP者の友人である吉田君が僕の職場を使って口述していた文章、最後は彼自身が非常におもしろい機器を使いパソコンで書き上げた文章のことを思い出した。彼の文章を思い起こしながら、僕のやってきたこと・こだわり・考えを形にしてみようと思う。

 

忘れられない友人たちの死

 「介助をするということ」を読んだ吉田君が「しゅうねん君のことは書かないの?」と言う。僕を障害者運動・障害者介助との関わりに直接導いた年下の友人しゅうねんが死んで一五年になる。彼に連れられて行った足立でCP者・金井康治君の養護学校から普通学校への転校運動に関わったことから、足立に移り住み、多くの障害者・教師・自治体労働者・学生・医療労働者と交友を持つことになったのだから、僕がなぜこの文章を書いてるのか、何を書こうとしているのかを明らかにするためにも、忘れるわけにはいかない。

 金井闘争(僕らはそう読んでいた)に関わっている中で、しゅうねんを中心に僕らは大学内に福祉研究会を作った。またしゅうねんが連絡役を務めていくつかの大学の障害者解放研や部落解放研が参加する金井闘争学生実行委員会が作られていた。これらの研究会・連絡組織は、金井闘争を契機に一時期、「自立生活」を選び取ろうとした幾人かの障害者たち(主としてCP者)と「介助者」となる学生たちを引き合わせ交流・介助を広げていく役割を果たした。しゅうねんが大学の寮で住んでいた部屋を中心にできた学生たちのつながりは、現在まで、「障害者介助」への新たな関わりを呼び起こしている。

 この文章に直接関わるのは、先に挙げた福祉研と僕が参加していた別のサークル・KYK(教育をよくする会という名があったが、気恥ずかしいのでみんなしてKYKとしか使わなかった)のメンバーとが、僕と在宅のCP者であった(いままたそうである)吉田君との出会い・介助そして現在のパソコンやインターネットの世話も含めた長い交友につながっているということだ。

 しゅうねんは大学在学五年目の春、新入生歓迎オリエンテーションの際の事故で死んだ。彼の死は、僕に当時の仕事そして活動への踏ん切りをつけさせた。彼の死からほぼ二カ月仕事らしい仕事もしなかった僕は、現在の職場に移って今日に至る。

 しゅうねんの写真が載っている金井康治君の写真集「康ちゃんの空」には、写真集が出版された時すでに死んでしまっていた忘れることのできない友人の姿も残されている。大学にはいってすぐに同じ教室にいて、通う電車の中でも見かけたこの友人の下宿をクラスの名簿を頼りに訪ねた日、彼が炊いたご飯に鮎の塩焼きの夕食をごちそうになったことを思い出す。大学を出てダンススクールに通いニューヨークへ行くことになっていたこの友人は、彼が名付けた障害児も受け入れる活動の場「らんがく舎」の伊豆大島キャンプへ行って水死した。

 「康ちゃんの空」に載っているもう一人の友人H君の闘病と死にまつわる話については、後で詳しく書きたい。

 

二人のCP者の死

 「介助をするということ」では、本文の最初に置いたのが、この項である。

 「自立生活」をしていて不慮の事故で亡くなった二人のCP者の死は、「障害者介助」が突き当たる現実の重さを感じさせる。それも、職業訓練を受けたプロとしてではなくボランティアとして「障害者介助」に関わっていた人が、自分の手で口へ運んだ食べ物をのどに詰まらせ、目の前のCP者が唇を真っ青にしていく姿を見ていることしかできなかった(病院には連絡をしても、救急車だってすぐには来ない)状況や、温泉場へ行ってCP者を車いすから浴室まで抱え上げて歩いていて足を滑らせ、腕の上のCP者が投げ出されて頭を強打し昏睡したまま亡くなってしまうという場面の「介助者」の気持ちのやり場・身の置き所について、僕自身の体験からしてもいろんなことを思った。また、今も「事故の当事者になった介助者のために何ができたのだろうか? どうすればよかったろうか?」と考える。

 口にした食べ物をのどに詰まらせて亡くなったHさんの介助には親しい友人が何人も関わっていたこともあり、僕自身も会えば話をしたし一度はクリスマスイブにワインを持って遊びに行ったこともあったので、介助をしていた主として学生たちが集まって、Hさんとの関わりは一体何だったのだろう、どう整理すればいいのだろうかと話し合う集まりを持つのに加わった。この話し合いにはHさんと親しかった・親しくなろうとしていたCP者も加わって、二年間月一回の例会、月に一回の打ち合わせを続け、「書けなかった介護者ノート」という記録をまとめた。Hさんの一生をたどる年譜、特に「自立生活」を始めてからの日記(これは書き継がれた「介護者ノート」によっている)、Hさんがある大学の学園祭で自らのことを話した際の講演録等のまとめと、Hさんに関わりのあった人々による追悼文集である。

 Hさんの介助に関わっていた人の多くが学生で、そのうちのかなりの部分がウーマンリブ(まだそういう時代だ)へのこだわりを持ち、反差別の活動の一つとして「障害者介助」にも関わる、という中で、Hさんは「落ち着かなさ」「疎外感」をいだいていたんじゃないか、と話し合ったのだった。そして、もう一歩Hさんの気持ち・生活に踏み込めないまま緊張緩和剤の常用で体力を無くしていく姿を見過ごしてしまったのか、という自責の念が、この集まりに参加した人々にはあった。

 温泉へ遊びに行って事故死したMさんと僕自身との関わりは薄い。施設暮らしの中で地域の学校への就学闘争に踏み切ったMさんの行動は、僕たちの中で希望の一つとして語られることはあっても、足立と三多摩は遠く離れていて、僕自身はMさんの介助に関わったことはない。それでも大きなインパクトを受けたのは、Mさんが事故に遭った直後に僕の職場へ介助者から電話があったからだ。どういう経緯でのことかは知らない。僕の職場の周りにはMさんと常時連絡を取っている人はいなかった。それでも、土曜日の午後かかってきた電話の向こうで介助者は、「この連絡先しかわからなかったんです」と言っていた。

 Mさんと介助者の関係ってどんなだったろうか? と僕は思ったのだった。一緒に温泉へ行く介助者がMさんの親しい友人・家族あるいは関わりの深い連絡先を知らない、そんなことがあっていいのだろうか? と思ったのだった。そうだとすれば、Mさんにとって介助者って一体何者だったのだろうか?

 

吉田君との出会いと仲間たち

 Hさん・Mさんの死を考える時、僕は「僕も同じ立場であり得た介助者」の側から見てきたと思う。少なくとも、顔を合わせればお互いあいさつを交わしたりはしていたHさん・Mさんよりも、直接は知らなくとも、たいていは僕より三〜四歳は年下の同じ学生で、反差別闘争・障害者運動そして多くは学生運動にも関わっている「介助者」たちの方がずっと近しい存在だった。

 吉田君との出会いと一九年に至るつきあい、そして何よりも仲間意識は、その意味では全く別の向きを向いている。吉田君の交友範囲の方がだいたいにおいて僕の限られた仲間内より広く、思いもよらない彼の友人・知人と一緒に食事をする機会があったりした。そして現在は、僕の職場から自転車で一〇分くらいのところに彼が両親(すぐ隣には弟夫婦)と住んでいることもあって、パソコンの世話・インターネット接続設定などに呼ばれて行ったりしている。彼は、現在では、脊髄のズレのた首から下のマヒが進行したため基本的に寝たきりになってしまったが、あちこちに電話をかけているらしく友人の思わぬ消息を知らされることも多い。

 彼の人となりは、彼自身の手になる別の文章を読んでもらえばわかると思う。彼に関する近年最大のトピックは自分自身でまとめた二〇年の歩みと、書き上げた記念に彼が主催した夕食会だ。ステーキが好きで、小さなステーキ屋のお気に入りがある彼が、限定一〇人招待と称して招いたメンバーには、大学時代からの友人もいれば、彼が上野公園で声をかけて話すようになって以来連絡があるという僕の一回り以上も年下の女性たちもいた。

 吉田君と僕が出会ったのは、一九八〇年春の大学祭でのことだった。当時、金井闘争そして奈良の梅谷君の中学への就学闘争を大きな結集軸に、養護学校義務化反対運動が広がっていた。義務化自体はその前年の学校教育法改定で実施されたが、障害者・障害児による普通学校への就学運動はむしろ大きく前進し、「親の意向を尊重する」という突破口を切り開いて、各地の小学校へ障害児が入り始めていた。そうした状況を受けて大学祭でも、特殊教育推進論者と普通学校への就学論者との公開討論が実施された。その会場に吉田君はいた。

 墨田区の生まれ育ちの彼は当時、江戸川養護学校卒業後、身辺自立可能を条件とする三多摩・日の出舎という授産施設で二年間暮らした後、就労や食事・トイレなどに困難があるということで自宅に帰ってきたところだった。

 大学祭の会場には、その以前から彼と面識のあるボランティアの大学生が自宅へ迎えに行くからと誘われて来ていたという。

 公開討論の最後に、求めて発言した彼の話しは、読点のない接続詞代わりの間投詞が続く要領の得ない長いものだった。討論の終了後、彼を迎えに来たボランティアの学生というのが、僕の友達だということがわかり、その場に居合わせた仲間たち(福祉研のメンバー)が二人だったか三人だったかで家まで送っていくことになった。

 送っていったメンバーが彼の自宅に着いた時、彼は「明日も行きたい」と言った。それを受けて送っていったうちの一人が翌朝迎えに行き、大学祭の会場内のいろいろ動き回ったらしい(僕は後で聞いた)。この日の夕方、僕も参加していたKYKのコンパに出席した時、彼がいたことに驚きを覚えた。そしてコンパが終わった時、成り行きもあったし、障害者解放運動の一翼も担えるという期待もあったしで、彼は僕が住んでいる寮に来ることになっていた。

 そうやって彼は大学の二つのキャンパスでサークルに顔を出し、学生会館でたむろし、そして二つの寮で寝泊まりするという生活に入っていった。僕にとっても、僕が属した二つのサークルの仲間にとっても、そしてまた彼が一人でぽつねんとしていることも多かった文学部の学生ホールに出入りしていた学生たちにとっても、彼は間違いなく異質の存在だった。車いすに乗り、右手は胸元に抱え込んでいる障害者が、左手を弱々しく上げては声をかけてくるのを、避けて通った学生も多かったようだが、一方では座り込んで話をしていく、一緒に生協食堂へ行って食事の介助をする、という学生もけっこういたようだ。

 僕にしても、最初の頃は、「世話をしなくてはならない」「障害者の自立ということを教えなくてはならない」といった気分・姿勢でもって、彼と接していた。そのことについて、一〇年も経ってから、彼のアパートへ泊まりの介助へ行って、「あの時、僕は何も言い返せなかったけれど、君はこう言ったんだ」と言われてしまった。

 僕と彼が一緒に居合わせる場面が、サークルの例会・寮の僕の部屋での泊まり・彼の家への送り迎えといった場面だけでなく、たまたま学生ホールに行ったら居たとか友達と話していたら彼の話になったとか、といった形で増えてきていたこともあって、今こうやってあのころのことを思い出せば、同じサークルにいた友達・寮の仲間・何かあると見かけた顔、と浮かんでくる。

 

吉田君の「自立」と介助そして僕の職場

 吉田君は、八〇年春の大学祭で僕らと出会って一年半後、大学のキャンパスから歩いて三〇分くらいの所にアパートを決めてきて親の家を出た。

 部屋探しをしているらしいとは知っていたが、どんな風に探して結果としてそのアパートになったのかは、彼が引っ越しして週一回くらい泊まりに行くようになってから聞いた。そのあたりのことは、彼が自分で書いているの読んで欲しい。

 引っ越ししてしばらくして引越祝いのパーティが開かれたという気がするのだが、どうも定かでない。彼がそのアパートに住んだ四年間に何度かパーティと称して、大勢の人間が集まる機会があったからだろう。六畳と四畳半という部屋に十人余りが入っていた「パーティ」の記憶がある。一度はそうしたパーティの前夜、友人の家に数人集まって話をした後、酒を飲み、夜中に友人の家を出て途中何度かしら座り込んだあげくに早朝四時ごろ彼のアパートに押しかけた覚えがある。こういうことができたのは、彼も彼の所に泊まりに来てる人も「仲間」という気分が強かったからだろう。

 また、僕が、転校運動の中で「大人たちが健常者・障害者一緒にいて普通に振る舞っているのを見せれないのに、普通学校の子どもたちに障害児を受け容れろと言っても無理だし、障害児にお世話してくれる大人しか居ない訳じゃないということも伝わらない」と考えるようになり、しゅうねんや金井闘争に集まった学生たちと相談して「子ども会」を始めた時、イメージしたのは吉田君と周囲の人間たちのつきあいようだった。

 当時、金井闘争を契機に足立に移り住んだ僕の部屋に、彼から夜遅く電話がかかってきたことも何度かある。泊まりに来るはずの人が来ないので来てくれ、という電話だった。他にも何人かそうやってかけていたみたいだから、僕が毎度毎度というのではなかった。来てくれなかった人間を捕まえて文句は言ったみたいだが、だからといってそれっきり縁切りになったという話は聞いていない。

 大学を出て二つの仕事を経て、前述したしゅうねんの死もあって、僕は二つ目の仕事と子どもではなくなった相手と続けていた「子ども会」をやめた。

 忘れもしない四月一五日朝かかってきた電話でしゅうねんの事故を知らされ、しゅうねんと親しかった仲間たちに連絡を入れて、仲間の一人の家へ集まった。夕方、遺体が発見されて東京へ帰ってきたという知らせを聞いて、遺体の安置所へ行った。その日からほとんど仕事が手に着かず、月末には辞めてしまった。

 しばらくぼんやりしていたら、今仕事をしていないのなら、と声がかかって七月から現在もいる職場・解放書店へ出るようになった。

 解放書店は、吉田君が当時住んでいたアパートからは近く、僕が就職してから彼はちょくちょく姿を現すようになった。車いすが入ると方向転換もできないような狭い店内だったが、来客もほとんどない解放書店で彼は時折昼寝までしていた。幸いなことにというのだろうか、解放書店のメンバーは彼と親しくなり、僕が職場にいるかどうかとは関係なく彼は解放書店に現れるようになった。彼が電動車いすに乗れなくなるまでは毎週一度くらいは姿を見せていた。彼の部屋にいまもある大きなスピーカーは、解放書店へ来るようになって出会ったオーディオ・マニアの作品だ。

 現在の建物へ解放書店が移転する時、解放書店のスペースのトイレを二メートル四方の大きさにしたのは、彼が車いすでトイレを使うのに便利なようにという意識だった。実際には、現在の建物へ移る前に彼の方がマヒの進行で寝たきり状態になり、このトイレをそんなに何度もは使っていない。

 

幸運だったでいいのか?

 書いているといろんなことを思い出す。彼といた場面だけでなく、サークルの仲間のこと仕事のこと、そのころいつも一緒にいた人のこと……。

 僕と彼とそして仲間たちとの出会い、そしてそこから始まった交友を振り返ると、僕はすごくラッキーだったと思う。ちょうど大学内でいろんなざわざわとした動きが広がっていた時期であったし、「養護学校義務化の是非」をテーマに公開討論が持たれだからこそ「行って行く場所がある」と彼が登場したのが第一の幸運だった。また福祉研というサークルそのものが金井闘争を契機に誕生したし障害者解放運動の広がりに加わりたいという願いを持っていた。僕もその一員だったわけだ。もう一方のKYKというサークルも出色の組織者(卒論で「サークル論」なんて書いていたが、実際にTAC、バドミントン愛好会、KYKなどというサークルを立ち上げてメンバーが二ケタはいる大きさにしていた)を得て、まじめな勉強サークルというだけではない集まりを持てていたことも幸運といえるだろう。大学を出てから、学生時代の交友が切れなかったのは、むしろ吉田君とのつながりの大きさと言えよう。そして、職場でも彼とのつきあいを通して、違った側面で同僚と接することができたし、また職場とも学生時代の仲間と違うつきあいを知ることができた。

 しかし、単に僕が幸運だったでいいのか? と思う。

 学生の頃からつきあいがあって、就職してからも、主として「介助」に行った障害者宅で顔を合わせていた親しい仲間が二人、ある日突然「姿を消した」ことがあった。一人は、その日「介助」に行くはずの障害者から僕のところへ、「連絡もなく来ないのはおかしい。具合が悪いのかもしれない。ちょっと様子を見てきてくれ」と電話があって、住んでいるはずのアパートへ行ったところ、引っ越してしまった後だった。もう一人は、やはり「介助」に行くはずの先から「このところ職場に電話をしても捕まらない。様子を見てきてくれ」と電話があって、アパートを訪ねると、すでに職場の同僚が三人心配して来ていた。一番先にやってきた人が管理人に話をして部屋の鍵を開けてもらっていたので、僕も交じって四人でビールを飲みながら待った覚えがある。時期は違うが、二人とも「介助を頼まれたら断らない」と言われていて、週の半分くらいは「介助」で泊まりに入っていたようだ。他にもいろんなことがあったかと思うが、僕のところから見ると「介助者は何も言わずに姿を消してしまう」と見えた。「介助」をめぐって、何を言えばいいのか、どのように言えばいいのか、言ってどうなるのか、と思った時、出口が見えないまま口にしなかったのかと思ってしまった。機会があって彼らと会えたらいいなと思う。

 もう還らぬ人となってしまった別の友人のことを思い出すと、また違ったことを考えずにはいられない。金井闘争に関わるようになって、金井康治君だけでなく彼の弟たちのお気に入りのやさしい目をしたお兄さん(彼らにとってはだ)ノビタ君(と呼ばれていた)と出会う場面が多くなった。いつもいる人だな、と思っていただけだったが、二度の全国闘争(足立区前での長期に渡る座り込み闘争を二度)によって足立区議会の議長による斡旋工作という「可能性」が見えてきた辺りから、動き出した「子ども会」にノビタ君も積極的に関わってきた。そして僕にとっても気兼ねのいらない飲み友達になってくれた。

 就職して老人施設に勤めていたノビタ君は、一方では頼られる「介助者」としてかなり遠方の障害者宅にも泊まりに行ったりしていた。だけではなく、彼は仕事について四年目、職場で知り合った人と一緒になる結婚式に「介助」もしてつきあいのあった二人のCP者を招いた。子ども会で一緒の僕と仲間はそこで「花嫁」を歌った記憶がある。二人で住むようになって、数年のうちに三人の子どもを家族にしてからも、彼は「介助」で泊まりに入っていた。一番下の子が三歳にもならないころ、彼は重病で入院した。僕は、彼が入院してしばらくして彼の高校時代からの友人にばったりと会ってそのことを知らされた。家族に連絡を取って、最初に病院に見舞いに行った時、彼は絶対安静だった。それでも、半年近い入院を経て退院してきた彼の自宅で一緒にビールを飲むこともできた。「二カ月経ったら検査でもう一度入院する」と言っていた。しかし、現実には予定されていたより早く病状の悪化で入院し、そのまま自宅に帰ることなく長い入院生活に入ってしまった。

 彼が入院していること、しかも病状や一時期の状態を聞けばかなりの重病であること、を僕は彼とつきあいのあるCP者たちにも伝えてもらった。御茶の水の駅近くの便利な病院だから一度顔を見せるだけでも喜ぶよ、とも伝えてもらった。

 彼が二度目の入院生活に入り、僕が三度目位に病院を訪ねた頃、髪の毛が抜けてしまった彼は食欲もなく、苛立ちをこらえきれない様子だった。そして、それから一月も経たずに亡くなった。通夜の夜、たまたま介助だった僕と一緒に来たノビタ君の知り合いのCP者以外には、親しくしていた障害者の姿は見えなかった。翌日の告別式にも、さかのぼってみれば病院へも誰も姿を見せなかった、と聞く。

 ノビタ君との交友は、「介助」で関わりのあった障害者たちにとってどういうものだったのだろうか? と思ってしまった。彼が亡くなってすでに五年が経つが、今からでもかつて彼と一緒に取った写真があれが写真を持って、彼との思い出を連れ合いや子どもたちに語るために訪ねて欲しいと、僕は願っている。

 

一人ではできないこと、一人から始めること

 僕が一気に書き上げた「介助をするということ」という文章は、僕の気持ち・考えは書きたいけれど、僕自身のことに触れまいとしたこともあって、最後に突然、脈絡も具体性もない「結論」を書かずにはいられなくなるような文章になってしまった。

 この文章は、タイトルこそ「イメージを探る」などと書いてしまったが、僕は吉田君と出会えて書き残しておきたい体験・思いをしたんだ、というものでしかない。もう少し一般的なイメージを探るには、僕が触れている見知っている、障害者と健常者が日常普段に付き合っている場面は、あまりにも限られている。今現在の僕の日常生活の中には、金井闘争の頃までにさかのぼってしまうくらい以前からつきあいのある何人かの障害者とのつき合いしかないし、ではどこでどういう風に出会うのかという具体的な場所・場面のイメージも、たまたまそこに居合わせただけではダメだ、という以上には広がっていない。というか、以前にもまして少ない人数でやりくりしている職場と、気持ち・関心がいやおうもなくあちこちに向いている中で、一から出かけていって話を聞きだしてそして話を聞いてもらえるようになる、職場にもやってくるようになる、そんなつき合いを未だ目の前にいない障害者とのあいだで持とうという気になっていないのだ。あえて言えば、職場にちょくちょく現れて時には本をめぐる問答などする障害者がいれば、僕も迷わず共生のイメージを語り得る。

 今しばらくは、思いを持った健常者が必要な「介助」を担うことを前提に、障害者が現にいる場所、自宅・施設・通所施設・障害者イベント等々に出かけていって声をかけていかなければ何も始まらない。そういった動きを促すためにも、どのような出会いがあり得るのかイメージを広げていくためにも、日常の「介助」の実際の描写を含む、障害者・健常者双方からの実体験に即した(別に事実の全部を書けというのではない)レポートをもっともっと出して欲しい、と思っている。

 掲げたタイトルの大きさに、本文がついていききれなくなった。この文章はここで終わりたい。

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