共生社会をめざして

「障害学への招待」と「友達」の間……「介助」の課題について

 

斉藤 龍一郎

 

「障害学への招待」を読む

 「障害学への招待 社会、文化、ディスアビリティ」(石川准・長瀬修編、明石書店、一九九九年)を読んだ。全盲の社会学者で大学教官である石川准、開発社会学を学ぶ中でイギリスの障害学に触れ、障害学研究者となった長瀬修の二人が、若い研究者たちに呼びかけてまとめた論集で、日本では初めての試みとなる論集であろう。

 この論集が引き起こすインパクトは、これからさまざまな形で明らかになるだろうが、障害者の運動に関わり反差別の運動に関わってきた僕自身にとっては、興味深いだけでなく、いろいろなことを思い起こさせる考えさせる論集であった。この論集の紹介しながら、共生社会を目指すにあたってのいくつかの課題について整理してみたい。

 長瀬修による「第一章 障害学に向けて」は、障害者自身の努力によって始まったイギリス・アメリカの「障害学」の現状(大学講座、学会、雑誌ほか)を紹介している。イギリスでは障害学の誕生・拡大が九五年の障害差別法制定にも大きく寄与している。

 自ら開発したテキスト読み上げソフトを使ってパソコンを駆使している石川准は、「第二章 障害、テクノロジー,アイデンティティ」で、障害者とさまざまな福祉機器、特にコンピューターをめぐる現状を、テクノロジーという形で実体化された「世界認識」をどう捉えるのかという視点から分析し、課題を明らかにした。

 脳死・臓器移植問題でクローズアップされている「自己決定」について論考を重ねている立岩真也が、「第三章 自己決定する自立」で明らかにした、自立をめぐる「抹殺された歴史」は、八〇年代初めから障害者の自立生活運動にかかわってきた僕にとって、非常にショッキングであった。僕らが当時「自立」について語り合う中で整理し共有してきた考えが全く現在障害者「介助」に関わる人々に伝わっていない、ということが明示されていたのだった。

 「第四章 『障害』と出生前診断」で玉井真理子がくっきりと浮かび上がらせてきた出生前診断をめぐる動きは、医療の問題にとどまらず家族観や女性観にも関わってくる。

 「優生学・優生思想=ナチズム」という「常識」を覆す論考を、丁寧な資料発掘を基に展開してきた市野川容孝は、「第五章 優生思想の系譜」ではさらにおおきな思想史的背景の中で優生思想を捉え解き明かそうとしている。

 「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」と宣言した「ろう文化宣言」を受けた「第六章 ろう文化と障害、障害者」森壮也、「第七章 聾教育における『障害』の構築」金澤貴之の二章は、これまで社会的常識とされてきた障害者観への挑戦であるだけでなく、共生社会とはどのようなものであるのかを鋭く問いかけている。僕自身は難聴が進行しつつあり遠からず補聴器や手話の世話にならなくてはならない、という状態なので、ろう者宣言・ろう教育をめぐる論考は非常に興味深かった。

 「第八章 異形のパラドックス」で倉本智明が論じていることは、自らを「異なるもの」として現実・現状への異議申し立てを行っていくという活動が、たどった軌跡を明らかにしているという意味でもおもしろい。

 この論集の著者の中では最年長であり、CP者(脳性マヒ者)としてさまざまな活動に関わってきた花田春兆は「第九章 歴史は創られる」の中で、アメリカ障害学会に参加して感じた「歴史・文学への視点の弱さ」への指摘を、批判に終わらせることなく具体的な作業に向けた手がかりを提示している。

 「第一〇章 障害学から見た精神障害」の中で山田富秋は、医療の対象とされて管理の対象とされてきた精神障害者たちの運動は医療そのものへの問いかけ秩序・日常性への問いかけへとつながっていることに視点をあてている。

 

僕のやってきたこととの関わりから

 かけあしになったが、これまでに例のない論集であることはわかってもらえたと思う。

 先に述べたように、僕自身は研究者でも障害者福祉の専門家でも、また福祉の仕事に従事しているというわけでもない。それでも、大学で精神医療をめぐる運動との接点があって何人もの精神病者と知り合い一緒にお茶を飲んだり電話で話をしたりするようになったし、八〇年にCP者金井康治君の普通学校への転校運動に関わって以来、多くの障害者と出会ってきた。そして、「自立生活」を営む障害者の「介助」に関わり、精神病院に入院する友人を訪ねる、という関わり合いが現在まで続いている。だから、この本に書かれていることにつながる議論や情報には触れる機会が多かったと思う。

 読みこなせたかどうかはさておき、この本で語られていることに対し共感を覚える部分もあるし、「ろう文化宣言」をめぐる一連の議論に関わっては、難聴が進行していて遠からず補聴器や手話を使うことを覚えなくてはならない自分の身の居場所・行き所がどこなのか、と気になっても来る。

 その一方で、二〇年来の「障害者介助」への関わりの中で感じてきた諸問題に直接に対応する論考がないことに苛立ちを覚えたし、身近では切迫した問題である障害者と医療の問題、直接には二次障害の問題での論考がないことに、大きな不満を覚えた(これは、ほとんど八つ当たりだが)。

 そうした中で、CP者の友人である吉田君が僕の職場を使って口述していた文章、最後は彼自身が、非常におもしろい機器を使いパソコンで書き上げた文章のことを思い出した。彼自身は二次障害で、現在、両親と同居してほぼ寝たきりだが最近インターネットへも接続し、これまでとは違った交友を広げていこうとしている。「友だち」と題する彼の文章自体は、この後に掲載したのでぜひ読んで欲しい。

 僕自身は、彼が「友だち」を書き上げて、「これ読んでね」と渡されて読んでから三年経って久しぶりに読み返して、懐かしい想いと苦い思い出と、僕から見えていなかった吉田君を改めて発見したような気分とにおそわれた。

 具体的には、一時期の吉田君の周りにいたのは、ほとんどが僕のサークル仲間で、彼の動きぶりは特に意識しなくとももれ伝わってくる、彼の交友関係は、僕の仲間内で終わっている、という感じがしていた。それは、僕の思い上がりだったと言えるだろうが、彼が常時「介助者」をそばに置いているということは、彼の動きが全て見られている、僕には見えている、という感覚であった。もっと直接的には、僕自身が「介助」をしていれば、彼が電話で話している時に聞こうとしなくとも聞こえてくる、彼が会う相手には会ってしまう、ということであった。

 でも、吉田君の「ナンパ」は僕の予想を超えた交友につながっていた。

 だから思い出されてくる、とあるCP者の死がある。この人は、施設を出て「自立生活」をするために東京へ出てきた。養護学校義務化阻止闘争の広がり、金井闘争への結集という時期を得て、「介助者」集めが順調にいき、程なく「自立生活」が軌道に乗った。そして、三年を東京で過ごし事故で死んでしまった。夏の暑い盛りに、食べたものをのどに詰まらせ呼吸困難から昏睡に陥り、手当のかいなく死んでしまった。この人が死んでしまってから、「介助者」たちが集まって、自分とこの人との関係って何だったんだろうかと話し合った。「人の暮らし・気持ちを暴き立てるようなことには加わりたくない」と言って参加しなかった「介助者」もいた。僕は、直接「介助」に関わってはいなかったが、集まりに参加している中にそのころ親しかった仲間が何人もいたので、二年続いた集まりに参加し結果として死んでしまったCP者のあれやこれやをいろいろと知ってしまった。その時に感じたことを、今あらためて思い浮かべる。この人は、「自立生活」をしようとする中で、よく知らない「介助者」がいつもそばにいるのに、それまでの交友関係とは縁遠くなってしまったのだな。そして、どう話したらいいのかよくわからない「介助者」とではなく、スピーカーホンでふるさとにいるお母さんと毎夜毎夜話すこと以外には選択肢がなくなっていったのだろうか? と。

 

生活に踏み込んでいく「介助」

 前述した集まりのまとめとして作った「書けなかった介護ノート」は、当時集まった人間たちの意図とを超えて「人の気持ち・暮らしを暴き立てる」ものだったのか、と今にして自問する。死んでしまった人のことを、書くのだから、死んでしまった人の気持ち・意図に沿ったものになるはずはないし、その人に一番近かった人は母親であったが、母親の気持ちを逆なでするかもしれない、と感じたことはあった。

 そこではっきりと見えてくるのは、「介助」という行為が、障害者の生活に、障害者のいる家庭の生活に、ズカズカと踏み込んでいく、という事実だ。在宅障害者にかかわっては、「介助」について、「介助」を受ける当事者がコントロールするのか、家族がコントロールするのか、という問題がすぐにでも起こる。

 障害者本人の意図・意思と、「介助」をする人間の判断とに大きな開きがあった場合どうするのか、なんていう問題にも直面する。

 こんなことは具体的に書かなければ話を進めようもない。でも、僕は、どこで誰とどうやって話をしながら、次への展望を開くのか、という点について、わからないでいる。

 「友だち」には、僕自身がやった、吉田君への「価値観押しつけ」の場面が書かれている。文章になる前に、彼のところへ泊まりに行っていた時、夜布団の中で、「あの時は何も言えなかったから、今は言っておきたいんだけど」と前置きされて、「あれは押しつけだったね」と言われたことがある。言われて、かつての自分を思いだして冷や汗をかいたことと、その一方で、言ってもらえたんだ、これでこれからも付き合っていける、と思ったことを、覚えている。

 振り返ってみれば、僕が金井闘争への関わりの中で多くの障害者たちと知り合ったのは、二十歳も過ぎて、大学もそろそろ卒業するのかな、という歳の頃であった。それも、反差別・障害者解放というスローガンに惹かれてのことだっただけに、まず「友だち」にという発想はなかった。そして、それまでの生活圏の違い、生育歴の違いの大きさもあって、すんなりと「友だち」になんかなれなかった。動ける僕の方が、自宅へ、通っている作業所へ、出かけていくことからしか何も始まらなかった。そして、他人の家へ入り込むことになった。大学の友人の家へ連れられて遊びに行ったことはある、僕の実家に大学の友人が遊びに来たこともある。でも、「介助」のために訪ねていく家での家族との関わりは、友人たちの家へ行った時とは大きく違った。

 

これからの課題として

 まだことばとして定着していないが、「共生社会」ということを考える。

 僕が学生だった時、大学に全盲の新入生が入ってきた。初めてのことだった。点訳・対面朗読をするサークルの活動が活発になり、大学も通路の一角を仕切って「対面朗読室」を設けたりした。そういう学生が一人居ると確実に変わる、ということを感じた。「友だち」の著者・吉田君も一時期は、ウィークデーの昼間はほとんど大学内にいた。声をかけられて、彼のアパートまで送っていった学生は何人もいたようだし、彼が「生協で働いている人が泊まりに来てくれた」と言っていたことも覚えている。僕の職場でも、彼がちょくちょく姿を見せていたので、新しい建物を建てて移転する際に、トイレは大きくなった。車いすのまま入って方向転換できるくらい大きい。

 まず一緒にいるということだ。そのために、「介助」が必要になる。一緒にいて、手伝えることなら手伝うよ、という雰囲気ができるのが望ましいし、実際にいれば手も出る口も出る。しかし、意図してでなくては、健常者と障害者が同じキャンパスにいる同じオフィスにいる、とはならない。そのための「介助」というのは意識的な行為だ。「共生社会をめざす」という意識がなければ、見も知らぬ障害者を「介助」して一緒にいる場面を作ろうとはしないだろう。一方、障害者にしても「共生社会をめざす」という意識がなければ、誰ともわからない「介助者」を心待ちにすることはできないだろう。

 そういった視点で、ベストセラー「五体不満足」を読むと、一緒にすごすってすごいな、と思いながら、東京でも障害者の自立生活運動が進んでいる世田谷、東京コロニーが本拠を置く新宿外山町の周辺の障害者関連施設群といったものの姿についても、もっと知って欲しい、という気分になる。「親が望めば障害児を受け入れるのは当然」と全国の自治体の教育委員会に認めさせたのが、障害者自身による就学闘争、養護学校義務化反対運動だった、ということも常識になって欲しい。

 「共生社会をめざす」イメージを探ることは、具体的なさまざまな行為と結びついている。どういう行為が、どういう方法が必要なのかを探りつつ提示していく作業の一端に関わっていきたい。


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