金井康治さんの死が投げかけるもの

『金井康治によせて……』を読む

 

斉藤 龍一郎

 

金井康治さんの死を悼む

 九九年九月一一日、金井康治さんが亡くなった。六月に誕生日を迎えた三〇歳、「慢性アルコール性肝障害での急死」であった。

 脳性マヒ者である金井康治さんは、七七年から八二年にかけての六年にわたる闘いによって、養護学校在籍から弟たちも通うことになる地元の中学への進学を勝ち取った。このことが障害児の普通学校就学運動にとってどれだけ大きなことだったのかは、様々な形で証言されている。その一端はこの文章でも後に紹介したい。部落解放同盟東京都連も、金井さんの転校運動には積極的に関わり、運動の成功に一役を担ったし、また一方で新たな共闘関係をいくつも結ぶことにもなった。

 一二月一一日、「故金井康治さんを送る会」が開かれ、金井さんの急死から三カ月を経て、改めてさまざまな人達から金井さんとの関わりが語られた。その会に合わせて作成された『金井康治によせて……』と題する文集にも、七九人が文章を寄せている。この文集は、会の参加者に配布されただけでなく、九月一二日・一三日の葬儀参列者に送付されることとなっており、また部数に限りはあるものの実費での頒布も行われる予定と聞く。さらに、文集の中で新たな文集作成の呼びかけがなされており、やはり一二月一一日に公開された「かないこうじのページ」と題されたインターネット上のページでも、もっともっと語り合っていこうとの呼びかけがなされている。

 金井康治さんの転校運動、中学・高校生活そして地域での自立生活の歩みが、家族や親しい友人たちだけに止まらない多くの人々に支えられ、関わったものであったこと、そしてまた、金井さんとの関わりをとおして、それぞれの人が感じとったもの、得たものの大きさが、九月の葬儀、一二月の送る会そして二〇〇ページを超える文集にはっきりと現れている。それはまた一方で、彼の死が投げかけるものの大きさでもある。文集に文章を寄せた障害児を普通学校へ全国連の北村さんは、全国呼ばれて行った先々で、「金井康治さんはどうしていますか」と聞かれてきた、そして九月一一日からは「金井康治さんはどうして亡くなったのですか」と聞かれ続けている、と書いている。亡くなった後、九月半ばには朝日新聞が、九月末には読売新聞が全国版で追悼記事を掲載した。(僕の所にも、読売新聞を読んで金井康治さんの死を知った、と鹿児島にいる友人から電子メールが来ている。)これからもさまざまな形で、金井康治さんとの関わりを語ることばが発せられ、明らかにされていくことは間違いない。

 金井さんへの追悼の意を込めて、文集『金井康治によせて……』から見えてくることを書き記したい。

 

転校運動

 金井康治さんは、養護学校から弟も通うことになる地域の小学校への転校を希望した。それに対する当時の足立区行政・学校(花畑東小学校)・教職員組合(都教組足立支部)の対応は、足立区が区役所前に二億円をかけて鉄柵を立てたことに端的に現れたようにすさまじいものがあった。学校は、自主登校で門前にいる金井康治さんが校内のトイレを使うことさえ拒否し、あげくにはトイレを使おうと校内に入った支援者を「不法侵入」で逮捕させ、有罪失職にまで追い込んだ。教職員組合は「障害児が入学すると学校がめちゃめちゃになる」と宣伝し、金井さんを地域の中で孤立させようとした。

 この転校運動との関わりを伝える文章が、文集の中にもたくさんある。「となりの区で奇跡を起こしてくれた」と題された北区たんぽぽ会の山本さんの文章、「康治さんとぼくの娘と」のタイトルの山田真さんの文章などが、転校運動が障害児の普通学校就学運動に及ぼした大きな影響=親が希望すれば障害児の普通学校就学がほぼ実現するという状況を、鮮やかに書きとどめている。「涼さんの普通学級入学を認めなかったら足立区のようになりますかねぇ。……」ということばが、日本中で教育行政に携わっている人達の中から発せられていたし、そこから始まる障害児を受け容れていく学校の中から『五体不満足』の登場したのだ。

 視点を変えてみると、時はまさに「七九養護学校義務化」が強行された時期であった。七八年には、滋賀県の止揚学園がそれまで取り組んできた地域の小学校との交流を拒否されるという事態の中で「養護学校義務化反対」の声を伝えるため五〇〇キロ行進を行っている(金井さんも途中参加している)。金井さんが養護学校に入学した七六年に誕生した全国障害者解放運動連絡会議も養護学校義務化阻止を大きな課題として掲げ、七九年に文部省前全国闘争を闘っている(この時の記録映画「養護学校はあかんねん」は障害者自身による闘いを、映像そして音声で鮮明に残している)。大阪の解放教育運動の中から始まった障害児の普通学級受け容れ実践、いくつかの小児科病院での取り組みから広がりつつあった障害児を地域へ地域の学校への運動、そして部落解放同盟の反差別共同闘争の取り組み、それらが「鉄柵を突き抜ける」闘いに結集した(鉄柵の建てられた足立区役所前での八一年・八二年それぞれ一月に及ぶ闘いへの参加者は、千数百人におよぶ)。この闘いの意義とその中での障害者自身の運動の意味を、矢内健二さんの追悼文は明記している。ことに、「闘争中、拡大会議では、『康治君には転校できるまで花畑東小で自主登校をしてもらいたい』という人柱とも取れる発言に対して、全障連の仲間から『運動の犠牲にさせるな』等怒りの発言が出たそうです。」との記述は、全障連の運動の目指すものが何であるのかも、はっきりと語っている。

 

金井さん一家との関わり

 金井康治さんが普通学級への転校希望を明らかにしたのは、小学校二年生八歳の時のことであった。それから六年の闘いを経て花畑北中学校へ入学して転校運動に区切りがつくまでも、そしてついた後も、金井さん一家の住む公団住宅の一室は、常に誰かしら家族ではない人が出入りしている状態が続いてきた。

 康治さんと母親の律子さんが区役所との交渉に臨んだり、さまざまな集会・行動に参加している時、弟たちは一緒に行くこともあれば、自宅で帰りを待っていることもあった。その弟たちの世話(保育変へ迎えに行く、食事の準備をする、一緒に食事をする、一緒にお風呂に入る、病気になったら病院へも行く)や、律子さんが出かけていない家の家事(炊事・洗濯・留守番)にもほんとうに多くの人達が関わってきた。そのことに触れた文章も多いし、また文集に収められた多くの写真が、そうした場面をいくつも捕らえている。

 また一方では、弟たちの文章には、いて欲しい時にいなかった律子さんへ思いを語った部分があるし、金井さん一家とことに関わりの深かった「金井康治君の花畑東小転校を支援する会」中心メンバーである村田さんは「転校闘争は人々に大きな献身を要求し、その奔流の中で人間関係はきしみ、時には悲鳴をあげざるをえなかった。闘争の始まりと共に生まれた息子を含め、金井家とは家族ぐるみでつき合いが深まり、お互いの離婚劇なども身近な所で経験した」とも書きとどめている。

 そして、金井さん一家の子どもたちが、思春期を迎えそれぞれに自らの意思を表現し、自らの歩みに踏み出して行く中で、それぞれが周囲の人々と新しい関わり合いを持ち始めてきたことも、忘れてはならない。

 

金井康治さんの中学・高校時代

 転校運動は、金井康治さんが花畑北中学へ入学することで区切りがついた。康治さんの中学時代は、掲載された何枚もの彼の笑顔の写真が雄弁に物語っている。当時の同級生も追悼のことばを寄せており、彼と康治さんが近年会った際の写真も掲載されている。

 中学での生活を踏まえて、彼は高校進学を選び、近くの淵江高校にこだわった、と聞く。そして自主登校、南葛飾高校定時制への入学を経て、八七年から淵江高校に通うこととなった。高校の入学式出席の際、門前で撮った写真そして修学旅行の写真、クラスの仲間との写真が文集に掲載されている。一二月一一日、故金井康治さんを送る会会場で上映された当時のテレビ報道を編集したビデオによると、高校三年生のクラスで起きた一連の出来事は、金井さんに大きな影を落としているようだ(詳しくは、本誌掲載の三浦さんの文章参照)。

 

高校卒業後、足立で生きる

 文集掲載の年譜によると、金井さんは九〇年三月に淵江高校を卒業し、その年の一二月に「東京障害者労働センター・東部」職員となっている。自然食品の店「椿屋3」に勤務、花畑団地で自立生活を始める、と年譜は続く。

 翌九一年四月に《足立・障害者の自立と介護保障をかちとる会》を結成し、足立区交渉をはじめ生活の安定と権利の向上を目指して活動を行う、とあり、足立での自立生活への歩みが記録されている。九三年には、花畑団地の一室を出て遠からぬマンションに引っ越し、九五年には西新井駅近くの賃貸アパートに引っ越している。

 

北区中里への引っ越し

 九七年、金井さんは北区へ引っ越している。このことに関しては、複数の人が文章の中で触れている。吉田さんは、「私は、ただ、運動的に康治は足立の続いてくる世代に対して指導的立場になるべき者だという思いこみがあった。康治にとっては、この大人の一方的な思いこみは迷惑なことであったろう。周りを見れば、お説教をたれる大人達ばかりというのは康治にとって閉塞感の基となった。晃史は深酒にはまっていった。康治はこの大人の押しつけに対して『否』を主張した。足立を出て北区へ移るというのである」と書き、村田さんは「金井が足立を出る、と言いだした時、何度も『それで何かやりたいことが見えてくるのかい』と止めに入った。『それはわからないが、新しい関係がつくれるかも』という金井を私は説得しきれなかった」と記録している。

 北区で金井さんは、《モグラの会》に参加し、介護保障や住宅要求といった北区交渉を行いながら、旅行や各種イベントにも参加してきた、と聞く。また一方で、九八年には、自立センター・足立(やんま)設立に参加と、足立区の仲間達との交流も続いている。

 北区へ移ってからのことを、佐藤(恵)さんは「一昨年北区に移り住んだ康ちゃんと王子の居酒屋で会う機会があった」「『家近くだから、今度遊びにいらっしゃいよ』と軽口をたたき別れた」と記している。小島さんは、「今年の三月、小春日和の日の午後、北区役所の近く路上でした。薬がいっぱい入った大きな袋をかかえて病院からの帰りだといっていました」と出会いを書き留めている。

 

 以上、年譜を追うような形で金井康治さんとの関わりの記録を読んでみた。もっと違う読み方も当然できるし、こういう形では読み取れない関わりは大きい。「康治君は一人では飲めない」と千田さんが書き、「ガブ飲みにも近い飲酒に体の不調は絶えず、それでも『飲む』と言い続けた彼に、この数年の介助者会議での話し合いはいつもそのことで紛糾。『体を大事にすべきではないか?』『好きにさせて』ー体を張ってぶつかり合うこともしばしばだった」と元介助者岩淵さんが書いている。介助をめぐる問題は、一方で片桐(し)さんが「私とは違い、そんな重苦しさの中で、目をそらさず、持続に耐えていた介助者たち、友人たちがいたことは、金井くんを大きく支えたに違いない。持続に耐えたという点では敬意を、私などとは比べものにならないくらい金井くんと深くつきあったという点では羨望の念を、彼らに対して感じている」と書きとどめる時、さまざまな立場から、まだ語られていないことばがあることを感じさせる。

 

 

 最後になるが、僕自身のことを少し書いておきたい、というより書かなくてはならないと思う。『金井康治とともに……』を読むにあたって、僕もまた客観的な第三者ではあり得ないからだ。

 僕は、八一年の秋以来、足立区に住んでいる。時期が物語るように、金井康治君の転校運動に関わるようになって花畑へ通うようになり(当時、三鷹に住んでいた)、池袋駅からほど遠くない所に半年住んだ後、花畑の、それも金井康治君の花畑東小学校転校を支援する会の事務所となっていたアパートの一室に移り住んだ。その部屋に二年近く住み、近くのアパートに移って八四年夏までは花畑に住んでいた。花畑から西新井駅近くの現在のアパートに移った時には、僕自身は、金井さん宅を訪ねることも、金井康治君の介助に入ることもなくなっていた。だから、康治君の中学・高校時代のことは、活動報告・新聞記事等の形で伝わってきたこと以外、何も知らない。後に、今回、文集製作の実務(写真選択、DTP作業)をこなし、またウェブページ「かないこうじのページ」を立ち上げた、洋君とは時々会う機会があって一緒に遊びに行ったりもした。律子さんとは、部落解放同盟足立支部の闘い・足立区同和対策集会所裁判闘争で月に何度という回数で出会う場面があった。

 文集『金井康治とともに……』を読んでいて、顔が浮かんでくる人もたくさんいる、佐藤正人さんが「あの頃君を深く支えてくれた幸ちゃんや広瀬さんに再会できましたか」と亡くなった康治君に問いかけているのを読んで、僕も広瀬君の二年近くの闘病生活だけでなく、たいして広くもない広瀬君の部屋に金井さんちの三兄弟が泊まりにやってきていたことや、「これから康ちゃんが泊まりに来るんだ」と広瀬君が言っていたことなどを思いだしてしまった。

 そして文集の62p〜63pの文章の背景に使われている大きな写真のちょうど真ん中に写っているしゅうねんのことも忘れるわけにはいかない。

 金井康治君の転校運動がきっかけで、僕、市丸君、犬塚さんと足立に住むようになった。後にしゅうねんも足立区に移ってきたし、もっと後になって三浦君も移り住んでいる。そういう関わりのある人間たちが書いた文章を並べた、と思って読んでもらえるとうれしいです。

 

追記

文集『金井康治とともに……』については自立センター・足立(やんま)へ問い合わせて下さい。

〒121-0813 足立区竹の塚6-9-7 オークビル405

電話・FAX 〇三ー三八五〇ー二二九九

 

ウェブページ「かないこうじのページ」のアドレスは

http://www.labyrinth.co.jp/~kohji/

です。掲示板もあります。関係リンクもあります。