介助をするということ

斉藤 龍一郎

 今、手元に「障害学への招待」という本がある。長瀬修・石川准編著のこの本には、大学や研究機関に籍を置く研究者のほか、ろう者・CP者(編者でもある石川准は盲者でもある)による論文が掲載されている。興味深くそして障害学の広がりを感じさせる本である。

 一方で目次を見ていると、障害者の医療問題、障害者と社会保障、障害者と教育、といったタイトルあるいはジャンルについて言及されていないことに、現在、障害学に関わっている人々、障害学を提唱しているグループの広がりの小ささを感ぜずにはいられない。そうした現状であるからこそ「障害学への招待」なのであろう。

 この本の著編者たちがどのような対象に向かって問題提起をしているのか、障害学への誘いをかけているのか、について、収録論文によっては明示されている。そうでない論文も、この数年、著編者たちが書き進めてきたいくつもの論文や作業を踏まえてかなり集約的にかかれており、一読して読み解けるという論集ではない。

 この本を読んで、研究者でも施設職員でも社会福祉関連業種のどの分野のプロ(専従者、従事者)でもなく、また障害者でもない(かなり難聴が進んでいるので、この否定部分はどう判断するのか迷うところもあるが)が、この二〇年近く「障害者介助」を続けてきた人間として、僕は言うべきことがある、言わなくてはならないことがある、と感じた。しかしまだ、そのことをどのようなことばで要約して言えるのかわからない。はっきりしているのは、僕は介助を「仕事」としてやってきたのではなく、またこれからも「仕事」にしたくはない、ということだ。

 僕自身の体験、そして限られた見聞への中で、何とも整理のついていないことを書いてみたいと思っている。読んで、事実関係の訂正、問題指摘、批判をしてもらえるとうれしい。

 

二人のCP者の死

 僕が「障害者介助」に関わり始めたのは、一九八〇年と言えそうだから、やがて二〇年になる。最初に介助をした障害者(僕が介助をしたことがあるのはCP者=脳性マヒ者だけだ)とは、今も(介助をするしないは別にして)つきあいがある。といってもけっして多くのCP者の介助にかかわったわけではない。かなりの頻度・期間で関わったのは四人だ。「障害者介助」を仕事とする人たち(施設職員、ヘルパーなど)が関わる・関わらざるを得ない障害者の数とでは比較にもならない。

 そうではあっても、忘れられないことがいくつもある。Hさん、Mさんの死は、その中でも忘れられないだけでなく今もさまざまな思いを引き起こす。

 Hさんが亡くなって、すでに一六年目を迎える。関東地方のとある町からHさんが出てきたのは、亡くなる四年前のことだった。

 Hさんが施設を出て東京へ出てくるに至る一連の経過は聞いたことがあるのかもしれないがもうほとんど覚えていない。僕にとってHさんのことが忘れられないのは、Hさんがなくなってから二年間、Hさんとの関わりとなんだのだろうか、と介助に関わった人間たちが集まって話し合い「書けなかった介護者ノート」をまとめたということがあったからだ。友人が何人も介助に関わっていた、僕自身も直接の面識があった、ということもあって、僕もこの話し合いに参加した。その中で出てきたいくつもの問題は今もすっきりとクリアーされたとは思えない。今ここでは、Hさんが東京で肉親とは離れて介助者とともに生活をしていた中で、自室での事故でHさんがなくなった、ということの意味を考えてみたい。Hさんのそれまでの生き方や考え方との関係の中で、この事態を考えることも必要だろうし、また、Hさんが亡くなった後で遺族から「こんなことになるのなら家族一緒に暮らしていればよかった」という声が出たということを出発点に考えることも必要だ。その一方で、事故が起きた時にたまたま居合わせることになってしまった「介助者」にとって、そのことはどのようなできごとだったのかと、同じ状況に居合わせる可能性を感ぜずにはいられない僕自身としては考えないわけにはいかない。

 Mさんの死は、一〇年くらい前のことである。僕はMさん個人とはほとんどつきあいがない。集会だとかイベントだとかで顔を合わせるので、僕はMさんを知っている、ほぼ間違いなくMさんも僕のことを知っているという関わりでしかなかった。にもかかわらず、Mさんの死が印象に残っているのは、Mさんが亡くなって真っ先に連絡が入ったのが僕の職場だったからだ。
 Mさんは旅行で行った温泉場で事故でなくなった。その時に介助をしていた介助者は、Mさんの家族や親しい友人の連絡先がわからなくて(アドレスブックには名前も連絡先も載っていたみたいだが、誰がどういう人なのかわからなかったみたいだ)、僕の職場へ電話をかけてきた。僕の職場の電話番号も、アドレスブックで知ったという。

 医者、看護婦、消防士、警察官、老人施設や障害者施設の介助担当の職員、思いつくままにあげたが、こうした人々は仕事に携わっている中で、患者さんの事故に出会った人のあるいは高齢者の死に直面する場面があることを、どこかで知っているし知らされているし、またどう対処するのかについて指示・教示・訓練を受けている(だろう)。ところが、Hさんの場合もMさんの場合も事故の場面に居合わせてその結果死んでしまうという場面に居合わせたのは、「ボランティア」として介助に関わっていた人たちだった。

 現在ほど「自立する」障害者も、「ボランティア」で「障害者介助」に関わる人の数も多くなかった中で、僕にも直接響いてくるところで二人の人が死んでいる。今は、もっと多くの障害者がそして高齢者が介助を必要としているし、それに応えて「ボランティア」で介助をする人の数も増えている。とすれば、前述したような事故に、「ボランティア」の人たちが出くわす場面は確実に増えているだろうと、推測できる。

 ボランティア活動としての「障害者介助」は、子ども会活動や相談活動のような対人型のボランティアの中でも、死に至るような重大な事故(トイレを使用するために車椅子からボランティアが手を貸して移動している時にこけて頭を打ってしまう、なんてことはけっこうある)に出くわすことが多い活動だと思われる。

 こうした視点からのボランティア活動に参加すること、あるいは障害者介助をすることの実態を集約・整理・報告したものを、僕は知らない。僕が「研究者」ではなく、またボランティアの組織化や呼びかけを「職業人」として行っているわけではないから、たまたま目にする手に取る範囲の情報として、こうした報告に触れていないということだとは思うが。

 もっと僕自身の立場に引き寄せて、Hさん・Mさんの死を振り返ってみると、事故の場面に居合わせることになってしまった「介助者」へのフォローはどうだったのだろうか、ということを今にして思う。

 障害者介助時の事故は、子どもたちを連れて公園へ行ったら鉄棒から落ちてケガした子が出た、というのとは違う部分がある。食事の介助をしていたらのどに詰まらせてしまった、お風呂場で介助していて滑って転んだら介助されている障害者がケガをした、車椅子で出かけるのを介助していて段差に当たって車椅子が横転してしまった、といった僕の目にもパッと浮かぶケースのどれを見ても、介助するという行為が直接に事故に結びついてしまっている。その意味では、医療事故に近いものがある。施設内では、こうした介助時の事故と介助をしなかったことによる事故とがあるのだろう。医者・看護婦といった医療従事者そして施設職員として直接、障害者・高齢者の介助に当たっている人たちは、職業訓練の一環として事故について学び、職場の仕組みとしてフォローを受けることになる。社会福祉協議会や各種のボランティアセンターもボランティアに対してそうした事故に関する注意そしてフォローを行っているのだろうか?

 僕自身が「障害者介助」に関わり始めた頃には、起こりうる事故について注意を受けるなんていうことはなかった。誰も経験したことがなかったからだ。僕が介助に関わったCP者たちも日常の行動や外出時に関わる介助の方法について一般的な指示をし、また具体的に食事をしながら、こうしろああしろといった指示をしていたが、たまたま事故と言うほどの事故(腕でだきかかえて部屋の中を移動していて、CP者の足が部屋のドアにかなり強く当たってしまったというようなことは少なからずあったが)には出くわさなかったので、介助されているCP者が指示できないといういう場面に遭遇しないで今に至っている(これからもないとは言えない)。

 

障害者の自立と介助者

 Hさんが死につながる事故に遭遇した時にそばにいたのは介助者で、一緒に病院へも行っている。その後、病院でHさんが亡くなる時には遺族が側に詰め、Hさんの遺体は遺族に引き取られふるさとの町で葬儀が行われた。

 Hさんが東京に出てきたのは、ふるさとの町にある障害者施設(生活施設)から決別し自立生活をするためだった。当時、自立生活を選び・選ぼうとする障害者が都市部特に大学の近くに住居を探すというのは、よく聞く話だった。Hさんも東京へ住まいを完全に移す前に何度か東京で開かれる障害者に関わる集会(養護学校義務化反対運動、障害児の普通学校への転校運動、ほか)に参加しては、会場で介助者募集(当時の表現で言えば介護者募集)のビラをまいていたようだ。

 Hさんの介助に入っていたのは、一番最初は施設にいた頃からつきあいのある障害者運動の活動家たちだった。しばらくして介助者の大多数は学生たちになった。

 四年近くHさんが自立生活を続ける中で、介助者の多数、特に昼間の介助者はほとんどが学生だった。介助者たちは、特定のボランティアセンターに組織して派遣されているというのではなかった。大学ごとにセンター的な役割を果たすサークルや場所はあっても、多くはHさんにビラを渡され、話を聞く機会がありやってきた個々別々の人であり、また友人に誘われてやってきたという介助者も多かった。つまり、ほとんどが経験も知識もなくやってきたボランティアだったわけだ。

 多分、多くの人を動かしたのは「自立」の理念と、現に目の前にして「介助者がいなければ死んでしまう」と訴える存在の強烈さだったろう。少なくとも僕自身は、「障害者の自立」という理念に虚を突かれた思いをしたことがあったし、転校支援運動の集会へ行って出くわしたCP者に介助に来てくれと言われて拒めないなと思っていたのは間違いない。誰に言われたのかを気にするようになったのは、目の前にいるこの人(CP者)は一体誰なんだろうと考えるようになったのは、もっとずっと後のことだった。

 自立生活をする障害者と介助者の関係をいわば突き詰めた形で露わにしたのが、Hさん・Mさんの死だった、と思っている。前述したように介助者にしてみれば、自身の行為と障害者の事故とが切り離せない場面がほとんどであろう。「何でこんなことになるの?」とその時になって初めて思うかもしれない。障害者の介助者への思いについては、僕は推し量るしかなく、ここで書けはしない。

 ちょっと距離を置いて別の視点から見てみると、在宅の障害者のもとに常時介助者が詰めるという形での自立生活がありえると思うが、僕の知る範囲では夜の泊まりの介助者を受け入れている家庭はない。年に何度かのことであればともかく、常時「介助者」という他人が家庭内にいて、それもいつも同じ人ではない、という状況は、「家庭」の住人にとってはかなりの苦痛なのだろう。日中、介助者が在宅障害者の「家庭」にとどまるというのもまだまだ少ないのではないだろうか(この辺りは、よくわからない)。どこかへ出かける時、入浴したり、あるいは文章を書くとか本を読むとかといった何かしらの特別の行為をなすために介助者を入れる、という感覚が強いのではないかと思う。

 もう少し視点を変えてみれば、先に「自立する障害者」がいるわけではない。ボランティアで在宅の障害者の相手をしてくれる人の行為を「介助」と呼ぶこともあるだろうが、いわばその時々の「介助」をする人という以上の「介助者」が見えてこなかったら、施設を出てあるいは親の家を離れて「自立」することを選ぶ障害者はいなかっただろう。その意味では、障害者の自立と介助者というのは表裏一体の関係にある、と僕は思う。しかも、「介助者」となることをいとわない・引き受ける健常者・障害者が、施設を訪れ障害者の自宅を訪れ、障害者の日常生活の介助に関わるというプロセスがあって初めて、(介助の必要な)障害者は施設の職員による介助と管理(こんなことばで意識しているかどうかは問わない)、家族特に母親による世話と管理とは違った「介助」をイメージする。そこから自立生活までにはまだまだ大きな隔たりがあるが、ここからしか「自立」への選択は始まらない。

 僕はここで、「介助者」になり得る健常者・障害者が(多くは意識して)障害者に「自立」を具体的なものとして到達しうる目標として示唆し提示してきたことの重要さを強調したい。ことに七〇年代後半以降広がった「自立生活」運動とでもいうべき障害者の自己主張とそこから始まる障害者運動は、多くの健常者・障害者の「介助者」の登場と働きかけなくしてはあり得なかっただろう。

 にもかかわらず、誰にとっても(「介助者」にとっても「自立を選ぶ障害者」にとっても)「前人未踏」のボランティアによる(職業人ではない)「障害者介助」による自立生活は、Hさん・Mさんの事故死や病死・二次障害による重度化といった、障害者の生活にさけがたい、また健常者の日常生活に比してより頻度の高い困難とぶつかっていて、まだ正面きって問題にしきれていないのではないか。

 

「障害者介助」への僕の関わりとこだわり

 もともと結論を出すことを目的とした文章ではないが、書き進めているとほんとに「パンドラの箱」を開けたような気分に陥る。ともすれば概括的・普遍的な問題として論じようとし始める自分にも改めて気づかずにはいられない。

 出発点に戻って、僕自身の「障害者介助」への関わり・こだわりを整理してみたい。

 僕が「障害者介助」ということを意識し始めたのは、八〇年に金井康治君の転校実現運動に関わってそれまで出会ったことのなかった障害者たちと出会ってからのことであった。時期も時期で、転校実現運動の集会に行くと何人もの障害者が「介護者募集」のビラまきそして話し込みオルグをやっていた頃のことだ。

 ことばとしての「介護」が先にあって、「介護」をしなくてはならないといった気分につきまとわれていたのが、当時の僕であった。だから、大学祭の障害者教育のシンポジウムで「障害者」が発言を求めながながとしゃべった時、「これは出番だ」と思った。

 この時発言したYさんは、友達が声をかけたのでやってきた人で、シンポジウムの会場までは友達が「介助」してやってきていた。墨田区にある自宅(親の家)へ帰るというのを僕と友達二人と計三人で送っていったことを覚えている。そして家へ向かう途中でYさんが「明日も来たい。迎えに来て欲しい」と言ったので、その翌日友達が迎えに行った。

 二日目の大学祭の会場では、僕はYさんとは顔を合わせただけだったが、夜、そのころ住んでいた大学の寮へ戻ると、Yさんがいてびっくりした。大学祭が終わった後、とあるサークルの打ち上げに参加し、そのまま寮へやってきた、ということだった。そして、寮で一晩過ごしたYさんを送っていたのが誰だったのか、もう定かでないが、その翌週からYさんが打ち上げに参加したサークルKYKのメンバー(僕も一員だった)が交代で、サークルの例会がある木曜日にYさんを自宅へ迎えに行き、その夜、時には二晩、僕が住んでいた寮かもう一つの寮に泊まったYさんをまた別のメンバーが自宅へ送っていく、という「活動」が始まった。

 多分、サークルの「活動」だからよく知らないYさんを寮の部屋に泊めたり自宅へ送っていったりすることに伴う「介助」(自宅で車椅子に乗る、一緒に階段を昇降して電車に乗る、大学内の建物に入るのに必ずある階段を上り下りする、トイレ介助をする、食事の介助をする、寮では一緒に寮風呂にも入った)をやり始めることができた、とは思う。また、一人でやることでもなかった。寮ではサークルの仲間だけでなく、寮内で声をかけた人が「介助」していたし、一緒にゲームをやったりもした。

 大学内では、Yさんは学生ホール・学生会館・生協食堂の周辺で自分から通りがかりの学生に声をかけていた。びっくりして避けて通った学生もいたみたいだが、声をかけられて「何なの」「何かして欲しいの」のと反応し、話をした学生も多かったようだ。後に、Yさんが大学からそんなには遠くない(歩いていけないことはない)ところに部屋を借りて住み始めてからは、そうやって声をかけた学生が部屋までYさんを送ってきたり、トイレの介助をしたりしていた。学生だけでなく声をかけられた生協の職員がYさんの部屋に一晩泊まって介助をしたこともあると聞いた。

 といっても、Yさんは「介助者」を求めていたのではなかった。Yさんが求めていたのは、自宅と障害者通所施設との間の往復では得ることのできない話し相手であり、遊び相手・仲間だった。Yさんの部屋に泊まると、布団を並べて横になってからの話が長かった。

 Yさんとは違う障害者Kさん(前にも書いたように僕はCP者=脳性マヒ者の介助にかかっわっていた)の介助に入ったのは、「介護者募集」のビラを渡され「来てくれないか」と話しかけられたからだった。Kさんの部屋にそのころ結婚したことが話題になっていた大きなアイドル歌手のポスターが貼ってあり、そのポスターにKさんがモデルガンを向けた撃っていたの覚えている。

 Kさんはそのちょっと前に三多摩にある障害者施設を出て都内の私鉄沿線のアパートを借りて暮らし始めたばかりだった。そしてKさんのところには、Kさんが施設を出るきっかけを作った施設職員とその仲間たちがよく来ているみたいで、僕が泊まりに行っている時にも彼ら・彼女らのグループの人が一人であるいは数人でやってきて、行政との交渉めぐる話なども含めていろいろ話していた。居合わせた介助者ということで僕も声をかけられて話に加わった覚えがある。

 金井康治君の転校実現運動に関わったのを機に、僕は大学を出た後足立区に移り現在まで住んでいる。この転校実現運動との関わりの中で、二人のCP者も時期を違えて足立区に移り住んできた。また、足立区役所前での座り込み闘争を見て区役所近くに住んでいたCP者が転校実現運動に関わってきた。そして、四人のCP者が集まり障害者の自立を目指すグループを作った。

 このグループが声をかけたので学習会やイベントにやってくるようになったCP者のAさんは僕と同じ歳の在宅障害者だった。Aさんの自宅(親の家)は北千住の駅の近くだったこともあり、僕は話をしようと家へ寄るようになった。Aさんの家には、障害者グループの働きかけで昼間、「介助者」が入るようになっていた。Aさんの家族は、両親ともに働いていて、両親とくに母親にすれば「介助者」が入ることは大きな安心材料だった。それまでAさんの母親は仕事の合間を縫って食事の世話だとか、排泄の処理(溲瓶を使っていた)だとかのために自宅に帰っていた。

 とはいっても、やってくる人たちはどんな人たちなの? というのはAさんの両親にとっては気がかりなことであったようだ。Aさん宅にやってくる「介助者」はほとんどが学生だったので、「立派な学生さんたちがいる」という「納得」をしていたみたいだった。

 僕はAさんの「介助」のために家に寄っていたのではなかった。だいたい訪ねるのが、僕が仕事に行く途中の時間のこともあり、Aさんの母親もちょうど出かける支度をしている、ということが多かった。お茶を一杯ごちそうになり、ほんとに様子見のあいさつと問答をして仕事に行く、という僕のことは、Aさんはどう見ていたのかわからないが、Aさんの母親はむしろ信用できる人間だと受け止めたようだった。

 Aさんの「介助」体制は、前述した障害者グループが自然消滅したのに引きずられるように数年で解消した。Aさん自身が声をかけて、身体をさらして作り上げた「介助」体制ではなかったからだ。その後も僕は年に何度かAさんとは顔を合わせた。僕の顔を見ると、Aさんは何年も前に話したことを昨日のことのように話すことが多く、僕は話の脈絡がなかなか見つけきれなかった。

 現在、僕はほぼ週に一晩泊まりの「介助」に行っている。この「介助」先で顔を合わせてきた中でできた友人もいる。

 Yさんからは職場に時々電話がかかってくる。Yさんは、以前、電動車いすを操作できていたころ、僕の職場にはよくやってきていた。職場の同僚とも親しくなり、僕がいるかどうかは関係なく、僕の職場で居場所を持っていた。で、解放書店が現在の建物に移る時、トイレは車いすで入れるようにと内装設計の段階で要望を出し、二メートル四方くらいの広さのトイレができあがった。

 残念なことに、Yさんは脊髄がずれて以前は動かせた左手も痺れて動かせなくなる、という状態になってしまった。痺れが感じられるようになったところで訪ねた病院では、「首が安定してないCP者にはよく見られる二次障害だ。不随意動のない健常者であれば手術をするところだが、術後の安静期に不随意動がある可能性が高いので手術できない。数年で左手のマヒも進んで動かせなくなるだろう」という診断を受けたそうだ。事実、その診断を受けて三年目くらいから「電動車いすを動かすのは不安だ」と漏らすようになり、しばらくするとそのころ住んでいた部屋のベッドで寝ていることが多くなった。外出時に使う車いすも背もたれがリクライニングシート風に倒れるタイプになり、手も足もベルトを使って固定しなくてはならなくなった。

 それで、現在はほぼベッドで寝たきりのYさんは、口でくわえたストローに息を吹き込んで操作する機器を使ってベッドの昇降、テレビやオーディオ機器のオン・オフ、電話使用、そして最近はパソコン操作までやっている。Yさんによると「医者の話では、手足の痺れだけじゃなくて身体全体のマヒが進行して呼吸だって困難になる、というんだよ」とのことで、「電話でしゃべるのも、訓練のうち」とか言って、友人たちに電話をかけているようだ。

 先日は、呼ばれてインターネットの設定をした。ブラウザーの表示する字が小さいというので、倍くらいの大きさにしたら、後で電話があって「読みやすくなったんで、君のホームページも読んだよ」と言っていた。

 この数年、Kさんとは会っていないし、電話がかかってくることもない。三多摩の施設を出たKさんが池袋の近くにアパートを借りて住んでいた二年間、そして施設の仲間への働きかけをするんだ、と三多摩へ再度住まいを移してからしばらく「介助」に行っていた間の「つきあい」ということになる。

 僕が足立に移り住んで、金井康治君のところでよく顔を合わせ、あげくには夜中に押しかけていっては一緒に酒を飲むのに付き合わせるようなった友人H君という人がいた。彼の結婚式には、Kさんともう一人CP者が車いすに乗ってやってきていた。H君はKさんにとってももう一人のCP者にとっても頼りになる「介助者」であっただけでなく、H君自身はKさんを結婚式に招きたい友人と見ていた。そのH君が、二年余りの闘病生活の後亡くなって五年になる。H君が入院したと聞いた僕は、御茶ノ水の駅近くの彼の病室を何度か訪ねた。病状が回復して自宅に帰っている時には、一緒にビールを飲むこともできた。でも、病状を聞いているとこれはたいへんな病気だな、と思わざるを得なかったので、KさんやH君の結婚式に招かれたもう一人のCP者に「H君が入院しているお見舞いよろしく」と伝えてもらうよう連絡のある人に頼んだ。H君の訃報も伝えてもらった。しかし、入院時の見舞いもなければ訃報への悔やみも無かったと聞く。

 僕自身、「障害者介助」を反差別運動の一形態という捉え方をしていた時期はかなり長かった。Kさんの「介助」に関わっていたのは、気分も活動の一環だった。

 それでも、Yさんとの出会いは大学のサークル活動、寮での交友関係にほぼ重なり在宅のCP者という「異質の」「珍しい」友人ができた、という感覚の方が大きかった。しかもYさんが僕の職場のおなじみさんになり、以前解放書店で働いていた人を協力者にして解放書店で文章を書き始めたので、直接報告しあったりしなくても、Yさんの消息が聞こえてくるし、Yさんも僕の消息を聞いていたみたいだ。で、先日からインターネットの設定・利用の手伝いを始めたので、またまた電話の回数も増えたし、今Yさんが住んでいる自宅(親の家)へも足を運ぶ回数が増えた。Yさんの両親にもすぐ側に住んでいるYさんの弟さん一家にもたびたび出会っている。

 ここまで書いてみて思うのは、CP者のYさんの「介助」という部分だけは取り出せない、切り離せない、ということだ。Yさんを大学祭に呼んだ友達のこと、KYKの創設者だった伊藤悟君(もうずっと会っていないが、ひょっこりひょうたん島のリバイバルブームの頃彼が書いたひょうたん島本を数冊見かけて電話をかけたこと、そして五年前に「男二人で暮らす」という本の表紙に彼の名を見て手紙を書いたら返事が来たこと、そして今は僕のホームページには彼がやっている「すこたん企画」へのリンクがあり、すこたん企画のホームページからは僕のページへつながっている)のこと、Yさんが僕の親の家(熊本)へやってきた時のこと、そしてYさんの母親からしっかりしたリュックサックをもらったこと、などが次々と思い浮かんでくる。

 CP者の友人に誘われて、東京ディズニーランドへ行ったことがある。友人と友人の親しいCP者の子連れ家族、そして僕を入れて三人のグループ、計八人だったか九人だったかがディズニーランドの入り口で待ち合わせ、そのうち二人が車いすを使っていて一人はCP者だとわかる歩き方をするという集団になった。といっても、園内ではいくつかのグループに分かれて別行動を取って、食事の時に待ち合わせて一緒に食べた、というような記憶しかない。誘ってくれたCP者の友人は、「特別なものに乗らなくても、ディズニーランドの雰囲気が気に入ってて時々誘い合わせて来てるんだ」と言っていた。そういえば、「介助」に関わっていたCP者たちとはこんなやって出かけたことなかったな、なんてことその時に感じたことも思い出してしまった。

 「介助者」が必要とされる時というのは、障害者が「自立生活」を営もうとする時だな、と思う。時間を守ってきちんと来てくれる「介助者」、障害者の言い分・指示に従おうと努力してくれる「介助者」が見えてこなければ「自立生活」そのもののイメージが立たない。ということだろう。

 

どう踏み込んでいくのか

 もっと具体的に書こうと思っていたことを書ききれないでいる。他人のプライバシーの一部を意図したわけではないが、見てしまったし知ってしまっていて、僕が書きたいと思うことは、むしろプライバシーの部分に踏み込んでしまっている。

 以前、「生の技法 家と施設を出て暮らす障害者の社会学」を読んだ時に、冒頭に置かれた章でひたすら自らを語る安積さんの筆致・文体と、他の章の若い研究者たちの文体・文章との大きな違いに思わず目をむいてしまったことがあるが、自分で書こうとしてみれば、どういう書き方があるのかと考えないわけにはいかない。

 具体的にどうだとは書ききれないが、気になっていること・重要だなと思っていることがいくつかある。

 Yさん、Aさんとは親の家にいる時に知り合いになった。僕はYさんの母親ともAさんの母親とも割りに親しくなったこともあって、他の「介助者」の評判を聞かれたりまたつきあいのあるCP者たちについての感想・意見を聞くことになったりした。在宅であれば、親特に母親の存在は障害者にとってものすごく大きい。生活介助の多くを母親に頼っているというだけでなく、いわば母親の世界の中の住人として世の中を見ているし、考え方を形成している。Yさん、Aさんの家に限らず、一緒のサークルのメンバーだったKさんというCP者(発声は聞き取りにくいが、自力歩行でき、大学生になっていた)の自宅(親の家)にも何度か訪ねたが、行けばたいていは家にいる母親には挨拶をすることになる。母親から不信をもたれた人と在宅の障害者が連絡を取り合うのは、当時はなかなか大変だった。

 金井康治君の転校実現運動にしても、また当時奈良でやはり普通学校への就学闘争をやっていた梅谷君の運動にしても、実際に運動の中心にいるのは母親だった。当時の金井康治君が小学校の五年生・六年生になろうかという歳、梅谷君も中学への就学闘争を続ける知的障害者だということもあっただろうが、母親が就労運動や「介助」受け入れに積極的でない家庭の障害者は、家族以外の人間と会う機会すら極めて限られている。社会福祉の仕事をしている役所の人間か医療関係者しか知らないという在宅障害者は少なからずいただろう。

 そういう母親そして家族との関わりをどう見るのか、そこでどう踏み込んでいくのか? という問いかけを抜きには、障害者の生活に関わっていくことはできない。

 家族観とも関わって、結婚観というのに関してのギャップもずいぶん感じた。多分、僕に、「結婚したい、結婚したい」という願望を語っていた障害者たちは「母親」を求めていたのだろうと思う。もう一方では、結婚して家庭を持つことで「一人前」になれる、という感覚も強かったようだ。

 もう少し広い意味で、在宅の障害者にとっては、いろんな人がいる(いろんな考え方、いろんな仕事、いろんな言葉遣い)ということに慣れるまで時間がかかる、機会がないということだ。在宅で周囲に普段は家族しかいなくて、時に会う人は仕事としてやってくる社会福祉の関係者もしくは医療関係者そしてボランティアの「障害者のために役に立ちたいと願っている」人しかいなければそれも無理もない。

 

最後に

 「五体不満足」という本が三五〇万部売れるベストセラーになっている。仕事でもかなりの数扱った。読んでおもしろかった。著者は最近はテレビ番組への登場も多く、先日見たTBSのインターネット・ニュースでは京都のお寺を電動車いすで訪ねてバリアフリー度をチェックするという企画の主演者になっていた。シリーズになっているみたいだ。

 この本がきっかけで、障害者との出会いへの期待を膨らます人々が増えて欲しいという願いを持っている。おもしろそうな障害者がいる、と思う人が増えることは、何はともあれいいことだ。そして、実際に出会う中で一緒の時間を過ごす中で「介助」することなじんで欲しいと思う。仲間に手を貸すのは当たり前のことなのだから。

 インターネットのメーリングやホームページを使って情報発信する障害者も出てきたし、障害者に関わるメーリングやホームページも多くある。接点・切り口が増えることは重要なことだ。

 それでも、人と人とが具体的に出会う、一緒の場を持つ、話をする、一緒に遊びに行く、そんな当たり前のことが、多くの障害者と健常者のとの間には普通の経験としてはない、というのが現状だ。この現状を変えていくためにできることは、健常者の側により多くある、と僕は思っている。在宅の障害者を誘い出して一緒にディズニーランドへ行く、「タイタニック」を映画館の大画面で見る、そんなことをやってみたいと考える健常者には取りうる手がいくつもある。友人・知人のつてをたどってみる、地域ごとにあるボランティアセンターに登録する、自治体ごとにある障害者福祉センターを訪ねて職員や障害者グループのメンバーに相談する、養護学校・盲学校・聾学校を訪ねて申し出る……。出会ってみなければどんな人かわからない、どんな話ができるかわからない、そして何をできるのかもわからない。仕事として一定の知識や技能を要求される「障害者介助」も当然ある。しかし、いつもいつも「専門家」を必要としている障害者ばかりではない。自分にとって必要な「介助」を要請・指示できる障害者もたくさんいる。「異質な」「珍しい」友人が欲しいと思った人が電話をかけ、足を運び、関連図書を元にリストを作り、そして実際に声をかけて最初のいくつかの試みの準備をし場をリードするのは当然のことである。このことを繰り返して、この文章を終わる。

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