ホームページ作り日記

2005年5月25日 訂正

ずっと更新していないページです。近況はcurrent.htmlに書いています。変化のあった部分だけ、直します。

ホームページ作り日記で、自己紹介やこれからの予定(というよりつもり)などを書いておこうと思います。
日を追って記入してきたので、最近のことが後になっています。
一番最近のことは今日の日記を見て下さい。

まず、自己紹介
斉藤 龍一郎(りょういちろうとよみます)
 1955年生まれ(ビル・ゲイツ君と同じ歳)
 東京都足立区在住
 解放書店勤務
 ニフティ・サーブ、朝日ネット
 (日経Mixなくなっちゃいました!?)
 アフリカ日本協議会(AJF)会員(Africa Japan Forum)
 足立区九・一四決定を撤回させる会会員(解散しました)
 東日本部落解放研究所会員
 アフリカ文学研究会会員(興味を持った人はここをクリック
 POWER MAC8100使用(2003年まで使いました。現在は、iBook G4)
 愛用するエディターはNISUSです。(アラビア語を右からちゃんと書ける! この訂正作業は、テキストエディットでやっています)

1996年6月13日(金)
「初めてのHTML3.0」を参考にホームページを作ってみました。
 最初は、GIFでタイトルを入れてみたのですが、朝日ネットにアップした後、うまく画面に出せません。GIFの設定の問題かもしれないので、また試してみるつもりです。
 東日本部落解放研究所事務局の友常さんから「1940年 東京万博・オリンピックと被差別部落へのまなざし」という論文の掲載許可をもらっていますので。このページに掲載する予定です。

1996年6月16日(日)
ホームページのリンク先、荒井さん字を間違っていました。すみません。
タイトル画像、MACバイナリーではだめではないかとの助言をいただいたので、アップし直したのですが、まだダメみたいですね。またチャレンジしますので、よろしく。
まだまだ古文書が眠っているのを思い出しました。就職差別の問題についてまとめたもの(講演記録)あたりからアップします。

午後2時
画像のアップについてアドバイスをもらいました。
呼び出しネームがRとrの違いでダメだったそうです。

1996年6月18日(火)
JCAに入会申し込みを出す。
で、JCAのホームページを見に行ったら僕のページへのリンクが張ってあった。のぞいてみようという人が出てきてほしい。
メールを出して宣伝した成果(?)でメールが来ていた。見てくれると言う。僕の方からもリンクを張るようにした。

1996年6月19日(水)
「十字架の上の悪魔」の表紙をアップ。

1996年6月21日(金)
友常さんの文章に機種依存文字があったため■が出ていたのを直す。
リンク先を一つ増やす。
ページの色を変えようかなとも思うのだけど、まだ結論を出せず。
ついに、テレホーダイに契約してしまう。朝早起きしてアクセスすれば引き合ってしまう、と思う自分が怖い。
「親指Pの冒険」を読み始める。以前、立ち読みで読み始めて、上下二巻だというのでがんばりきれずに買ってしまった本だ。
昨夜の「食料問題を考える」シンポに向けたワーキンググループの作業のことが気になる。といってもまだ考えがまとまらない。

1996年7月8日(月)
先日から「GROUNDWORK African Women as Environmental Managers」というケニアでまとめられた、女性研究者による女性論集を読んでいる。植民地化されたことで輸出用の農産物=コーヒー、紅茶、除虫菊といったものが生産され始めたことで、農業の在り方が変わっただけでなく、流通機構と接点を持っている男の土地所有権や商品支配力が強化されたことや、ケニアの中央高原地帯(標高1400〜1600メートルの高地で年間平均気温が20度くらい)への白人の入植によって農業適地が奪われていったことによって女性の労働強化が進行していった経過など、全く知らなかったことがいくつも出てくる。「十字架の上の悪魔」「血の花弁」(これもグギの作品で、この作品がビッグセラーになったことと、識字・演劇運動への関わりが直接の引き金となって、グギはケニア当局によって拘禁された)の背景となるケニアの近現代史を知る上でも格好の本だ。
昨日、友達のところへ届けられた招待券を使って、北区王子で開催された「中国映画祭」で映画を2本見た。一本目は、中国の西部劇。シルクロードの中国側入口に当たる中国西部の砂漠地帯を舞台にしたチャンバラ映画。二本目は、北京の現職の警官たちが出演している警官物語。今現在の北京の日常生活の一端が警官たちの活動ぶりを通して描かれている。どちらもおもしろかった。

1996年7月26日(金)
TK HTML Editというハイパーカードスタックを入手しました。これを使って、早速ページに色をつけてみました。こんな風にして色が付くのかというかんじです。
けっこういろんなことができるようになっているので、少しづつ覚えていこうと思っています。
オールタナティブ・メーリングの方には、ニフティでたまたま流れているのを見た水戸事件の報告をアップしました。近々ベースになるホームページが開設されるそうなので、登場したらリンクをはります。

1996年9月6日(金)
前回更新時に張ったリンクのミスを直す。
「豊穣な記憶」のホームページを結局、岡田君が作るらしい。できたらリンクを張ります。

1996年9月11日(火)
このところ、南アフリカの新聞「Mail&Guardian」のページとPanafrican News Networkのページをフォローするのに追われて、このページの中身を拡充していません。
しばらくぶりに荒井さんのページへ行ったところ、僕のページへのリンクも張ってありました。

1996年9月16日(月)
解放書店の新刊ニュースを逐次掲載するために形式を整える。
撤回させる会活動の記録のページを作る。

1996年10月16日(火)
解放書店の目録編集作業がやっと終わったので、amlに目録さしあげますと投稿したところ、すぐに返事が返ってきた。
希望者名を見てびっくり、山口泉さんであった。
僕は、彼の作品を3つ位は読んでいる。上下2巻本の筑摩から出た本と径から出た本だ。
どちらもタイトルを思い出せないでいる。このままじゃ返事のメールを書けない。
翻訳を進めろという要求も初めて受けた。第4章を何とか近いうちにアップしなくては。
長尾君のホームページに「いろは」の電子版が収録された。仕事が速い。

1997年8月13日(水)
ほんとにひさしぶりにホームページをいじっています。
更新したとも言えないような内容なのですが、ファイル名を変えたり、色を変えてみたりして、次の更新に向けたウォームアップをしているところです。
グギの作品の翻訳の方は、ずっとストップしたままで、それより先に、ナイジェリア生まれでイギリスで活躍している女性作家ブチ・エメチェタの作品を訳して紹介したいな、と考えています。
先日から作業を始めましたので、近いうちに最初の部分をアップします。よろしく。

1997年8月24日(日)
昨日、ミラノから帰ってきました。
家の近くの駅で電車から出ると、むわっと押し寄せてくる熱気、東京は暑いですねぇ。
今回のミラノ行き、たまたま送られてきた旅行社の案内を見て衝動的に決めたものでしたが、行って正解、という気分です。
行く前に、イタリア・スイスを自転車で旅行した友人にいろいろと聞いたのもよかった。
一週間くらいの日程でいくつもの街を回るより、ミラノという大都市とアルプスの麓の山の街へ行ってみたらと、言われていたので、コモ湖へ行ってきました。
これが大正解。
のんびり遊覧船に一日揺られ、自転車を借りて湖の周りを回ってきました。
遊覧船から見ていると、ウィンドサーフィンを楽しんでいる人達の中に、けっこうなおじさんたちが多いや、白髪のカップルがモーターボートをぶっ飛ばしているのが目に入って、思わずうふふっという気分でした。
ユースホステルで借りた自転車を漕いでいると、すーっと脇を抜けていくかっこいい自転車の漕ぎ手が、白い髪をなびかせていたり、向こう側から来る自転車の漕ぎ手が長い髪をなびかせたお姉さんだったりすると、思わず手をたたいてしまいそうになりました。
そんな風にツーリングしている人達がまた、たいてい一人なんですね。
コモ湖のユースホステルは、一泊朝食付で15000リラ、夕食が別に頼んで15000リラ、一日泊まって夕食食べて合わせて30000リラ=約2300円。
この夕食が、ワインの小瓶が付いて、ちゃんとイタリア式に最初のお皿でパスタ(これだけお腹一杯になったりして)、次の皿で肉か魚(湖があるので鱒が出ました)、ほかにパンがかごに入って出てくる、というものです。
ミラノから列車で1時間(57キロ)のところにあるベルガモという街にも行きました。
ここのユースホステルは新築です、という案内がミラノのユースに出ていたのです。
ユースホステルに電話して予約していったのはよかったのですが、道順を聞いたら「14番のバスに乗りなさい」と言われて、間違えて郊外線のバスに乗ってしまいました(郊外線のバスターミナルが駅の目の前だったのです)。
案内には駅から3キロと書いてあるので、適当なバス停で降りて聞けばいいやなんて思っていたのですが、途中で降りたバス停で電話をしても降りたバス停のことがピンとこないみたいで、これはどうなることかと思い始めてしまいました。
それでも、次のバスでそのまま先へ行ったところ、バスの一番前の座席で周りを見渡しながらやきもきしているのが目に入ったらしく、バスの運ちゃんが「どこまで行くんだ、このバスの帰りは無いぞ」というようなことを言ってくれました。乗り合わせていたお客さんも、腕時計を指しながら、「さっきのバス停でこの時間のバスがある」というようなことを言ってくれます。それで、畑の真ん中で降ろしてもらって、バス停まで戻りました。
ここでバス停で待っているバスの運ちゃんに、「電話をかけたいんだ」とジェスチャーをしたら、「知らない」と首を振ります。仕方ないんで、そのままバスに乗りました。戻りの道筋で、バス停の近くに電話ボックスを見つけたところ、運ちゃんも気付いたらしく「電話があるぞ、電話してこい」という風に言ってくれました。5分くらいかけてなんとか電話を済ませてよくみたら、バスが待っててくれています。バスに戻ると、居合わせたお客さんが「良かったな」という感じで笑いかけてくれて、ホッとしました。
その後、ベルガモの街まで戻り、バス停を頼りにえんえんと歩き回ってユースにたどり着いたときの気分も何とも言えないものでしたが、間違えて乗ってしまったバスの中での運ちゃんやお客さんとのやりとりは、「これがイタリアなのか!」という感じで思い起こされます。
ちょっとへまをして、お金を抜き取られるなんていう目にも遭いました。抜き取った相手への怒りと、「あんただあれ」と一声出せなかった自分への悔やみとが、まだ当分ぶり返してきそうです。
一週間、一人で旅をすると、おしゃべりしない分だけ、いろんなことを考えたり、書いてみたりしますね。大学ノート一冊分、日誌と現金出納を付けてしまいました。
で、まだ興奮しているので、こんな文章を書いてしまいました。

1998年3月29日(日)
昨日、アフリカ日本協議会(AJF)の臨時会員総会でした。
AJFの存続を問いかける、重大な総会だったので、継続の意志を示すために参加しました。
各地からの参加者が30人位あり、会場の使用時間をオーバーする長時間の討議の末、現在の組織・事務局を継続することを前提に理事会で具体的な方策を立てることに決まりました。この理事会決定を基に、6月に定期総会を開き、今年度のAJFの活動方針が確定することになります。

この日、議長を務めた中野さんが、会場から退出時に僕のところへやってきて、「ホームページを開いたよ」とにこやかな顔で言いました。「君のページは全然変わってないね」なんてことも言われました。
そのあとの懇親会の時には、楠田さんが自作のAJFのホームページをデモしたものだから、僕らの一角はホームページ談義で盛り上がりました。

ということで久しぶりの更新です。
僕の方は、久しぶりに自分のページを見たら、「二重のくびき」をやるぞ、と書いているのに気づき、ちょっと青ざめています。これはまだまだ先の課題です。
今は、ずっとやっているスワヒリ語の勉強会が、スワヒリ語・英語勉強会になり、毎週、グギの「Petal of Blood」を読んでいます。

1998年5月7日(木)
アフリカ文学研究会のホームページのことと、スピルバーグの映画「アミスタッド」のこととをたまたま同じ日に考えたものですから、ラングストン・ヒューズの詩集など引っぱり出してしまいました。
で、ラングストン・ヒューズですが、僕はたまたま手に取った思潮社版の詩集(木島始訳)で出くわしたような気がします(ずいぶん昔に買った詩集を前にこんなことを思い出しているので、この辺の曖昧さは勘弁ね)。手元にある詩集が1973年発行のものですでから、もうずいぶん昔にでくわしたんでしょう。
先日、「アミスタッド」を見ていた時、ヒューズの「アメリカを再びアメリカにしよう(Let America Be America Again)」という詩というかタイトルを思い出してしまいました。
改めて読み返してみると、(アメリカはこの僕にいちどもアメリカであったためしがない)というフレーズが目に飛び込んできます。
で、ここは思い切って木島始訳の詩をそのまま引用したいと思います。
アメリカを再びアメリカにしよう

アメリカを再びアメリカにしよう。
今までありつづけた夢にしよう。
みずからを解放するホームをもとめる
かの曠野の先駆者にしよう。

(アメリカはこの僕にいちどもアメリカであったためしがない)

アメリカを夢みるひとが夢みつづけてきたところの夢にしよう、
帝王たちが共謀し暴君たちが策略すれば、
いつも上位の人にはだれひとり頭があがらぬ、
そんなことの決しておこらぬ強大な愛の国土にしよう。

(それはこの僕にいちどもアメリカであったためしがない)

おお、僕の祖国を、愛国といういつわりの花輪で
「真の自由」が冠飾されることなく、
機会が真正のものであり、生活が自由であり、
平等が僕らの呼吸する大気のなかにあるような国にしよう。

(かつて僕には平等であったことはない、
 そして自由も、この「自由の祖国」においてさえ)

「云え、暗闇でつぶやく君はだれなのか?
そして星たちに蔽いをおろす君はだれなのか?」

僕は馬鹿にされのけ者にされた白人の貧農だ。
僕は奴隷の傷痕を身におびる黒ん坊だ。
僕は国土から追放されたインディアンだ、
僕はもとめる希望に掴みかかっている移住民だ、
あの共食い、弱肉強食という、いつものきまりきった愚劣な流儀だけをみいだして。

僕は力と希望にみちている青年だ。
しかも古くからのはてしないような、
利潤! 権力! 儲け! 土地を! 金を掴め!
満足ゆくまで必要なものを掴め! 男たちを働かせろ!
給料を受けとれ! 一人の貪欲のために万物を所有する!
こういった鎖にがんじがらめだ。

僕は土壌の奴隷の百姓だ。
僕は機械に売りわたされた労働者だ。
僕は君たちみんなの召使い、黒ん坊だ。
僕は困惑した飢えたみずぼらしい人民だ、
夢あるにもかかわらず、今日の日にもなお飢えて。
今日の日にもなお打ち敗れされ  おお、先駆者よ!
僕はいちども先んじたことのない人間だ、
長年月にわたって売買されてきた貧困きわまりない労働者だ。

それでも僕はあの旧大陸で、王たちの農奴であった時代から、
僕らの本来の夢を夢みつづけてきた人間だ
そんなにも強烈で勇敢で真実な夢だったので、
今もなおその力強い不敵さはうたっているのだ
あらゆる煉瓦と石に、あらゆる掘りかえされた畝のあいだに、
それこそが造りあげたのだ、このアメリカの国土の成長を。
おお、僕はかの未開の海原を、
みずからの故郷となろうところ求めて船出した人間だ、
なぜなら僕は暗いアイルランドの岸辺を、
ポーランドの平原を、鬱蒼たるイングランドの草原を去ってきた人間だ。
暗黒アフリカの海岸から引っぺがされて僕はきたのだ、
「自由の祖国」を造るため。

自 の?

夢、

なおも僕に手招きして!

おお、アメリカを再びアメリカにしよう、
未だいちどもなったことはないのだが、
だが必ずやなるにちがいない国土にしよう、
「あらゆる」人が自由な国土に。
僕のものといえる国土に、 貧乏人の、インディアンの、黒ん坊の、「僕」の、
その血と汗が、その信念と苦痛とが
その鋳物場での手が、その雨中での鋤が
アメリカを造ったといえる人間の、
それらこそが再び僕らの力強い夢をとりもどさねばならぬ。

そうだ、何とでも君たちのえらぶ醜い名で僕をよべ、
自由の鋼鉄に汚れはつかぬ。
蛭のように人民の生活の血をすっている者どもから、
僕らは再び僕らの国土をうばいかえさねばならぬ、

アメリカよ!

おお、そうだ、
僕はかくさず云おう、
アメリカはこの僕にはアメリカであったことがない、
けれども僕はここに誓うのだ、
アメリカはそうなると!
永生の種子
その夢は僕の心臓ふかくよこたわる。

僕ら人民はとりかえさねばならぬ、
僕らの国土を、鉱山を、工場を、河川を、山脈を、そしてはてしのない平原を、
すべてのすべてのこれらの緑の強大な諸州のひろがりを、
そして再び、アメリカを造りあげねばならぬ!

以上、引用終わり。
この詩をタイプしていたら、サイモンとガーファンクルにも「アメリカ」という歌があったのを思い出してしまいました。
ということで、今日はこれまで。


1998年5月20日(水)
このところ、うちのMACを目の覚める早さにする(?!)というアップデートカードが出たというので、いてもたってもおれずに日を過ごしていました。で、昨夜、やっとのことでアメリカはフロリダのネットショップに発注し、今朝、送付番号というのがメールで返ってきて一区切りついた、という気分です。早く着いて欲しい!!
このカード、ソフマップへ電話して、ありますか? と聞いたら、「6月出荷の予定です」だものね。
今使っているMACは、エディターでこのページを書いたり、ファイルメーカーに書き込みをしたりする分には特に遅いとも思わないのですが(それもATOK11を使っていて)、僕の愛用するというか、これがないならパソコン使う意味がない(ファイルメーカーがあるだけでもいいんだけどね)とも思ってしまうNISUSを使っていると、時間ですの自動保存時に待たされている! という気分になってしまうのが問題なのです。
あと、エクセルのデータフォームを開いて日本語入力すると、遅い〜! とうなってしまいます(ATOK8に戻せばいいんだけどね)。
というだけの話でした。
さっき、お風呂の中で読んだ、群ようこ著「モモヨまだ90歳」はおもしろかった。

1998年5月25日(日)
やってまいりました!
やってまいりました!
昨日の午後、CPUアップグレードを果たして今速くなったマシンで書いています。
といっても、そうなんだな〜あはやくなったんだな〜あ、というくらいですね。正直なところ。
たぶん画像を扱ったりしないせいでしょうか
いつも使っているワープロソフトがエディター並のスピードになったとか、エクセルが日本語で入力するとすぐに変換するとか、というレベルだと、今までが遅すぎたんだ、という気にしかなりませんね。
それでも、これまで1時間では終わらなかったデータベースの最適化(やがて90メガになろうとするたんびに最適化コピーをすると80メガ弱に縮みます)が、40分くらいで終わったのは、速いと云えるでしょう。
ちなみにこのアップグレードカード、アメリカはフロリダ州マイアミのショップに注文したのが火曜日の夜、何と金曜日の朝には配達されていたのですが、ちょうど僕が仕事に出た直後で、結局入手したのが土曜日の午後でした。(こちらの早さはびっくりものですね〜!)
昨日、「見えないユダヤ人」(臼杵陽著、平凡社)を読み終わりました。
以前、著者の話を聞いたことがあったので、新聞の書評欄で見て注文して取り寄せました。
文章が、かなり書き急いだのでしょうか、説明不足、展開不足のところが目に付きましたが、すごく刺激を受ける本でした。
で、これは以前買ったまま積んで置いたサイードの[The Politics of Dispossession]を引っぱり出して読み始めました。
この本のタイトルは、むかし読んでいろんな意味でびっくりした[The Dispossessed](Ursula le Guin著)を思い出させます。で、こちらの方まで引っぱり出してしまいました。


1998年5月27日(水)
わりと早い時間から布団に入っていたせいか目が開いてしまいました。今、午前4時です。
目が開いたのは1時間半くらい前で、どうしようかなと思ったのですが、布団に入っていても目が閉じないみたいなので、テーブルに向かいビールを飲みながら山田詠美「僕は勉強ができない」を読み出してしまいました。
この本は、そういえばこういう時のために僕の部屋にはあるんだな、なんて思いながら、何度目でしょうか、たぶん4回目か5回目、読み始めて読み終わりました。
たしか、この本を最初に読んだのは、本屋の店先で、何度か立ち読みして読み終わった覚えがあります。
山田詠美の本、あとはあんまりそそらないんですが、この本だけは、手元に置いておきたくて古本屋で見かけたけっこうきれいな本を買ってきた、んだったはずです。
一時期は、何が引っかかっていたの、なかなか眠る気になれかった頃、ぬるいお風呂に入って、氷室冴子「北里マドンナ」を読んでいました。
こちらは、たまたま古本屋で見かけて手に取って買ってきた本です。で、今もこれを書いている机のすぐ後ろにあります。
こちらは、「なぎさボーイ」「多恵子ガール」というシリーズ本もあります。このシリーズ、集英社はコバルト文庫なもので、もう新刊書の棚にはなく、ほんとに偶然古本屋で見つけてそろえたものです。
ていうようなことを書いていると、ほんとにむかしむかしの高校生の頃を思い出してしまいます。
今上げた山田詠美の本も氷室冴子の本もみんな主人公は高校生です。
氷室冴子には、大学生になったばかりの男の子を主人公にした「海が聞こえる」というシリーズもあります。シリーズといっても2冊しか出てないのですが、最初のやつは、ほとんど高校生の頃の話です。
氷室冴子という人は、僕と同世代の人ですから、読んでいるといろんなことが重なってきたりして(ばかりではないけれど)、すごく懐かしいという気分になってしまいます。
「海が聞こえる」はアニメ映画にもなりましたけど、本の方がけっこうおじさんたちに売れたというのはわかるような気がします。
僕自身の高校時代は、けっこう楽しかったことが多かった、という気はします。
運動会や文化祭の実行委員をやって、なにがしか普通に授業に出ているだけとは違う経験をしたからだと思います。
運動会の準備で、十数メートルある竹を引っ張ってきたことや、近くの小学校に玉入れの道具を借りに行ったことは、そのシーンだけ突然浮かんできたりします。
山田詠美や氷室冴子が描いた高校生とは違って、恋と言うほどの恋もしなかったけれど、懐かしくって思い出す女の子(思い出すとみんな高校生の頃だからそうなってしまう)の顔まで浮かんできそうです。


1998年5月28日(木)
友達に昨夜電話をしたらなかなか帰ってこない。電話してね、と伝言を頼んでねてしまった後で、メールが入っていた。

毎日、午後7時半まで授業を受けている(某大学3年生である)ので家に帰るのが9時半ぐらいになっちゃう。今夜は、みんなで飲みに行ったので遅くなった。

僕も、「みんなで飲みに行ったので遅くなった」というのは覚えがある。しかし、7時半まで授業(それも朝一の9時からの授業もけっこう受けているらしい)というのは覚えがない。よく見ると、食品学科の学生なのだが、今年は図書館司書の資格を取るためのコースも取ったというのだ。熱心なことだが、気持ちが追われて疲れなければいいんだけれどねぇ。

僕の大学3年生の時の思い出は、某教官の授業で「ごねた」ことと夏休みに帰郷してそのまま4カ月、親の家で牛の世話をしていたことだ。
将来のイメージというのが立たなくて(あったりまえだ!)、一番具体的なイメージのわいた酪農(というか家業だな)にしばらく従事したわけだ。
牛の世話はきつかったけど、それ自体はいやじゃなかった。でも、何だか淋しくて正月明けに再度東京へ行き、寮の友達の部屋にやっかいになってそのまま大学に復帰した。
ということがあって、僕も大学卒業者になってしまったわけだ。(もっとも復帰した後が長くて、1977年の1月に大学のキャンパスに戻ってから、1980年の11月までキャンパスに通い、一時期はほとんどキャンパス内で暮らしていた。)
現在、よく連絡を取り合っている友達には、この時期に知り合った人間たちが多い。
というようなことを思い出し、感慨に耽ってしまいました。


1998年6月3日(水)
オーストリア・グラーツのホテルでこれを書いています。
5月30日に東京を発ってウィーンにやってきてからずっと友達の世話になっていたので、昨日、今回初めて一人でウィーンの街を歩き、ウィーン南駅へ出たついでに列車に乗ってグラーツへやってきました。
解説書によると人口23万人強のこの町は、ムール川の両岸に沿った部分を中心に広がっています。
今、これを書いているホテルは、ムール川沿いの通りから一本入ったところにあります。
オーストリアは今、一年でも一番日の長い時期で、夏時間で午後9時というのが東京での午後6時くらいの感じです。
で、昨日は朝、友達の部屋を出てちょっと迷いながらウィーン南駅へ着いたのが午前10時。10時58分発の列車(ウィーンからイタリア国境近くのクラーゲンフルトへ向かい、そこから北上してザルツブルグに終着する)に乗って2時間弱のブルック・アン・デヤ・ムールで一度降りて昼食を取り、グラーツに着いたのが午後4時。「ヨーロッパ1500円の宿」というユースホステルの案内書を見ながら行ったユースでは泊まれなくて、このホテルに入ったのが午後5時。シャワーを浴びた後、ムール川を渡ったすぐの所にある城跡公園の長い階段と上り斜面を登って、グラーツの街を一望して帰ってきました。
途中、明るい中、午後8時に食べた夕食は、鱒をニンニクバターで焼いたものにじゃがいもの付け合わせ。上って下っての後だったこともあって、おいしかった。

3年前にウィーンに来た時は、友達の友達から自転車を貸してもらって、ウィーンからドナウ川沿いの自転車道をツーリングしました。
小雨の降る中を一日自転車漕いで、着いたユースでバタッと寝てしまい、翌朝、同室だった台湾から来たというグループの人と一言二言、なれない旅に疲れたのでそのままウィーンまでの国道をひたすら走り抜け、観光案内所で紹介してもらった宿でグタッというツーリングでした。
この時も、自転車道の途中のお休みどころで食べた昼食も、ウィーンの街中の喫茶店というか小食堂というかというようなところで食べた定食メニューの昼食もおいしかった、という記憶があります。

とりあえずウィーンへ戻ろうと駅へ行ったところ、レンタル自転車があるに気がつきました。半日借りて70シリング(国鉄の切符を持ってる人)だというので、まずウィーンまでの切符を買い、自転車を借りました。
グラーツの街の周縁を一回りしようなんて思って走り始めたのですが、肩に食い込む荷物の重さにひるんで、1時間ちょっと走り回って駅へ戻りました。
駅でお昼を食べて列車に乗るつもりだったのが、自転車を返してみると、もう出発しているはずのウィーン行きの列車が遅れているのがわかり、急いでホームへ向かいました。
15分くらい遅れてきた列車に乗り、ビールを一口飲んでホテルでの続きを書いています。
グラーツの街の真ん中を流れているムール川の両岸には、自転車・歩行者道路が作られていました。以前自転車で走ったことのある江戸川の自転車用道路も荒川の自転車用道路も小高くなった堤防の土手の上を通っていて、川面をずっと下の方に見るという感じでしたが、さっき通ったムール川の自転車用道路からはちょっと降りると川があるという感じでした。

ウィーンへ戻ってきて、駅から友達に電話をかけたところ、急用で出張する、部屋の鍵を某所に置いたので、それを使うように、とのことでした。電話がかろうじて間に合って、もうすぐにでも職場を出るところでした。
友達の部屋に何も置いてなければ特に問題もないけれど、別の友達に渡すようにと預かったものがあるので、主のいない部屋を使わせてもらっています。

1998年6月8日(月)
さっき部屋にたどり着いて、職場に電話を入れたり、伯母からの電話に答えたりしているうちにお昼になってしまった。
昨日の昼、ウィーン国際空港で友人と別れてから時間にすれば、17時間ですねぇ。
ほんとに「おんぶにだっこの」旅行をしてしまいました。
報告というか、途中経過はグラーツのホテルで書き始めた文章を載せておきました。
ついでに去年のミラノ旅行直後に書いた文章はこちらです。
今年のウィーンは暑かったので、帰ってきた東京の梅雨空は一瞬、肌寒いと感じました。

1998年6月11日(木)
もうすぐ12日になりそうな時間です。
今日は、スワヒリ語の日で(この間の内容で言えば、ケニアとタンザニアの小説を読む会の日だな)、夕方7時から9時までけっこうしっかりとテキストを読みました。
前半が、ケニアの作家グギが書いた「Petals of Blood」の読み合わせ、後半がタンザニアの小説「Kichwa Maji」の読み合わせです。
グギの作品の方で今日読んだ部分は、ほとんどそのままこのホームページに置いてある「十字架の上の悪魔」の一節です。
十字架の上の悪魔のヒロイン=ジャキンタ・ワリインガが「マウア・カレディ」の名前を借りて語る身の上話の前半そのものといえるでしょう。
でも、話はそれだけは終わらないのです。


1998年10月1日(火)
インデックスページから文章を移しました。
こうやってこのページが膨れていくんだ、ということでよろしく。
大学時代の友人が最近「同性愛者として生きる」(伊藤悟+やなせりょうた著 明石書店)という本を出しました。つき合いのある出版社の本なので、発刊直後に配本されてきて読みました。
伊藤君の本は、以前太郎次郎社から出た「男ふたりで暮らす」「男と男の恋愛ノート」の二点を読んでいたので、今度の本は「こんな風に道を開いていっているんだな」という感じで読んで楽しい本でした。
著者ふたりで作っている「すこたん企画」がホームページを開いているというので、リンクしました。彼らの著作だけでなく、同性愛者の運動に関する資料やなんかもいろいろ載っています。
宮内さんの新しいページの所在を教えてくれた岩熊さんのページへのリンクはここから張ってあります。
岩熊さんにリンクつけますよとメールを出したところ、中身をよく見てからにしなさい、という返事が来ましたので、「お薦め」というのではなく、ここからつながるということでよろしく。(岩熊さん、本当にありがとうございます。)

1998年11月8日(日)
先週の日曜日はバザーで朝の7時から肉体労働に励み、翌2日はさすがにくたびれてしまい寝るだけ寝て鍼をうってもらい、3日は休みだというのに半日印刷機を回して新刊ニュースを刷り、4日水曜日に仕事へ行けば発送しなくてはならない通信が待っていて、5日木曜日には毎週発送の新聞が待っていて、発送作業をやっている最中には月刊誌もやってきて、6日金曜日も月2回発送の新聞がやってきて、郵便局に行く用はこれで終わりと計4種類の発送を終わっても、新刊ニュースの組みが待っている、という一週間の締めくくりで今日も朝早くに起き出して電車に乗ってティアラ高等までいってきました。
返ってきてEudoraを開いてみたら、朝日ネット事務局からFetchを使ったファイル転送のやり方の紹介べーじへのリンク法を教えてくれるメールが来ていました。
帰りに立ち寄った本屋で「ゲルマニウムの夜」を半分くらい立ち読みしました。もう一カ所本屋さんがあるので後で行って続きを読もうかな、と思って時計を見るとさすがにまにあいそうにありません。

1998年11月10日(火)
昨日の夕方、本屋へ寄って「ゲルマニウムの夜」を立ち読みしようと思ったのですが、残りの長さを思って買ってしまいました。
で、読んでしまいました。
いくつか書評を読んで想像したのとはずいぶん違う展開・イメージで、なんだかびっくりしてしまいました。
でもおもしろかった。一度読み終わって、寝る前にもう一度最初の章だけ読み返してしまった。

1998年12月20日(火)
となりに脱走兵がいた時代 ジャテック、ある市民運動の記録」を読んだ。
先日、AJFの合宿で参加した討論とつながって感じられたので、600ページある本もどんどん読めてしまう。
「食欲も性欲もある人間で、一人一人違った欲望を持っている」脱走兵を受け入れ、一緒に過ごした記録は、障害者介助にも関わって身に迫ってくる。

1999年4月26日(月)
朝一番、電話がかかってきた。妹が電話の向こうで「家が焼けた。何にも持ち出せず全焼した。みんな無事だ」と言っていた。
去年の正月に新築早々の妹夫婦の家へ行き、風呂に入ったことを思い出した。
うーむ、見舞いに行く金を、そのまま現金で送った方が役に立つだろうなあ、やはり。
これ以上何も言いようがない。考えようもない。

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