『盲ろう者として生きて:指点字によるコミュニケーションの復活と再生』から


「他者がいることの快楽」を実感する:コミュニケーションの途切れた宇宙と他者の交わりのある宇宙とを行き来する福島さん

* 2011年8月、最初に読んだ時に書いた文章です。

新著『盲ろう者として生きて:指点字によるコミュニケーションの復活と再生』の中で、福島智さんが、コミュニケーションの途切れた宇宙と他者の交わりのある宇宙とを日常的に行き来していることを書いているのを読んで、改めて、指点字通訳の重要さを痛感しました。

余りに当たり前のこととして他者との交わりの世界に生きている僕には、「他者がいることの快楽」を実感することがむずかしく、立岩さんの『私的所有論』の核心的な提起をどのように受けとめればよいのか、どのように語り合うことができるのか、よくわかっていませんでした。その点でも、福島さんの体験・実感に基づく記述は重要です。

僕にとっては、三浦さんがNHKラジオニュースを点訳して郵送してくれていたことをめぐる考察が、強く印象に残りました。

1時間ごとに流れる短いニュースを起こすのはニュースに接する機会そのものを増やすため、点字の手紙は厚みがあるので1枚の字数を増やすためにライト式の点字タイプライターで入力して点字用紙の両面を活用した、という分析の中を通して明らかにされた三浦さんのサポートに対する思い・感覚、ケア・サポートをめぐる論議の中で、共有し検討すべきだと思います。

また、このエピソードから、かつて花畑で「子ども会」をやっていたころ、高校生だった弱視者のために英語の教科書をサインペンで大きく書き写していたKさんのことがパッと頭に浮かびました。

分析と考察「11-4 コミュニケーションを支える文脈的理解」を読みながら、難民となった人びとのあり方を「剥き出しの生」として論じることの意義が理解できたような気がしました。生活のあり方に関する「文脈的理解」が全く違う状況に移行することを強いられた人びとが、権利を主張することはおろか周囲の人びととコミュニケーションすること自体がたいへん困難になるとはどういうことか、考える手がかりになります。

福島さん自身の紹介にある

「文責・考察」の部分がどこまで成功しているかは、はなはだ心許ないのですが、体験の記述のところは、ちょっとオリジナルな工夫もしていますので、自伝でもなく、評伝でもなく、伝記でもない、風変わりな本にはなっていると思います。

という意味でもたいへん興味深い本です。

文学作品の読み方についても考えさせます。

ぜひ皆さんも一読を!

『盲ろう者として生きて: 指点字によるコミュニケーションの復活と再生』
福島智著 明石書店 [amazon]


249p
福島:それで、私が盲ろうになって、どんなサポートが必要か、あるいはどうおもったかということについて前回伺ったときに、とにかく情報提供が必要だろうと思った。だからラジオのニュースを点訳したものとかを渡していました、という話でしたね。
三浦:はい。
福島:NHKラジオのニュースとか、くださいましたよね。
三浦:そうですね。たいてい朝の7時とか夜の9時とか、大きな〔枠の〕ニュースの時間に録音して、それをパーキンス〔ブレーラー〕で打って、郵便で送ってたんですよ。
* ブレーラー:点字タイプライター(点字=ブレイル、近年、ブレール・メモという点字デスプレーと点字入力キーがセットになった機器が利用されるようになっている)

270p 上記への注

 ここは、三浦の錯誤が含まれていると思われる。当時三浦がラジオのニュースを聞き取って点訳した点字資料(手紙)の一部が、神戸の智の実家に保存されていた。それを確認したところ、一つには、「大きな枠のニュース」もあったものの、おおむねNHKラジオ第一放送の、いくつかの正時(毎時ちょうどの時刻)から5分間のコンパクトなニュースの点訳が多かった。しかも、「パーキンスブレーラー」ではなく、「ライトブレーラー」で点訳されているものがほとんどだった。筆者はそのことを確認したとき、これは一見些細なことのように思えるけれど、重要な意味が含まれているのではないかと考えた。それは、当時の智が経験していた孤独の意味について、すなわち、「コミュニケーションや情報が断続的になり、継続性に欠ける」という智の苦悩の本質について、三浦がすでに直感的にある程度感じとっていた可能性を示唆する事例かもしれないと考えたのである。そこで、以下はやや冗長で煩雑になるが、この件についてあえて詳細に記したい。

 まず、三浦はパーキンスもライトもどちらでも使え、そのタイピングの技術も優れていた(ちなみに、点字使用者でも、そもそも点字タイプライターを打つのが得意でない人もいれば、打てたとしても、パーキンスかライトのどちらかしか打てない人もいる。その点、三浦は両方が使いこなせ、技術レベルも高かった。なお付言すれば、指点字においても三浦は、「パーキンス型」でも「ライト型」でも打てるが、あるレベル以上の速度では通常は「ライト型」を用いていた。智も、現在の筆者に至るまで、やはりある水準以上高速の場合は、「ライト型」の指点字のほうが読み取りが楽である。ただ、この指点字の読み取りの問題については、本書の目的を超えるので、ここではこれ以上触れない)。

 ところで、その後、三浦が智に私信を出す場合や比較的長い点訳物を送る際などは、パーキンスを用いて点字を書くことがほとんどだった。個人差もあるが、パーキンスとライトを比べた場合、少なくとも「タイプライターを打つ」という手の動きに限れば、パーキンスのほうが腕や肩への負担が少ないと思われる。それはライトの場合、第7章の写真に示したように、タイプライターのキー配列がいわば「逆ハの字」のようになっているので、打つ人は両手の肘を左右に広げるような姿勢で打たねばならないのに対して、パーキンスは両手の指をまっすぐ前にのばしてピアノの鍵盤を叩くような要領でタイピングすればよいからである。したがって、三浦にとっても、少なくともある程度以上の長さの点字を打つ場合は、ライトよりもパーキンスのほうが楽だったであろうことが推測される。

 ところが、三浦はニュースの点訳に際して、少なくとも当初の数か月間はほとんどライトを使い続けていた。なぜ、智への情報提供ではライトを使い、また、ラジオの比較的短いニュースを点訳したのだろうか。このことは、いったい何を意味するのだろうか、と筆者は考えた。

 その理由の検討に入る前に、パーキンスとライトの点字タイプライターとしての特徴の相違について、もう少し触れる。この二つのタイプライターの相違については、第8章でもすでに若干記し、また、さきほどもタイピングの際の腕や肩への負担については述べた。ここで、さらにもう一つの相違を挙げれば、パーキンスは点字用紙の片面にしか打てないのに対して、ライトは両面に打てるという相違がある(なお、パーキンスはライトよりも行間は狭くなり、片面に打てる行数はやや増えるものの、点字そのものが日本の点字よりも少し大きいので、同じ幅の紙の1行に打てる点字の数はライトよりもやや少なく)。つまり、ライトでは、紙の表に打ち出した点字の行と行の間の「隙間」を利用して、紙の裏面にも点字を打ち出すことができる、ということである。

 この特徴の相違がもたらす実際的な影響はいろいろあるのだが、ここでの議論にとって重要なものを一つ挙げれば、「点字用紙1枚あたりに打てる点字の字数」が異なるという問題である。その観点でいえば、ライトのほうが字数が多いということだ。このことは、たとえば、小さな封筒を用いて点字の郵便物を送る際、重要な意味を持ってくると思われる。当時、三浦が智に対して日々のニュースの点訳の郵送に使っていたのは、現在の「日本郵政」の規定でいえば、「長形4号」とよばれるもので、これはいわゆる定型封筒の中ではもっとも一般的なサイズだ。B5判の便せん(点字用紙はB5判)を三つ折、あるいは四つ折にして入れるのに適した大きさであり、今も日常的に良く見かける、茶色ないし白などの縦長の小さい封筒のことである。

 当時三浦自身は和光大学の4年生であり、自分の勉強やさまざまな活動などもあって忙しかったに違いない。その中で、できるだけ頻繁に智へのニュースの郵政を行うにはどうすればよいかと三浦は考えたのではないか。それには、長時間を費やしてパーキンスで長いニュースを点訳して、それを大きな封筒で時折まとめて送るというやり方よりも、分量はコンパクトでも、小さな封筒で少しずつ頻繁に送るほうがよい、と当時の三浦は考えたのではないだろうか。

 なぜなら、小さな封筒であれば、たとえば、女性の持ち歩くバッグなどにも入りやすく、三浦自身にも便利だろうし、仮に友人のだれかにポストへの投函を頼むような場合でも、小さな封筒のほうが頼みやすいだろう。さらにいえば、受け取った智の側のことを考えれば、小さな封筒であれば、どこにでも持ち運びやすく、ちょっとした時間にニュースを読むこともできるからだ。

 そしてここでもう一つ、点字をめぐる特殊な事情がからんでくる。それは、立体的に凹凸のある点字文書は、通常の便せんなどと比べて、非常にかさばってしまうということである。紙を折らない状態でも点字文書はかさばるので、いくつかに折って封筒に入れるとなると、ますますかさばることになる。前述の「長形4号」の小さな封筒に入れるためには、通常、点字用紙に3本の「折り目の点線」を3行分書き込んで、その線を利用して四つに折って入れる。「四つ折り」だと、単純計算では厚さが4倍になるわけだが、実際は点字の「折り目の線」の部分の厚みもあり、4倍以上になるだろう。その結果、筆者の経験では、「長形4号」の小さな封筒に四つ折りで点字用紙を入れるのであれば、せいぜい3、4枚が限度だろうと思われる。

 一方、点字用紙1枚に書き込める字数は文章の内容、表記法、レイアウトなどにもよるけれど、ライトで両面に書いて、普通字換算でだいたい600文字、パーキンスなら1枚でおおむね350文字程度といわれる。ここでは封筒に入れるために1枚につき3行は点字で「折り目の線」を打つので、実際は今の数字よりそれぞれ4、50字は少ない字数しか書けないだろうか。

 他方、ラジオのニュースの分量はどのくらいか。ラジオやテレビのアナウンサーの話し方は、時代を追って速くなってきているといわれる。そのことも勘案すると、1981年当時のNHKラジオのニュースは、1分で漢字・かな混じりで300から350字程度だろうか。もしそうなら、5分だと1500字から1750字程度ということになる。これならライトで両面に打てば、多くても4枚に収まるので、どうにか小さな封筒にも入る。しかし、もしパーキンスだと、5枚、6枚になることも想定され、そうなると、おそらく小さな封筒には入らないか、きわめて「ぎゅうぎゅうづめ」の状態になっただろう・・・。

 以上、この件について長々と記してきた筆者の意図は、当時の三浦が、すでに智の求める「情報提供」の本質について、直感的にある程度気づいていたのかもしれないと考えたからである。つまり、智が求めている「情報提供」というのは、時々思い出したように与えられる情報ではなく、たとえ量的にさほど多くなくても、安定して継続される情報提供、日常的に得られる情報提供ということではないか、と三浦が気づいていたかもしれない、ということだ。つまり、だからこそ、小さな封筒に入れられるニュースの分量と、点字用紙の枚数を勘案してライトを用い続けたのではないか、ということである。

ただし、第9章でみたように、こうしたニーズについて、智自身あまり自覚的でなく、またおそらく三浦も、前述のようなニュースの情報の継続的提供はしていたものの、智が真に求めているのは、コミュニケーション場面での「日常的で継続的な情報提供」であることには、まだ自覚的でなかったかもしれない。ただし、「指点字での通訳」が開始されるにいたる前段階における一つの伏線としての意味が、このニュースの継続的提供にはあったのではないかと筆者は考えるのである。




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by 斉藤龍一郎
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